続・カフェオレボウルでハイティーを

 

エスプレッソの熱い距離

 

第四話

 

兄、中山タカフミ、三十歳。性格「いい加減」それがその人間の主なデータだ。あのヤスヒロの友人だけあって考え深くもなければくよくよ悩みもしない。オマケにいろんなことに無頓着、という……要するにヤツとは似たり寄ったり、という事だろうか。思いつくことはいつもろくでもないことばかりで、周りの人間はいつもその思惑に振り回される。で、振り回した当人はそれを見て楽しんでいるところがある……困ったちゃんもいいところだ。

「ああー、人心地ついたー、ごっそさんっ。かのこ、茶ぁくれ」

兄がそう言って満面の笑みを浮かべたのは私達の部屋の、いつもの食卓の前での事だった。にこにこ笑って手を合わせるその様子は小学生と大差がないが、目の前にいるのは小学生でもなければ子供でもない。一端の大人の男、のはずだった。それが財布も持たずに、まるで自宅の縁側にでも出ているような適当な格好で、一体何をしているんだか。思いながら無言で、私は兄貴にお茶を出した。

兄貴は湯のみが出るとすぐにもそれを手に取り、ずずず、と、美味しそうにお茶を飲んだ。ついさっき、財布も持たないで駅で困っていたのと同じ人間には見えないくらい、兄はそこでくつろいでいる。私はそれをにらむように見て、聞いて当然の質問を投げた。

「一体何やってたのよ?財布も持たないで」

「ん?ああ……ちょっとな」

「ちょっとな?

ちょっとなですむ問題か。私はそう思ってじろりと彼をにらみつけた。兄貴はそんな私には構わない様子で、室内をぐるりと見回す。

「そう言えばあのばかは?仕事か?」

人のことが言えるばかですか、とツッコミを入れたいような科白を兄貴が吐く。私は溜め息をつきながらも、一応それに答えた。

「今日は会社の慰安旅行なんだって」

「ふーん……とか言って、実は若い女の子と会ってたりして」

言いながら兄貴がニヤニヤ笑う。私は憮然とした顔のまま、

「だったら何?それと兄貴とどう関係があるのよ?」

「関係あるだろうが。あいつはお前と一緒に住んでるんだぞ?俺は兄としてだな……」

「そういう前に私の質問に答えたらどうなの?お兄ちゃん」

にっこり、私は笑った。兄貴は、見るからに話題をどこかに逸らそうとしていて、それが手に取るように解る私に、そんなものが通じるわけがなかった。都合が悪くなるといつもこうだ。けれど詰めが甘いと言うか、あまりにそれがあからさまなので、大抵彼はそれに失敗していた。ヤスヒロの友人だけのことはある。類友もいいところだ。兄貴はちょっと黙った。そしてその目を泳がすと、

「いやだから……ちょっとな……」

「いい年した男が着の身着のまま、小銭しか持たないで駅で妹の迎えを待ってる理由が、ちょっと?」

追い込むと、兄貴はまた黙り込んだ。そして私から露骨に顔を逸らし、

「割といい部屋に住んでんな、お前ら」

「何しでかしたのよ?まさか食い逃げでもしてきたの?」

「……お前、自分の兄貴を何だと思ってるんだ?」

観念したかのように、兄貴はうんざりした顔で溜め息と共に私を見た。私はそれを見ても特に動じないで、

「だって他に思いつかないもの。悪さするって言ったって、万引きか食い逃げか……人が殺せるほど度胸もないし」

ひどい言い方かもしれないが、兄はそういう人間だ。根本的に悪いことが出来るようにはできていない。善人というより単純で、いわゆる罪悪感というものにあっさり押しつぶされる、そういうタイプだった。トホホ、と兄貴は小さく吐き出し、それから頭をばりばり掻いていらだたしげに言った。

「俺は被害者だ。まかり間違っても犯罪なんかするか。新聞に顔が載っちまうんだぞ?恥ずかしいだろうが」

「じゃあ一体、何があったって言うのよ?」

犯罪に走らない理由が、新聞に顔が載るのが嫌だから、というのがとても兄らしい。何となく思いながら私は更に問いを重ねた。兄貴はうう、とちょっと唸って、それから、観念したと言うよりは悔しそうな顔と声で言った。

「ちょっと……おかしいヤツに付きまとわれてるんだよ……」

「……おかしい?

何打それは、思って私は目を丸くさせる。兄貴は更に渋った顔で、

「なんつーか……逆恨みされてるっつーか、その……」

「何よそれ。何やらかしたのよ?」

「俺は何もしてねーって!

苛立つように兄が言った。私はその後に続く言葉に、丸くしていた目を更に見開く事になった。

「いわゆる、ストーカーってのに、着けまわされてる、んだよ……」

「ストーカー?兄貴に?

それは意外と言えば意外だった。というより、誰も思いつきそうにないことだった。言いにくそうに言った兄貴の顔は、それより前よりもまた渋くなっていた。私は首をかしげて、

「どうしてまた?

「どうしてって……それはその……」

「それって本当にストーカーなの?どういう人なのよ?」

そんな風にちょっとしつこく食い下がってみる。兄貴はうんざりしたような、怒った口ぶりで、

「うるさい!元はといえばヤスヒロのばかが悪いんじゃねーか、ああ?俺に聞くなそんなこと!

というよりこれは完全に逆ギレの類だった。兄貴は苛々した様子でぷいとそっぽを向き、私はその態度にちょっとあっけに取られながらも、続けてこう聞き返していた。

「ヤスヒロが悪いって……どうしてよ?」

が、兄はすぐには答えなかった。いらいらしている怒った顔が困った顔、というかしまった、と言わんばかりの顔に変わる。私はいぶかって、そんな兄貴の顔を覗き込むようにしてもう一度言った。

「どうしてよ?」

「いやそれは……その……」

兄貴はちらりと私を見た。そして、変な顔で変なことを聞いてきた。

「お前ら……付き合ってんだよな?

「……何よ、改まって」

「いや……本当にそういう認識で、いいのかと思って……」

何を今更言っているのか。私は眉をしかめて兄貴を見ていた。そういう認識でいいも悪いも……いや、多分いいはずなんだけど。思っている私に、小さな声で兄貴は言った。

「それがその……元は俺じゃないんだけど……」

「元?」

ごにょごにょごにょ、と兄貴は何やら小さく言った。私は何とか聞き取って、直後、叫ぶようにそれを繰り返していた。

「ヤスヒロの元彼女が㋳っぽいストーカーに付きまとわれてる?何よそれ!

 

だから俺は被害者なんだよ、という呟きから、兄貴の説明、というか愚痴は始まった。大事なところだけ要約すると、こうだ。ヤスヒロの元彼女が㋳っぽいチンピラに付きまとわれていて、偶然助けに入った。そうしたら以来目をつけられてしまい、どうしたものかと困っている。

「あの子、うちの先生の知り合いのスタイリストの下っ端なんだよ」

「兄貴のところの……先生?」

兄は現在、カメラマンの助手として働いている。一応広告関係らしい。先生、というのは言うまでもなくそのカメラマンの事で、兄の雇い主、上司だ。直接会ったことはないけれど、女性だということは兄に聞いて知っていた。兄貴は、ことのあらましを話してしまうと、腹でもくくったのかやけになっているのか、あーあーと合間に入れながら、疲れたように言葉を垂れ流した。

「あのばかが食うにつめてホストやってた頃、俺があいつの店紹介したんだよ。そしたらどういうわけかあの二人、付き合い始めて……」

それと今回の事がどう関係あるのか、と思いながら、私は黙ってそれを聞いていた。兄貴はやけくそっぽく、ちょっと荒っぽい汚い口調で続けた。

「急に引っ越していなくなったから居場所教えろ、とか食いつかれたりして、結構大変だったんだぞ?これでも」

「へぇ……そうなんだ……」

とりあえず私はその話を一通り聞く事にした。とは言っても素直に全部聞けるような事でもなかったけれど。兄貴は、そんなことを感じている私にはお構いなしでそのまま話を続けた。

「で、この間、そのスタイリストの人と一緒に仕事して……たまたまなんだよ、本当に」

「……たまたま、何なのよ」

さしもの兄貴も、私の気の方はさておいても、彼女のことはやはり話しにくいらしい。言い訳がましいようなことを間に挟んで、兄貴の話は続いた。

「帰り道が同じだから、って彼女の上司に送ってくように頼まれて……そん時に、勘違いされたっつーか……それで……」

「それで兄貴も、付きまとわれてるってわけ?」

話がなかなか進まないので、私はそう言って兄貴に聞き返した。兄貴はトホホ、と漏らしながら首をがくりとうなだれて、

「そんなところだ。結構散々な目に会ってんだぞ?これでも」

「そんなの、日ごろの行いが悪いからでしょ」

散々な目に会っている兄貴に対して私は冷たく言い返してやった。日ごろの行いを考えれば、原因はどうあれこの人も多少は苦労してもらわないと、周りの人間も腹の中が治まらないと言うものだ。多少の酷さは勘弁してもらわないと。そんなことを思っていた私を、兄貴は恨めしげににらみつける。無視して、私は言った。

「で?

「……で、って?

「これからどうするのよ?警察に行くとか……対策、取ってないの?」

兄貴は、その問いかけにしばし黙り込んだ。どうやら、ただ逃げているだけで何もしていないらしい。そしてあはは、と乾いた笑いを放つと、その場でいきなり土下座して言った。

「悪い、ちょっとの間、匿ってくれ」

「か……匿ってくれ、ってね……」

情けない声と態度の兄を目の前に、私はちょっと怯んだ。というか、その展開は見え見えだったし、できればご勘弁願いたい類のものだった。と言っても、

「他に行く宛もないし、今日だって財布も持ってこられなかったんだぞ?なぁ、助けると思って!頼む!

肉親でなくても、顔を知った人間がこんな状況に置かれたら、普通は放置できないだろう。私もそれは同じだった。相手がろくでもない兄でも、それは変わりはない。ないけれど、でも、

「……ここに来るまでに、つけられたりとか、してないわよね?

私だって一応、若い独身女性なのだ。ストーカーの対象が兄貴でも、そのそばにいる私に累が及ばないとか、全く影響が出ないとは限らない。わが身可愛さと兄貴の身の安全を天秤にはかけられないけれど、でも、

「ここのことが向こうにばれてたら、匿ってても意味、ないわよ?」

それでもここしか宛がないなら、と私はその時そう思っていた。確かにトラブルメーカーの兄ではあるが、放っておく事はできなかった。兄貴は顔を上げると、

「多分大丈夫だ。ここに厄介になってる間に、あっちの事は何とかする」

「……解った」

しぶしぶっぽく私が言うと、それまで必死だった兄貴の表情が緩んだ。兄貴はぱっと晴れやかな顔になると、

「助かった!恩に着る!絶対、迷惑はかけないから!

「って、もうかかってるんだけど……電車代とか……」

「そんな硬いこと言うなよ!かのこ。俺はお前のお兄ちゃんなんだぞ?」

晴れやかな顔になった兄貴の態度は普段のそれに戻っていた。見事なまでの変わりように、私はちょっとうんざりしながら溜め息をついた。現金と言うか、何と言うか。とは言え、無視ができる状況でないのも確かだ。こんな兄貴でも、ふらっと出て行った先で刺し殺されたりリンチを受けていたりしたら、それはそれでいたたまれないものがある。やれやれ、仕方ないか。私は思って目の前の、にこにこの兄貴を見ていた。匿ってもらえる事になって安心したついでに、何だか機嫌の良くなった兄貴は、調子に乗ってイキナリ、こんなことを言い出した。

「で、お前ら、いつ結婚するんだ?」

何となく、選択を誤ったのか、こんな男刺し殺されでもしたほうが良かったか、その言葉にそんなことを感じた私だった。

 

「かのこー、ただーいまー」

「おぅっ、おかえりっ、ヤスヒロ」

その夜、やや遅い時間にヤスヒロは帰宅し、そんな彼を私より先に出迎えたのはのんきな兄貴、タカフミだった。テレビの前で家計簿をつけていた私は玄関に出ることもなく、耳だけ二人のやり取りに向けていた。

「って……タカフミ?何、来てんの?」

「おう、邪魔してる」

「いやそれはいいけど……なんでまた?

みやげ物の入ったと思しき白い袋をがさがさやりながら、ヤスヒロは私と兄貴のいるちゃぶ台のそばまでやってきた。兄貴はへらへら笑いながら、

「いやぁ、ちょっとなー」

「ストーカーに追い回されてるんだって」

そのへらへら笑いをぶち壊すように私が言うと、ヤスヒロはその顔に驚きを浮かべ、

「ストーカー?こいつが?なんでまた」

とたんに兄貴は渋い顔になる。私はそばにいる二人を見ながら、そんな渋い兄貴の変わりでもするように、さくっと事のあらましをヤスヒロに説明した。

「上司の知り合いのスタイリストさんのところの女の子の彼氏と間違われたんだって、そのストーカーに」

「そりゃまた……災難だな」

「あんたの元彼女らしいわよ、その子」

その一言でヤスヒロは凍った。そして、

「……かのこ?

何となくヤスヒロの考えていることはわかった。というか、男というのは浅慮というか、私を見くびっていると言うか、私がそんなに心の狭い人間だと思っているのか。私はちょっと呆れた。今はそれどころじゃないだろうに。思う私を余所に、そこで兄貴が言った。

「まあとにかくそういうことだから、しばらく厄介になるわ、よろしくな」

「よろしくなって……おいタカフミ!どういうことだ!

血相変えてヤスヒロが兄貴に食って掛かる。兄貴はわはは、とか笑いながら、

「だってかのこはいいって言ってくれたぞ?いやぁ、やさしい妹だよなぁ」

「そうじゃなくてどうしてお前があの子とそんなことに……」

「そんなことって……俺はただ㋳っぽいストーカーに勘違いされただけで別に何も……」

「㋳っぽいって……お前そんなトラブルうちに持ち込む気か?ちょっ……おいかのこ!本当にこいつ匿う気か?

どうしてかヤスヒロは半ばパニック状態だった。私はそれをほぼ無視して、

「仕方ないでしょう?理由はどうあれ、ストーキングされてるのよ?兄貴」

「けどなぁ!

「見殺しにできないでしょ?」

「そりゃそうだけど……実家に帰るとか、他にも何か手か……」

「何よ?あんた兄貴が酷い目にあってもいいって言うの?」

何をこの男はうろたえているのだ。そんな気分で私はヤスヒロに尋ねていた。ヤスヒロはうう、と小さく唸ると、

「いや……けど、なぁ……」

「ヤスヒロ、お前がそんなに冷たいヤツだったとは!見損なったぞ!

兄貴は兄貴でいつものように調子に乗って、演技がかった大袈裟な身振り手振りでそんなことを言った。ヤスヒロは困り果てた顔になって、

「……まぁ……かのこがいいって言ったなら……いいけど……」

「じゃあいいじゃねぇか。しばらくよろしくな?兄弟」

わははは、と笑いながら兄貴はうなだれたヤスヒロの肩をたたく。ヤスヒロは恨みがましい目でそんな兄貴をにらみつけた。二人がかち合うと行われるいつものコミュニケーションを、私は黙って眺めていた。そのうち、ぴぴっ、という電子音が室内に響いて私は立ち上がった。それはお風呂の沸いた合図だった。二人はいたずら小僧みたいにひじで相手をつついたり背中をたたいたりしながらそこで話していて、私はそれを見下ろすようにして言った。

「お風呂、先に入ってもいい?」

「おう、入って来い入って来い。こいつが覗かないように、お兄ちゃんがちゃんと見張っといてやるからな」

兄貴はご機嫌らしかった。不機嫌なヤスヒロはそう言った兄貴をにらみつけると立ち上がって、リビングからお風呂に向かう私を追いかけてきた。

「かのこ……あのさ……」

「何?

お風呂場に入ってお湯を止めると、そこまでついてきたヤスヒロは変にあわてて弁解めいたことを言った。

「オレは……今はあの子と何にもないし……その……」

「だから、気にしてないってば」

やっぱりそれを気にしてびくびくしているのか。思いながら私は言った。ヤスヒロは申し訳なさそうに小さくなって、

「いやでも……気に、とか……」

「今更?してないわよ」

変なの。思って私はそう言った。ついでに少し笑うと、ヤスヒロはそこで露骨にほっとした顔を見せた。そして、

「そうか……そうだよな、そんなこと、いつまでも……」

「そうよ。かのこさんをそんなに見くびってもらっちゃ困るわよ」

「……だよなぁ、オレがほれた女だもんなぁ」

そういうとヤスヒロはへら、と変な顔で笑った。私もそれに笑い返して、

「とにかく、あんなでも兄貴も、大変な目に会ってるみたいだから、しばらく泊めてもいい?

「かのこがいいならオレは……あーでも、ちょっと嫌かも」

言いながら私達はお風呂から脱衣所に移動した。そして、兄貴とは幼馴染で仲がいいはずのヤスヒロの口から出た言葉に、私はちょっと首を傾げた。

「え?どうして?

「だって邪魔じゃん、せっかく二人で住んでるのにさ」

そこに出てきた科白はいつものばかばかしいようなものだった。なので、私はいつものように冷たく返した。

「二人で住んでるから、何よ?」

「何って……だってせっかく二人っきりなのに……」

そう言うヤスヒロを私はぐいぐい押して脱衣所から追い出す。ヤスヒロは押されながら、

「え??なんでオレ、排除されてんの?」

「今から風呂に入るってさっき言ったでしょ?聞こえてなかった?

「ああ、だったら時間食うし、俺も一緒に入る……」

「お兄ちゃーん、ヤスヒロ君が早速、風呂覗くって言ってるのー、何とかしてー」

あまり感情のこもっていない棒読みの声で私が言った。兄貴は、変なところが兄貴っぽくできている。普段はちゃらんぽらんの癖に、こういう時にはどういうわけか兄らしい行動を取るのだ。で、

「何!ヤスヒロお前、まさか常日頃こんなことしてやがんのか!人の妹を何だと思ってやがる!

ばたばたと足音も荒々しく血相変えて兄貴がやってくる。ヤスヒロはそれに驚いて振り返ると、

「待てタカフミ、オレはかのこの彼氏だ、同棲までしてるんだぞ。風呂くらい……」

「風呂くらい?風呂くらいだと!!お前、一緒に住んでるだけならまだしも、風呂くらいとかぬかすのか!ちょっとこっち来い!

そのまま、ヤスヒロは脱衣所から兄貴に引きずられていってしまった。見送る、というほどの距離でもない場所でそれを一通り見て、私はやれやれと息をついた。

「ああいうことが言えるってことは、それなりのオトシマエはつけてくれるんだろうな、ヤスヒロ。ああ?」

「それなりのオトシマエって、何だよ……」

やたらと興奮する兄貴に困っている、というか呆れているヤスヒロの声がする。何となく、ざまぁ見ろ、と思いながら私はお風呂に入った。

 

翌日、兄貴はヤスヒロを連れて一旦自宅に戻ることになった。財布も無しでは部屋から出ることも叶わないし、いくら匿われているからとは言え引きこもっているわけにもいかないのだから、というわけで。

「ついでにケーサツと、不動産屋でも回ってくるわ」

「不動産?」

「引越しすりゃ、今付きまとってるヤツ完全に撒けるだろ?」

兄貴の物言いはふざけてはいなかった。普段ちゃらんぽらんでいい加減なのに、やっぱりそのことに関しては散々な目に会っているらしい。同情というか心配しながら、私はそんな兄貴の言葉を聞いていた。何だかんだ言っても兄貴も、そして付き添いで出かけるヤスヒロもいい年の大人だ。これ以上のトラブルを喜んで起こすとは考えにくい。

「気をつけてよ。何が起こるか解んないから」

何となくそんなことを言うと、兄貴はにやっと笑って言った。

「心配すんな、今までだって何とかなった、これからだって何とかなるさ」

言っていることはいい加減だったけれど、その顔はふざけた三十男、ではなくて、お兄ちゃんのものだった。私はちょっと安心して、うん、と短くそれに返した。その側ら、ふて腐れ気味なのはヤスヒロである。何しろ兄貴には財布がないのだ。ヤスヒロの付き添い役というのは要するにその財布代わり、と言ったところだった。

「ったく……なんでオレがお前の足代なんか……」

「しょーがねーだろうが。こちとら文無しなんだ」

「威張って言うな。昨夜だってせっかくかのこに買ってきたマグロの切り落とし、がつがつ食いやがって……」

えへん、と子供みたいにふんぞり返った兄貴を、恨みがましくヤスヒロがにらんでいる。㋳がらみのストーカーに付け回されていて大変だと言うのに、その光景は何とも平和に見えて、私はちょっと笑ってしまった。

「何、かのこ。何かおかしいか?」

笑う私に尋ねたのはヤスヒロだった。笑われていることが気に食わないらしい。私は変わらない顔のまま、

「ううん、何も。じゃ、気をつけてね」

そう言って二人を送り出し、

「いいなあヤスヒロ、お前毎日こうやってかのこに送り出してもらってんだろ?

「まさか。お前自分の妹がそういうしおらしい性質じゃないって、知ってるだろ?」

「まーなー。朝から叱られてるほうが、想像つくって感じだよなー」

とか何とか言いながら、送り出された二人は出かけ、勿論、そう言われた私の機嫌の良い微笑みは、聞くなり何処かへ行ってしまった。

 

その日、兄貴とヤスヒロが戻ったのは夜もすっかり更けた、自分の食事も済ませて二人の夕食を作ってお風呂も済ませて、寝てしまおうかと思っていた、そんな頃だった。遅くまでうろうろしていたにしてはやたらに元気な兄貴と、何だかその兄貴の分まで疲れを背負い込んだような疲れたヤスヒロの帰宅に、何となく私はこう尋ねた。

「二人とも……何して来たの?

「あ?部屋行って財布とケータイと通帳とって、ついでに警察と不動産屋行って、そしたら例のストーカーの舎弟とかにからまれて……」

「ストーカーの舎弟にからまれた?」

けろっとした顔で言う兄貴の隣、ヤスヒロは疲労困憊で更に恨みがましい顔をしていた。兄貴はそんなヤスヒロには構わず、やっぱりけろっとした顔で、

「でもそいつらは警察に何とかしてもらったし、跡着けられてもないから、お前に累が及ぶ事はないと思うぞ」

そう言ってさっさと靴を脱ぎ、まるで自分の部屋にでも帰ってきたようにリビングのソファに歩み寄ると、

「あー腹減った。かのこ、メシは?」

そんな具合だった。私は兄貴はとりあえず放置して(だって元気だし)どこかぐったりしているヤスヒロの顔を覗き込んで、尋ねた。

「ヤスヒロ……大丈夫?何かあったの?」

「何かも何も……」

はぁぁ、とヤスヒロは大きく溜め息をつく。そしてそのままその場でしゃがみこんだ。私はさっき兄貴が言っていた事を思い出し、

「……散々な目にあったわね」

㋳っぽいストーカーの舎弟に絡まれた、なんて、一口に言ってしまえても一口で片付く問題ではないだろう。私はそれを思ってヤスヒロに同情した。警察が何とかしてくれた、のはいいけれど、その警察に助けを求めるまでに、何もなかったとは考えにくいし。ヤスヒロはこくこくと首を縦に振り、私は彼の苦労を思って何となくしみじみしていた。そんな私達のところに、更に追い討ちをかけるような兄貴の声が響く。

「あ、オレ、明日早いから、飯済んだら風呂入るわ。それから、やっぱあの部屋引き払うから、しばらくここに住むぞ。いいな?

その声に私は振り返る。しゃがみこんでぐったり気味だったヤスヒロはその言葉に更に肩を落とし、弱弱しい声でそれでも何やら言おうとした。

「タカフミ、お前な……」

「ん?何だ?ヤスヒロ。聞こえねーぞ?

さしものヤスヒロも、このしっちゃかめっちゃかの兄貴には叶わないところがあるらしい。そんなことを思っているとヤスヒロはおもむろにそこに立ち上がり、

「……もういい、お前をかばった俺が馬鹿だった」

「は?何だよイキナリ」

「かのこ、タカフミが付きまとわれてるストーカーってのは、消費者金融の取立て屋だ」

珍しくヤスヒロが怒っていた。が、私はそんなことよりもその発言にびっくりしていた。立ち上がったヤスヒロを見上げ、思わず私もその場で叫ぶ。

「消費者金融の取立て屋?」

途端に、兄貴の顔はしまったと言わんばかりの表情になる。ヤスヒロは相当怒っているらしい。立ち上がると足音も荒々しく、ちゃぶ台について勝手に夕食をとり始めた兄貴のそばに歩み寄った。

「おいヤスヒロ、お前なんて事を……」

「確かにこいつを追い回してるのはそれっぽいチンピラだけどな、昨夜聞いたらそんな単純な話じゃないんだとよ」

「昨夜?」

私もそんなヤスヒロに続いてあわてて部屋の中へと戻る。兄貴はうう、と唸ると、自分をにらむように見下ろしている兄貴を見上げ、てへ、とか言いながら強ばった笑みを浮かべた。

「でも、発端はそこに変わりはないだろ?」

「どういう事よ?消費者金融って……兄貴?」

ここで、私の兄への信用はガラガラと音を立てて崩壊しつつあった。出かけには、何だかんだ言っても大人で、やることはきちんとやるんだな、なんて思わせたくせに、そう思うと怒りがふつふつと沸いてきても、おかしくない気がした。兄貴は私にも詰め寄られて、こわばった笑みのままで顔を青くさせた。そして、

「いやそれは、その……」

「彼女の引越し代、借りたんだよなぁ?お前がそこで」

意地の悪い、というか明らかに復讐をし始めている声色でヤスヒロが言った。私は更に青くなる兄貴に、

「彼女の引越し代?どうして兄貴が?」

「いやそれは……その……」

兄貴はしどろもどろになる。私は答えを聞こうと、じっと兄貴を見つめていた。僅かの間、室内が変に沈黙する。にらまれて、息までつめていた兄貴がとほほ、とか言いながらがくりと肩を落としたのは、すぐのことだった。それを見て、私はもう一度兄貴に詰め寄って尋ねた。

「どういう事よ?どうして兄貴がヤスヒロの元彼女の引越し代なんか……」

「悪いか!手持ちがなかったんだよ!銀行じゃ手続きも面倒だし時間もかかるし……言っとくけど、その金ならもう返したからな!あいつらは借金取りでオレに付きまとってるんじゃないからな!

やけくそになったように兄貴が喚いた、もとい答えた。私はあっけに取られてそんな兄貴を見ていた。今朝のあれは何だったのだ、感心して損した。そんな気分だった。兄貴はそんな私を恨みがまし気に見返し、聴いてもいないのにこんなことを口走った。

「お前だって知ってる顔の相手が困ってたら、手の一つも貸すだろうが。俺がそうしてどこが悪いんだよ?」

「その借金取りが、また彼女のストーカーになっちまって、こいつに居場所を教えろって付きまとってるんだとさ」

いい気味だ、と言わんばかりに言ってヤスヒロはようやくそこに腰を下ろした。私は何が何だかちょっとわからず、思わずこんなことを兄貴に尋ねていた。

「兄貴……もしかしてその子と付き合ってるの?」

「おいかのこ、オレはお前の兄貴だぞ?なんでお前の彼氏の元彼女とのうのうと付き合えるんだよ?それに、オレはヤスヒロのお下がりなんてごめんだ」

やけくその兄貴は当人がいないのをいいことに、ちょっと酷い言葉でそれを否定した。ヤスヒロは苦笑すると、

「お兄ちゃんだもんな、ほっとけなかったんだよな?泣き付かれて」

「泣き付かれたわけじゃないけど……まぁな」

笑うヤスヒロをにらんで兄貴はそう言い返す。私は特に何も言えず、びっくりしたまま兄貴とヤスヒロを見ていた。ヤスヒロは兄貴をやり込められて機嫌を良くしたらしい。昨夜とは逆に、今度は自分が相手をいたぶるように笑っていた。何だかとんでもなくややこしいことになっているようだ。私は頭の中でそのストーカーとやらのことを少し整理することにした。とは言え、整理したところでことが解決する、というわけでもないのだが。

「それで結局……何がどうなってるの?今」

整理のつかないまま、私はそんな風に兄貴に尋ねた。兄貴はふて腐れて、

「だから今言っただろ?しばらく泊まる、って。引っ越し先が見つかったらとっとと出てくから、心配すんな」

そう言って突然立ち上がった。そして、どかどかと足を踏み鳴らしてそこから歩き出す。

「ちょっと兄貴、どこ行くのよ?」

「風呂。オレだって疲れてないわけじゃないしな」

逆切れ、そんな感じだった。私達はそんな兄貴を見送り、

「あー、ちょっとすっきりした」

「って……あんたね……」

妙ににこやかな顔でヤスヒロは言い、私はそれを少しにらみつけた。そして、

「今のはないんじゃないの?確かに……とんでもないことしてくれたけど」

私には、兄貴の気持ちがちょっと解ってしまって、とんでもないのに違いはないのに何となく庇っていた。ヤスヒロは苦笑して、

「まーな。でも多少懲らしめてやらないと、またあいつ図に乗るぞ。妹なんだから解るだろ?かのこにも」

「まあそれは……そうだけど」

「オレも……あいつの気持ちが解らないとは言わないよ。あいつ昔っから、年下に弱いもんなぁ」

ヤスヒロの言葉に私は目を丸くする。それは初めて知る、兄貴の一面だった。考えてみたら、兄貴の女の子の趣味なんて聞いたこともなかった。

「あ、そうなの?

「そうなのって……だってそうじゃん。昨夜だってお前、異様に守られてたじゃん。シスコンだよなぁ」

ニヤニヤとヤスヒロは笑っていた。私は目をしばたたかせ、それは何だか嬉しいようなはた迷惑なような、そんな気がするとちょっと思った。この年で今更お兄ちゃんに守ってもらおうとか甘えようとか、そういうことも思わないし(最も子供の頃から甘える気なんて全くなかったが)かと言ってやたらに手出しされても困る。でも、兄貴は兄貴だから……やっぱりちょっと嬉しい、かな。そんなことを思って黙っていると、ヤスヒロはニヤニヤ笑うのをやめ、

「何……変な顔して黙り込んで」

「別に……変な顔は……」

「まさかかのこもブラコンとか……そんなことないよな?

そう言ってヤスヒロは軽く笑った。私は、図星かしら、と思ったけれど何も言わず、そばで笑う彼をただ見ていた。

ぴんぽーん、と、ドアホンが鳴らされたのはその時だった。時計は日曜の、まだ深夜とは言わないまでも、夜遅い時間を示していて、その音に私とヤスヒロは顔を見合わせ、揃ってその目を丸くさせていた。

「誰だろ……こんな時間に……」

私が立ち上がろうとすると、その手を掴んでヤスヒロが止めた。ヤスヒロはさっきとは全然違う、どこか厳しい顔つきになって私を見上げ、

「オレが出る。かのこは出てくるな」

「え?どうして?

「昼間のヤツらがつけてきたのかもしれないだろ?」

言葉の後、ヤスヒロは立ち上がると振り返りもせずに玄関へと歩き出した。私ははっとして、

「って、警察に突き出してきたんじゃなかったの?」

「突き出してはないよ。助けてもらって、そこにいたヤツはしょっ引いてもらったけど」

「……何よそれ、どういう事?」

累は及ぼさない、とか何とか言っていたくせに、兄貴め、とうとうここまでストーカーを連れてきたのか。そんな気分で私は言った。ヤスヒロはやっぱりこちらを見ずに、

「とにかくお前はそこにいろ。出てくるなよ、いいな?」

そう強く言ってインターホンの受話器を取った。

「もしもし」

何かが起こる、かしら。私は戦慄しながら、インターホンに呼びかけるヤスヒロをじっと見ていた。もしかしたら今にも玄関のドアが蹴破られて、柄の悪い男達が何人もなだれ込んでくるかもしれない。そう思うと無意識のうちに私の体は強ばった。ヤスヒロはインターホンからの答えを待つように、しばらく真剣な目で黙っていた。が、

「え?っ……ちょっと待って、どうしてここに……」

そう言うととたんに驚いた顔になり、すごい速さで私へと振り返った。まずい、とばっちり書かれたような顔で彼はその場で瞬間混乱して、そして次には私に背を向け、こそこそと何やら話し始めた。

「あっ……いや、びっくりして……へ?タカフミ?」

何かは起こっていた。何事かしら。大変そうな相手じゃなさそうだけど。私は肩の力を抜いて、ちょっとほっとしながらヤスヒロの様子を見ていることにした。どうやら知り合いらしい、しかも兄貴とヤスヒロの共通の。私の知らない人かしら。にしても、どうしてこんな時間にわざわざうちに?思っているとヤスヒロはインターホンの受話器を下ろし、やたらと大きな溜め息をついた。そして、脱力しきったように肩を落とし、振り返って、今度はぎこちない笑みを浮かべた。

「かのこ……あのさ」

「何?どうしたのよ?

「……お客さん、なんだけど」

てへ、とヤスヒロが笑う。見るからにわざとらしい上、何のためにしているか解らない笑い方だった。不自然なヤスヒロに、私は言葉を返す。

「こんな遅くに?」

「オレだけじゃなくて……タカフミにも用があるみたいなんだ。入れても……ていうか入れてあげないと、まずいんだけど」

変な言い回しだった。入れてあげるって、部屋に、ってことよね。でもその丁寧と言うか妙な言葉遣いは何かしら。そう思った私は不審の目でヤスヒロをにらんだ。ヤスヒロは額に変な汗をかきながら、泣きそうな目で、それでも強ばった笑みをキープしていた。そんな彼に、私はこう尋ねた。

「誰?」

「い、いくらマンションの敷地内だからって、こんな遅くに外に出しとくわけにも、いかないだろ?」

「だから、誰?」

「向こうは困ってるって言うか、一番の被害者なんだよ。それに、余所に頼れそうなところもないし……タカフミとも連絡がつかないって、それでここに何とか辿り着いて、その……」

「だから誰よ?」

いや、ヤスヒロの弁解で大体の予測はもうできてきた。それでも、やつはその人が誰なのかを言おうとしなかった。そして重ねてこう言った。

「入れてあげても……いいよな?

強ばった笑みが震えていた。私は、それににっこり笑って返した。

「そうね、外は物騒だもんね。いいわ、私が出てあげるから」

「へ?

インターホンの前でヤスヒロは固まっていた。私はさっと玄関に歩み寄り、鍵を中から開け、そのドアを中から開けた。

「あの……こ、こんばん、わ……」

いたのは、私より何歳か若い、小柄で華奢な女の子だった。彼女は少し怯えたような顔でそこにいて、私はその姿を確かめると、もう一度ヤスヒロへと振り返った。が、ヤスヒロは、インターホンのそばにはいなかった。私がドアに移動するよりも速いスピードでキッチンに移動し、ガチャン、と音を立ててガスに火を入れていた。

「ま、まあ立ち話も難だし、夜は冷えるからさ。お茶でも飲んでゆっくり話せばいいよ、な?二人とも」

そう言ったヤスヒロの姿は私の位置からは見えなかった。私はもう一度玄関の外、そこで小さくなっている彼女を改めて見、僅かの間何も言えずに固まっていたのだった。

 

 

 

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Last updated: 2006/04/24

 

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