続・カフェオレボウルでハイティーを

 

エスプレッソの熱い距離

 

第五話

 

「あのっ、せ、先日は本当に、失礼しました、って言うか、そのっ……」

お客様はそれからすぐ、部屋の中に入ってきた。そしていつものちゃぶ台の前に座ると、開口一番私に向かってそう言った。いたのは、他の誰でもない。例ストーカー被害者である彼女だった。ヤスヒロの元彼女で、いつかの早朝ここに怒鳴り込んできた彼女はその時とは打って変わった態度でとにかく謝りっぱなしだった。ヤスヒロがお茶を出せば恐縮して、勧めた座布団もとんでもないと拒む、そのくらいだ。私は、どうしてこういうことになったのかしら、と疲れた頭でちょっと思った。そんな私の目の前で彼女は必死に、言いつくろうというか説明するというか言い訳をすると言うか、そんな感じだった。

「ほ、本当は来るつもり、なかったんです。かのこさんには前にもご迷惑かけてるし、ヒロ君……じゃなくて、高町さんにも……でもあの、中山さんと連絡もつかないし、私、他にどうしたらいいのか解らなくて……」

彼女は涙ながらにそう言って、何度も何度も頭を下げる。私は返す言葉もなく、お茶の支度をしたヤスヒロを何となく見やった。が、ヤスヒロはちょっと困った顔になって、そっぽを向いただけで、何か説明しようとはしなかった。何だその、ヒロ君、てのは。思いながら、私は多分不機嫌な顔をしていた。自分の顔は見えないからわからないけれど、ヤスヒロの顔つきでそれは充分わかった。ちゃぶ台の上には三人分のお茶が乗って、誰もそれに手をつけようとはしなかった。というか、できなかった。微妙な対峙、そうとしか言いようのない状況だった。彼氏と、彼氏の元彼女と、私。しかも彼女は今現在、ストーカー被害を受けていて、他に行き場がない、という。別に、彼女が嫌いとか気にに食わないとか、そういうことは言わない。言わないけれど、でも、それが微妙な事に変わりは無かった。私は、何と無く溜め息をついた。それが何かの合図にでもなったのか、ヤスヒロはおもむろに立ち上がり、

「そ、そう言えばお茶請け、何かあったっけ……」

とか何とか言ってその場を離れた。後に残ったのは、それまでよりも変に緊迫した空気と、私と彼女の二人だった。知り合いの女の子がストーカー被害に合っていて、夜遅くに頼ってきた、というだけのシチュエーションなら、もう少しどうにかなりそうな空気は、更に強ばって、私はどうしたらいいのかその場で考えた。時計は、そろそろ十二時近い。こんな時間の訪問者というのは非常識だと思うけれど、今ここからたたき出すのも危険だ。何しろ状況が状況なのだから。思う私を見て、おずおずと彼女は口を開く。

「あの、本当に……中山さんと会えたら、私、帰りますから……」

帰るって言ったって、こんな夜中に一人で女の子を外に出せるわけ、ないでしょうが。思いながら私はまた溜め息をついた。そして、仕方ないなあと思いながら言った。

「でも貴女、ストーカーに追い回されてるんでしょ?」

「いえあの……追い回されてる、って程でも、ないです……この頃は」

「この頃は……ですか……」

話す口振りや顔つきから、彼女が本当に困って怯えて、そして申し訳ないと思っていることが解る。そりゃ、怖いわよね。変な男に付きまとわれる、なんて。若い女の子だから、命はおろかもっと別の危険だって沢山あるし。相手が㋳っぽいって言うなら、それこそ何をされてどうなるかわかったものじゃないし。まあ㋳と言うよりはチンピラのようだし、消費者金融の取立て屋のようでもあるのだけれど。彼女は涙ぐんで、その場でまた頭を下げた。怖い思いをしてきたんだろうな、心細いんだろうな。自分がこんな目に会ったらどうするんだろう。大人しく実家に帰って、ほとぼりが冷めるまで引っ込んでるかしら。それが一番安全と言えばそうだけど。思いながら、私はこんなことを聞いていた。

「大方のあらましは兄貴に聞いたんだけど……」

「あの……お兄さん、ですか?」

「うん……ほら、兄貴がお金借りたサラ金の取立て屋が、貴女に付きまとってるんでしょ?」

彼女は目をぱちくりさせた。あれ、何か変な事聞いたかしら。私は思って首を傾げた。彼女はそれからすぐにはっとなって、逆に私にこう質問した。

「お兄さんって……お兄さんって、中山さんですか?」

「……え?

「ごっ、御免なさい!私そんな、中山さんがかのこさんのお兄さんなんて知らなくて!

「……あれ?

言葉と同時に彼女はその場に手を付いて頭を下げる。私は固まったまま、ぺこぺこし続ける彼女をしばらく見ていたのだった。

 

数分後、お茶請けを掘り出していたヤスヒロと私と彼女、穂波ななこさんはまたあのちゃぶ台について三人で顔を突き合わせていた。

「もう少ししたら兄貴もお風呂上がると思うから。ごめんなさいね、お待たせして」

「いえ、そんな……私の方こそ突然……それにまた、かのこさんにご迷惑おかけしちゃって……」

「いいのよ、私は。ねぇ?ヤスヒロ」

「うんいやまあ……そうだな」

私と彼女はすっかり、でもないけれどそれなりに打ち解けていた。ただヤスヒロだけがその場で、変にギクシャクした様子で座っていた。

「本当に、助ける、なんて言っといて、結局振り回すだけ振り回すなんて兄貴らしいと言うか、呆れた話よねぇ」

「そ、そんな……本当に、お兄さんには私、お世話になりましたから……」

「あ、いいのいいの、あんな兄貴かばわなくても。面倒見はじめたなら、最後までちゃんと見てあげるのが男ってもんでしょ?情けないったら」

からからと私は笑った。笑って、お茶請けに出てきたココアのクッキーをつまむ。しいんと、室内はそこで静まり返った。彼女は神妙な顔をしているし、ヤスヒロはヤスヒロで、気の利いたことが言えるような心境でもなさそうだった。私は黙ってクッキーをぱりぱりと食べて、それからちゃぶ台の上のカップを見た。お茶は、珍しく、出がらしの緑茶だった。いつもならこんなのを私が出すとぶーぶーのヤスヒロなのに、今日はそんなことにまで気が回っていないような、そんな感じだった。気持ちは解るけど、これはないわよね。仮にもお客さんに出すんだから。クッキーを食べながら私は思い、そしてすぐに言った。

「コーヒーが飲みたいなー」

「……あっ、え?こ、コーヒー?」

誰にとも無く言った言葉の直後、逃げるチャンスでも掴んだと思ったのかヤスヒロはそう言って立ち上がった。解りやすいヤツ。思いながら私はそんな彼を黙って見送る。そそくさとキッチンに入って、ヤスヒロはお湯を沸かし始めた。ついでに、

「そう言えばまだ口の開いてないパックがあったんだ。開けようか?

なんて言ってきたが、私はそれに返答しなかった。コーヒーというヤツは開けたてが飛び切り美味しい、というのはいつか聞いて知っていたけれど、あんまりさくさく開けると湿気が入って良くないんじゃなかったかしら。いつもはそういうことにもうるさいくせに。思って、私はフン、と鼻を鳴らした。腹が立つと言うか気に入らない。何がと問われると「これ」と答えられるものは何もないのに、そんな気分だった。

「うぉーい、風呂、空いたぞー」

そんなタイミングでのんきな声が響く。私は振り返るのも億劫で、黙ってただクッキーを食べていた。向かい合うように座っていた穂波さんが立ち上がったのはその時だった。

「なっ……中山さん!

「えっ……な、ななちゃん?!

腰にタオルを一枚巻いただけ、の大層くつろいだ格好でのしのしリビングへと出てきた兄貴はその姿を見るなり驚きの声を上げた。その後のやり理取りは解りやすくて、聞くでも無しに聞いていた私は少し疲れてしまった。

「どっ、どうしてここに?っていうかこんな時間にうろうろして、平気なの?

「どうしてって……だって中山さんに連絡つかなかったから、それで私っ……」

背中で聞きながら私は席を立った。ちょうどその時、キッチンからヤスヒロが顔を出して、

「何かのこ、どこ行くんだ?

それに答えず、私は無言であごをしゃくった。その先には、私の部屋に続く小さな階段が見える。手に持ったトレイに三人分のコーヒーを載せたヤスヒロは目をぱちくりさせ、何事なのか解っていないような顔で、それでも頷いて歩き出す私に続いた。

 

私達の暮らす部屋は一応マンションで、小さいながらも二階がある。今のところこの二階が私の寝室になっていて、一階はキッチンとリビングとヤスヒロの寝室を兼ねていた。お客様が来て対応するのも、勿論下の部屋だ。何となくずるいよな、と言うのはヤスヒロなのだが、本人はそれほどその状況を悪いとは思っていないらしい。お酒を飲みながらテレビを見て、そのまま寝こけてしまっても誰にも叱られないからだ。これが一フロアだけのマンションでリビングとは別のところに寝室があったならそういうわけにも行かないだろう。まず朝っぱらから一緒に住んでいる人間にいやな顔をされる。水が飲みたくても一々移動もしなきゃならないし。そういう点では私の部屋のほうが不便で、夜中にお腹がすいたときなんかはちょっと困ってしまう。何しろ眠っている彼のそばを通り抜けない事には、お腹を満たしには行けないのだから。と言いつつも、私はこの二階から引っ越す気はまるでなかった。寝室、或いはプライヴェートルームとして、この部屋の居心地は悪くなかったからだ。そう、ここは私のプライヴェートの部屋で、滅多とヤスヒロさえ入らない、そういうところだった。

「何、こんなとこ引っ込んで」

その、あまり広くない部屋にコーヒーを三人分持ち込んで、ヤスヒロは目をぱちくりさせていた。私はベッドに座って、のんきと言うか考えなしというか、そんな感じのヤスヒロを見て溜め息をつきながら、

「何、って。あたし達がいたら、あの二人、話も出来ないじゃない」

「ああ、そういうこと」

ヤスヒロは私の答えに納得したように言うと、ベッドのそばのサイドボードの上にコーヒーを置き、その一杯に口を付けた。

「でもこの先、彼女どうするのかしら」

少しの間を置いて、私はそんなことを口にした。ヤスヒロはコーヒーを飲みながら目を瞬かせ、

「さーなー。でも一応ななこちゃんのほうは対策もとったみたいだし、そのうちほとぼりも冷めるんじゃないのか?」

その口振りはやっぱりどこかのんきだった。私はコーヒーを少し飲んで、それから小さく言ってみた。

「「ヒロ君」だってさ……」

「ん??

「……別に何も」

何、とか言うかその口は、と、私は腹の中で吐き出していた。同時に、やっぱり了見が狭いんだ、と自分の情けなさを実感していた。何かが気に入らない、という変な感覚はそこから来ていた。妬いていると言うほどでもないけれど、変な違和感があってしっくりこないのだ。少なくとも彼女はヤスヒロの「彼女」だったわけで、その間私はこいつとは友人だったわけで、そんなの自分が悪いと言えばそうなのだけれど(悪いと言うのも変かも)何と言うか胸中複雑だった。その人が兄貴を探してここへ来た、というその事も、変な話と言えば変な話にも思えた。前に彼女がここへ来たのは、突然連絡の取れなくなったヤスヒロを探して、で、この場所はあの兄貴に聞いたらしい。今回は言うなればその逆なのかもしれない。兄貴を探すためにここにやってきた。でも、あの時とは状況も違う。彼女はストーカーに付け回されていたのだ。今だって完全に撒けた、とは誰にも言えないのではないだろうか。なのに夜遅くに、一人でこんなところに来るなんて、いくら何でもどうかしている。

「おおーい、かーのこー」

階下から、兄貴の間延びした声が聞こえた。どうやら向こうも私を怒らせた、とか思っているらしい。私はヤスヒロと顔を見合わせた。兄貴はとてとてと足音をさせて部屋の前までやってくると、ドアを開けずにこう言った。

「悪いけど今夜、彼女も泊めてやってくれ」

さしもの兄貴も少し参っているようで、声は少しだけ疲れていた。私は大きく溜め息をつき、ヤスヒロはそばで、困った顔で黙っていた。

 

どうしてこういうことになったんだか。それから数時間、私はそんなことばかりを考えていた。時計は、既に二時近くを指している。ちなみに平日の起床時間は六時だ。下手をすると四時間の睡眠だって確保できない。どうしてこういうことになったんだか。思う度に口から溜め息はこぼれ、気分は重くなっていった。そりゃ、兄貴を匿うと承知したのは私だし、それが厄介なことだとは解っていたし思っている。なのにどうしてまた更に、厄介に輪がかかったりするのだろう。寝室の自分のベッドの隣に予備の布団を敷きながら、私はついさっき下でした会話を少し思い出していた。要約するとこんな感じだ。

最初のストーカーは引越しの後に何とか片が付いた。で、二度目のストーカーは今のところ職場周辺にしか出没していないが、何しろたちが悪いチンピラ風で、兄貴だけではなく他にも累が及びかねない状況なのだそうだ。加えて、というか、彼女は立て続けのストーカーに精神的に参ってしまったらしい。自宅にもいられないほどに。もし居場所を知られて押し込まれでもしたらどうしよう、そう思うと怖くて一人で籠っていることも出来ない。それで兄貴を頼って来たらしいのだが、

「あの……かのこ、さん」

小さく、私を呼ぶ声が聞こえる。私はぶつくさ言うのをやめてとっさに笑顔を作り、そこで申し訳なさに小さくなっている彼女を見た。

「本当に……ごめんなさい。あたし……」

目には一杯涙が溜まっていた。ついでに、少しはれていた。兄貴と二人にした間に何かされたのかと、当然私はあの兄貴に詰め寄ったのだが、どうやらそういうことではないらしかった。顔を見てほっとしたら泣けてしまったのだそうだ。それはそれは、不安で怖くてたまらなかったんだろう。それを思えば、私にも何も言えなかった。

「あたし、怖くて……他に、頼れる人もいなくて、それで……」

「や、やだ、そんな、気にしないでよ。だって一人でいたら危ないんでしょ?

知ってしまったら放っておけるわけがないだろう。全くの見ず知らずでもないし。思いながら私は自分をあわてて取り繕った。そして、年上のお姉さんっぽく、

「そんな時に放り出せるほうがどうかしてるわよ。穂波さんは気にしないで、今日はゆっくり休みましょ」

「本当は、実家に帰ったりしたほうが、いいって言うのも、解るんですけど……」

けれど彼女は私の申し出を聞く感じではなかった。鼻をすすり涙を拭いながら、小さく細い声で何とか言葉を紡ごうとする。

「今の仕事……やめたくないんです」

「今の……仕事?」

涙ながらにも、言葉には力がこもっている。私は布団を支度する手を止めて、彼女のそばに座るとその話を聞くことにした。涙を拭いながら彼女は頷いて、それからまた、途切れがちに話し始めた。それは多分、兄貴やヤスヒロや、もっと身近にいる人では聞けないような、話せないような、そんな彼女の気持ちのような感じだった。

「私、ずっとこういう仕事に憧れてて……両親とケンカして、田舎、出てきちゃったんです。でも、最初の何年かは普通の、他の仕事もなかなかなくて……お金にも困ってて、ちょっとだけキャバクラにいたこともあって……二年前にやっとのことでアシスタントのお仕事見つけて……今やっと、仕事してるなぁって思えるようになって……」

「……うん」

たどたどしい言葉だったけれど、そこには彼女の思いがぎゅっと詰まっていた。なんて言ったらいいのか、若くて綺麗で華奢で、守られてるだけのように見える女の子なのに、そこに必死に頑張ってきた影が見えて、私には何も言えなくなってしまった。この年頃の、こんなに綺麗な女の子なら、いい相手を見つけて結婚して、とか、そういう選択肢もありそうなのに、そういう話は全く出て来なさそうで、この人はこの人なりに戦っているんだなあ、なんて変なことを思ってしまった。

「だから、本当はタカフミさんに頼ったりも、しちゃいけないんですよね。こんなことくらいで。なのに私……弱いから」

「そんな……そんなこと、ないわよ」

自嘲気味の彼女の言葉に、私は思わずそんな声を上げていた。驚いたように彼女は私を見、私は真剣になってそれに返していた。

「だって相手はストーカーでしょ?そんなわけのわかんないヤツに付きまとわれてたら誰だって怖いわよ!あの兄貴だからあんまり当てにはならないかもしれないけど……」

「そんな!そんなことないです!私タカフミさんには、本当にお世話になったんです!感謝しても仕切れません!

力いっぱい、やや兄貴を貶めるような私の言葉をさえぎるように、彼女はもっと力強く言い返してきた。私はちょっと面食らって、

「そ、そう?役に立つ?」

と、間の抜けたことを聞いてしまった。穂波さんは力強く頷いて、

「はい、とっても。でもそれで私……甘えすぎちゃったんです」

それからまた少ししゅんとして、困ったように小さく笑った。

「私、そんな目に会うなんて初めてで、どうしたらいいのか解らなくて、でも、誰にも言えなくて……会社の人にも、迷惑がかかると思って……どうしたらいいのか解らないときに、たまたまタカフミさんに会って……助けてもらったんです「頑張れ」って」

その言葉に、私は目を丸くさせた。彼女は困った笑みを、ちょっとだけ嬉しそうなものに変えていた。そして私が見えていないような顔で言葉を続けた。

「頑張れ、負けちゃダメだ、って。そう言ってもらえて、私すごく嬉しくて……でもどうしたらいいの解らなくて、すごく怖くて……そうしたらひとまず引越ししろ、って、お金も何とかするって、言ってくれて……」

私には何も言えなかった。あのいい加減で無責任で突拍子もなくて人を振り回すことだけが取り柄みたいな兄貴が、こんな風に誰かの力になっているなんて思いもよらなかった。彼女はさっきよりも生き生きとした目になっていた。けれどすぐにも我に返って、

「あっ、でも、それでかのこさんにまでお世話になっていいなんてこと、ないですよね!ごめんなさい、本当に」

そういうと今度はぺこぺこと頭を下げ始める。私もそれを見て我に返り、

「ああ、だからそんなに、気にしなくても……」

「私、明日にでも先生……上司のところに行きますから。って言うか……もう、そうすることにしてきたんです」

「……あ、そうなの?

突然話が変わって私はちょっと驚いた。彼女は頭を下げつつ、苦笑しながら、

「はい。それで、タカフミさんに一言お礼も言わなきゃって、探してたんですけど……」

後の事は、推して知るべし、というところか。彼女の方は付け回されてはいなかった、というかターゲットはまだ兄貴にへばりついていて、兄貴はそれを撒くに撒けず、財布はおろかケータイさえ持たずに逃げたしていたわけだ。そんなことを考えていると、彼女はもう一度頭を下げた。そして、

「本当に、お世話になりっぱなしで……有り難うございます」

「いいえ……こちらこそ」

話してみると、礼儀正しくてちゃんとしたいい子じゃないの。私はそんなことを思って少し笑った。最初の印象が印象なだけに、彼女に対してもっと軽薄なイメージを持っていた私は、何だか申し訳ないような気分になっていた。だと言うのに、私はこんな意地悪な事を彼女に尋ねていた。

「それで穂波さんは、兄貴とは付き合ってるの?」

「え?たかっ……タカフミさんと、ですか?

唐突に変なことを聞かれた彼女はどもった。そして、

「そ、そんな!あたし、そういうことは考えてないです!それにあの……かのこさんの、お兄さん、だし、その……」

兄だから何だと言うのだろう。というか、その反応で考えていることはばればれだった。顔を真っ赤にしてあわてて言いつくろう、なんて、可愛いったらない。私はそれが微笑ましくて少し笑ってしまった。彼女は笑う私になおも弁解を続けようと口を開く。

「本当にお世話になって、あたし色々迷惑かけちゃって……前のときもですけど、でもそんな、お付き合いだなんて!

あたふたしながら彼女は叫ぶ。私は何も言わず、ただ笑ってその様子を見ていた。すぐに彼女は我に返り、その後うつむくと小さな声で言った。

「あ、あの……かのこさん」

「何?」

「……私って、その……なんて言うか……軽々しいですか?」

ちょっと奇妙な質問だった。私は首をかしげて、

「軽々しい?」

「自分ではそんなつもり、ないんですけど……ちゃんと選んでるって言うか、誰でもいいなんて、思ってないんですけど、あの……」

私を見ていない顔は真っ赤で、今にも泣き出しそうだった。そのまま、彼女は自滅したように、にゅー、と小さく呻いた。

「穂波さん?

「……ごめんなさい、何でもないです」

そして彼女はそれ以上何事かを言うのをやめた。私は目をしばたたかせて、でも言わなくても、見てるとわかるかなあなんてちょっと思ったのだった。なんと言うか、可愛い人だわ。こんな女の子が目の前で困っていたら、たいていの男だったら手の一つも差し伸べてしまう事だろう。それで「頑張れ」なんて言われた女の子の方は、嬉しくないはずがない。似たようなことを経験した(もちろんこんなに過酷じゃないけれど)私としては、それに否を言うことは出来なかった。頑張ってもどうしようもなくてへこんでいて、助けてくれる誰かがいて、それが嬉しい。ごく普通の当たり前の事だ。それがどんなに小さなことでも、相手にしてみたら口先だけの、言葉だけのことだったとしても、どんなに救いになるか知れない。そうして助けてくれた誰かを好きになっても、それが軽々しいなんてことは多分ない。そもそもそれをそういう時点で、その気持ちはそんなものじゃないんじゃないだろうか。思って私は少し笑った。そしてさっきの彼女の質問に遅ればせながらこう答えた。

「軽々しくなんかないと思うな」

「……はい?

「あんな兄貴だから、多分すぐ呆れられちゃうと思うけどね」

彼女はちょっとの間目を丸くさせていた。けれどすぐに私の言った言葉の意味がわかったらしい。照れたように、何とも嬉しそうな顔で、

「はい」

そう言って笑った。

 

そんなこんなでその夜眠ったのは結局三時過ぎ、夜中というより朝なのかもしれない時間帯だった。それでも翌日は月曜で、六時に起きなければいけないことには変わりなかったのだが、私が目を覚ましたその時間は普段より四十五分も後だった。血の気が引いて心臓が痛くなったのは言うまでもない。時計の針を見て飛び起きた私は大慌てで、朝食も弁当の支度もまともな化粧も出来ない(と言っても大して時間もかけていないけれど)でも出勤しなきゃ、という勢いだったのだが、

「あ、かのこさん、お早うございます」

階下へ降りると、キッチンには穂波さんがいて、ヤスヒロは既に身支度を整えて歯など磨いている有様だった。兄貴は部屋の隅で毛布に包まって何やらぶつぶつ言っていた。

「穂波さん?あの……」

「ごめんなさい、起こした方がよかったですか?あ、お弁当なんでしょう?冷蔵庫の中見て、支度しちゃいましたけど……」

「俺が頼んだわけじゃないぞ。かのこが起きてこないから覗きに行ったら、ななこちゃんが起きちゃって、それで支度してくれたんだ」

歯ブラシ片手にヤスヒロが言う。穂波さんはちょっと困ったような顔で笑うと、

「お世話になったのに、こんなことくらいしか出来ないですから……」

「こんなことって……とんでもない!ありがとう!助かったわ!

私の方は方でその彼女の行為に感謝こそすれ、という気持ちで、でもろくすっぽお礼も言えず、その日は出勤することになった。ちなみに朝食もあったのだが、こちらは時間がなくて断念せざるを得なかった。結局、すきっ腹で部屋を出たのはいつもの十分過ぎ、当然会社に到着したのもいつもの十分後、始業ぎりぎりの時間だった。お陰で、朝も早よから仕事の方もばたばたになってしまった。というか、そんな風に幕を開けた一日は、暮れていくまでずいぶん大変な一日になってしまった。まず、寝不足のお陰で頭がぼーっとしていて、そのために荷造り用の伝票の日付を間違えた。間違いに気がついたのは荷物が八割がた出来上がったあとで、出荷の寸前だったため、勿論大慌てで作り直した。その最中、木製の大きなパレットに躓いてコンクリートのたたきの上でダイナミックにこけて酷くお尻を打ち、同時に引っ掛けた左足を酷くくじいてしまった。その痛みで目が覚めるか、と思ったがそうでもなく、痛いのと眠いのとでダブルパンチを受けながら今度はデータ入力でパソコンのキーを打ち間違え、エラーを出したと思ったらパソコンはフリーズする、という、最悪の状況に陥り……息をつく間もなく時間はお昼休みになってしまった。弁当を食べる頃には心身ともにヘロヘロになっていて、現場のオヤジ数名に「大丈夫か」だの「医務室でちょっと寝て来い」だのと言われ、有り難かったけれど寝てくる提案はとり下げさせていただいて、代わりに午後からの荷造りを免除してもらった。申し訳ないけれど、くじいた足では歩く事もつらい。現場で足をやられるのは痛恨だった。明日からどうしたらいいかしら、と不安になっていると谷さんは「いいですよ、大変だったら俺達で何とかしますから」とにこやかに言ってくれて、有り難い事だと心ひそかに手をあわせたりもした。休めるのは、有り難い。でも、私はぶっちゃけ時給幾らの契約社員だ。「働かない」はイコール収入が減る、ということでもある。とは言え今回ばかりは「自業自得」なので、誰に何を言えたことでもなかった。いや、言いたい相手はなくはなかったけれどお門が違うし、何よりあの兄貴だ。言うだけ無駄に決まっている。厄日だわ。私はお弁当を食べながら一人思った。そして、そんな厄日だと言うのにまともなお弁当が食べられる事に、ちょっとだけ感謝したりした。

 

昼休みが終わる。社内の医務室(と言っても総務課の一スペースだが)でとりあえずの処置をしてもらって、何とか歩く事は出来る状態の私は、午後からの仕事のことを考えながら現場に向かっていた。仕事もだけどどうやって帰ろう、タクシーは高いし、かと言ってこの足じゃ歩くにも歩けないし、兄貴辺りを迎えに呼んでやろうか、とちょっとのんきな事を思ったその時だった。荷役場の奥、いつもの事務ブースのドアが開いたかと思うと、そこから私に向かって谷さんが駆けてきた。

「中山さん、大変だよ!

「……はい?

谷さんはその時、真っ青な顔をしていた。血相変えて、という言葉よりそちらのほうがずっとあっているような、そんな感じだった。年下の上司のパニック状態を見ながら私は首をかしげ、

「大変って……何が?」

そう言いながら午前の大変さ加減をちょっと思い、もういいや何でも来なさいよ、という投げやりな気分にもなっていた。悪い事は続けば続くものだ、だったらしばらくこないように、今日中に全部済ませてしまいたい。そんな感じだった。昼休みも終ったところだと言うのにふだんより数倍疲れていた私に、谷さんは言った。

「パソコンの事で、山村さんが!

「ああ……フリーズしたあれ?総務の管理担当者が昼に、って言ってなかったっけ?

すっかり仲良くなった年下の上司に殆ど同僚のノリで私は尋ねていた。谷さんはいつも通りに、というか、いつも以上にそんなことに構っていられない様子で、手をばたばたさせながら大慌てで更に言った。

「そうじゃなくて、データが飛んでるって!先週分が全部!

「へ?

その一言で私は凍りついた。何、若しかして私のやらかしたフリーズのお陰で先週入力したデータが全部消えたとか、そういう事!?凍ったままの私は、ざあっと、血の気がひく音を聞いた気がした。確かにそれはまずいと言うか大変な事だ。それが私の責任だとしたら、叱られるとか謝るとかですむレベルの問題じゃない。

でも一回フリーズしたくらいでそんなに簡単にデータって消えるものなのだろうか。貧血が起きそうな頭でも私はそんなことを思った。そして、もしそうだったらすごく困るけど、もし責任取れとか言われたら、契約社員ってどうなっちゃうのかしら。でもこんなことでクビになったりしないわよね、なっちゃったらそのほうがずっと困るけど……どうしよう。そこまで来ると、私も谷さんと同じように、頭の中は半ばパニックになってしまっていた。そんな私を見て、

「な、中山さん、今日はもう帰りなよ」

「え?か、帰る?」

「うん。だってその足じゃ荷造りとか、出来ないでしょう?山村さんたちには上手く言っとくから、無理しないほうがいいよ!

更に顔を青くさせ、やけに怯えた顔で谷さんは言った。この人が怯えたり動揺したりする問題じゃない気がするんだけど、と、その様子に私はちょっと呆れた。そして、でも別に、もし怒鳴られても殺されるわけじゃないし、首になるならなはさておき根自分がしでかした事の後始末はちゃんとしなきゃいけないわよね、と私は思い直した。これでも一応社会人だ。自分の責任くらいちゃんと取らなきゃ、解雇されるにしても、途中で投げ出したままというわけにもいかないし、もしかしたらそんなことはないかもしれないし。最後に思ったことに自分で納得して、というより、それだけを強く自分に言い聞かせて、私は事務ブースに向かって歩き出した。

「なかっ……中山さん!

谷さんは私を見て更にパニックになっていた。と言うか、どうしてそこでそんなに怯えるのか、私にはちょっと解らなかった。いや、解らなくもなかったけれど、子供じゃないんだし、何かやらかしたのは私なんだし、そんなに怖がらなくてもいいのに、と彼の幼さにちょっと呆れた。そんなことをしている間にブースのドアは近づき、私はそのノブに手を伸ばそうとして、

「はいはい、ちょっとごめんよ」

という声と共に、ドアは中から先に開いた。平社員のオヤジ、峰岡さんが出てきて、私はドアの横にあわてて避け、避けながら、峰岡さんが背負っているその人を見て、思わず声を上げた。

「峰岡さん……どうしたんですか?」

「あ?ああ……貧血らしい。今から総務行ってくるわ。こりゃタクシーでも呼んで帰したほうがいいな」

何について誰が、とは言わなかったのに峰岡さんはスムーズに答えて、そのままさくさくと荷役場を歩き去った。背負われていたのは、真っ青な顔をした原野さんだった。貧血って、そういう体質なのかしら、それとも……思った私は無意識のうちにぐっと息を飲み込んでいた。変な戦慄が走る。貧血が起きるほど、叱責されたのかしら。だとしたらもしかして、私も?叱られる事に慣れていないことはない。とは言え、それが楽しかったり嬉しかったりする事はさすがにない。何か、ちょっと怖いかも。そんなことを思いながら私は何気なく顔を上げた。ドアの中に、神妙な顔をした山村さんと、あまり見たことのない四十代くらいの男の人の姿が見える。その人は困ったような怒ったような顔で、両手を腰に当てるようなカッコウで山村さんに向き合っていた。何か言っているのかもしれないけれど、ドアの中に入っていない私にはそれは聞こえてこなかった。叱られてるのかしら、なんて思いながら、私も叱られるなあと思いながら片足を引き摺るように事務ブースに入ると、その男の人は私に気付いたらしく、ちらりとこちらを見た。けれどすぐに視線をそらすと、もうこちらを見ることもなく真横を通り過ぎて、事務ブースを出て行ってしまった。怒っているのは丸わかりで、何と言うか、変な気分だった。ふぅ、と大きな溜め息が聞こえたのはその直後だった。見る間でもなく、それは山村さんの溜め息だった。何だかとても疲れた顔で山村さんは事務ブース内に入ってきた私に気付かないのか、少しうつむいていた。以外、というといいすぎかもしれないけれど、私がそんな彼女の姿を見るのは初めてだった。いつも、真剣すぎる顔で仕事をしている彼女は、現場の若造やオヤジが評しているように、愛想がなくてきつめの人だ。よく見ると美人なのだけど、その顔つきも、万人受けするタイプではない。宝塚の男役だってもう少し柔らかい顔をしてるかな、みたいな彼女は、その時明らかに落胆していた。そして、いつもの鋭さのかけらもないような顔で、何だか随分頼りない、そんな感じだった。

「山村さん」

なかなかこちらに気付かない彼女に呼びかけると、力の抜けた顔のまま、彼女は私のほうを向いた。私はいつものように、とは言え流石に驚いていたけれど、それでもなるべく平静を保つようにして彼女に言った。

「今、谷さんから、呼ばれてるって聞いたんですけど」

「ああ……ごめんなさい、ぼーっとしちゃって」

彼女はそう言うと、力ない顔のまま苦笑を漏らした。そして軽く頭を二、三度横に振ると、その目をパソコンに向けて言った。横顔は、ちょっとだけ力を取り戻しているようだった。でも、いつもよりやっぱり少し疲れていた。

「パソコン、直ったから。入力の続き、できるわよ」

「ああ……わざわざ、すみません」

どうも私を呼んでいた、というのはそのことを知らせるためだったらしい。何だ、びくびくして損した。拍子抜けした私はそんなことを思いながらもう一度山村さんを見た。彼女は困った顔で直ったパソコンを見たまま、

「それで、できたらでいいんだけど……先週分の送信データの入力、全部ダメになっちゃってて……手伝ってもらっていいかしら?

「全部……ですか?

「そちらの仕事がすんでから、でいいんだけど……」

しおらしい彼女は、何だからしくなかった。けれど、今のこの状況では誰もがこんな感じになるに違いないし、逆に元気だったり怒っていたら変だろう。でも意外だった。いつもきりきりてきぱきしている彼女しか見ていないから、そのギャップは驚きに値する、そんな感じがした。

「解りました。荷造りの方がすんだら、すぐにでも……」

「ああ、中山さん、荷物はいいよ」

そんな山村さんの言葉に返事をしようとしたその時、背後から谷さんの声がした。振り返ると、谷さんはいつもと変わらない様子で、ちょっとにこにこして言った。

「足も、楽じゃないんでしょ?治るまで荷造りは俺たちがやりますから」

「え?でも……」

「組長や他のみんなにも言ってあるし、心配ないですよ。大体、あれだけ派手にこけてたら誰だって荷造りなんてさせませんって」

あはははは、と、谷さんの朗らかと言うかのんきな笑い声が響く。私は、転んだ時に現場中の親父に見られていたことを思い出し、顔から火が出そうな気分だった。そんな私を余所に谷さんは続けて言った。

「原野さんも今日はもう仕事にならないだろうし、そっちをお願いしますよ」

「はぁ……まぁ、そういうことなら……」

微妙に語尾を濁しながら、私は山村さんを見た。山村さんはペコリと頭を下げて、

「じゃあ、お願いします」

「はい……こちらこそ」

私も私でそんな風に言って頭を下げ返したのだった。

 

 

 

 

 

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Last updated:2006/05/29

 

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