続・カフェオレボウルでハイティーを

 

エスプレッソの熱い距離

 

第六話

 

それから、私は自分がしくじったデータ入力をし、その後、山村さんの手伝いをすることになった。とは言え、量が量だ。客先に送るはずだった一週間分のデータ、ともなれば、五分や十分で終るようなものではない。と同時に、私がそのデータを取り扱うのは初めてで、わからないことだらけだった。これは何だそれはどうすのか、という具合に、私は隣に座っていた山村さんに事あるごとに聞き通しで、その作業が仕事らしくなるまでに軽く三十分はかかってしまい、まともにその仕事に向き合えたころには、時計は三時を回ってしまっていた。初めてのことは何にしても、難しい。パソコンに向かってキーをたたくだけでも、それに変わりはない。それでも、頼まれた事だし、引き受けたし、仕事だし、得意じゃないけど、やらなくちゃ、という意気込みで、私は転送データの入力を続けた。

そして自分に振り分けられた伝票が三分の一ほど片付いたかな、と思った頃、時計は定時寸前を指し示していた。肩もこって目もしぱしぱして(よく考えなくても寝不足だったから、目の疲れは余計に酷かった)疲れたけどまだ三分の一しか片付いてないのか、と思うと、無意識に溜め息なんかついてしまった。同時に、それまでは感じなかった疲れがどっと体に溢れて、欠伸までもがあふあふと口から出てきてしまった。三時間寝てないのだ、歳の所為じゃないわよね。疲れても当然か。思った直後、隣に座っていた山村さんが言った。

「中山さん、もういいですから。片付けて、上がってください」

「え?

山村さんはこちらに全く振り返らなかった。私は、欠伸をしたのが気に障ったのかしら、とちょっとびくびくしながら、そんな山村さんに問い返した。

「でもまだ、半分もすんでないですよ?こっち」

「後は私がやります。貴方も、今日は色々あって大変だったでしょう?」

労わられているのか、そうでないのか良くわからない口調だった。私はちょっと黙って、それからそんな彼女にこう返した。

「でも、まだ片付いてないですから、残ります」

「これはこちらのミスだから、残りは私が処理します。手伝ってくれてありがとう」

が、そんな私の言葉より力強く、やっぱりこっちを振り返らないまま、彼女は言った。それが「ありがとう」の態度かよ、と、突っ込みたくなるような横顔に、さしもの私もちょっとむっとしてしまった。疲れていて感情的になっていたのかもしれない。確かに、この仕事と私は直接関係がないし、手伝っているだけだから、責任もないと言われればそうかもしれない。でも、やってくれと頼まれて、それを請け負って、途中までしか出来ていないのだ。ほっぽって行くことは出来るけど、でも、気になるじゃないの。私は仕事を続ける山村さんを見てそう思った。そして、作業着のポケットの中にいつも突っ込んであるキャラメルを取り出すと、その彼女の手元に無言で置いた。山村さんはそれを見るとようやくこちらを見た。私は笑って、ちょっと驚いている彼女に言った。

「コーヒーでも淹れましょうか。甘いものとカフェイン取ると疲れも軽くなって、作業効率も上がるし」

はいそうですか、それじゃ失礼します、って言った後に何事かあって明日叱られたりするのはごめんです、とはちょっと思ってはいたけど言わなかった。でも、笑っている自分の顔は素直じゃないだろうな、とは思った。山村さんはそんな私を見ると、ちょっとだけ苦いものが混じったような顔で微笑んで、

「そうね……コーヒーなら私が淹れてきます。中山さんは座ってて」

そう言ってキャラメルを手に取り、席を立った。何だ、可愛いとこもあるんじゃない。そんなことを思って私は彼女の背中を見送り、もう一度作業着のポケットに手を突っ込んでキャラメルを取り出し、その包みを剥いて口の中に放り込んだ。

「お疲れ様。どんな具合ですか?」

そうしてコーヒーを待っている間に、出荷の組長が私のところにやってきた。キャラメルを口に入れたまま、私は乾いた笑い声を立てると正直に言った。

「まだ残ってます、すみません、慣れなくて……」

「ああ、そんなこと。手伝ってもらってるんだから気にしなくても」

組長はそう言って軽く笑い、残っている伝票の束を見た。そして、

「やっぱり一週間分を半日で全部って、難しいかなぁ」

「でもこれ明日中、なんですよね?

「うん……でも明日は明日で、山村も中山さんも、自分の仕事があるしねぇ」

あはは、と、組長が困った顔で笑った。私はそれを見て、だったらやっぱり今から片付けたほうがいいんじゃないかしら、と思ってこう言った。

「今日、残っていきましょうか?」

「え?いいの?

組長はその申し出に驚いているみたいだった。でも、私としては当然の申し出なので、

「だってこれ、明日中でしょう?全部できないにしても、もう少しやっていかないと、明日の仕事もパンクしますよ?」

「うん……そうだね」

組長はそういうと神妙な顔になってもう一度伝票を見た。そして、山村さんの机も見て、

「あれ?そう言えば山村は?

「コーヒーを淹れに行ってます」

「コーヒー?何、やる気なんだ?」

答えると、そう言って組長は変に楽しそうに笑った。そして、

「じゃあオレは何かおやつでも探してこようかな。で、中山さんにももうちょっと頑張ってもらいたいんだけど……いいかな?

「ええ、いいですよ」

そう言うと組長はロッカーがあると思しき方向に歩き出した。入れ違うように、組長が去っていった方から山村さんがコーヒーを二人分持って歩いてくる。すれ違いざま、組長は何やら山村さんに話しかけていて、山村さんはちょっとだけ怒ったようにそれに答えていた。そして、戻ってくると私にコーヒーを差し出しながら、言った。

「組長も、手伝ってくれるそうよ」

「あ、そうなんですか?

それは、有り難い申し出のはずなのに、何だか山村さんにとっては、はた迷惑なような、そんな顔をしていた。コーヒーを受け取りながらそんな彼女に私は言った。

「何だか、おやつまで用意してくれるそうですよ?」

「あらそう……何が出てくるのかしら」

その、おやつを出してくれる、という言葉にも、山村さんは何だかうんざりしたような、そんな感じだった。この二人って、もしかして仲が悪かったかしら。思いながら、私は黙ってコーヒーを飲んだ。山村さんもパソコンの机につくと、運んできたコーヒーを飲んだ。そして、

「とりあえず、またしばらくお願いします」

「あ、はい。お願いします」

声がかけられたので、私はちょっとあわてて答えた。山村さんはコーヒーとキャラメルを食べながら作業を再開し、私も同じ様にパソコンに向かう。しばらくすると、おやつを取りに行っていた組長が私達のところに戻ってきた。そして、何だか変に楽しそうに、

「今そこで味噌饅頭貰っちゃったよ。はい、中山さん」

「あ、いただきます」

そう言って茶色い皮の味噌饅頭を私の就いている机の上に置いた。そうしてから組長は山村さんのパソコンを覗きこみ、

「で、どう?進み具合。後どのくらい残ってる?」

「ここにあるもので全部です」

「山村の、今日の分は?」

「まだ、処理できてません、けど……」

「あー、そっかー……ふーん……」

そう言うとおもむろに、彼女の手元にあった伝票の束をひょい、と手に取った。私は貰った味噌饅頭を食べながら、コーヒーを飲みながら、何も言わずにその様子を見ていた。

「じゃあ今から俺がこれやるからさ、山村はそっち先に片付けろよ」

「え、でも……」

「そっちも、二時間かかるかどうか、だろ?だったらそっち先に終らせてからやればいいよ」

「……本気で残業するつもりだったんですか、組長」

「あ、何か今の、ひどい言われ方」

ちょっと困ったような山村さんの言葉に、笑いながら組長は返す。そして、

「まあオレは、初めのころから山村には信用ないから、しょうがないかなー」

「そんな……そんなことは、別に……」

何だか、妙な会話だった。饅頭を食べながら、私はそんな二人を眺めるように見ていた。ニヤニヤと組長は笑って、山村さんは本当に困ったような、そんな感じだった。からかわれているような様子で、私はそんな二人に何と無く尋ねていた。

「初めのころ、って?」

「ああ。俺ら同期なんだ。入社すぐの研修で一緒だったんだよ」

答えたのは組長だった。へぇ、そうなんだ、でも、と、また別の疑問にぶち当たった私は、目をぱちぱちさせながらもう一度問いを発した。

「でも……失礼ですけど、組長って山村さんより、歳が上じゃありません?」

上、と言っても、ここの組長は実は若い方だ。まだ四十歳にはなっていないだろう。それでも、この物流ブースでは若くして出世している方らしい。と言うか、この辺りには職制になるのを嫌がった万年平社員の親父率がちょっと高かった。自分で希望してここにいるのか、それとも流されて辿り着いたのかは定かではないけれど。組長は私の質問にちょっとだけ苦笑いを浮かべた。けれど特別構う様子もなく、簡単にこう答えた。

「まぁねぇ。山村は短大卒ですぐの入社だったけど、オレはかなり遊んでからここの会社に入ってるから」

へぇ、そうなんだ、と、私は口には出さずに胸の中だけで言った。そうしながら山村さんを見ると、山村さんは既に組長の指示通りに、昼間済ませるはずだった作業に取り掛かっていた。横顔はいつもと同じ様に真剣だったけれど、私に見られていることを少し意識しているようだった。引きつる、というほどでもなく頬が張っていて、何だか少し恥ずかしがっているような、そんな風に見える。何だろう、この組長と同期だって言うのが、そんな恥ずかしいことなのかしら。思って私は首を傾げた。けれどそれ以上は考えるのをやめて、食べかけの饅頭と飲みかけのコーヒーを片付けると、再び入力作業に取り掛かった。組長も、別の場所にあるパソコンの載った机につくと、手にしていた伝票の入力を始めて、室内はキーボードをたたく音と時々聞こえるエラー音以外、何も聞こえない状態になって、それがそのまま二時間半ほど続いたのだった。

 

作業の全てが終ると、時計は八時より少し前だった。とりあえず机の上を片付けて、私はその時まだその机についたまま、というか、座ったままだった。山村さんも同じ様に、自分の席についている。けれどパソコンの電源は落とされて、その上も綺麗に片付けられていた。時間が中途半端だから、三時間残業になるまで帰らないように、と言っていたのは組長で、けれどこの時彼はここにはいなかった。下から数えた方が早い階級の上司でも、職制は色々忙しいらしい。いつもの事務ブースに私は山村さんと二人きり、特に何か話すこともないような状態で、時間が過ぎることだけを待っている、そんな感じだった。いや、何か話したりしたらいいのだけれど、何と言うか、共通の話題の当てがなかった。ちょっと気まずい、かも。そんなことを考えていた時だった。不意に、山村さんが言った。

「中山さんは、どうやって会社に来てるの?」

「え?ええと、バイク、って言うかスクーター……ですけど」

「今日はそれで帰れそう?」

その問いかけに私はちょっと驚いた。そして、そのことをすっかり忘れていた事に気がついた。

「あ」

そうだった、どうやって帰るか、考えとかなきゃいけなかったんだわ。どうしよう、と言わんばかりの顔になって私はそこで固まった。昼間やらかした足の方は、ずっと座っていたのと総務で湿布をもらって貼ったお陰で随分良くはなっていた。けれど痛くないわけではない。スクーターくらい運転、出来なくも無さそうだけど、あんまり無理もしたくない、そんな感じだ。思っていると、私の言葉も待たずに山村さんが言った。

「良かったら、送っていきましょうか?」

「え?

「手伝ってもらって遅くなったんだし、私は車だし。おうちまで、どのくらいかかるの?」

山村さんの言葉に私は驚いて、一瞬何を言われているのかわからなくなった。意外と言えば色々が意外だった。この人が自動車で通勤している事もだし、こんなことを言ってくれることも、だし、それに何だかいつもより、顔つきがやさしく見えた。でも、私は反射的に彼女にこう返していた。

「いえそんな、大丈夫です。帰れますから。アクセル踏むタイプじゃないし」

「そう?本当に大丈夫?

心配そうに山村さんが言う。私は両手をあわてて振りながら、

「ええ本当に。本当に平気ですから」

「原野もあんな風に帰っちゃうし……明日も会社に来られそう?」

「……あ、はい」

意外、この人ってこんなに私のこと心配してくれるんだわ、やさしいんだわ、じーんとしちゃう、と思いかけていた私は、その一言で、ちょっと寂しくなった。な、何だそうか、そういう心配か。そうよね、そういうもんよね。軽いショックを感じながら、ちょっとだけ遅れて私は答えた。山村さんは相変わらず、神妙と言うか真面目な顔で私を見ていた。私は何かを誤魔化すようにあはは、と少し笑って、

「大丈夫ですよ、このくらいなら、一晩したら腫れも引くだろうし。今日は歩き回ってなくて、結構元気ですから」

「そう?でも無理はしないほうがいいわよ。労災の申請、したら?」

「労災、ですか……」

それって私の身分でも降りるのか、というか、その場合どこの労災になるんだろ。山村さんの言葉に私はちょっと考え込む。やけににぎやかに、組長がブースに戻って来たのはその時だった。開けられたドアの開閉音と共に、その声が辺りに響き渡る。

「中山さん、今総務と派遣会社に連絡したから、明日休んでいいよ」

「は?明日、ですか?」

あまりに唐突なその言葉に驚いて私は振り返る。組長はいつもと変わらない、けろっとしたような顔で、

「うん。その足じゃ、会社に来るのも大変でしょう?医者に診てもらったほうがいいだろうし」

「でも……手は足りてるんですか?」

「そんなの。一人くらい抜けたって何とかなるよ。荷造りはヤローでやれるし、パソコンの事なら俺もできないわけじゃなし」

ささやかな私の反論も、組長はけろっとした顔であっさり退けた。いや抜けるのが一人なら大丈夫だろうけど、二人だったらどうするのだ。派遣の契約社員だと言うのに、私はそこで余計な事まで考えた。だって今さっき、山村さんに言われたのだ。原野さんだけじゃなくて私も抜けたら、困る、みたいに。だからそれを思わないではいられなかった。そして、ちょっと遠慮がちにだが、それを言ってみる事にした。

「でも……明日、原野さんがもしお休みしたら……」

「そん時はそん時だよ。心配ないって。また俺が山村と残ってやってきゃすむことだし」

しかしその言葉もまた、あっさりと退けられた。山村と残って、って、そんな無責任な。思いながら、私は名指しされた彼女をちらりと見た。山村さんは、あまり機嫌の良さげな顔はしていなかった。そ、そりゃそうよね。名指しで明日の残業予告をされたら、気分も良くないわよね。思って、私はもう一度組長の意見に逆らう事にした。

「でも本当に、大した事ないですから……」

「大丈夫よ、昼間の仕事を組長が手伝ってくれたら、私もそんなに負担は大きくならないから」

しかし、今度はそれを山村さんが退けた。何事、と思いながら振り返ると、彼女は変に鋭い目で組長を睨んでいた。組長はへへ、と軽く笑って、

「そうそう、そういうことだから、中山さんは明日は安静にしてて下さい。山村、彼女送れそうか?」

「は、はい?

ひっくり返りそうな声で言ったのは私だった。話は、そこで突然変わった、というか、二人でいたときの話題に戻っていた。何だ、いきなり何を言い出すのだ、この人は。そんなことを思ってびっくりしていると、山村さんは軽く息をついて、やや疲れたように言った。

「私も、そうするつもりだったから。児嶋くんが送ったりしたら、何があるかわからないもの」

「オイオイ、そういう言い方はないだろ?酷いな」

「前科がある人に言えたことかしら、それが」

組長は変にうれしそうにへらへらと、それでも苦いものを含まずにはいられないような顔で笑っていた。山村さんは変わらず、ちょっとだけ機嫌が悪いような、疲れたような顔つきだった。それは明日私が休んで残業が確定したから、とかそう言うことではなくて、確実に、この組長に由縁の不機嫌さのようだった。そのまま、山村さんは振り返らず、でも私に向かってこういった。

「この人、車で女の子を送るって言って、時々家じゃないところに連れて行こうとするの。中山さんも気をつけてね」

「え?そうなんですか?

前科ってそういうことか。山村さんの言葉に驚きつつ納得しつつ、私はそんな風に声を上げた。組長はちょっとあわてて、

「人聞きの悪いこと言うなよ。中山さん、それは誤解だからな。大体俺がそんなことするような人間に見えるか?」

「あら、やってたでしょう?前は確実に」

「いやまあ……アレは若気の至りって言うか、何て言うか……」

組長の語尾がごにょごによとにごる。してやったり、とかすかに山村さんは笑っていた。彼女はそのまま私のほうを見て、

「じゃ、近くまで車を回すから。ちょっと待っててくれる?」

「あ……はい、ありがとう、ございます……」

そういうと颯爽と事務ブースを出て行ってしまった。私は、目の前でなされたやり取りに唖然としていた。組長は疲れたように溜め息をついて、苦い笑みを浮かべて山村さんの背中を見送っていた。これって、何?もしかしなくても一種の修羅?そんなことに気付いたのは山村さんが出て行ってからで、私は恐る恐る残った組長を見やった。それに気付きデモしたのか、組長は苦笑いを浮かべたまま、

「あーあ、今回もやっぱダメか」

「……今回も?

ぼやいた彼は肩を軽くすくませた。そして、手近にある椅子を引っ張り出し、それにまたがるように座ると、おどけた様子で続けた。

「そ、今回も。ことごとく歯が立たない。情けないねぇ」

歯が立たないって、やっぱり修羅か。私は何となく戦慄してかすかに息を飲んだ。旋律の理由?そんなの決まっている。巻き込まれたからだ。人のこういう問題に巻き込まれたら、大抵の場合ろくな事にならない。ちょっとやめてよ、という気分で、でもそうは言えずに、私はとりあえず黙っていた。組長は、いい年の男のはずなのに、何だか年上の誰かに甘えるように、そのまま一人で言葉を紡いだ。

「山村とは、同期って言っても、研修で本当にちょっと一緒だっただけなんだけどさ。あの頃はもーちょっと可愛らしかったんだけどなー、若かったからかなー」

「は、はぁ……」

どうして私はこんなところで、この人の愚痴みたいな甘えみたいな事を聞いてるのかしら。曖昧に答えながら、私はそんなことを考えていた。といっても、そのことに全く興味がないわけでもない。この現場に移ってきて、長い時間が経っているわけではないけれど……だからか、色んなことにそれなりの興味はあった。初めて見たこの二人の微妙な間柄についても、興味がわかないほど、色気がないわけではない。たぶん。

「まさかまた一緒に仕事できると思ってなくて、今回こそ何とかしようと思ってるんだけどなー」

「……今回こそ?

「うん。一回目は振られてるんだ、オレ」

そう言って組長は、てへ、という感じに笑った。そして、

「山村は、元は営業部にいてさ。半年くらい前にこっちに飛ばされてきたんだ。何でも取引先とトラブって、そのとばっちりらしい」

「え……そ、そうなんですか!?

その言葉に私は驚いて、思わず高い声を上げた。組長は笑うと、

「そ。同期の女子じゃ一番のやり手……だったんだけど、こんなところじゃ、それも振るわないよな」

何となくその顔は寂しそうだった。でもそんなことより、私は山村さんの過去、というほどでもない背景に色んな意味で驚いていた。営業部にいてトラブルで飛ばされたって、一体どんな仕事をしてたんだろう、トラブルって何があったのかしら、飛ばされるってそれは、いわゆるリストラなんじゃないのかしら、ここはそういう会社なんだわ、などなど。思って驚いているとまた組長は軽く笑った。そして、おどけた様子で自分の口許に人差し指を持ってくると、こんな風に言った。

「中山さん、今のこと、皆にはオフレコでお願いします」

「え?あ……はい、それは……」

「あ、でも、中山さんと秘密の共有なんかしちゃったら、また山村に冷たくされるかな」

構いませんよ、の前に彼はそう言った。私は目をぱちくりさせ、その、ちょっと可愛くも見える彼の仕種に笑って返した。考えてみるとこの組長とこんな風に話したのは初めてだった。普段働いている間も、人当たりのいい、明るい好青年の部類に入る人だと思うのだけれど、こういう部分を見てしまうと変に親近感が涌いてしまう。へらへらしているようでよく働くし、同僚や上司として、いても悪くはないタイプだ。うちのあの二人も、余所ではこんな感じなのかしら。そんなことを思って私は少し笑った。兄貴はさておき、ヤスヒロは多分こんな感じなのだろう。可愛いというか、手がかかる子供みたいだ。そんなことを思いながら、私は彼にこんな質問を投げてみた。

「そう言えば、組長は独身なんですよね?

「うん、そりゃもう」

「それって山村さんも一人だからですか?」

その質問に、組長はちょっと面食ったような顔をした。そして今度はにやり、と、何となく悔しそうな顔で笑うと、

「言うねぇ、中山さん。伊達にガツガツ働いてるわけじゃないねぇ」

何だかちょっとわけのわからない言葉で返してきた。それは否定でも肯定でもなく、結果としてはそうなんだ、と言っているような気がして、私は何も言わずに笑って返した。

 

その日はそのまま、山村さんの車で家に帰る事になった。翌日は話の流れで仕事は休む事になって、私はちょっと困ったのだが、ここでごり押ししても仕方ないかも、と思ってそれを受けることにした。足を捻挫している事は事実だし、医者にかかった方がいいと言う意見も否めなかった。帰る道すがら、車の中は私のナビゲーション以外の会話はほとんどなかった。ただ、どういうところに住んでいるのか、という話になり、成り行きで、一応彼氏(この一応ってどこにかかるのかしら)と一緒に暮らしている、ということは喋ってしまった。

「あら、そうなの。結婚は?

当然その質問は投げられて、私はあはは、と乾いた声で笑ってから、

「そういうめどは、ちょっと」

多分、してもおかしくないんだろうとは思う。でも、向こうもついこの間までアルバイトだったわけだし、こちらにはこちらで色々思うところがあるし、必要に迫られてもいないし、今のところは考えて、なくもないけれど……なんと言おうか、する気持ちではない。山村さんは運転しながら、へぇ、と言っただけで深く追求しては来なかった。そんな感じに会話らしい会話もなく、私達は目的地に到着し、ありがとうございました、と車を降りる段で、山村さんが言った。

「もし辛いようなら、迎えに来ましょうか、明後日」

「え?

「一応これ、渡しておきます。何かあったら連絡してね」

唐突に言われて、小さなメモを渡されて、私はまた驚いた。驚いていると、山村さんはそれじゃ、と言って車を走らせ、さっさとその場から去ってしまった。渡されたメモには携帯電話の番号がメモされていて、私には一瞬何があったのかわからなかった。今の、何かしら。新手のナンパじゃないわよね、とか、くだらない事をちょっと思ってから、玄関の前で私は思わずそれを口にしていた。

「や……やさしいんだ、あの人……」

声が震えていたのは意外だったから、かもしれない。わざわざ送ってくれて、その後こんな風にしてくれるなんて。私はそのことにびっくりしていた。そして、そんなやさしさが仕事中の彼女と全くと言っていいほど被らないことに、更に驚いていた。それはそうかも。仕事は仕事だし、元は営業でバリバリ働いていたような人だし、しっかりしてるし、あの人がしっかりしていなかったら、現場は緩みっぱなしかもしれないし。でも、こんな風にやさしいんだったら、それをあそこでももうちょっと出してもいいのに。そうしたらみんな、現場の影でこそこそ変なことも言わなくなるのに。それを思うと、ひとごとだと言うのに私はちょっと哀しいような寂しいような気持ちになった。本当はいい人なのに、という言い方も失礼だけど、でも、それがちゃんと評価されていないのは、やっぱり寂しい気がする。わかりやすいばっかりがいいわけでもないけど。そんな、ちょっと残念な気持ちで私は玄関を開けた。鍵は一応かかっていたけれど、電気はついていて、中からは声が飛び出してきた。

「あ、かのこさん、お帰りなさい。遅いんですね」

穂波さんがわざわざ顔を覗かせている。私はそれに笑って返して、

「うん、今日はちょっとね」

「足……どうかしたんですか?」

靴を脱ごうとすると、出てきた彼女はすぐにもそう尋ねてきた。私は、

「ああ、現場で転んで、捻挫……」

「え、捻挫?大丈夫ですか?歩けます?あの、肩貸しましょうか?」

聞くなり何だかパニックし始めた彼女が大騒ぎを始める。大袈裟な、と思いながら、私はそれに返した。

「平気よ、大した事じゃないし。明日は休め、って言われたから休むけど……」

「そんな、大変ですよ!早く、早く座らなきゃ」

この子は、やさしいことがすごく良くわかる子よね。さっきの山村さんと比較して、私はそんなことを冷静に思った。でも、やさしいのは嬉しいけど、こんなにあわてなくてもいいんだけど。死ぬわけじゃなし。思いながら足を引き引き歩いていると、外からまた玄関のドアは開けられた。

「ただいまー……あ、かのこも今帰りか?」

「かのこさん、捻挫しちゃったって……」

帰ってきたヤスヒロにお帰りなさいよりも早く穂波さんがそれを報告する。ヤスヒロは目を丸くさせ、

「おいおい、大丈夫かよ?

「それで明日、お休みするって……」

「何だ、そんなに酷くしたのか?今から医者行くか?歩けるか?」

騒ぎがだんだん大きくなる。やさしかったり心配してくれたりはいいけど……これはちょっと。思いながら私は返した。

「大丈夫だってば。病院は明日でいいし、そんなに酷くしてないから……いたっ」

でもその会話の途中で思わずその足に乗ってしまったりして、

「何が大丈夫だよ。お前は変なところで強がりなんだよ。痛いんなら素直に言えばいいだろ?

ヤスヒロが過剰反応して眉まで吊り上げる。その横では穂波さんが、

「とにかくかのこさん、座ってください。湿布とか、どこですか?」

「だからそんなに大したことないって……」

「かのこお前、なんでオレが一緒にいると思ってるんだ?こういうときくらい甘えろよ」

「って、あんたも何言ってんのよ……」

話がわけのわからない方向へと転がっていく。まあこういうところがこの男のいいところでもあり、うっとうしいところでもあるんだけど。ちょっとうんざりしながら私はいつものソファに座った。ばたばたと、穂波さんは湿布やら包帯やらを探し回っていた。ヤスヒロは座った私を見てようやく着ていたジャケットを脱ぎ、締めていたネクタイを緩め始めた。やれやれ、やっと落ち着いたか。そんな気持ちで私は息をつく。

「でもそんな足でどうやって帰ってきたんだよ、お前」

間を置いて、ヤスヒロがそう言いながらソファへとやってきた。私は何気なく、

「会社の人が送ってくれたの。明日は休んで、明後日、もし足が酷かったら迎えに呼んでくれ、って」

「へぇ、いい人だな」

「お陰で、バイク置いて帰ってきちゃったけど」

そのことを思い出し、私はちょっと困ってしまった。組長の言いつけどおりに病院に行くのはいいけれど、足がない。自動車のない私たちにとって、あの50ccのバイクは貴重な移動力だった。ヤスヒロがいつものように隣に座る。見るでも無しに私は言った。

「明日の朝、取りに行かなきゃ」

「かのこが?でもお前、足……」

「そんなこと言ってられないでしょ。それに、大した事ないもの。タクシーでも呼んで……」

「だったら俺がこれから行ってくるよ。かのこはゆっくり休んでろ」

「こ、これから?

何を言い出すのだこの男は。そんな気持ちで私は彼を見やった。ヤスヒロはさも当然、という顔で、

「メシ食ったら行ってくるよ。お前はここで大人しくしてろ」

「メシ食ったらって……今からじゃなくてもいいわよ、別に。明日あたしが……」

「いいから。そう言えばメシは?」

当事者の私を置き去りにヤスヒロは言った。私はあわてて、

「だってヤスヒロだって疲れてるでしょ?明日だって仕事だし」

「そんなこと言ったらかのこだってお疲れじゃん。同じだろ?」

「同じじゃないわよ。って言うか、どうしてあんたがそんなこと……」

いや私を案じてくれているのはわかるけど。思いながら私はいつものようにけろっとつるっと、とんでもないことを言ってしでかそうとしているヤスヒロに反論した。ヤスヒロは私には取り合わない様子で、

「そう言えばかのこも今帰ってきたばっかだっけ……メシ、支度しなきゃなー」

そう言ってソファから立ち上がる。私は聞く耳持たないこいつの耳をこちらに向けさせようと、思わずそこに立ち上がった。

「ちょっとヤスヒロ!人の話聞きなさいよ!

「ななちゃん、もしかしてメシ、作ってくれてた?」

「あ、うん……簡単なものだけど。それよりヒロ君、湿布とか包帯とか、どこかにない?」

「あー……湿布はどっかにあったけど、包帯はなかったなー……コンビに行ってこないとなー」

「じゃあちょっと出てくるね。すぐ戻るから……」

「って、ななちゃんはダメだよ、一人で外に出ちゃ。用があるならオレが行くから」

湿布と包帯と50ccの当事者の私はすっかり置き去りで、二人はキッチン近くでそんな話をしている。ああもう、もうちょっと人の話を聞いて頂戴よ、という気分で、でもありがたいと思いながら、私はそれを黙って見ていた。でも、何となくその会話についていけなかったことは否めない。

「おう、かのこもヤスヒロも帰ってたか。お帰り」

そんなことを言ってそこにのこのこ出てきたのは兄貴だった。お風呂に入っていたらしい。体からほかほかの湯気を立たせている兄貴は上機嫌らしく、

「何だ何だ、何の騒ぎだ、ん?

「いや、かのこが足、怪我してきて」

にこにこ笑っていたのだが、その一言で目を剥くように驚いた顔になった。そして、

「何だ、かのこ、大丈夫か?」

「大したことないわよ、ちょっと捻挫しただけだから」

「でも包帯がなくて、買いに行かなきゃって、今……」

「だからそんなに大したことしてないってば……」

穂波さんがそこにまた一言付け加える。話が大きくなりそうで、私はうんざりしていた。兄貴は、へえ、と言って、でも他の二人ほどの反応は見せなかった。そこへヤスヒロが、

「じゃ、オレがかのこのバイク取りにいくついでに、買ってくるわ」

「だから、取りに行かなくていいって言ってるでしょ」

「なんで?不便だろ?あれがないと」

「そうだけど……」

ああもうこの男は、思ってわたしは溜め息をついた。兄貴はしばらく何も言わずにそれを聞いていたけれど、やがてこんなことを言った。

「かのこ、バイク置いてきたのか……じゃ、オレが明日の朝、取りに行くわ」

そこで、私達はいっせいに兄貴を見た。兄貴はちょっと不思議そうな、それでもいつもとあまり変わらない様子で、

「オレも明日休みだし、バイクがなきゃ医者にも行けないだろ?」

「でも……じゃあ包帯は……?

そこへ穂波さんが問いを投げる。。へっ、と兄貴は笑うと、

「そんなに心配しなくても、かのこはそんなにやわじゃないよ。今だって立ってんだから、ガチガチに固めたりしなくても平気だろ。なぁ?

そう言って私に振り返る。私も、

「うん、まぁね……」

「じゃ、それで決まりってことで!あ、俺かのこの勤め先とかわかんねーから、ナビしてな。行きはタクシーでいいだろ」

兄はそう言うとわはは、と笑って冷蔵庫から冷えた発泡酒の缶を取り出し、プルトップを軽く開けた。ぷしゅ、という音を私たちは聞くでもなしに聞いて、そのころにはそれまでの勢いみたいなものをすっかりなくしていた。

「タカフミさんがそう言うなら……」

「まぁ、助かるけどな……」

穂波さんとヤスヒロはそんな感じに納得しているようないないような様子だった。私は、兄貴の癖に気が利くじゃない、やっぱりお兄ちゃんだからかな、とか思いながら、人の発泡酒を勝手に飲む兄貴を黙って見ていた。

 

翌朝、と言っても通勤ラッシュが終るころ、私と兄貴は50ccのバイクをとりに、タクシーで私の勤め先に行った。その帰りについでだからと病院にも寄って、私達は兄妹で50ccに二人乗りして(違反なんだけど)走ることになった。そう言えば兄貴が免許を取り立てのころにもこんなことしたなぁ、と思いながら、でもきっともう二度とないわね、とも思って、私はその背中でちょっと笑った。

「何笑ってんだよ?

信号で止まると、兄貴がそんな風に言った。私は笑ったまま、

「別に。悪かったわね、わざわざ」

「お前、こういうときには「ありがとう、お兄ちゃん」だろ?」

ちょっと呆れたように兄貴が言う。笑っていた私はその一言で眉をしかめた。何、兄貴ってこんなにシスコンだったわけ?そう思うと心配と言うかちょっと気色悪くなった。黙っていると兄貴はまた、

「何だよ?黙り込んで」

「いや……兄貴って、マトモに彼女作れてるのかなあとか、思って」

「何だそりゃ。つーか、余計なお世話だ」

妹の不安も虚しいほどに兄貴はばっさりと言った。信号が青になって走り出すと、私たちの会話も途切れた。確かに余計なお世話だけど、あんまりシスコンって言うのも、嫌というか気持ち悪いと言うか、確かに離れていく寂しさはなくはないけど、でもねぇ、とか何とか、私はその背中につかまって思っていた。次の信号で私達はまた捕まって、バイクが止まるとまた兄貴が口を開いた。

「かのこ、こいつちょっと借りていいか?」

「え?

「ななちゃん、先生のところに送ってくるわ」

振り返りもせず、さっきよりも素っ気なく兄貴が言った。私は目をぱちくりさせ、

「うん、もう用もないし、いいけど……」

「あの子も上司のところに住んでたら……って、厳密には同じマンション、てことみたいだけど、それでも状況も変わるだろ」

兄貴は疲れたようなため息混じりにそんなことを言った。聞きながら、そう言えば今日も穂波さんは、部屋から出られずにいたことを思い出した。昨日も、よく知らないけれどずっとあの部屋にいたらしい。彼女のことは職場もそれを承知している、とは言え、本人はきっと心苦しいに違いない。そんなことを思うと何だか不憫で、私も変に思い息をついてしまった。

「そうね……だといいわね」

「俺も肩の荷が下りるし」

そう言った兄貴の声がちょっと寂しそうに聞こえて、私はちょっとだけ笑ってしまった。気付いたのか、兄貴が不機嫌そうに言った。

「何だよ。何笑ってんだよ?」

「だって、何か残念そうじゃない?」

「別に。オレとあの子は何でもないし、これで全く縁が切れるわけじゃないし。大体あそこの上司とうちの先生ってな、連れ立ってホストクラブに行ってるようなオトモダチだぜ?

「へぇ、仲いいんだ?

だから何よ、とは言わず、はぐらかすように私は言った。兄貴はそれには何も返さず、信号が変わるとまたバイクを走らせ始めた。何よ、やっぱり気になって、寂しいんじゃないの、むきになって。そんなことを思いながら私は少し笑っていた。

 

うちに帰ると、兄貴は道々言っていたように穂波さんを送り届けに出かけて行った。私は、昨日より随分良くなった上お医者さんに見てもらった足で、ぼんやり一日、というわけでもなく過ごすこととなった。ここ何日かいろいろあって家の中はごたごたしていたから、都合のいい休み、といえばそうだった。ついでに言えば、やや寝不足の感もある。私は部屋を適当に片付け、洗濯物を外に干し、それからちょっと昼寝をしてその日を過ごした。突然の休日は、突然なだけに計画も何もなく、そしてあっという間に終わろうとしていた。昼寝のせいかもしれない。夕方、昼寝から起きた私はそんなことを考えながら三人分の夕食を支度した。そうして日が沈んでしばらくは、誰かが帰ってくるのを待っていた。と言っても、ヤスヒロは毎日遅いから多分待ちきれないだろう。兄貴は、一体どこまで行って何をしているのか、出て行ったきり連絡もなかった。そうこうしているうちに時計は七時を過ぎ、私は一人で夕食をとった。そして、今日ヤスヒロは何時に帰ってくるのかな、お風呂先に入っちゃおうかしら、と、テレビを見ながらそんなことをぼんやり考えていた。

 

「ただいまー」

「お帰り」

「あれ、タカフミは?それにバイクもなかったぞ?」

九時過ぎ、ヤスヒロがいつものように帰宅した。私は特にお出迎えもせず、テレビの前のソファに座って顔だけを彼に向けた。

「穂波さん送ってくるって、出かけたっきりよ、バイクで」

「へぇ……かのこ足は?どうだ?」

ヤスヒロはいつものように玄関から上がるとジャケットを脱ぎ、ネクタイを解いた。見ながら私は立ち上がり、

「平気。病院も行ったけど、大したことないって」

「そっか。良かったな。でも無理すんなよ?かばって反対の方痛めたりもするからな」

「うん。ヤスヒロ、ご飯は?

「まだ。今日、何?」

ほぼ普段どおりの会話だった。私はキッチンに移動して、

「お味噌汁とこの間あんたが買ってきた干物。今から焼くけど、待てる?」

「勿論。焼いて焼いて」

ソファに座ってにこにこヤスヒロは笑っていた。そしてテレビを変えながら、キッチンの私に言った。

「本当に大した事ないんだな、良かった良かった」

「みんな大袈裟なのよ。最初からそう言ってるのに」

「かのこのことだから、仕事しててダイナミックにこけたんだろ?どうせ。わかりやす」

ケケケ、と笑ったヤスヒロを私はキッチンから睨んでみた。

「何よ、一生懸命働くのの、どこが悪いわけ?」

「悪くないよ。けど、本当に良く働くよ、かのこはさ。契約社員なのに」

何の気もないように、よく働く、そのことに感心しているだけ、という感じでヤスヒロが言った。グリルにアジの干物を入れて、火をつけて、私は黙ってそれを見ていた。と言うか、何だか何かを言えなくなってしまっていた。黙っていると、ヤスヒロは不思議そうに首をかしげて、

「かのこ?

そう言って対面式のキッチンの向こうに立った。私は下を向いたまま、

「何?」

「オレ……何か変なこと、言った?」

私は、その何か、に引っかかっていた。言われる通りだな、と、普段なるべく考えないようにしているそのことに、ちょっと苛まれてしまっていた。身を粉にして働いても、契約社員か、なんて、気がついてみると力が抜けてしまう。いつものことだけど、でもやっぱりそれは私には痛い現実だった。何やってるんだろう、なんて、普段は考えている余裕はない。でも、今していることは本当に口を糊するためだけの、一時的なことのはずなのに、次のあても全く見えてこない。今の仕事が気に入らないとか、そういうことではない。身分がどうとは、多少思うけど、でもきっとしたい仕事に出会えたら、そこで正社員という肩書きがもらえなくても構わないとは思っている。仕事は肩書きでするものじゃない、「私」がするのだから。

「かのこ」

ヤスヒロは気付くと私のすぐ後ろに立っていた。そして不安げに、

「やっぱオレ、何か変なこと、言ったな」

「そんなこと……」

「でもオレ、かのこが頑張ってるの見てるの、好きだから」

そう言ってヤスヒロが後ろから、私の頭に手を置いた。くしゃくしゃとやられて振り返ると、ヤスヒロはやさしく笑って言った。

「かのこの、何にでも真剣なとこ、すっげー好きだから。頑張れ、なんて簡単に言っちゃいけないかもしんないけど……たまにはゆっくりしてもいいし……でも、俺はそういうとこ、好きだから」

聞いていると、何が言いたいのか良くわからない言葉だった。でも、そばにいれば、彼が何を伝えたいのか、それが良くわかる。私は少し笑った。そして、ちょっと恥ずかしいかな、と思いながら一言だけ返した。

「ありがと、ヤスヒロ」

ヤスヒロは何も言わなかった。ぽん、とまた一つ私の頭をたたくと、そのままきびすを返していつものソファに戻っていった。

 

 

 

 

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Last updated: 2006/06/25

 

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