続・カフェオレボウルでハイティーを

 

エスプレッソの熱い距離

 

第七話

 

次の日の朝、兄貴は朝食の席で「帰る」と言い出した。昨夜は夜遅くて、ぎりぎりで午前様を免れた兄貴は、遅くまで戻らない上ろくに連絡も取れなかったことに腹を立てていた私などには全く構わず、いけしゃあしゃあとその目の前で言った。

「このまま仕事に直行して、その足で帰るわ」

「帰るわ、って……」

ヤスヒロは既に出かけてしまって姿はない。私達の前にはそのヤスヒロが支度してくれた朝食が二人分と、お弁当の包みが一つ乗ったテーブルがあった。そのお弁当もヤスヒロが作ってくれたもので、兄貴はちょっとだけ恨めしそうにそれを見ていた。

「だって兄貴、ストーカーはどうするのよ?部屋もばれて、引っ越すんじゃ……」

「どっちにしてもあそこに帰らなきゃ、引越しも出来ないだろ。それに、一応警察沙汰にもなったし、あいつらだってこれ以上大袈裟には騒がないだろ」

それはちょっとのんきな意見のように聞こえて、私は少し不安になった。兄貴は、何かが気に入らないような顔でふーっと溜め息をつき、それから私を見て言った。

「おまえら、毎朝こんなんなのか?オレがいないと」

「……は?

「は、じゃねぇよ。見せ付けてくれやがって」

けっ、と兄貴は付け足して、それから朝食に手をつけた。私は少し思案して、それから思わず赤面した。

「なっ……何よ、見てたの?」

と言っても、見られて困るようなことをしていた訳では、ないと思う、多分。ただ、朝起きると御飯が作ってあって、お弁当まであって、ヤスヒロが笑いながら「おはよ。んじゃ、言ってくるわ」と言って出かけようとしたので、呼び止めて、昨夜のぐちの事を謝って、お弁当のお礼を言って、「行ってらっしゃい」と返した、それだけのことだ……なのにどうして私は動揺しているのだろう。一人でそこまで考えて、そのまま私は黙り込んでいた。兄貴は御飯を食べながら、

「これ以上やってられんっつーか見てられん。後はおまえらで好きにやってくれ」

「す、好きにって……別に、変なことしてないでしょう?何怒ってんのよ……」

言われて言い返すと、それ以上兄貴は何も言わなかった。ヤスヒロの支度したお味噌汁と卵焼き、それに御飯とをさっさと片付け、ずずず、と音を立ててお茶を飲む。私はそれにやっぱり何も言えず、ちょっとの間黙っていた、というか、黙らされていた感じだった。そして、兄貴が帰ることを頭の中でしっかりと確認して、そんな兄貴に向かって言った。

「じゃあ、気をつけてね。何かあったらすぐ連絡してよ?黙ってないで」

「おぅ、心配かけるな」

「そう思うなら、自覚してよ、お兄ちゃん」

最後にちょっとだけいやみったらしく私は付け足した。兄貴は笑いもせず、無言で肩をすくませた。まるで嵐のように次々といろんなことが去っていって、一体この数日間はなんだったのかしら、私は兄貴を目の前にそんなことを思った。たった四、五日程度のことが何だかとても長かった気もするし、それこそ嵐のようにあっという間だったような気もする。

「かのこ。そういや足はどうだった?」

今更、の問いかけを兄貴が投げてくる。私は苦笑しながら、

「おかげさまで、今日から普通にバイクに乗れそうよ。ところでお兄ちゃん」

「ん?何だ?」

「ガソリン、入れといてくれたわよね?もちろん」

問いかけに、兄貴は黙した。私はすぐにも兄貴をにらみつけ、

「ちょっと兄貴、どうなのよ?答えなさいよ?」

「……悪い。忘れてた」

兄貴はその場で私に向かって手を合わせた。そして小さくなりながら、

「帰って落ち着いたらすぐ返す!すぐ返すから!

「すぐ返すから、じゃない!今ここでガソリン代払って帰りなさいよ!

怒り心頭、私はそう叫んでいた。これ以上このばか兄貴を甘やかしてなるものか、そんな思いで一杯だった。兄貴はへこへこ情けなく頭を下げながら、

「そこを何とか!今財布の中、今日の足代っきゃ残ってねーんだよ。後生だから、頼む!な?」

「後生も緑青もないっ」

キレた私はそんな風に返していた。そして、ついさっき「けっ」とか言われたのに、言われ損だわ、焦ったりして損した、とつい先ほどの自分の態度を悔やんだ。

 

そんな一悶着の後、私はどうしたかというと、特にどうすることもなく、いつもの通りに定刻に出勤した。兄貴からは、もちろんガソリン代を徴収する事は出来なかった。バイクのガソリンは辛うじて通勤できそうな程度には残っていたけれど、無事帰宅するには危うい量だった。今度会ったら兄貴め、ただじゃおかないから。ガソリン代だけじゃなくて御飯の一回分くらいおごらせてやる。そんな気分で出勤すると、普段と変わらないはずの、一日休んだ後の会社は、朝から少しざわついていた。いつも通りに始業の十分前に現場に入ると、普段は見慣れない、役職名のあるおじ様たちがそこに数人たむろしていた。何、私のいない間に何かあったのかしら。朝も早くから、何事かしら。そんなことを思いながら、私はその人たちを横目に見て、見ながら組長やら山村さんやらの姿を探していた。今日の仕事も恐らくデスクワークだろう。その指示を貰わなければならなかったし、何より二人には昨日と一昨日のお礼を言わなければならない。組長には休ませてもらってありがとうございました、で、山村さんには、送ってもらってありがとうございました、を。もちろんその他の現場のスタッフにも、休んだ事を謝って回らなければならないが。そんなことを思っていると足音も高く、そこに谷さんが駆けてきた。振り返って朝の挨拶をしようとした私より早く、駆けてきた谷さんは言った。

「中山さん、原野さん、仕事やめるって!

そんなことより先にお早うございますでしょ、とツッコミをいれたくなる年下の上司は血相変えて一気に言った。私はツッコむタイミングもなく、驚いて、

「原野さんが……あらら……」

けれど大した衝撃でもなく、そんな風にしか言えなかった。谷さんは驚かなかった私を見て目を丸くさせると、

「あらら、って……コメント、それだけですか、中山さん」

「いや、だってそんな感じだから……」

それが意外な事だったら、私もきっと驚いていたことだろう。でもそのことは、私にとってはそんなに意外でもショッキングでもなかった。解らなくもない、そんな感じのことだ。恐らく、月曜日の混乱で彼女のストレス、というか仕事をやめたいという感情もピークになってしまったのだろう。大体の事が読めた私を見て、谷さんは、

「やっぱり、中山さんもそう思います?原野さん、山村さんといるとやりにくそうだったしなぁ……」

そんな風に言って変に納得している。でも、その言い方だとまるで山村さんがその原因みたいじゃない、と思ったけれど私は言わなかった。それも、あるかもしれない。山村さん、本当は優しい人なのに、人あたりはきつい。言う事ははっきり言うし、その調子で「しっかりしてよ」などと言われ続けたら、しっかりする前に参ってしまいそうだ。多分仕事に対する姿勢が現れてのことなんだろうけど。でも、月曜のトラブルの原因は電子機器の不具合で、直接原野さんとは関係ないんだけどなぁ。そんなこと思いつつ、私は辺りを見回した。そして、谷さんにこう尋ねた。

「そう言えばその山村さんと組長は?」

「ああ!そうだ忘れてた!あの二人、そのことで総務に呼ばれてるんですよ!

谷さんの声は、原野さんのことを私に報告した時より大きかった。私はそれは流石に意外で、

「はぁ?そんなことで呼び出し?」

すっとんきょうな声でそんな風に言い返してしまった。

 

そして始業から二時間、組長と山村さんはブースに姿を現さなかった。私たち現場のスタッフはそれでも、毎日こなしているいつも通りの仕事をするしかないわけで、特に指示もなく、誰もが自分から各自の作業を始めていた。私は、と言うと、いつもの荷造り作業は止められて、ひとまず解る範囲でのデータ入力をし始めたのだが、一時間もするとそれも終わってしまい、さて次に何をしたらいいのかな、と、ちょっとの間悩んでいた。月曜の午後から、確かにこちらの仕事は手伝っているけれど、火曜(昨日だ)は一日休んでいたし、誰かがそばにいないとやることが全く解らないのも同然だった。時々覗きに来るオヤジたちが「どうかしたのか?何してるんだ?」と声をかけてきて、私が「何をしたらいいのか解らなくて」と答えると、オヤジは笑って「じゃあとりあえず座ってろよ。電話がかかってきたらとってくれりゃいいから」と、とてものんきに言い残し、笑って去っていったりした。座っているだけ、というのも、心苦しいと言うより、正直辛いものだ。どうしたものやら、と思いながら、どうもできずに私はどちらかが席に戻るのを待っていた。戻ってきたらそれこそ、忙しくもなるだろうし、そうすれば何かしら仕事はもらえるだろう。そんな風に思いながら。

二時間後、ブースにやっと組長と山村さんが現れた。組長の方は多少困ったような顔をしていたが、普段とそんなに変わらない様子で、山村さんはと言うと、何だか疲れたような顔をしていた。プラス、その表情はいつも以上に厳しかった。それから、私はようやく仕事にありつけるような格好になって、月曜にも教えてもらったデータの入力や伝票の整理をようやく始められることができた。どうかしたんですか、とか言うような事は、もちろん聞けなかった。二時間も総務に世霊出し、なんて、何があったのか、とても気にはなるのだけれど。

「中山さん、悪いんだけど」

「はい?

そんな作業の最中、組長がそんな風に私に声をかけてきた。パソコンの前に座ったまま、私は顔だけをそちらに向けた。山村さんは何かの用で、ちょうどその時席を空けていた。組長はそれを狙っていたのだろうか。辺りをちらちら見回して、それからこう切り出した。

「しばらく、こっちの仕事やってもらっていいかな」

「こっちって……ここの、ですか?

目をしばたたかせて、私は問い返した。組長は困ったように笑って、

「うん。聞いてるよね?原野さん、退職しちゃって……まあ正式には、来週一杯は有給の扱いなんだけど」

もうここ二は二度と来ない、そういうことか。皆まで聞かずとも、その辺のことは察しが着く。組長は苦笑をもらし、そのまま続けた。

「とりあえず、手がないと困るから、次の人を入れましょう、みたいなことはさっき話してきたんだけど、すぐってわけにもいかなくてね」

「それは……私は構いませんけど……荷造りの方は、大丈夫なんですか?

ここでの仕事なんて、何やってたって特に変わらない。むしろ足が治るまでは歩き回るよりこちらの方がずっとありがたい。でも、私は荷造りの人員が足りないから、という理由でこちらに来たわけだし、そっちは大丈夫なのだろうか。思って尋ねると、組長は今度はもっとにこやかに、ほっとしたかのようにこう言った。

「ああ、それなら平気ですよ。もうすぐ二直も終るし、量も減ってきてるし」

「へぇ、そうなんですか」

何だそれなら、私がこっちにいても平気よね。でも、何か、ちょっと引っかかるわ。なんでかしら。笑い返しながら、私は心の片隅でそんなことを思った。組長は私がこちらの仕事を了解した事に安堵したのだろう。その後はいつもと同じ様な、軽めの口調で続けた。

「助かりましたよ、中山さんがいてくれて。原野がこんなことになっちゃって、次の人が入ってくれても、もしかしたら、居着かないかもしれないしねぇ」

「居着かないって、そんな……」

ちょっと待ってよ、この人までそういうことを言うのか?思って私はちょっと辟易した。組長は笑いながら、

「ほら、他の一般職の女子と違って、山村はきついところがあるから。原野さんも、元々ここの部署希望してきたわけじゃなくて、総務から応援できてたのがなあなあになって異動したみたいなもんだし、気持ちよく働いてた感じじゃなかったしね」

「へ、へぇ……」

その情報に私は何を返していいのか良く解らなかった。組長は冗談ぽく、更に続ける。

「ほら、中山さんならある程度山村がびしびし言っても平気でしょう?それなりに色々経験してきてるし」

「いや……そういうことは……」

「やる気のある人にはいいんだろうけど、今時スパルタって言うのも、流行らないって言ったらそうだけど……」

「スパルタって、何が?」

それは、私の声ではなかった。聞こえた時、私はぎょっとしてその声の方へと振り返っていた。組長は調子に乗っていて、それを聞き分けられていなかった。

「そりゃ、山村の……」

「私の?

あーあー……心の中でも、私にはそんなことしか言えなかった。山村さんは用が済んだらしく席に戻ってきて、それに気付いた組長は、笑ったまま固まっていた。

「私の、何?児嶋くん」

室内は静まり返る。遠くから、リフトの動いている音やどこかでエアーを使っているシューシューという音が聞こえた。

「山村……どこ行ってたんだ?」

「次の、下請けに行くトラック便に乗せる材料が届いてないって言うから、確認してました。組長からも××ケミカルに一言連絡しておいてください」

冷淡に山村さんは言って席に着く。私はその様子に圧倒されて、何も言えずにいた。組長は笑った顔のまま青くなって、

「いや山村、これはだな……」

「こんなところをうろうろしてる暇があったら、自分の仕事でも片付けたらどうですか、組長」

もちろん、山村さんはその言い訳に耳を傾けようとはしなかった。組長はうう、と小さく唸ると、

「解りました、働きます……」

そう言って私たちの側を辞していく。私は無言で見送って、それからちらりと山村さんのほうを見た。山村さんはいつもよりちょっと怒ったような顔で、パソコンの陰から私を見ていた。

「中山さん」

「はっ……はい」

叱られるか?いやでも、無駄話していたのは事実だし、私たちが悪いんだし。そう思って私は身構えた。が、

「原野のこと、聞いたんでしょう?」

山村さんの口から、溜め息と共にそんな言葉が聞こえてきた。私は意表を突かれて、少し間を置いてから、

「ええ、あの……まぁ、大体のところは……」

言葉の後、辺りは静まり返った。山村さんは私から視線をそらして、また大きく溜め息をついた。そして、手元の書類をまとめながら、

「そういうことだから、しばらくこちらを手伝って貰いたいの。お願いできますか?」

「ええはい……今、組長に、その話を……」

仕事に関しては、この人の真面目さと徹底振りには、頭が下がる。でも、人当たりは決して柔らかくなくて……何と言うか、認める部分はあるけれど、尺に触らない人がいないわけではなさそうだ。思いながら、私は曖昧な返事をした。この人こういうの、嫌いかしら、それで私、今から叱られるのかしら、そんな風に思っていると、山村さんは言った。

「足の方はどう?

「あ、足ですか?ええ……おかげさまで。あの、休んじゃって、すみませんでした」

「そう。ひどいことにならなくて良かったわね」

座ったままで私は頭を下げる。山村さんの声はやはり淡々としていた。そして沈黙のまま、私達は仕事を始め、私語の全くないまま、それはお昼休みまで続いた。

 

それから三日の間、私は毎日事務ブースで、殆どパソコンの前ですごすことになった。慣れない仕事と妙な緊張感で最初の一日はとても長くて、残り後二日をどう乗り切ったものかしら、なんて思っていたけれど、その辺の心配は木曜日の昼前にはなくなっていた。山村さんはパソコン作業の殆どを私に任せて、他の細かい雑務を片付けていた。任された、というより、訳の解らない面倒なことはこちらがやるから、という感じで、これはこれでこの人なりの気の使い方なんだろうけど、それでもそちらであまりにもてきぱき働かれるのもなぁ、とちょっとげんなりもした。でも、金曜辺りになるとその辺のことも吹っ切れて、適材適所ってヤツよね、と色んな事を納得していた。

座り続けていたお陰で、足の具合はすっかり良くなっていた。でも、まる一週間座る仕事をしていたのだ。足がなまっている事は目に見えていた。これで来週からまた荷造りになったりしたら、月曜日あたりしんどそうだなぁ、なんて思っていた金曜の定時頃、

「じゃあよろしくお願いします」

「じゃ、火曜の……多分午後になると思いますんで」

事務ブースの外、そんな具合に話していたのは派遣会社の担当と組長だった。私は総務に行って伝票を片付けるためのダンボールを貰ってきた帰りで、今日の仕事はそれでおしまい、という頃合いだった。出入り口近くで話し込んでいた二人はどちらからともなく私に気づいて、ほぼ同時にこちらを見た。

「中山さん、ご苦労さん」

「お疲れ様です」

二人は口々にそういい、私はペコリと頭を下げた。派遣会社の担当者はそのままそこから立ち去り、組長はそれを見送るようにしてから、

「じゃあまた来週も、頑張って働いてくださいよ」

と、少し冗談めかした口調で言った。私は、去っていった派遣会社の担当を見ながら、そんな組長に質問した。

「坂田さん、何しに来てたんですか?」

「ん?ああ……原野さんの後任、中山さんたちのところに頼む事になって。新しくまた登録したいって言う人がいるみたいだから、その人火曜日に、見学につれてくるって、そういう話」

「へぇ……」

何だ、社員を採るわけじゃないのね、と、私は胸の中で言った。組長は派遣会社の担当、坂田さんの去った方を見て、

「でも派遣の女の子は、入れ替わり速いよね。仕事覚えたと思ったらいなくなっちゃったりして」

「そうですね、そういう人も、沢山いますね」

取り留めのないようなことを話して、私はそこから歩き出そうとした。出荷場の近辺は、ここの所残業もへって、ちょっとだけ静かになってきていた。谷さんたち社員の青年と呼べる男の人はよっぽどそれが嬉しいらしく、昨日は寄り道して遊んで帰ったらしい。私も誘われたが、足もまだ本調子ではない上に初めての事を覚えている最中でそんな余裕はなかったのでそう言って断った。山村さんは相変わらずで、中々声をかける人もなく、でも組長が夕食に誘っていた。陰でやっていたことをたまたま目撃したのだけれど、見ているこちらも一撃を食らったような見事な振り方で、振られた組長はそれでも懲りていない感じだった。仕事が減っている、と言っても、強制的に休まされる、とか、それほどのことではない。ただ、私がいなくても出荷準備の人では足りているらしく、要するに、元に戻ったような感じだった。私が来る前の状態、というのか。製造業の会社ではそんなことも時々あって、客先の要望で生産量も上がったり下がったり、ということは日常茶飯だ。そのうち誰か無理やり、有給の消化に休め、なんて言われないかしら。ふとそんなことを思って、私は何か引っかかるものを感じた。

「あれ?

抱えていたダンボールを片付け、帰る支度をしながら、私は引っかかったそのことについてちょっと考えてみた。今日は定時だから、帰りにスーパーに寄って、何か美味しいものでも時間をかけて作って、はいい。でも、こんなに余裕しゃくしゃくっていうことは、仕事は減っていると言うことだ。私は今は、足を怪我しているし、原野さんが会社に出てこないから、パソコンを使う仕事と山村さんの手伝いみたいな事をしているけど、足が治ってその後任が来たら、もしかして、ヒマになるんじゃないだろうか。それは結構ショックな事だった。会社は人を遊ばせておく場所ではない。ヒマになったら、それなりに人員の調整をする。私が前の部署からここへ異動したのはその調整の一環だった。ということは、手が足りるようになったらまた別のところに異動したり、休みを取らされたり、下手したら、会社自体を移動、要するにここは解雇されたり、なんてことも在りえるのだろうか。

「中山さん、どうしたの?」

「えっ、あっ……」

声がして、私ははっと我に返った。向かいの席に座っていた山村さんが、首を傾げてこちらを見ている。ぼんやりしていた私はあわてて、

「ああ、いえ……何でもないです。ちょっと疲れただけで」

「そう。じゃ、週末はゆっくり休んで、来週に備えてね」

山村さんはそういうと、仕事中と同じ様にてきぱきと自分の周囲を片付け、荷物をまとめてブースを出て行った。私は一人残され、ちょっと途方に暮れてしまった。仕事が減る、人手が余る、派遣社員を減らす。解りやすい構図というかシステムだ。そして、その逆もしかり。私はその逆で、ここで働けるようになったけれど、その図式のまま、首を切られる、というか契約を解除される事も在りうるのだ。自分なりに色々努力しているつもりでも、そんなことは会社側にしてみたら関係ないことだし、それを訴えられる筋合いもない。だって人材派遣会社に契約しているのは、正社員じゃないのだ。会社の労働組合には入っていないから、何らかの保障をする対象ではないからだ。

契約派遣社員、という身分は、仕事があっさり見つかるのと同じくらいに、簡単に仕事を失う。そう、人手が足りたら、私の仕事はあっさりなくなるのだ。何様なに努力して仕事を覚えて自分のものにしても、手が余っていたらそこから切られるのだ。もちろん、その後の仕事も簡単に見つかるだろう。派遣会社が見つけてくれるから。派遣会社側だってそれが仕事で、それで儲けているのだから。でもそれじゃあ、私たちって、何?労働力以前に、単に人手って事?自分で思いついたそのことに、私はそこで打ちのめされた。ここで努力して手際よく働けるようになっても、下手したら瞬く間にそれはゼロになってしまうかもしれない、なんて。働きがいってものが、ないんじゃない?

私はそんな打ちひしがれた気分で、そのまま帰途に着いた。帰りに寄ったスーパーでは大した買い物もせず、晩御飯も、簡単なものになりそうだった。夕食の支度、なんてものは出来そうになかった。脱力して、今までの人生何だったのかしら、とか、そんなことすら思った。無駄だらけ?そんなの、哀しすぎる。そんなことを考えて買い物を済ませ、うちに帰り、リビングに座り込んだら、私はそのまま動けなくなってしまった。

 

「たーだいまー……おーい、かのこー?

ヤスヒロが帰ってきたのは九時を回ったころだった。私が帰宅したのは六時過ぎで、その間私は何をしていたかというと、床に座って、一人で発泡酒をちびちび飲んでいた。夕食は作っていない。そばにはつまみのようなおやつのようなスナック菓子の袋が一つあって、それも殆どからになりかけていた。

「……何やってんの?お前」

買ってきたものも、帰ってきた時のまま床に放り出してあって、それを見て呆れたヤスヒロが言った。私は酔っ払っていて、そのためにあのショックは増幅されていて、でも、

「……何でもない」

「何でもないって……メシは?

「作ってない」

ネクタイを無理やりに緩めながら、ヤスヒロは辺りを見回していた。顔は少し驚いていて、そのまま彼はまた尋ねてきた。

「何かあったのか?」

「……ちょっと」

「メシは?」

「作ってない」

「じゃなくて……食ってない、か」

ふぅ、とヤスヒロは息をついた。そして、ワイシャツの襟首をくつろげると、

「何か適当に見繕って作るから、待ってろ。な?」

「いいよ別に。お腹すいてないし」

「おまえは良くてもオレは減ってるの」

そんな風に言ってキッチンに向かう。背中を見送って、私はのろのろと立ち上がった。手にはスナック菓子の袋を持っていて、続けてその中身を黙って食べていると、ヤスヒロはまた言った。

「で、どうしたんだよ?何かあったのか?

私は少し無言だった。でも、黙ったままでも相当酷い顔をしていたらしい。見て、ヤスヒロが軽く笑った。

「座ってろ。すぐ作るから。かのこも食うだろ?」

私は黙ったまま頷いた。声を出したら泣いてしまうかも、と思ったのは、お酒が入って色んな感情がいつもより増幅されているからで、ヤスヒロが優しいからじゃないんだから、と心の中で自分に言い訳して、大人しく彼のソファに座った。

 

簡単、というにはやや手の込んだ、夕食、というには遅い時間のそれを食べながら、私は、自分を苛んでいる一連のことをヤスヒロに話して聞かせた。ヤスヒロは食べながら相槌を打ったり、うんうんと頷く仕種を見せて、聞き終わるとこう言った。

「それで、解雇されそうなのか?」

「まだ……そういう話は出てないけど……」

「じゃあそんなに心配する事じゃないじゃん。あわてるのなんか、言われてからでも遅くないだろ」

「そういうことじゃなくて」

ヤスヒロは、私が「無職になる」のが不安なのだと思ったらしい。そちらは、それほど深刻には感じていない。確かに収入がなくなるのは困るけど、次の仕事も、派遣会社に登録しておけば比較的簡単に見つかるだろう。私が一番ショックなのは、そのことではないのだ。

「何か……前にもヤスヒロに言われたけど……」

「オレが?なんか言ったか?」

「派遣社員って、そういうもんだなぁって、思って……」

積み重ねた何もかもが無駄になる。人手の足りないときにはかき集められて、暇になったら削減される。仕事を覚えても、いらない手はいらないのだ。そしてまた次のところに行っても、同じ様に、人員の調整に体よく使われる。最悪の無限ループだ。それを利用して自分の時間を作ったり、飽きない程度に働いたりする人たちもいる。でも、私は多分そういうタイプじゃない。やっぱりやりがいが欲しいし、私でなきゃ、というだけの仕事がしたい。

「ねぇ……私、もう一回、ちゃんと仕事探そう、かな……」

小さく私は言った。言葉の始めと終わりが、上手くつながっていなかった。康弘は、ううん、と少し唸って、それから真面目にこう言った。

「かのこがしたいなら、そうすれば?」

私は、そう言ったヤスヒロの顔を恐る恐る見た。ヤスヒロは笑いもせず、

「今のところと違って、ちゃんと社員で使ってくれるところがよきゃ、そっちに移ればいいよ。それはかのこの自由なんだし」

「うん……」

「それとも……この機会に無職になって、オレの奥さんになれば?」

私はそんな彼を見て、黙ってしまった。ヤスヒロも何も言わずに、しばらく私の顔を見ていた。

「オレさ、時々かのこがどうしたいのか、聞いてても良くわかんなくなる」

「どうって……」

「だってそうじゃん。お前が今の仕事してるのって、食いつなぐため、なんだろ?」

言われて、私ははっとなった。ヤスヒロはそんな私に話し続ける。

「派遣とか契約社員の仕事なんて、簡単に見つかって簡単にやめられるのがメリットだろ?だから、今の仕事なんかなくなったって、また次、って思えばいいじゃん。なのに変にこだわってるし」

「そ、それは……」

「今だって、前の仕事みたいなのが見付かったら、そっちに移ってもいいって思ってるんだろ?だったら、いつ切られるか解んないとこにだらだらいないで、さっさとやめてまた次探したらいいじゃん。なんでそうしないんだ?」

それには色々事情というか考えがあって、と思っても、それは言葉にはならなかった。確かに一時しのぎのつもりで、私は今の仕事を始めた。したいことは他にある。だけど、それでも、やっと仕事も覚えてきたと言うのに、要らないから解雇、というのは、哀しいと言うか、寂しいのだ。

「かのこにとってやりたいことって、何?

「え?

ヤスヒロが、少し疲れたように息を吐き出して言った。私はその質問に、少し混乱してしまった。

「今日の話聞いてると、ただ単に「会社員になりたい」って言ってるみたいに聞こえるぞ」

それは結構痛い一言だった。私は黙り込んで、何も言い返せなかった。言われて見れば、も何もない。今私が思っているのは「やりたいこと」というよりも「社会保障が欲しい」に近い。それとも「評価」か。私何がしたいんだろう。思ったら、目がじわじわと熱くなった。ぼろ、と涙が落ちて、落としながら、私は言った。

「あ……あんたはいいわよ、望んでた仕事に就けて、会社員にもなれて。あた……あたしだって、なりたくて派遣社員になったわけじゃないんだから……」

「って……泣くなよ、かのこ」

やれやれ、と言いたげな声でヤスヒロは言った。それは八つ当たり以外の何でもなくて、彼はただそこにいるから当たられているだけだった。言われた事は確かに正論で、本当のところを突かれていた。だから腹が立つし悔しいのだと私にも解っていた。こんなはずじゃなかったのに、そんなこと解ってたのに、と思うと、自分のばかさ加減に悔しくなって泣かずにいられなかった。私のしたいことって何なのか、望んでることって何なのか、そもそも、どうしてこんなに仕事に対して固執しているのか、自分でも何が何だか解らなくなっていた。

「もういいから、泣くなよ、な?」

何がいいもんか、と思って私はヤスヒロをにらみつけた。ヤスヒロはおっかなびっくりの顔をして、僅かにその体を強ばらせた。

 

週末の二日間は瞬く間にすぎ、すぐにも月曜はやってきた。何だか訳の解らないあの夜の八つ当たりは、特にケンカにも発展せず、どちらが謝るとか機嫌をとるとか、そういう事もなく、風船がしぼむように小さく収まっていた。土曜も日曜も、変な雰囲気があったけれど特別トラブルもなく、仕事始めの出かけも、いつもと同じ様な平穏さだった。しいて言えば、会話は少なめだったが。

私は先週の金曜から、正直言って少し参っていた。ヤスヒロに自分の弱いところを突きつけられた気がして、げんなりしていた。げんなりしたまま会社に行き、げんなり、というか、しおしおした青梗菜みたいに働いていると、周りはそれに気がついて、何だどうした、とことあるごとに声をかけてくれた。彼氏とケンカした、とも、解雇されるかも、とも言えず(何しろどちらも正確な事実ではないので)ちょっと疲れてるかも、と返したりしていた。仕事は、先週と変わらず、原野さんの抜けた後の穴埋めのような作業で、荷造りの手は今現在、充分に足りている、との事だった。そしてその「ちょっと疲れてるかも」の影響が出まくりで、散々色々細かいミスを連発した。何しろ自分が今までにもやっていた入力でポカをやったのだ。注意散漫、としか言いようがない。そんなわけで、山村さんにはお小言まで貰ってしまった。

「ちゃんと仕事する気、あるわよね?中山さん」

「はい……すみません」

「体調が万全じゃない時は、こういうところでも出るものよ?無理しないで。休んでもらえた方が助かることもあるんだから」

それは「出来ないなら足を引っ張るな」って事かしら。厳しい口調から、私はそんなことさえ思って、更に落ち込んだ。こうなると、考え方は暗くなる一方だ。この仕事、やっぱり向いてないのかしら。やりたいことをやってたら、こんな事言われたくらいで落ち込んだりしないのかな。どうしてこんな思いまでして、御飯の心配なんかしなきゃならないんだろう。いっそ働くこと事体やめて、もっと楽に暮らせたらいいのに。働くってこんなにつらいものだったっけ。その日一日、私はそんなことばかり考えていた。働かないって、楽な事のように思える。でも、その間他に何をしていればいいのか。のんびり、他の誰かに何か言われる事もなく、自分のペースで過ごす。それが毎日、って、どんな感じかしら。楽、だけど、たいくつに違いない。たいくつも何も、ちょっと前まで私はほぼニートだったのだ、解らないはずがなかった。そしてそのたいくつがどんなに厄介か、思い出して私はまたげんなりした。げんなり、のままの一日はやたらと長くて、そのげんなり、も露骨に仕事に影響してしまって、その日一日私はしょうもないミスを連発し、側にいる山村さんに何度も溜め息を吐かれてしまった。その溜め息は私に「ちゃんと仕事しなきゃ」と思わせてくれたけど、何だか重苦しくて、しまいには胃の辺りに変な重圧感さえ感じる羽目になった。そして、働くって、どういうことなんだろう、もしこの仕事が私のしたい仕事だったら、今のこの状況をどんな風に感じているんだろう、と、解りもしないことを思った。

そして次の日には、金曜にちらっと聞いた、原野さんの後任候補と思しき人が現場の見学にやって来た。私より年下の女の子で、求職中に相応の真剣な顔で、派遣会社の担当者、坂田さんと組長の説明を聞いていた。この人が今度からここに来て、ここに座って仕事するのか。私はどこへ行くんだろう。荷造りに戻れるんだろうか。ちらちらとその様子を見ながら、私はずっとそんなことを考えていた。そしてそんなことを考えていたために、またミスを連発して、また山村さんににらまれて、溜め息を吐かれて、胃の辺りにもやもやした重圧を感じて、そんなことの繰り返しだった。ああ、早く週末が来ないかな。ここで働くの、何だかいやになってきちゃったな。でも仕事しなかったら食べていけないし、ここをやめても、どこかで働かなきゃいけないことには変わりはないし。何だか泣きたくなって、何度かパソコンの画面が滲んで、こんなことしてちゃいけないのに、どうして私ってこうなのかしら、と思いながら、それでもとにかく仕事をしていた。溜め息をついていた山村さんは、終業近くになってくるとそんな私を見て「本当に調子が悪いなら、無理しないで帰ったほうがいいわよ、また送りましょうか?」と心配そうに言ってくれたけれど、私はそれを断って何とか終業まで仕事をした。一日分がやり切れた、というような充実感はなく、ただただ、こんなんでいいのかしら、とそんなことばかり思っていた。

そして残りの平日も、似たような状況ですぎていった。出荷場の面々は、ごく一部を除いてほとんどの人が定時で帰り、私は毎日ほとんど事務ブースで座って仕事していた。後任の人は来週から来るらしい、とちらっと聞いて、でも詳しいことは何も知らないまま、金曜も終わりに近づいていた。何だかんだと集中力を欠いて散々ポカもやらかしたけれど、そのおかげか私は事務作業も多少覚え、それなりにこなせるようになっていた。週頭ほどの失敗もやらなくなり、このままこの仕事でも、何とかやっていけそうだけどなぁ、なんてぼんやり思ったりしていた。

 

「中山さん、お疲れ様です」

そんな金曜の終業後、私は派遣会社の坂田さんに捕まっていた。社屋の入り口辺りで、坂田さんは他にもいる契約社員の女の子達を見送りながら、私のことを待っていたみたいだった。

「お疲れ様です……何か?」

「今からちょっと、いいですか?」

坂田さんはいつもと変わらない、人当たりのいい顔で笑っていた。私は何事かしら、と身構え、身構えると坂田さんは、

「ああ、そんなに大したことじゃないですから。時間も取りませんし」

そんなに大した事って何だ、と私は心の中で叫んだ。思いついたことは一つだ。職場の異動、その勧告。今度はどこへ行くのか、この会社なのか、余所なのか。身構えていると、坂田さんは少し不思議そうな顔をして、重ねて私に尋ねた。

「今時間、大丈夫ですか?」

「……ええ、まぁ」

どうせ早く帰ったところで、ヤスヒロが先ということはないに違いない。大体ヤツとは先週末から、何だか微妙な感じになっていた。ケンカのような八つ当たりのようなものが尻すぼみだったせいもあるけれど、彼の帰宅がまた一時間ほど遅くなって、私達はほとんど顔を合わせなくなっていた。世の恋人同士なら、一緒に住んでいる意味があるのか、みたいな、そんなレベルだ。いいわよもう、この際矢でも鉄砲でも来るがいいわ。少しやけっぱちになりながら私はそんなことを思った。坂田さんはじゃあ、と言って、いきなりその場で話を切り出した。

「中山さんの探していた職種の会社から、うちに人材の依頼があったんですよ」

「……へ?

それは矢でも鉄砲でもなかった。だから私はそれに、逆に度肝を抜かれることになった。坂田さんはそのまま私に説明を続けた。

「▽▲系列の下請けなんですけど、即戦力になれる人を探してるそうです。確か中山さん、溶接もやれるって言ってましたよね?それから、設計の方も」

「ええ……はい、できます!

頭の中に坂田さんの言葉が染み入るのに、時間はからなかった。そして今週のどよんとした気分は、そう言った時には全部吹っ飛んでしまっていた。坂田さんは私の表情が一変したことに驚きながら、それでも、良かった、と言わんばかりににこにこと笑っていた。そして、

「それで、もし中山さんが良ければなんですが、貴方をそちらに紹介しようかと思いまして」

これは、もしかしなくても地獄に仏ってヤツかしら。いやいや待てよ、待てば海路の日和あり、かしら。私はもう、坂田さんの声なんか全く耳に入らない状態で、どきどきしながらそんなことを考えていた。

「どうしますか?中山さん。お話だけでも聞きに……」

「そっ、それは是非!お願いします!

場所柄も考えず、私は大きな声でそう言っていた。坂田さんはその声の大きさにもちょっと驚いて、僅かに後ずさりすると、

「そ、そうですか。じゃあ……その様に話をしておきますが……ちょっと問題もありまして」

「……はい?

何だ、何が問題なんだ。私はその言葉に目を丸くさせた。坂田さんはそれから、ちょっとだけ言いにくそうにこう言った。

「中山さん、確か○○町でしたよね、住んでるの。うちの会社まで、どのくらいでしたっけ?」

「は……一時間は、かからないと思うんですが……」

「先方、うちから一時間半のところにあるんですよ。もし通勤する事になったら、50ccのバイクじゃ結構大変ですよねぇ」

その言葉に、私は固まった。固まった私に、坂田さんは続けて言った。

「それでも良ければ、月曜になりますけど、あちらと連絡をとって、見学に行けるように手配しますが……」

通勤時間、ざっと見積もって二時間以上。でもそのことに固まったのは一瞬だった。これはチャンスなんだ、今ためらってたら逃げてしまう。それに、ためらう理由がどこにあるって言うのよ?やりたいことが出来るかもしれないのに。それをほとんど一瞬で考え、私はすぐに返答した。

「行きます、やります!よろしくお願いします!

 

それから私は、それまでのげんなりしおれた私とは別人のように元気になっていた。定刻を少しすぎて退社して、帰り道にスーパーに寄って、これからのことを色々考えながら買い物をしていた。前の会社を解雇されて数ヶ月、ようやくチャンスは巡ってきた。逃げたりしてなるものか、いや、逃がしたりするものか。これでまた前みたいに、油まみれで残業続きで、それでもばりばり働けるんだ。そう思うと嬉しくてたまらなかった。そりゃ、油まみれで重いものを上げ下げして、なんて仕事は楽ではない。普通の女の子が聞いたらきっといやな顔をするだろうけど、それが私には嬉しかった。ものづくりに関われること、何かを作り出す仕事ができること。そのために大学でも勉強してきたし、資格だってとったし、技術だって身につけた。人生まだまだ、これからだ。スタートラインにようやく立てたのだ。頑張らなくちゃ!そんなことを考えてにこにこ笑いながらの買い物は、案の定色々と買いすぎてしまっていた。普段は滅多に買わないやや高い肉や、時々楽しむ濃い味のお豆腐や、調子に乗ってあまり美味しくもないババロアなんかまで買ってしまっていた。それくらい嬉しくて、帰りの荷物が大きくなったことも気にならなかった。そのままご機嫌で帰宅して、私は疲れていると言うのにいそいそと夕食の支度をした。いいお肉はサイコロステーキのように焼いて、付け合せににんじんのグラッセやアスパラのソテーなんかも作ってしまい、このおかずじゃお豆腐食べられないなあ、と思いながらも、全然困っていなかった。御飯の炊ける間に部屋にあったコンソメの元でスープまで作って、さあできました、となったのが七時過ぎ、当然ヤスヒロは帰ってこず、それでも私はその二人分の夕食を狭いテーブルに並べて、並べてから、ふと思った。

「通勤、片道、二時間強、かぁ……」

二人分の食事を目の前に、私は一気に意気消沈した。やや豪華な夕食は、無邪気に私におめでとう、と言っているように見えて、それで余計にかもしれない。二時間、というのは結構長い。たとえば会社の始業が八時なら、六時には家を出ていなければならないのだ。帰ってくるのも同じだ。定時が五時としても、それから帰宅しても家に着くのは七時。残業があればあるだけ、その時間は遅くなっていく。そうなったら、私平気かしら。体力には自信、というほどでもないけれど、人並みのものをもっていると言う自覚はある。体のことはまだ若いし(?)どうとでもなる。平気じゃないかもしれないのは、ここでの暮らしのことだ。そんなに遠くにお勤めして、私はここで、上手く暮らしていけるだろうか。

ヤスヒロは、相変わらず毎日遅い。世の恋人同士なら「すれ違い」とやらが生じていそうだ。でも今のところ、そういう感覚が私たちには少ない。多分友達の延長、というのが効いているのと、私がヤスヒロの仕事に対する気持ちを知っているからだと思う。彼は時々私をドライだと言うけれど、そしてそれで嘆いてみせるけど、でも今のところ、大きな問題は何一つ起こっていない。でも、もし私が今のところよりもっと遠くに勤めるようになったら、ヤスヒロはどう思うだろう。今よりもっと一緒にいる時間が減って、顔を見るのは夜寝る前、とか、そんなレベルになったら。もっとドライになってもっとやつは嘆くだろうか。それより何より、二人でなんてやっていけるのだろうか。思うと、心臓がぎくりと強ばって痛くなった。私は平気はでも、ヤスヒロはどう思うんだろう。私たちの気持ちの綿だけじゃなくて、生活のリズムが変わるわけだから、もっと物理的な不都合も起こってくるに違いないし、そうなったら、お互いの生活をぐちゃぐちゃにしてしまわないだろうか。

豪華な夕食は刻一刻と冷めていく。私の気持ちはそんな考えと共に、最初のどきどきわくわくも、嬉しかった気持ちも、その豪華な夕食より急速に冷めていった。時計はいつか八時近くになっていて、だと言うのにやっぱりヤスヒロは帰ってこなかった。私は夕食を見下ろして、しばらくそのまま立ちすくんでいた。もし仕事を変わる事になったら、この暮らしってどうなるんだろう。私とヤスヒロは、どうなってしまうんだろう。思うと、気持ちだけでなく体まで寒くなるような、そんな感覚がした。頭の中だけが真冬の夜に放り出されたようになって、私はそのことにすごくうろたえた。そしてすぐに、自分の馬鹿さ加減にげんなりした。

私何やってるんだろう。まだ、その仕事につけると決まったわけでもないのに。こんな御飯作ったりして。座り込んで、私はしばらくその御飯を眺めていた。サイコロステーキと付け合せとスープはすっかり冷めてしまって、作りたてのその時よりも不味くなっているように見えた。疲れて、お腹も減っていないわけでもないのに、私は食欲をなくしたようになって、しばらくそれをぼんやり眺めていた。食べる気にもなれず、テレビをつける気にもなれなかった。御飯は相変わらず、白々しいくらいに私に「おめでとう」と言っているようだった。何がめでたいもんか、こんな問題にぶち当たるなんて。胸の中で私はそう吐き捨て、それからまた、何やってるんだろう、と思った。

 

その日ヤスヒロが帰ってきたのは午前様寸前で、私もそのころには夕食を済ませ、お風呂からも出ていた。いっそ帰る前に寝てしまおうかとも思ったけれど、流石にそれは出来なかった。何がどうなるにせよ、今日のことはヤスヒロに黙っている訳にはいかない、そう思ったからだ。

「ただいまー……あー、疲れたー」

「……お帰りなさい」

ヤスヒロはいつものように、でもいつもより疲れた様子でジャケットを脱ぎ、襟元をくつろげた。そしてしながら、私を見ずにぶつぶつとこぼし始める。

「……っとによー、ハラのたつ。オレ、明日も仕事だから」

「へぇ……そう……」

「客先から、急にデザイン変更の指示があってよー。それも最初の案で三回もボツがあって、その挙句だぜ?ゲラが上がってこっちはやっと片がつくかって思ってた矢先にさー。しかも月曜までに新しい案作って来い、ってさ……もーみんなキレそうになってたよ」

聞くでもなしに、私はそれを聞いていた。ヤスヒロはやれやれ、と言って私を見、見るとその目を丸くさせた。

「かのこ?

「何?

「いや……何だよ、また会社で、何かあったのか?

言いながらヤスヒロはソファに向かって歩いてくる。私は彼から目をそらして、

「……まあね。御飯は?」

「今日は課長のおごりで食ってきた……わ、何これ。豪華じゃん」

テーブルの上のものを見てヤスヒロは簡単の声を上げた。そしてそこに着くなり、

「白いメシはいいや。かのこ、ビール出してビール。何だよ、こんなんだったらキレて無理やり帰ってくりゃよかったよ。もしかして俺の帰ってくるの、待ってた?

そう言ってラップのかかったおかずに手をかける。何だか急に機嫌が良くなってしまった彼を見て、私はもごもごと答えた。

「別に……そうでもない、けど……」

端切れの悪い私に、またヤスヒロは目を丸くさせた。そして、さっきまでの自分の態度も気分も忘れたように、首をかしげてまた言った。

「何、かのこ。やっぱり何かあったのか?」

「いやあの……あのね……」

言い難い、でも、これはヤスヒロには黙っておけない事だ。でもどうしてこんなに言い難いんだろう。私は思いながら、あーあ、と息をついた。何だか自分が情けなくなってくる。まだ決まったことじゃないし、これは一応の報告で、それ以上のことはわたしが勝手に考えて心配しているだけのことなのに。

「かのこ?

問う様に、ヤスヒロが私を呼んだ。私は目をぎゅっと閉じて、それから言った。

「仕事、変わるかもしれないの」

 

 

 

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Last updated: 2006/08/27

 

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