続・カフェオレボウルでハイティーを

 

エスプレッソの熱い距離

 

第二話

 

「取り合えず明日の出荷は十時で間に合うし、その分明日も押して残業にはなるけど、こちらさんも大変な時だから」

 上司はそういうとそれまで話していた相手(どうやら物流の担当者らしい)に向き直った。私は目を丸くさせたまま、

「え?あの、どういう……」

「荷造りの手が足りないんだって。手伝いに行ってくれない?」

 上司はそろそろ四十に手も届いた辺りの男の人なのだが、軽い口振りでそんな風に行った。私は目をぱちくりやりながらその言葉を飲み込むと、

「ああ、そういうことですか……構いませんけど」

「じゃ、頼むわ。でもまだ二人くらいいるなぁ……」

 上司はそういうと私と物流の担当者の前から立ち去っていった。何気に見送って、それから私は側らの、上司と同じ年頃と思しき社員を見て、言った。

「今、忙しいんですか?」

「うんまあ……そうだね。忙しいし、ちょっと手が足りてなくて。でもこんなのは今日だけだから」

 その人はそう言うとちょっと困ったように声を立てて笑った。私は何も言わず、へぇ、何かあったのかしら、と、ついさっきスーパーにでも寄ろうかな、と思ったくらいに暢気に思いながら、物流の担当者と後の二、三人を手配しに行ったと思しき上司をその場で待っていた。

 

 物流では昼間、というか午後から、ちょっとしたごたごたがあったらしい。どうもこちらに来るべき受注書が会社の中で迷子になっていたらしく、出荷する製品は揃っていたのにそれを荷物に出来なかった。ついでに担当者は急に通夜が出来たとかで受注書が手元に来る前に帰宅してしまい、早朝に出荷するその荷物はまったくの手付かずになっていた、と、こういうことらしい。そしてその荷造り担当者の下で作業をする要員も、どういうわけか定時で帰宅してしまい、仕事の手が足りなくなったそうだ。

「……ありがちだわね」

 製品検査から回された私と二人の女の子は、そんなわけで早朝出荷便の荷造りをすることになった。荷造り、と言っても個人が出す宅配便の小さな荷物を作るのとは訳が違う。小さなプラスチック製品が入った箱を受注書に従って、木製のパレットに積み上げ、それをビニール紐で固定する、というのが作業内容だ。普段している事とは全く違うなれない仕事で、私達はてんやわんやだった。どこに何があるのか解らない現場で、滅多と使わない大きな軍手をはめ、荷台を引っ張りまわしてあちらへこちらへと走り回り、だ。運の悪い事に私たちに仕事を任せた物流の担当者は会議でその場にいてくれなかった。ざっと仕事の流れと配置を説明すると「大体一時間くらいで出来るから」というような言葉を残して去っていった彼の背中に、三人して鋭いまなざしを向けていたことは言うまでもない。そして仕事は、その一時間を経過しても片付いてはくれなかった。何しろ普段とは全く違う仕事を、配置もろくに頭に入っていない場所でするのだ。三人いようが四人いようが、はかどるわけもなかった。

「中山さーん、C2553ってー」

「はーい?え、C?ごめん、何色?」

「ブルーですぅ……やだこれ、端数?」

「あ、端数はこっちのパレットに作ってくださいー」

 残業中の物流ブースには私たち以外の人影はほとんどなかった。余所の作業私たちがいて他の人間がいないのはちょっとおかしいんじゃないのか?と思いながら、それでも私達は働いていた。なれないから大変、と言いながらも、私は実を言うとその状況を結構楽しんでいた。毎日している仕事は座りっぱなしで製品とひたすらにらめっこ、というスタイルで、普段に運びなんて滅多としないので、それはどことなく新鮮な感覚だった。変に広い物流ブースのコンクリートの床はペンキで塗られていて、吹き抜け上に作られた高い天井からつるされた大きな白熱灯の光をてらてらと照り返していた。歩き回るとその光によって、一人頭四、五人分の影がちらちらと視界を走る。がらんどうに作られているために足音も妙に高く響くし、それは声も同様だった。

「やだちょっと!こっちのパレット、ピンクでしょ?」

「あー、ピンクとオレンジは数が少ないから一緒ですー」

「先に言ってよー!じゃピンクどこ行ったのよー?」

「だから一緒ですー、変わってませーん」

 ちょっとだけ混乱した女の子たちの声が辺りに響く。それを聞いてちょっとだけ笑いながら、私は作業を続けた。年長者だから、というわけで指揮官を命ぜられた時はどうなることかと思ったが、やってみると余所の仕事も、時々なら楽しいかも、なんて、また私は暢気なことを考えた。走行するうち、一時間半が過ぎ、二時間に迫り、私たちの任された荷造りも終盤に差し掛かって、けれどそこで頓挫した。

 

「どうします?これ」

 目の前に八割が他の荷物ができたとき、ブース内には荷物の置き場がなくなっていた。場所が全くないわけではない。出荷ブースというのは広く作られている。それは荷造りのためでもあり、荷の積み込みのためでもある。コンクリートのペンキで塗られた床にはいくつかの枠線が引かれていて、荷物はその中に収めるように作って欲しい、というのが担当者から出た指示だった。その枠の外になら、まだ幾らでも荷物は作れるのだが、その枠はとっくに埋まっていて、だと言うのに最後のパレット一枚分の荷物は、まだ出来ていなかった。

「あーでも、後十分で二時間ですよ?」

「その辺に作っといて後は任せちゃいましょうよ。伝言メモかなんか残して」

 会議は、二時間をめどに終る予定らしかった。けれど担当者は戻ってくるどころか連絡さえ寄越さない。大体会議というものは延長するのが相場なので、その辺りのことはさておいても、私達は困ってしまっていた。仕事はあと一息で終るのに、終らせようがないような、そんな状況なのだ。ここで担当者が戻るのを待つか、このまま放置して帰るか、それとも、ひとまず荷物の形だけ作るか。

「パレットを動かせれば、いいのよね」

 樹脂製の箱の詰まれたパレットを見ながら私は言った。その手の荷物は大抵、パレット単位で積み上げることが出来る。それは前の職場でも良く見ていて知っていたし、実際そうやっていた。トラックの荷台の中にも、荷物はそうやって積み込まれている。この会社も全く同じ、とは限らないが、荷物が毎日これだけあるとするなら、そうでもしないと荷造りも出来ないに違いない。一時的にでも場所さえ作れれば荷物は作れるし、その後は担当者に任せても構わないだろう。とは言え、パレット事体の重さも十キロほどあるところに、プラスチック製品の入った箱がぎっちり積まれているのだ。人間の力でどうこうできるものでもない。

「……外に作っとこうか」

「えー、まだ働くんですかぁ」

 何気に提案した私の言葉にすかさずブーイングが飛んだ。私は笑いも、そちらに振り返りもしないまま、

「放置しておくわけにもいかないでしょ。余所の仕事だけど」

「中山さんって、真面目ですねー」

 別の声がまた聞こえる。真面目、というより、人の仕事とは言え、任されたものを中途半端に放置しておくのがいやなのだ。思いはしたけれど私は答えず、そのまま辺りを見回して荷物の広げられそうな場所を探した。と、その時だった。

「どうですか。出来ましたか」

 ブースに、件の担当者が現れた。私たち三人はいっせいにそちらを見やり、

「いや……グリーンのパレットがまだなんです……場所がなくて……」

「パレット積んじゃっていいですから。ちょっとこっちもまだ終りそうになくて」

 担当者は困ったように乾いた声で少し笑った。私も困った顔で笑い返すと、

「いや……流石にそういう荒業は……私たちじゃ無理ですよ」

 他の二人は、というと、私のそばでそれぞれにそれぞれの思惑をその顔に浮かべていた。あからさまな不満顔と、何と言うかちょっととぼけた顔で彼女達は私たちのやり取りを見ているようだった。物流の人は目をしばたたかせ、

「あれ?リフトは?

「リフト、ですか」

 そう言って辺りを見回した。リフト、というのは荷物の載ったパレットを移動させるための小型の自動車のようなものの呼称で、正しくはフォークリフト、という。耕運機の前方にクワガタの角のようなフォークが付いていて、そのフォークをパレットの穴部分に刺し入れて上下させることで荷物の積み下ろしを行うのだ。

「ああそうか……乗れる人がいなかったっけ……」

 担当者はそういうと困った顔でまた笑った。後ろの二人は「じゃあこれでお仕事終了」みたいなことでも期待していたかもしれない。が、

「私、乗れますけど」

「え?」

 私のその一言の後で、その場は変な空気に包まれた。これでも一応元は製造業の会社員だ。しかも技術職だ。前に勤めていた会社では、リフトに乗れないと男であっても役に立たない扱いだったから、私も当然、色々の免許のついでにリフトの免許も取っていた。そしてバリバリに使っていた。こちらの会社では、女の子がリフトに乗る、という姿を見ないから、きっと珍しいんだろうな、とは思ったのだが、物流のその人の反応はちょっと大袈裟だった。

「え、リフトの免許なんか持ってるんだ?」

「ええ、まぁ」

 わざとらしくさえ見えるリアクションで言われて、私は淡々と答えた。考えてみれば派遣社員の女の子がリフトの免許を持っている、というのも、珍しいかもしれない。でも一応こちらの会社に勤める時にの人事担当者との面接でその辺もアピールしてはあるのだが。

「じゃあー……悪いけど後一枚分、作っといてくれるかな?グリーンは数出ないと思うから、上に積むようにして……」

 担当者はそう言うと作業着のポケットの中からじゃらじゃらと音を立ててキーホルダーを取り出し、私の前に示して言った。

「じゃ、これにキー付いてるから。帰りに総務に預けてってくれれば、後は片付けるよ」

「わかりました」

 私がそのじゃらじゃらを受け取ってそう返すと、担当者はじゃあ、と言って再びブースから出て行った。見送って振り返ると、目の前の女の子達はちょっと複雑な顔で私を見ていた。私は、それにちょっと怯みながら、

「あー……あと、やっとくから。上がってもいいと思う……けど……」

 恐らく二人はこれで仕事を片付けるつもりだったのだろう。そうよね、なれない現場で二時間もうろうろさせられて、その上まだ働けなんて言われたら、いやな気もするわよね。私にもそれは良く解った。でもそのまま放置も出来なかったのも事実だ。目の前の二人のうち、一人はふて腐れた顔で、

「あーあー……グリーンって、どこだっけー」

 そういうと私に背を向けて製品の詰まれた棚のほうに歩き出した。もう一人はというと、ちょっと驚いたような顔をして、

「中山さん、リフト、乗れるんですか?」

「え?あ、うん……一応ね」

「へえー、そうなんだー……何かすごいなー」

 そんな風に言ってから、立ち去った彼女の背中を追いかけるようにその場を後にした。私はその二人を見送りながら、悪い事したなあと申し訳なく思いながら、それでもフォークリフトを使うためにその場から動き始めた。仕事は、しばらくは終りそうになかった。

 

 結局、結果的に私たち三人は三時間ほどのオーバーワークの後で帰途に着くことになった。普段より一時間も多く、しかもなれない仕事のおかげで、二人もそうだが当然私も疲れていた。何だか最近この疲れ方も、以前より酷くなっている気がする。と、年かしら。そんなことを思いながら、私は深夜まで営業しているスーパーに寄って、切れかけていたコーヒーのフィルターと冷凍食品、それに割引の二リットルアイスを買って帰宅した。家に着く頃には何だかんだと時計は九時を回っていて、こりゃ年じゃなくても疲れもするわ、と、私は思う事にした。

 

「おぅ、お帰りー」

 玄関のドアを無言で開けると、いつもは真っ暗なはずのその中は光に満ちていて、おまけにヤスヒロの声までも聞こえた。私はそのことにちょっと驚き、目をきょとんとさせ、

「お帰り……早かったの?」

「おぅ。納期がすんで一段落着いたんだ。かのこ、メシは?」

 寝床を兼ねたソファに座って、康弘は発泡酒の缶を片手にテレビを見ていた。私はあわてて玄関から上に上がると、

「ごめん、今から支度……」

「いや、そーじゃなくて、食った?」

 そう言ってヤスヒロは私を見た。私はまた目を丸くさせて、

「え?まだ、だけど……」

「けんちん汁と買ってきた煮魚だけど、それでいいか?」

 ヤスヒロは少し酔っているのか、ご機嫌の口調でそう言った。ああ、そういうことか。私はそこで彼が何を言おうとしているのかに気付き、足を止めて言った。

「うん……けんちん汁、作ったの?」

「今日早かったからな。待ってろ、今支度してやるから」

 何が楽しいんだか、という口振りで言ってヤスヒロはソファから立ち上がった。そして私の夕食の支度を始める。それを何気なく見ながら、私はそこに立ち止まったままで言った。

「いいよ、自分でするから。ヤスヒロだって疲れてるでしょ」

「かのこ、いつも帰ってくるとこんな時間なのか?」

「え?ああ……今日は一時間長かったのよ、残業。いつもはもう少し早いから」

 ヤスヒロは私の言葉を聞く気がないらしい。何だか楽しそうに笑って、トレイに煮魚とけんちん汁を載せると、テレビの前の小さな食卓に戻ってきた。

「大変だよな、かのこも。二時間も残業して、帰って来てから俺の分までメシ作ったりして」

「……別に、そんなに大変じゃないわよ。一人分作るんなら、二人分作ったって同じだもの」

 何をイキナリ言い出すのやら、と思う私を余所に、そのまま、ヤスヒロは言葉を続けた。

「風呂も支度してあるし、洗濯した日には、たたんだりしてるしさ」

「……何よ、急に」

「ありがたいよな、と思ってさ」

 と思っている割に、ヤスヒロは何となくそういう顔をしてはいなかった。何がそんなに楽しいんだか、というような顔をしていて、私はそれを見てちょっと眉をしかめる。それにも全く構わず、ヤスヒロはちょいちょいと私を手招きした。

「ここの煮魚、まあまあなんだ。つーか魚屋の仕出しのやつだから、割とうまいかも」

「……そうなんだ」

 まさかそれを食べさせたいからそんな顔をしているのか。この男は時々、そういう変なことをする。どこそこの何が美味しいと聞くとわざわざ買ってきて、私にも食べさせる。大抵その情報にははずれがないので、私も特別困ったりやめて欲しいと思ったりはしていないが、それで時々とんでもない値段のものを買って帰ってきたりする。そこが難点といえば難点だった。基本的には、ヤスヒロはヤスヒロの財布で生活しているわけだし、私がそこに出費しているわけではないので、高価なまずモノを買ってきたとしても損をするのは彼一人、ではあるのだが。

「ほれ、疲れてるんだろ?がんがん食え」

「がんがんってね……」

 何言ってんだこいつは、と思いつつも私は食卓に着いた。ヤスヒロはニヤニヤ笑いながら、

「したらオレ、風呂沸かしてくるからさ。かのこもメシがすんだらとっとと風呂に入って、さくっと寝ろよ、な?」

 何なんだこの、変に楽しそうなのは。私はそれを見てずっとそんなことを思っていた。と言ってもご飯の支度もお風呂の支度もありがたかったので文句を言うつもりはなかった。なかったけど、それでも何かが引っかかった。こいつ、また私に黙って何かとんでもないことしてないだろうな。思う私にヤスヒロは振り返った。そして、へへ、と笑うとこう言った。

「何だよ、変な顔して」

「……別に、変な顔なんかしてないわよ」

 というか、仮にもヤツは私に惚れているのだ。変な顔というのは失礼じゃないだろうか。面食いじゃないにしても。思った私は更に眉をしかめた。ヤスヒロはニヤニヤ笑うと、

「そーかぁ?

「そっちこそ……なんでこんなに甲斐甲斐しいのよ?」

 私は「実はオレ○○しちゃってさ」というような科白が出てくることに、心の中で備えた。さあ今日は一体何をやらかしたって言うの?本当に納期が終って一段落して余裕があるから、帰宅時間が早かったんでしょうね。頭の中はそんな気持ちで一杯だった。ヤスヒロは、そんな私の予想とは裏腹に、むふ、と笑った。そしてくるりと私に背を向けて、言った。

「本採用決定」

「……へ?

 その、期待(?)とは裏腹の言葉に、私は間の抜けた声でそう返していた。ヤスヒロはまた私に向き直ると、

「来月から……まあ来週なんだけど……-ほら、この前言ってただろ?

 そう言った彼の顔は輝いていて、まるでも何もなく夢見る少年そのもので、私はその顔にちょっと見とれて、彼の言葉の意味を理解するのに時間を要してしまった。ヤスヒロは私のところに戻ってくると、うれしさをこらえきれないことが丸出しの顔で、私のそばに座り込んで、もう一度それを言った。

「本採用決定!

「……えっ、嘘、本当?!

「こら、嘘とは何だ、嘘とは」

 私が驚いて吐き出した第一声をヤスヒロは、笑いながらいなした。正社員で雇ってもらえる、ヤスヒロが、デザイナーとして。私はようやくそのことを自分の中に飲み込んで、それから、疲れも変な疑いの気持ちも、何もかもを忘れて目の前の嬉しそうな顔に思い切り言った。

「良かったじゃない、おめでとう!!

「おう、サンキュー」

「本当に良かった……っていうか……」

 私はそのことが本当に嬉しくて、何だかまるで自分の事のようで、どうしたらいいのか解らないような、そんな感覚だった。こんな幸せな事があるだろうか。長い間ずっと彼を見てきたけれど、こんな嬉しいことが今までにあっただろうか。そんな気持ちだった。ヤスヒロが、夢をかなえようとしている。いや、もう半分かなったようなものだ。今までも、一応はデザイナーではあったけれど、仕事も収入もあったりなかったりでとても不安定だった。けれど、これからはもうそんなこともなくなるのだ。コンビニのバイトを探したり、深夜に無理をして働いた後に契約先の会社でぽかをやって怒鳴られたりしなくてすむ。(実はつい二ヶ月前にもそんなことがあったのだ)会社員になるわけだから、今までのように仕事を選んだりは出来ないけど、それでも、

「良かった……良かったね、ヤスヒロ。頑張った甲斐、あったじゃない」

 私はうれしくて、うれしさのあまり言葉も見つからない、そんな感じだった。ヤスヒロもにこにこ笑って、

「ああ。かのこに言われたとおり、諦めなくて良かったよ」

「へ、あたし?あたしは、別に……」

「本当に感謝してる。オレって本当に、幸せ者だと思う。かのこーっ愛してるぞーっ」

 言うと、何を思ったかヤスヒロは私に抱きついてきた。されるまま、私はちょっと混乱していた。いや別に、彼に何か言ったりしたりした覚えは、特にないのだけれども。というか、どさくさにまぎれてこの男は何を口走っているのだ。でも、今はそんな細かい事に目くじらは立てないでおきたかった。だって本当に嬉しいのだ。彼が会社員になること、ではなくて、ちゃんとデザイナーとして認められようとしている、そのことが。

「かのこ、オレさ」

「何?

 私に抱きついたまま、ヤスヒロは言った。私は、彼の腕を跳ね除けないで、大人しく彼の言葉を聴くことにした。

「今までかのこにすごく、甘えてた気がする」

「……何よ、急に」

 そう言うと、ヤスヒロの語調は突然静かになった。抱きつかれたままではあったけれど、私はその変化に気付いた。彼は私を抱きしめたまま、更に言葉を続けた。

「今日も……もっと早く帰ってくるもんだと思ってた。定時くらいで仕事上がって、メシ作って風呂沸かして、そうやって待ってると思ってたんだ」

「今日は……たまたまよ?仕事が一時間押して……」

「かのこも働いてるんだよな、ちゃんと」

 変にしんみり、というか実感したようにヤスヒロは言った。そしてそれから、やっと私を開放して、言った。

「オレ、明日から朝飯、作るわ」

「……は?

 私の目はそこで点になった。ヤスヒロは私から目を逸らし、少し困ったような、申し訳なさそうな顔になると、

「だってそうじゃん。オレが今のとこで仕事始めてこっち、メシも風呂も洗濯も、全部かのこがやってんじゃん。帰って来んの、こんなに遅いのに」

「それは……でも別にあんたのためだけにやってるわけじゃないし……」

 何を思って何を言い出すのか。そう思っている私を余所にヤスヒロは更に言葉を続ける。なんと言うか、酔っ払いの所業のようだった。いや、彼は今ちょっと酔っ払っているらしい。食卓の周りを良く見ると、発泡酒の缶が三つほど転がっていた。きっとうれしくて飲んでたんだろうな、とすぐに解ったけれど、それを許せるかと言われたら、ちょっと難しいような、そんな気もした。

「でも、かのこに負担がかかってるじゃん。オレ一人だったら、風呂もシャワーでいいし、メシもコンビニの弁当でいいけど」

「そんなの……あたしだって一人だったら同じ……」

 ヤスヒロの言いたい事、というか言っていることは解らないでもない。確かに今のところ、家事のほとんどをしているのは私だ。と言ってもそれは、確実にヤスヒロより私に時間の余裕がるからで、ヤスヒロに押し付けられているとか、そういうことではない。どの道やらなければならない事には変わりはないし、複数で一緒に住んでいるなら、誰かがやることなのだ。それに、何と言うかヤスヒロは、そういうことに関して割にまめな方だった。一人暮らしが長いから、というのもあるけれど、根本的に世話好きで、どちらかと言うと誰かに何かをしてあげたい、そういう性分だった。それで現状が気に入らない、とでも言うのか。変なやつ。思って、私は少し笑った。聞こえたのか、ヤスヒロは私を解放すると、

「ちょっと待て。今の、笑うとこか?

「別に、笑ったわけじゃないわよ」

 いや、笑ってますけど。思いながらも私はそう言った。そして、酔っているためにやけに感情的になったヤスヒロの顔を見上げて、

「なんでヤスヒロくんは、そういう変なことを気にするんでしょうねぇ?」

 そう言いながらやつの鼻を、いつも私がされるようにつかんでやった。ヤスヒロは子供のような顔でふて腐れると、

「茶化すなよ!オレは真面目に……」

「じゃあ聞くけど、いつ帰ってくるか解らない人を毎日宛にしてたら、ここでの生活、どうなっちゃうと思う?」

 全くだ。自分で言ってから私はそう思った。ヤスヒロは、うう、と小さく唸って、それでも何やら不服らしく、ぐずぐずと口の中で小さく呟く。

「そりゃ……確かにそうだけど……」

「あんたもあたしも、暇じゃないんだから。時間があるときに、出来ることをする。それでいいじゃない。それとも何?ヤスヒロは私の家事に何か不満でも?」

「そんなこと思ってないぞ。オレはかのこに充分満足してる……家事に関しては」

 じゃあ他に何か不満があるのか。思ったけれど私はそこにツッコむことはしなかった。そして、

「だったらいいじゃない。時間がある時にお互い、出来ることをする、で」

「……うん」

 酔っ払ったヤスヒロは普段よりも、聞き分けがいいというか、反論が少ない。そんな風に、ふてた小学生みたいな顔で言った。そして、言いくるめられはしても納得はしていない、とでも言うような顔になると、こんな風に言った。

「でもオレは……かのこの負担にはなりたくないぞ」

「あらそう?じゃ、努力したら?」

「……お前、勝ったと思ってオレのこと、ばかにしてんだろ?」

 その問いかけに私は答えず、ただその場で笑って返した。ヤスヒロはますます拗ねて、

「いいんだどうせオレなんて……かのこに飼い殺しの情けない男でも」

「何よそれ。どこが飼い殺しなのよ?」

 意味不明の言葉に私はまた吹き出し、それから、

「そんなに飼い殺しがいやなら、もっと積極的に家事してもらおうじゃないの。お風呂は?支度するんでしょ?」

「おう、そうだった。忘れてた」

 ヤスヒロはその一言で自分が何をしようとしていたのかを思い出したらしい。拗ねていたのもどこへやら、の顔つきになると、その場にすっくと立ち上がり、すたすたとお風呂に向かって歩き出す。私は晩御飯を食べながらそれを見送り、やっぱり何だか笑っていた。

「なーかのこー」

 風呂の手前で立ち止まり、ヤスヒロが振り返る。

「何?まだ何か言いたい?」

「就職祝いにさー、一緒に風呂に入んない?」

 にへにへ、と、変な顔でヤスヒロは笑っていた。私は逆に眉を思いっきりしかめて、こう聞き返した。

「何……それのどこがお祝いになるわけ?」

 

 そうしてヤスヒロがデザイン事務所の正社員として迎えられる反面、しがない派遣社員の私はというと、相変わらずの派遣社員のままだった。希望職種への転職も、他の会社への移動もなく、毎日相変わらずの単一作業を繰り返し、二時間ほどの残業をして帰宅する、という、それまでと全く変わらない生活が続いた。ヤスヒロは夕食の支度をしてくれた次の日から、また毎日遅くまで仕事に追われて、やっぱりろくに家事の手伝いも出来ないような状況で、「朝飯を作る」とか何とか言っていたそのことも、全然出来ないでいた。とは言え、当人はその発言を微塵も覚えておらず、しかも朝食を家で摂る事がほとんどなくなっていた。

「なんで朝が食べられないほどまで寝てるのよ!

「え??食ってるよ?会社の途中でコンビニ寄って、おにぎりとか……」

「そうじゃないでしょ!

 なんと言うか、相変わらずヤスヒロは肝心な所が抜けている、そういう男だった。でも、それだけ今の彼は、ようやくつかんだ大事なものに集中しているのだ。それは良く解っていた。解ってはいる。いるけど、置いていかれた感は、どうしたって否めない。

 私は何をしてるんだろうか。毎日、一人の部屋に帰って私は考えた。考えたところで答えが出るような、そんな問題じゃなかったけれど、それでも思わずにはいられなかった。彼に置いてけぼりを食らったような、その感覚もだけれど、それに嫉妬している自分に、呆れると言うか怒りさえ覚える、そんなこともあった。だったら今の仕事をやめてしまって、また一から別の仕事を、やりたいことを探すべきなのか、とか、ヤスヒロに嫉妬したってどうにもならないし、自分は彼の夢がかなうことを望んでいないわけじゃないのに、とか、そんなくだらないことが疲れた頭と体にゆっくりと溜まっていく、そんな感覚もあった。

「頑張り方が足りないってか?」

 一人の私はそんなことを呟いたりもした。自分なりの努力、が、人にどう見えているのかわからないし、世の中でもどのレベルなのかも、想像もつかない。それはもしかしたら結果が出たときに初めて量れるのかもしれないし、数とか量とか時間ではどうしようもないことなのかもしれない。

ヤスヒロは努力した、その結果が今目に見えている。私は?ここに来てから、あいつと一緒に暮らし始めてから、今の仕事を始めてから、ちゃんと努力してる?自問して、私は自答した。

いや、出来てない。でもそれは生活していくためで、ご飯以前にはどうしたってそんなことも言っていられなくて、時間がないからで。そう答えながら、私はそれが言い訳でしかないことも知っていた。そして、しないではいられない言い訳も、してみてすっきりするかと言ったらそうじゃないのだと、改めて思い知らされた。そしてまた、こんなことも考えてみた。いっそのこと諦めたらどうだろう。でも、もっとちゃんとしないと、もっと大事なものを失ってしまう。夢と同じくらいに大事なもの。側らにいてくれる、大事な誰か。その人に釣り合うためにも、私はもっとちゃんとしなきゃいけない。だって彼は自分のやりたいことに夢中になって、生き生きとしている。私はそうじゃない。何だか、ただ生きてるだけみたいだ。

「しっかりしろ、かのこ。こんなんじゃヤツの隣にいられないぞ」

 私は自分にそう言ってみた。でも、もう一つのことも少し思った。

「……パート主婦とかでも……許されそうよねー……無収入じゃないし」

 誰に何を許されるのか、それで自分は平気なのか。そんなことを考えたらきりがなくて、私はそこでそれをやめた。そしてそういうことを考えなくするためにも、疲れて帰ってきたその体を引き摺って、二人分の食事を作ったり、お風呂を掃除したり、洗濯物をたたんだり、ゴミの仕分けをしたりした。これで家事が片付くのは、うれしいようなうれしくないような、たぶんあんまりうれしくないな、と思いながら、でもふてて一人でベッドで泣いたりするよりはまだ建設的だから、そこのところは認めてもいいかなとか、そんなことも考えた。それでも出口は見つからなかった。

私はどうしたいのか、どうするべきなのか。何だか、手で探っても、どこにも行けないほどの暗い場所にいる、そんな気がする。救ってくれる手が下りてきたら、つかめるかしら。でもその先には何がついてるかしら。そう思うと少し泣きたくなった。でも、泣いてもどうなる問題でもなかった。

 

「は……異動、ですか?」

 そんな風に、一人の部屋でぐずぐずやっていた私にその話がやってきたのは、それから間もなくのことだった。同居人が寝る時間を惜しんで朝食を家で摂らなくなってから、一週間。その月曜の朝、私は職場の会議ブースで現場の上司と派遣会社の担当者と三人で頭を付き合わせていた。時間は、朝礼直前である。

「ええ。今日から物流に移動して欲しいんですよ」

「今日……これから、ですか?

 それはちょっと唐突な話で、私は思わず高い声で言ってしまった。現場の上司は普段と変わらない、日とかいいのか悪いのか解らないような顔でにこにこと笑っていた。派遣会社の担当者はちょっとばかり困り顔で、それでも営業スマイルだった。

「……どういうことでしょう?」

 私、何かポカでもやらかしたかしら。何となくそんなことを思って尋ねると、担当者が先に口を開いた。

「いえ、そういうことではなくて」

「今週から、こっちの仕事がちょっと暇になってね」

 そして続いて上司がにこやかにそう言った。私は目を丸くさせ、黙って続く言葉を聴くことにした。

「派遣さんは午前で仕事が終っちゃうくらい暇になるんだよ。それで、人手が余っちゃってねぇ」

「……じゃあ、解雇じゃないんですか?

 それはその業界ではよくある話だった。契約派遣社員は、季節工に似ている。仕事のある期間にだけ雇われて、その期間が終ったら一時的に解雇される、というそのスタイルは、仕事量に波のある製造業の会社ではよく見られるパターンだ。その場合……でも移動って、どういうことだろう。思いながらも、私は二人の説明を聞くことにした。

「今週から、こっちは暇になるんだけど、別の製造ラインが忙しくなってね。二直もあるくらいに。で、物流の方も手が足りてないんだよ。今は社員で何とか回してるんだけど、このまま行くと会社と心中するレベルになっちゃってねぇ」

 あははは、と笑いながら、暢気に上司入った。笑える話じゃないでしょうに、と思っていると、派遣会社の担当者が言った。

「それで、物流のアシスタントに、って言う話なんですよ。ああ、勿論中山さんには、二直はありませんから」

 二直、というのはつまり交代でする夜勤の事だ。ここの会社は滅多とないそうだが、世間にはそういうスタイル、二十四時間操業の工場も結構ある。私がかつて勤めていた会社の客先もそんな感じで、こちらは夜中は眠っていたいというのに、相手の都合でたたき起こされたことも二度や三度ではなかった。

「要するに、昼間の仕事を派遣社員でする、って、そういう感じですか?」

 実は年下の担当者に、私はちょっときついかもしれない口調で尋ねてみた。担当者は頷くと、

「まあ、そういうことですね。でも中山さんが物流がどうしても嫌だと言うなら……」

「出来たら行ってもらえるかなぁ……向こうの組長も、困ってたから」

 上司はやっぱり笑っていた。私は少し考えて、それからまた少し質問してみた。

「今日からこっちの仕事は減るんですよね?」

「まあ、そうだね」

「そうなると、勤務時間だけじゃなくて、人の頭数も減ったりするんですよね?

「そうですね」

 派遣の契約社員は時給労働者だ。就労時間があればあるだけ収入もあるけれど、なければないだけ収入もない。当面の生活に困るほど窮してはいないけれど、元の時給もそんなにいいという訳ではない。

「物流の仕事って、何をするんですか?」

 異動する事には特に異存はない。でも、やっぱりその辺りは気になるところだ。私は再び目の前の二人に質問してみた。それに答えたのは現場の上司だった。

「この間とそう変わらないような作業だよ。交代勤務だから、延長しても一、二時間くらいだろうし」

「この前、ですか」

 すると本当に荷造りなのね、と私はそんな風に納得した。今までの、座りっぱなしのルーティンと違って疲れそうだ。でも、特別難しいわけでも嫌なわけでもない。毎日半日で返される現場と、残業があるかもしれない現場。せっかく出勤しても半日しか仕事がなくて、その分給料もつかないんだったら、一日にプラスアルファがある現場のほうが、疲れちゃうけどいいか。私はそこでそんなことを思った。そうしてから、目の前の二人に答えた。

「わかりました。物流に行きます」

「良かった。中山さんなら引き受けてくれると思ってたよ」

 上司はそう言いながら、やはりにこにこと笑っていた。派遣会社の担当者はほっとしたかのような息をつくと、

「じゃあ今から行きましょう。あちらには話も通ってますから」

「……はぁ」

 ちょっと待て、そういうのは一応私に先に聞くことじゃないのか。何となく心の中でツッコミを入れながら、でもこういうところの工員さんはそんなようなものよね、と、変に納得して私は先達し始めた担当者の背を見やった。現場の上司だった、検査の組長は側らでにこにこ笑いながら、

「今までお疲れ様。物流に行っても、頑張ってね」

 そう言ってひらひらとその手を振っていた。狸親父だとかなんだとか陰で噂のあるその人が、私は嫌いではなかった。なので素直に、会釈でこう返した。

「お世話になりました」

 

 物流で私を待っていたのは、先日のあの担当者だった。要するにその人がこちらの組長だったと言うことなのだが。その人は私を見るとほっとしたように言った。

「いやぁ、助かったよ。中山さんが来てくれて」

「そうですか?でも私、荷造りってほとんどしたことなくて……」

 前回の仕事も、一応片付ける努力はしたものの、とても適当で、私はそのことを思って言葉を返した。返されたほうはそんなことには全く構わない様子の、先の上司よりは人間らしい(?)態度で、

「いやいや。リフトの免許まで持ってるでしょう?うちにはうってつけだと思って。こんなことなら最初からこっちに来てもらえば良かったかなぁ」

 そう言って機嫌よさ気に笑っていた。私も、とりあえずにこやかな顔を作って頭を下げる。

「お世話になります」

「こちらこそ。で、早速今からなんだけど、急ぎの荷物があって」

「……はい?

 組長はにこにこ笑っていた。私は顔を上げて、作っていた笑顔もどこへやら、の顔で聞き返した。

「昨夜誤品が発覚してね。荷を造ったのは一昨日の二直なんだけど、そいつ今日は計画有給で休んでるんだ。俺はこれからお偉いさんとまた会議でいないけど、これ」

 顔を上げた私にはそんな言葉と共に、一つにまとめられた数枚の伝票が手渡された。

「荷造りするときに品番と数に注意して、わからないことがあったらあっちの事務室に女の子がいるから、そこで聞いてもらえるかな?じゃ」

「……はい?

 とまあそんな具合に、初っ端からややこしい仕事を任されて、放置されてしまったのだった。ちりーん、と、そんな音が何となく耳元で聞こえた気がした。

 

 

 

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Last updated: 2006/01/28

 

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