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続・カフェオレボウルでハイティーを |
エスプレッソの熱い距離 |
第一話
「なー、かのこ」 「ん、何?」 それは休日の昼少し前、いつも通りにパジャマでブランチの支度をしていた時の事だった。ヤツは垂れ流しのテレビを見ながら、私のほうを全く見ずに言った。 「そろそろさ、籍でも入れよっか」 「……は?」 対面式の流し台のこちらから私が、ものすごく眉をひん曲げてそちらを見ても、ヤツは振り返りもしなかった。 就職した、と胸を張って言えたらどんなにいいだろう。私、中山かのこは現在、いわゆるフリーターだ。正確に言うと契約派遣社員、ということになるのだろうか。そして、ちょっと前までは世に言うニートだった。某地方では国を挙げての大きなイベントのお陰もあってか、バブル以来の有効求人率とか言うけれど、不景気はやっぱり世の中に停滞している。天気で言うなら前線がとどまって曇り空、雨が今にも降り出しそうな、そんな感じだ。だから二十八歳独身女性(私だ)の就職活動は、三ヶ月ほど前に失職して以来、相変わらず難航していた。会社員じゃない、ということは、実に大変な事だ。社会保険も厚生年金もない、そして収入がない。ないわけでもなかったけれどそれが失業給付金と言うのは、なんとも情けないし心許ない。前職の失職後(ぶっちゃけ解雇だ)私はそんな心もとなさを払拭するために職を探し続けていたが、世の中というものはそんなに甘くない。心もとなさは今に至っても払拭されず、仕方ないのでとりあえず現金を稼ぐために、今現在の肩書きに納まっている。社員とは名ばかりの、保険も年金もない(いや、勿論国民年金にも国民健康保険にも加入している)しがない時給労働者である。 「最近はどこも、正社員さんの採用はあまりないですからねぇ、難しいですよ」 何だか色んなところでこれに類似する言葉を聞いて、私は、そろそろ聞き飽きて、そして疲れていた。世の中は世知辛い。みんなみんな切羽詰っていたりする。余裕がないのか余裕があっても切り詰めているのか。とにかく私の就職活動というものは実を結んでくれなかった。泣きたいどころの騒ぎではない。そしてその上、職種を選んでいると言うのだから、何と言うか我ながら無謀だとは思う。確かに、そのために余計に仕事は見付からない。だったらそんなものに構うな、というのが人様の意見だろう。確かにそうだ。選ばなかったら、ある程度の仕事なら見付かる可能性は、今よりももっと高くなる。だけど。 「がんばってるかのこを見てると、嬉しいよ」 そんな風に言ってくれる誰かがそばにいてくれるのだ、がんばらないわけにはいかなかった。 「……何よ、籍って」 「籍は籍じゃん。役所に行って名前と印鑑して、提出するヤツ」 その誰か、高町ヤスヒロはそんな風に、何とも簡単な口振りで言いながら、相変わらずテレビを見ていた。私は眉をしかめて、流しを挟んだこちら側から言ってやった。 「そんなの、言われなくたってわかるわよ。私が言いたいのはそういうことじゃなくて」 「だってそろそろ四ヶ月近いじゃん、俺達」 「何が四ヶ月近いのよ?」 「一緒に住み始めて。だったらそろそろいいかなーとか……」 「四ヶ月に近いからって、何が「だったら」で「そろそろいい」わけ?」 そう言うと、ヤスヒロは寝癖の付いた頭のまま、不機嫌な顔でようやくこちらへと振り返った。そこにいる、やっぱりパジャマでちょっと童顔の、二つほど年上の男は、今現在は一応「彼氏」という立場を得てはいたが、ちょっと前までは単なる友人だった。何でも十年ほど前から私にほれていて、以来ずっとそれを公言してはばからず、しかも私が前職を失ったことに乗じて「いっしょに暮らそ」とか言い出し、まんまとそれを成功させてしまった、そういう男だ。まあ……今となっては特に、責めたりすることでもないことなのだが。何しろ私も彼のことをそう認めて、それで一緒にいるのだから。彼氏、ということに納得はしている。しているけれど、 「俺だって男だし……そういう事だって、考えるよ」 「男だし、っていうのがその理由になるとは思えないんですけど」 私はそう言うと二人分用意したブランチ、目玉焼きとお味噌汁と菜っ葉の漬物の載ったトレイを持ってヤスヒロのいるテーブルに向かって歩き出した。数歩の距離しかないその先で、ヤスヒロはちょっと膨れて、 「何だよ、考えちゃ悪いのかよ?」 「悪いとは言ってないでしょ?どうしてそんなことを考えたのか、って聞いてるの」 「……お前、性格悪くなってない?」 心底いやそうな顔でヤスヒロは言う。私はパジャマに寝癖の男を見ずに、 「そうかもね。多少は学習もしたでしょうし」 「学習って、何……」 「あんたを甘やかすと、ろくなことにならないってこと」 そう言ってやるとヤスヒロはますますふて腐れた。私はそれを見ないまま、 「ほら、ご飯出来たわよ。お腹空いてるんでしょ?」 「はぐらかすなよ、そうやって」 「特別どういうシチュエーションがいい、とは言わないけど、そのナリでプロポーズしてちゃんと聞いてもらえるって思ってる方がどうかと思うわよ?」 テーブルに辿り着いて、私はそう言うと、彼より先にブランチに向かって手を合わせた。ヤスヒロは更に怒った顔になって、 「しょーがねーじゃん、寝起きなんだしよ」 そう言ってから私と同じく、手を合わせていただきます、と言った。 彼、高町ヤスヒロとの付き合いは長い。と言ってもそれは友人をやっていた期間であって、彼氏になってからはまだ四ヶ月に満たない。二歳年上の、元々は兄貴の同級生の彼と知り合ったのはその兄を通してで、一緒に住み始めてしばらくの間も、私たちは仲良くお友達をやっていた。と言っても、同棲をたくらんだ時点でヤスヒロのほうには「脱友人」というもくろみもあったらしく、はめられた感は否めない、気もする。けれど、すべてが丸く治まればそれでよし、と言えるほど色々の割り切れていない私は、今現在でも、世に言う彼女らしい彼女をやっているとは思えない。友達の延長……かな。それでもまあ言ってしまえば、色々な形で、色んな意味で、彼を愛しいと思ってしまっているから、何と言うか、何を言っても言い訳にしかならない……恥ずかしいことに、私も彼をちゃんと好きなのだ。恥ずかしいって何、と思わないでもないけれど、そんな風に。 彼は私をずっと見ていた。それは知っていた。そして私のがんばっている姿を近くで見ていたいのだと、いつかそんなことを言っていた。 以前私が勤めていたのは製造業の会社で、女だと言うのに工業系の大学を出た私は、その現場で働いていた。いわゆる技術職だ。仕事は大変だった。でもとてもやりがいがあって、残業が何時間も何日も続いても、休みを返上する事になっても、毎日が充実していた。けれどその会社は私を解雇した。いとも簡単にあっさり、だとは思いたくはないけれど、きっと男性の社員を切るよりは簡単だったのだろう。何しろ二十代の独身女性だ。妻子もちの男を放り出すより良心も痛まないだろう。それまでがむしゃらに、何よりも仕事に対して情熱を注いでいた私は、いっぺんに何もかもをなくすことになった。仕事も収入も生きがいも、果ては住処まで。そんなときに彼は私を、色々のたくらみの一環だったとは言え助けてくれて、そしてそんな私だから好きなのだと言ってくれた。そして同時に、私も、こういう彼だからこそ、そばにいたいのだと思ったのだ。 ヤスヒロの職業は、今現在は「フリーのデザイナー」だ。今現在は、と限定するのには理由がある。彼は一つの会社に属していない、そして、仕事がない時にはコンビニの深夜バイトで食いつないでいる、そういう類のデザイナーだからだ。自己開拓した契約先で仕事をしているときは確かにデザイナー、でも一年の四分の一以上、彼はフリーターだった。ヤスヒロの生き方は、聞いただけではとても不安定でいい加減で、危な気ないどころではない。収入もあったりなかったりの上、今現在、貯金もない。それでも、私は彼を嫌いにはならなかった。デザインで食べていくことが彼の夢で、希望で、今彼はそれを実行している、というかしようとしている最中なのだ。ずっと昔から追いかけ続けてきた夢。それを捨てずに続けていくことは困難だし、時には泣きたくもなる。それでもヤスヒロは諦めていない。だから私も、彼を好きでいられるのだ。自分の人生を自分で生きる、難しくて、とてもやりがいのあること。そのために私達は努力して、そんな風だから、きっとこうして二人でいるのだと思う。 そして、ヤツにはもう一つ、夢というか希望があった。あったと言うかできたと言うか、ここ最近頻繁に、ヤスヒロはそれを口走るのだ。 「だからさー、そろそろ籍くらい、入れてもいいかなー、とか……」 「籍くらい、っていうレベルの話?」 「いや……「籍くらい」なんて言えないけど」 「だったら言うな」 「じゃあどう言えばいいんだよ?「一生俺のとなりで寝ててくれ」とか?」 「今言ってるのはそういう問題じゃなくて、どうしてあんたはそうまでしてそうしたいのかって、そういうことなんだけど?」 ひとまず食事を終えて、私たちはお茶を飲んでいた。今日のお茶は台湾鉄観音、というウーロン茶の一種らしい。私はあまり詳しくないけれど、このウーロン茶は美味しい。こういう時、何だか色々に造詣の深いこの男が近くにいると便利だ。でも、今はそんなことに感心している時ではなかった。ヤスヒロは、お茶の入ったマグカップを手にしてむすっとした顔になると、少しだけ黙りこんだ。そして、叱られてふて腐れた子供の顔つきで、ぶつぶつと小さく言った。 「だって……かのこが「高町さん」になったら、嬉しいかなーとか、思って」 その一言に私が呆れたのは言うまでもない。それまで、怒ったような顔をしていた私は拍子抜けして、間の抜けた顔と声で彼に問い返していた。 「って……それだけ?」 「それだけ、って……これって結構大事なことだぞ?」 私の一言にヤスヒロは気分を害したらしい。むっと唇を尖らせると、そのまま更に言った。 「こうやって二人で住んでて、苗字が別、なんて。オレは別に、男だから、何言われてもいいけど、かのこは女の子なんだし。周りからふしだらな感じで見られたりするじゃん」 「ふしだら、ねぇ……」 何を言い出すかと思えば。私はそのことに半ば呆れてしまった。いまどき、結婚前の男女の同棲なんて珍しくともなんともない。その予定のない二人にだって、良くある話だ。呆れ顔で言い返すと、ヤスヒロは益々気分を害したらしい。手にしていたカップをテーブルの上に置くと、私を睨むように見て、更に言葉を続けた。 「それに、女は「内縁の妻」とか呼ばれるんだぞ?恥ずかしくないのか?」 「その場合男の人だって「内縁の夫」じゃない。どう違うの?」 「だからオレの事はどうでもいいの!オレはかのこが……」 「何?ヤスヒロはあたしの世間体のために籍が入れたいんだ?」 何だかちょっと腹が立ったので、私はそんな風にきつく彼に尋ねてみた。ヤスヒロはぐっと言葉に詰まって、それから、 「ち、違う!そうじゃなくて……」 「そうじゃないならどうしてそこを強調するの?」 彼をキライなわけではない。断じてキライではない。むしろ、とても大切だと思っているしわかっている。だけど、私にだって色々思うところがある。そんな変な理屈で説得される訳にはいかない理由だってある。 「あんた、いつだったか言ってたじゃない。私の働いてるところが好き、とか何とか。今の科白だと、それって全部嘘みたいに思えるんだけど?」 その言葉でヤスヒロはそっぽを向いてしまった。そしてやたらに機嫌の悪そうな顔になると、拗ねた声で言った。 「何だよ……かのこはオレの「奥さん」になるのが、そんなにイヤなのか?」 「……結局理由はそれか」 私はその一言に、ため息をついた。男の人になら誰にでもある、そういう願望だ。好きな相手を「奥さん」にしたい。それはごく当然のことで、私にだってわからない訳でもない。わからなくはないけど、でも。 「私は……普通におうちにいる「奥さん」になるつもりは、ないわよ」 「わかってるよ……オレだって別に、そうしろなんて言わない」 ため息まじりに私が言った。ヤスヒロはすぐに応えて、ちらりと私の方を見た。 「ちゃんとした仕事見つけて、また前みたいに働きたいんだろ?わかってるよ。けど……」 「わかってるんなら、聞き分けなさいよ」 「オレは男だし、かのこが大事だから……ちゃんとしたいと思ってる、それだけだ」 そしてヤスヒロは言いたいことだけを言うと、また私から目を逸らしてしまった。私はそんな彼を見ながら、少し申し訳なくなってその場で頭を下げた。 「ごめんなさい」 「……謝るなよ」 くどいくらいに言う。彼をキライではない。断じてキライではない。むしろ逆だ。だけど、だからこそ、ゆずれないものがある。 「私、もっとちゃんとしないと……ヤスヒロの奥さんになれない。今のままじゃ……ヤスヒロにだって、わかってるでしょ?」 そういうと、ヤスヒロはまた恨めしげに私を見た。そして、変な顔で笑って言った。 「オレって……かのこにとって何なんだろ」 「何って……」 「かのこには……オレと、かのこにとっての充足とか生きがいとか、そういうのの、どっちが大事?」 私はその言葉に、何だか泣きそうな気分になった。 「あんたがそれを聞くわけ?そういうのって……ひどいんじゃない?」 「……ごめん」 私たちはお互いから目を逸らした。多分二人揃って、泣きそうな顔をしていた。 いつまでも無職、というわけにも行かない事情が世の中にはある。まず最初に目先の生活だ。だから私は働き始めた。就職活動は目下継続中で、それでも、何とか収入だけは得なければならない。この際何でもいい、というと言いすぎだが、ひょっとするとそんなノリだったのかもしれない。 とりあえず、働き始めた。離職から数ヶ月。ある程度の失業給付ももらって使って、そんな頃合だった。ヤスヒロはそれに反対することもなく、というより、むしろ収入を得てくることには歓迎ムードだった。何しろヤツも高収入ではない。ついでに貯金もないのだ。先立つものがなかったらご飯も食べられない、喧嘩しているどころじゃない。残念ながら、現実とはそういうものだった。 仕事は週五日、いわゆる月曜から金曜までの平日勤務で、主に土日は公休日。とは言え、忙しい時期には日曜出勤もあるんですよ、と言うのが、私の現在の仕事先だった。職種は、製造業。仕事内容は、よくある工場内系作業。ひとまず私は世に言う契約社員、というものになった。漢字で書くと硬そうだが、一口に言ったらフリーターだ。時給幾らで働く工場の女の人、そのものずばりだ。詳しく言うとパソコンの周辺機器の外装検査員だ。 「あー、何だか目がしぱしぱするー」 「って昨日日曜じゃん。何してたん?」 「えー、ナ・イ・ショ♡」 「てかあんた休みの日遊びすぎ!また仕事中に船こいだりすんなよ?」 「わかってますってー。でもさー、やっぱ彼氏が今日から二直だったりするとさー」 「また男かよ。いっそのこと、一緒に住んじゃえば?」 仕事を探している最中に回っていたうちの派遣会社の一つに、今私は籍を置いていた。その会社では技術職の派遣も行っていて、私としてはそこがねらいだったのだが、女性の技術職はあまり募集がありませんよ、という、余所でも散々聞かされた科白の後、それでも良かったらお仕事紹介しますよ、という具合に口説かれて現在に至る。いや、もう少し詳しく言うとこんな感じだ。今のところ女性の技術職の募集はない、かと言って、技術職の募集の際に「男子に限る」という条件が必ずしもついてくるわけではない。明日にもすぐに、とはいかないが、そういう話があったならこちらにも回すから、しばらく登録して働いてみるのはどうか、と。 実はも何も、私は技術屋の端くれだった。学歴は工業大卒、勤めていた会社も製造業。助手と言うか補佐というか、そんな立場ではあったけれど設計にもかかわっていた。工場の現場で働くための資格もその会社や学生の頃に取得していて、ごく一般の女の子に比べれば、持っている数も多い。即現場オッケー、なんて、本来ならこういうところでは歓迎されるタイプなのだが、いかんせん、私には最大の欠点があった。いや欠点と言ってしまうのは哀しすぎる。そこに敢えて女性を募集する企業は、本当に少ないのだ。 仕事を探している、そして職も選んでいる。そんな私にその申し出は好都合だった。ただ待っているだけ、というのも能がないし、時間ももったいない。そう言ってくれるなら、と、私はその条件を飲んで今現在、工場作業に従事していた。そう、これはつなぎなのだ。次の仕事までに、口を糊するための。とは言え、元々が製造屋の私に工場での仕事はあまり苦痛でもなかった。なれないことが多くて戸惑ってはいるが、実を言うと、前の会社でぎつぎつ働いていたころより、色々と余裕がある。残業はあったりなかったりだが、帰宅するのだって以前と比べると随分早いし、仕事の内容も「軽作業」だけあって、疲労度は軽い。そして何より、ストレスが少なかった。上司や客先とのやり取りがほとんどないために、そういう負担もまるでなし、なのだ。しかし。 「あ、中山さーん、おはよーございますー」 「おはでーす!」 「はよーっす」 「……おはよう、ございます」 職場は、というか、契約社員という職種(?)には、とにかく若い女の子達が多かった。私はその若い女の子の中にぽつん、と一人でいるような、そんな感じだった。確かに私もまだ二十代だから、年寄りではない。でも、四つも五つも年下の女の子たちの中に一人でいると、その差を感じずにはいられない。明るく染めた髪や、ほんのりと明るいチーク、可愛いパステルのリップ。化粧をしない、とは言わないけれど、そろそろその傾向が大人しくなっている私とそこにいるその女の子達とは、明らかに何かが違っていた。髪の染め方一つにしても、メッシュが入っていたりオレンジだったり、私の歳では無理っぽいことを(やろうとも思ってないけど)彼女達は実にたやすく、そして自由にやっている。うらやましいとは思わないけれど、その辺が「歳の差」なんだなあとは思ってしまう。それとも「認識」の違いだろうか。そんな中にいる私は、ともすると地味だ。一発で「年上」だと解る。そしてそんな風にして、私たちは区別もされていた。 「今日のノルマ、三千個だって」 「え、三千?うそーっ」 「ってまた残業ですかぁー?サイアクー」 「班長ー、何とか言ってくださいよぉー」 私はここで「班長」と呼ばれていた。同じ現場で働いている、同じ派遣会社から来ている女の子の中で一番年長のために、職制からそういう役目をおおせつかってしまったのだ。班長と言っても連絡係だったりまとめ役だったりで、待遇がいいとか給料にオマケがつく、というわけではない。何と言うか「みんなのお姉さん」みたいな感覚だ。一応、決められた班ごとに毎日同じ仕事をして、ついでのように一緒にお昼を食べたり、時にはプライベートの相談に乗ったりもする。まあ、どこにでも良く見られる感じの女の子の集団だ。 「何とかって言われても……私には、何も出来ないんだけど……」 「えーっ、だって中山さん、組長にも頼りにされてるしー」 「そうですよぉー、もうちょっと、お仕事のペース考えてください、とかー」 「……でも私、正社員でもないし」 正社員だってそう簡単に、上司に向かって「仕事を減らしてくれ」なんて言えないわよ。私はお腹の中だけでそんな風に毒づいた。彼女たちが特別、働くのが嫌いだとか、不真面目だとか、そういうことはない。ただ、みんなそんな風に、時には愚痴を言いたくもなる。それを聞くのも一応、私の役目だった。仕事は、ルーティンワークだ。毎日作業台の前に座って、ひたすら同じことの繰り返し。愚痴の一つや二つ、出たって当然だった。私だって思う。生活のためとは言え、一体ここで何をしてるんだろ。こんなことする間に、もっと有意義に、何かできることもあるだろうに、と。 「あーもー、次の更新でここ、やめてやるー」 「って、そうやって言うの何回目よ?あんた」 「そうそう。何だかんだ言ってがんばってるじゃん。あたしはいつも短期だけどー」 「だよねー、あんたはいっつもそうだよねー」 あははは、と、笑い声が起こる。そうやって歩き出す仕事仲間の女の子達を少し見送って、私も続くように歩き出した。仕事に貴賎はない。働いてお金を取ると言うことは、なんであっても大変なことなのだ。そしてこの不景気、何とか仕事があることだけでも、もしかしたらラッキーなのかもしれないのだ。たとえそれが単一作業の、製造業の中で最も下っ端の仕事であったとしても。 「中山さーん、遅いですよー!!」 「あ、はいはい」 前方の声にせかされて、私は歩みを速めた。愚痴を言ったり文句を言ったり、若い女の子達はちょっと見た感じ、不真面目に見えなくもない。でも、仕事に関しては彼女達は真面目だった。確かに派遣社員というものの特性みたいなもので、一ヶ所に勤める期間が短かったり、正社員の人に比べて就労時間が短かったりもするけれど、手を抜いたりサボったりしている、ということはない。私たちだって働いているのだ、どんなに単純で簡単な作業で、しかも責任をほとんど問われないからと言って、遊んでいるわけではない。それはみんな同じだった。ただ、やっぱりそこはそれ、きちんとした社員と比べられたら、会社の、私たちに対する縛りもゆるいし、待遇も良くはないのだが。 満足している、とは言えない。でも今、私はここで働いている。働きながら、別の声がかかることを舞ってもいるし、実水面下で別な就職活動をしようとも思っている。とは言え、ここの所残業続きで仕事も忙しくて、それもままならない状況、ではあるのだけど。 「まあ……気長に行くわよ。この仕事が死ぬほどいやってわけでもないし」 一人、私はそんな風に言ってみた。何だかんだと言って私は製造業、物を作る仕事が好きなのだ。大量生産の枠の中のルーティンワークでも、その一端を担っているのだし、製造に携わっていることに変わりはない。確かに、これが「やりたい仕事」に直結はしなくても、まだ端っこで、私はそれに繋がっている。それだけは、誰が何と言っても救いだった。 「中山さーん、組長が呼んでますよー」 「あっ、はいはーい」 もう一度呼ばれて、私はそこから小走りに駆け出した。余所事を考えている暇はない。働かざる者食うべからず。一日は、まだ始まったばかりだ。今は仕事のことに集中しなくちゃ。今日は一人頭三千個がノルマだ。また残業になっちゃうんだろうけど。そんなことを思いながら。 一方、そんな私に対して彼、ヤスヒロの方は、と言うと、 「ただい……ま、って……いるわけないか」 定時から三時間ほどの残業のあとに帰宅すると、部屋は暗くてカラッポだった。ここの所は毎日、こんな感じだ。ヤスヒロはというと、それより半月ほど前から、帰ってくるのはいつも十時過ぎかそれ以降、帰っても、食事とお風呂ですぐに休んでしまう、そんな生活をしていた。今使ってもらっているデザイン事務所は、何だかとても忙しいらしい。何をしているのかと尋ねたら、テレビ局のイベント関連で、こまごまとしたノベルティーグッズから屋台の設計まで、実に色んな仕事があるらしいような事をいつか言っていた。印刷屋から建築屋までもが入り乱れて、かなりの忙しさのようだ。時には日曜にも、社員でもない彼までもが借り出されていく。魂の休みも、遊びに行きたい性格のはずが、時には昼過ぎまでベッドで眠っていることもある。今度の土曜は確実に仕事で、日曜は、休まないと死ぬかも、なんてことも言っていた。私は、出来たらそんな彼の力になりたいのだが、何と言うか、ご飯とお風呂の支度くらいしか出来ることもなく、疲れている彼に話しかけることも何だかはばかられて、上手くコミュニケーションを取れないでいた。 私たちはお互いに、いわゆる「夢」を追っかけている。だからこういうすれ違いは仕方ない、というところもある。私は私で自分の力を発揮できるところで働きたいと思っているし、ヤスヒロも同じだ。彼の場合は才能、というものがそこに絡んでくるから、私なんかよりもうちょっと色々と難しいのかもしれない。 しがないフリーのデザイナー、を自称する彼は、その仕事を始めてから、まともな定職についたことがなかった。つてもコネもない、腕だけの、とりあえず専門学校を出てみただけの人間に、そうも易々と仕事のやってくる世界ではない、といつかヤスヒロ自身も言っていたけれど、そちらの業界は、何でも「仕事のある時だけ人を雇う」というのが基本スタイルであって、会社に常駐する人間というのはとても少ない、らしい。勿論そうじゃないところもあるのだけれど、彼が働いてきた場所は、八割がたがそんなスタイルの会社だった。要するに仕事のない時には人を雇わない、極端なことを言えば解雇する、そんな感じらしい。採用、解雇の繰り返し、その間にコンビニの深夜バイト。生活は勿論、楽ではない。自分一人だから何とかやっていける程度だと言うのに、彼はその夢を捨てたり、諦めたりしようとしなかった。疲れていても、滅多な事では泣き言も言わない。それに加えて「一緒に暮らそ」だ。いや、疲れているならいるで、そのくらい言ってくれてもいいのに、とも思う。 「一緒に暮らしてるんだから……少しくらいは弱いところも、見せてくれてもいいのに……」 それが「一緒にいる」ってことじゃないんだろうか。ここの所、本当に眠る少し前しか顔を見られないヤツの事を思って、私は一人、彼のベッドを蹴飛ばした。寂しい、というのとは違うけど、何だか変に疎外されたような、そんな気分になって、私はそこで溜め息をついた。 なんと言うか、ヤスヒロは私より、変なところが大人で、変に子供だった。ちょっとでも甘やかすと、調子に乗りまくって甘えてくるのに、そうしないときには一切、私に寄りかかろうともしない。だってかのこも忙しいんだし、とか、私を気遣うような事を言っては、変なところで逃げる。そういうヤツだった。彼は何でも、私の助けになりたいらしい。そして私は充分助けてもらって、現在に至る。恩を売られるような形で一緒に住み始めて、でも実際、そうされて私は助かっていた。泣きたい時には傍にいてくれて、当り散らしたいときには「なんで俺が」とか言いながらも当たられてくれる。私は彼に助けられっぱなしで、気がついたらその彼の傍にずっといたくなっていて、そして同時に、彼の辛いときには助けになりたいと思って、その気持ちに応えた。だと言うのに、ヤツはいつも変なところで逃げる。私の負担って何なのか、一度ちゃんと問いたださないとこちらだって気分が悪いし気に食わない。私が負担ならまだしも、私に彼がかける負担って何なのか。心配?迷惑?それとも、やっぱりヤツは私を信頼しきっていないのか。そういうことに私が少なからずショックな事を、向こうはわかっているのだろうか。 「……ご飯、作ろ」 考えていても仕方がない。思って私はその日の夕食を作り始めた。もうすでに夕方、なんて時間ではなかった。また今夜も一人で先にご飯よね、と思うと、溜め息は勝手に肺の奥から溢れた。寂しいわけではない。いや、寂しいだけではない。なんと言うか、やり切れない。こんなにやり切れないなら、いっそのことまた一人で暮らした方が気楽でいいような気さえする。だって一人でだったら、こんな気持ちで人のご飯なんか、作らなくてもいいのだから。 「たーだいまーっ」 そんな思いをめぐらせていたその時、玄関のドアが開いて外から、そんなヤスヒロの声が聞こえてきた。私は驚いて、とっさにそちらに振り返る。ヤスヒロは疲れた、とか言いながらいつもより少し期限よさ気な顔で靴を脱ぎ、部屋に上がると足取り軽く、私のところにやってきた。 「ヤスヒロ……どしたの?今日何だか、早くない?」 早い、と言っても時計はそろそろ九時近かった。驚く私を見てヤスヒロはにこにこ笑っていた。そして笑ったまま、 「うん、ちょっとな。終った、っつーより動けないんだ。業者が発注ミスかなんかやらかして、物がそろわなくて作業全ストップで」 言うとそのまま私の横を通り抜け、ビニル製の簡易クロゼットの前でジャケットを脱ぎ始める。ちょっと驚いている私を見ず、そのままヤスヒロは続けた。 「明日からもっと忙しくなるから、やることないうちに帰ってきたんだ。それに備えて早く休もうと思って」 唖然としていた私を振り返ったのは、そう言ってからだった。ヤスヒロはジャケットを脱いでくつろげる格好になると、そんな私を見て少し笑った。 「かのこは?いつ帰ってきたんだ?」 「え?あ、あたし?」 言われて、私は目をしばたたかせた。そしてそれから我に返ると、 「ご、ごめん!あたしも今、帰ってきて……ご飯とか、まだ……」 「あー、いいよいいよ、そんな、メシなんて適当で」 あわててキッチンに駆け込む私に、ヤスヒロはいつもと変わらない軽い口振りで言った。そしてそのまま、何だか機嫌よさ気に笑いながら、 「あ、そうだ。先に言っとくわ」 「え、何?何か食べたいものでもあった?」 「や、そーゆーんじゃなくてさ」 対面式のキッチンのこちら側から私がヤスヒロを見る。ヤスヒロはにこにこ笑った顔で、 「オレ、来月から正社員なんだ。今日、内示が出て」 言われて、私は驚いて声を失くした。てへへ、と、どこか照れくさそうに、そして嬉しそうにヤスヒロは笑っていた。 「来月から……正社員?正式に採用ってこと?」 「そーゆーこと」 「よかったじゃない……おめでとう!」 私は対面カウンターから思わず身を乗り出して、てれた笑みの彼に言った。ヤスヒロは恥ずかしそうにそっぽを向くと、 「うんまあ……何だ。やっとここまで来たなって、そういう感じかな」 そんな風にどこか平静を保つようなそぶりで言って、それでも嬉しそうに笑っていた。満ち足りた幸せな顔に、つられて私も笑う。というより、一緒に幸せな気分になれる、そんな感じだった。そして思わず、思いついたままにこんなことを言った。 「じゃ、何かお祝いしようか?せっかくだし」 「いいよ、そんな……大袈裟な……」 「だっておめでたいじゃない。ヤスヒロだって、嬉しいでしょ?」 「それはまあ……そうだけど……今更「正社員」だし」 けれどヤスヒロは、私の発案に何やら同意しがたいような、そんな顔で言った。そして、 「就職祝いなんて、するほどのことじゃないよ。そういう歳じゃないし」 「歳なんて関係ないわよ。だってやっと……」 「やっとスタートラインだぜ?まだ」 そう言って笑ったヤスヒロの顔は何だか自嘲気味で、私はそこで気が抜けた、というか、少しがっかりした気分になってしまった。言われて見れば確かにそうなのだが、でも、本人が「いらない」というのだから……いやでも、それでも、嬉しい、いいことなのに。ヤスヒロはそんな私の顔を見て、困ったように笑っていた。そして、 「オレには、かのこの気持ちだけで充分だよ」 「そ……そう?」 着替えたヤスヒロは、普段くつろぐときと同じ様に、テレビをつけてその前に座った。私は拍子抜けしたついでに力も抜けたようになって、そんな彼を少し離れたところから見ていた。いいことなのに、どうして諸手を挙げて喜ばないんだろう。私はそんなことを思った。嬉しくないわけじゃないのに、どうしてだろう。黙って康弘を見ながらそんなことを考えていると、そこに座ったヤスヒロが、振り向かないで言った。 「今週末、返上かもしれない」 「……え?」 「帰りも、日付変わるかもしれないから、待ってないで先に寝てていいぞ、かのこ」 言われて、私はまた少し黙り込んだ。そしてそれから、 「うん……わかった」 そんな風に彼に言い返して、ようやく夕食の支度に取り掛かったのだった。 そんな事があった次の日から、ヤスヒロの帰りは本当に「午前様」になってしまった。朝は普段どおりで、実は私より少し早いくらいだった。顔を見ない、ということはなかったけれど、その顔を見てヤスヒロがどんな状態なのかを知るとか、そういうことは出来なかった。たとえ見られたとしても数分しかない。お早う、と、朝食のメニューと、ゴミ出しや公共料金や、回ってきた回覧のことなんかを二言三言話すくらいで、それ以上の会話が成り立たない。これから正社員になるからか、それとも、忙しすぎて他のものを見る余裕もないのか。それからの数日間、ヤスヒロは支度を済ませるとすぐにも家を出てしまって、休みも返上するような形で、ゆっくり出来る時間を作りようもない、そんな感じだった。私は、何となく置いてけぼりを食らったような気分で、毎日一人で朝食を取り、残業のある日には残業を済ませて、誰もいない部屋に帰り、彼の帰ってくるより前に、言われたとおりに就寝していた。 別に、毎日べったり一緒にいたいとか、そういうことは言わない。向こうにだって都合があるのだし、私に構っている暇も、実際ないのだろう。自分で選んで捕まえてきた、好きな仕事を一生懸命になってやっている。毎日くたくたに疲れても、休む暇もなくても、それはきっと充実しているんだろう。そんなヤスヒロを否定はしない。しないけれど、少しだけうらやましいとは思っていた。 あいつは私にかまう暇がないくらい、中身の詰まった時間を過ごしていると言うのに、私は一体何をしているんだろう。そう思うと、何だか一人でいて、とても疲れた。こういうときにこそ、誰かが一緒にいてくれるといいのに、その誰かは今、自分のことで手一杯なのだ。でも、私はそれを我慢したり、大人しく見ていなきゃいけない。それもわかっている。わかってる、けど。 「……あたし、何してんのかな……」 日曜、一人部屋に取り残されて、何となく私は思った。その日もヤスヒロは仕事で、何でも追込みだからしばらくマトモな休みはない、とかで、朝から出かけていた。いつもなら二人でしたくして二人で食べるブランチを一人分だけ作って、私はそれをもぐもぐと食べた。味気ない理由はわかっていた。隣に誰もいないこともだけど、もっと重い理由が、我が儘なほどにごろんと、私の前に転がっていた。 「本当にあたし……何やってんだろ」 仕事は探している。出来るなら技術職を。正社員で採用してもらえたら、こんなにいいことはないと思っている。でも、以前のように無職ではないから、仕事探しの時間も、かけられる手間も限られて、何となく今の職場での仕事に流されている。これでいいんだろうか。私はずっとこのままなんだろうか。食べるためには働いて行かなきゃならなくて、それはわかっている。だけど、頑張っているあいつのとなりで、ただ食べるためだけに時間を労していて、本当にいいんだろうか。私は、ヤスヒロが好きだと言ってくれた頃の私のように、頑張って努力しているかしら。その頃と変わらずに、彼に好かれるだけのことをしているのだろうか。思うと、ご飯はますます味気なく、空いていたはずのお腹も変に鈍ってしまった。私は今、彼とつりあいの取れるほど、頑張れてるだろうか。自分で納得できるくらい、ちゃんと生きてるだろうか。 「……ヤスヒロの、奥さん、か」 何となく私はそんなことを口にしてみた。なりたくないわけじゃない。そうなるときが来たら、そうしたって構わない。でも、変な言い方だけど、彼がそれを望んだとしても、私がそれを認められるだろうか。ちゃんとしていると、自分に太鼓判を押せるだろうか。 「ヤスヒロの、奥さん……か」 言葉は、変に重かった。その日私は一人、出かけもしなければ着替えもせず、一人テレビと向き合ってだらだらと過ごした。夕方になって二人分の食事を作ったけれど、一人で食べてしまうと、さっさとお風呂に入って、彼の帰宅を待つこともなく、一人でさっさと、やたらと早い時間に眠ってしまったのだった。 それから数日間、ヤスヒロとはすれ違うだけの日々がしばらく続いた。今までも、四六時中いっょにいたわけではなかったけれど、その状況に、私は参りかけていた。会話が続かなかったり話題が見つからないのは、お互い疲れていたり忙しいからで、それ以上の理由はない。ないはずなのに、本当にそうなのかと、変なことを疑ったりもした。こういうもやもやしたときには、そのもやもやから逃げるためには、何かに集中するのが一番だ。そんな風に思って、私はとりあえず、仕事に集中することにした。それがいわゆる「現実逃避」であると、わかってはいたのだけれど。 「弱りましたねぇ……こっちじゃ、そればっかりはどうしようもないし……」 「あー……じゃあどうするかなぁ……」 それはそんな仕事中の、残業間際のことだった。残業前の十五分の休憩中、私はその光景に出くわした。今日もまた二時間か、でも昨日は三時間だったし、帰りにスーパーくらい寄って帰れるかな、とのんきに思っていたときだった。現場の上司であるところの組長と、同じ年頃の、あまり見かけない社員の人とが困った顔で頭を付き合わせて、何やら話していた。何事かしら、と思ったその時、組長はふとし目を上げて私を見た。 「うーん、そうだなぁ……」 「何とかならないかなぁ……二、三人」 二、三人が何だと言うのか。私は組長と目があってしまって、その場で何気に立ち止まって目をしばたたかせた。組長はほんの僅かの間、何も言わずに私を見ていた。が、その僅かの間のあと、こんなことを言った。 「中山さん、悪いけどこれから、物流の手伝いに行ってもらえるかな」 「……はい?」 |
Last updated: 2005/12/12