続・カフェオレボウルでハイティーを

 

エスプレッソの熱い距離

 

第八話

 

それから、私は事のあらましをざっとヤスヒロに説明した。希望していた仕事が見つかって、派遣会社の担当者がそのことを知らせてくれたこと、良かったら見学に行かないかと声がかかったこと、そして、その約束を取り付けたこと。最初のうち、ヤスヒロは驚きながらも、どこかうれしそうな、要するに良かったな、と喜んでくれているような顔をしていた。けれど、その会社への通勤時間がここからだと二時間近くかかる、と言ったところでその顔つきは一変した。

「片道……二時間?

「うん、だから……もしその会社に勤めるなら、その……」

「引っ越すつもりなのか?」

「いやその……その方が、楽は楽、よ、ね」

ああ、私ってなんて損な性格なんだろう。言ってしまってから私は力いっぱいそれを思った。ヤスヒロの顔は蒼白、というと大袈裟だが、話を聞く前とは全く違うものになっていた。それを見て、私はあわてて、

「ああでも、ヤスヒロは別に、ここが気に入ってるなら、ここ二いればいいし……」

「かのこ、出てくつもりなのか?今更?」

今更、って何だ。そう思ったけれど私にそれを言う余裕はなかった。あのその、と言葉を探しながらもたついていると、ヤスヒロは続けざまに言った。

「オレたち一緒に住んでるんだぞ?それなのに、かのこは仕事のためにここ出てく気なのか?」

「って……まだ、そういう話があるって聞いただけよ。今すぐどうこうってわけじゃ……」

「でもいつかそうなるかもしれないって言うんだろ?そんなのやめろ、すぐ断れ!

そう言ったヤスヒロの声は怒号に変わっていた。頭ごなしに怒鳴られた私は、思わずむっとして言い返した。

「断れって、そういう言い方はないでしょう?やっとそういう仕事が見つかったのよ?ちょっとひどいんじゃない?」

「ひどいのはどっちだよ!かのこお前、オレがどんな思いしてここ探して借りたか、解ってんだろ?」

「そんな……そんなのあんたが勝手にしたことでしょう?あたしが頼んだ事じゃないわ!

気がつくと私達はそろってソファから立ち上がっていた。ヤスヒロも私も、仲良く一緒にキレた、そんな感じだった。一緒に暮らし始めて、私達はそれ以前に比べてお互いに遠慮がなくなっていた。ヤスヒロは、今でも色々と気を使ってくれるけれどワガママになっていたし、私は私で、そんな彼に前より甘えるようになっていた。そして当然のように、けんかの回数も増えていた。でも、今日のこれはそれともちょっと違っていた。ヤスヒロはヤスヒロで、私は私で、普段の些細なケンカより、引くに引けない部分があった。だって私だって、彼の気持ちを知らないわけじゃない。だけどこんな風に、頭ごなしに怒鳴ることないじゃない。思っているとヤスヒロはなおも言い続けた。

「俺はかのこと一緒に住めて、かのこの助けになって、一緒にいれると思って家財まで売っ払ったんだぞ?なのにひどいじゃないか!

「家財売ったのはヤスヒロの勝手でしょ?それに、結局あたしの持ち込んだもの使ってるじゃない。恩着せがましいこといわないでよ!

「とにかくオレはやだからな!大体、まだ今のところやめろとか、そういう話になってるわけじゃないんだろ?だったら職場変わる必要なんかない。やめろ!

「ちょっと待ってよ。あたしが何のために派遣社員になったと思ってるのよ?折角巡ってきたチャンスなのよ?あんただって「かのこが頑張れてたほうが嬉しい」とかなんとか言ってたじゃない!

「それはそれ、これはこれだ。俺の知らないところでかのこが頑張ってたって意味ない。俺のそばでなきゃダメなんだ!

「何訳のわかんないこと……それに、まだ何にも決まってないって言ってるでしょ?」

「だったらなおのことだ!すぐ断れ!出てくなんて言うな!かのこはオレと仕事と、どっちが大事なんだ!

これが大の男の態度か、というほどのわがままぶりで、ヤスヒロはわめき散らした。私はそのばかさ加減に耐えかねて、即座にヤスヒロに怒鳴り返した。

「少なくとも、まだ決まってもない話でキレるようなばかより仕事のほうがよっぽど大事よ!このわからずや!

そしてそう言い捨てると、私はどかどか足音を鳴らしてその場を歩き去った。ヤスヒロは一人ソファのそばに残って、今にも泣き出しそうな声でそんな私の背中に向かって言った。

「オレだってそんなこと言うかのこなんかキライだ!ばかかのこ!

ばかで結構、キライで結構、私は引っ込んだ自分の部屋のドアの中で小さく呟いた。やつが、あんなわからずやだとは思わなかった。あんなワガママだとは思っていなかった。思いながら、私はそれでも泣き出していた。どうしてわかってくれないのか、そんなひどいことを言うのか、折角のチャンスなのに。涙をぼろぼろこぼしながら、私は床に座り込んだ。そして自分の顔を手で覆って、泣き声とわかるそれでヤスヒロをなじった。

「ヤスヒロのわからずや……ばかぁっ」

 

その週末は最悪だった。次の日私が目を覚ましたのは昼過ぎで、ヤスヒロの姿はどこにもなかった。普段どおりに仕事に出かけたらしい。部屋に一人きりだと確認すると、私はまずお風呂に入った。あのケンカのまま、私は着替えもせずにベッドに飛び込んでそのまま眠ってしまっていたから、顔もむくんで目も腫れて、本当に最低の顔をしていた。昨夜変に張り切って作ってしまったおかずは、ヤスヒロが綺麗に片付けてしまったみたいだった。食卓にもキッチンにもその形跡はなく、もしかして捨てられたか、とも思ったけれどその気配もなかった。お風呂から出ると昼はとっくに過ぎていて、私は遅すぎる朝昼兼用の御飯を食べ、その後特に何もせずにそのまま夕方まで過ごした。いつもの土曜なら、一人でいても何かしら片付けたりしているのに、この日はそんなことができる元気はなかった。

部屋にできる小さな陽だまりを、日が暮れるまで見ながら、私はこの先のことを考えた。一人で暮らすことも、ここを出て行くことも、できないことではないだろう、と思う。半年ほど前まではここよりもっと狭い部屋で、一人で住んでいたのだし、二人になってからより一人でいた時の方がずっと時間は長い。それに、そのころには今よりももっと働いていた。もちろん、今の生活になれてしまった分、前のリズムを取り戻すには時間もかかるだろう。でも、死ぬほど辛いわけでもないし、どうとでもできるはずだ。一人暮らしに抵抗は、ない。生活に関する現実的なことは、何とでもなる。

仕事は、どうだろう。もう長いこと離れてしまっているから、勘が戻るまで時間がかかるかもしれない。体力の方は何とかなるはずだ。今だって遊んで暮らしいてるわけじゃないし、それを心配するほどまだ老け込んでもいない(と思う)。仕事場が変われば、仕事内容も人間関係変わる。それが不安といえばそうだ。けど、そんなことを言っていたら私はどこへもいけないし、何もできない。初めての何かとの遭遇は仕事に限らずどこにでもあるし、それを恐れるのは愚かしいことだ。不安になるのは仕方ないけれど、割り切っていかなきゃいけない。だから、それも何とかなる、で乗り切れる。でも、もっと不安で心配で気懸かりなことは、ヤスヒロのことだった。

ヤスヒロは、まだ怒っているだろうか。まず思ったのはそれだった。でも私だけが悪いわけじゃない、怒り出したのはあっちが勝手に、なのだ。私は、黙っておけないからあったことを正直に話しただけであって、彼を怒らせようだとか、傷つけようだとか、そんなことを思っていたわけじゃない。だから私が悪いんじゃないわ。でも、怒らせたのも、傷つけたのも、本当のことだ。でもあんな風に彼が怒鳴るのは、とても珍しいことだった。突然のことで驚いたのもあるだろうし、もしかしたら彼は「頑張れ」とか何とか言いながら、私の仕事なんか見つかるわけがない、とでも思っていたのかもしれない。聞き分けのいい、理解力のある、懐の深い男を演じて、私に好かれたかっただけなのかもしれない。それが、彼にしてみればとんでもないところで覆されて、それで怒ったのかも。でもそうしていたとするなら、高町ヤスヒロという男は、私が思っている以上に巧妙でずるがしこくて、信用ならない人間だ。もちろん、そういうずるさが全くないわけでもない。ここで一緒に暮らすことだって、半ば彼のたくらみに乗せられて、のことだったし。そんなことを思って、私は突然床にごろん、と寝転んだ。くだらないことの考えすぎで、体の力が抜けたのかもしれない。

床に寝転んで、私はまた彼のことを考えた。私が無職になったとたんに「一緒に暮らそ」とか言い出したヤツは、今はその逆で、仕事が見つかった私が出ていくかもしれないことに、腹を立てている。そりゃ、その申し出はありがたかったし、一緒に暮らし始めて、もっと色んなことがありがたいと思っているし、解っている。彼が私を好きだといってくれて、それを一応受け入れて、そばにいて、「頑張れ」なんて言ってくれて、だから私は彼に釣り合えるように、努力している、つもりなのに。そう思ったとたんに、昨夜泣き腫らして、まだ腫れの引いていないまぶたの奥から、じわじわと涙が滲み出した。なんで解ってくれないのよ、あんたが頑張ってるから、あたしだってそれ相応に、そういう人間でありたいんじゃないの。それでやりがいのある仕事に代わろうって言うのに、どうしてやめろなんて言うのよ。あんたが頑張れって言ってくれたから、それに報いたいのに。そうすることを許してくれないって、どういうことなのよ。心の中で、私はここにいないヤスヒロに訴えた。そりゃ、結果離れて暮らすことになるかも知れないけど、そのために転職しようなんて、そんなことを言ってるんじゃないのに。いろんなことを思えば思うほど、涙は後から後からこぼれた。床に寝転がったまま、私は昨夜布団の中でしたように泣き出していた。みっともない声を漏らして、顔を手で覆って、私は一人、声を放った。

「ヤスヒロのばか……なんで解ってくれないの」

夕刻近い土曜の一人だけの部屋に、それはただむなしく響いた。そんな泣き声が聞こえても、辺りは平和そのもののようで、私は余計惨めになった。

 

結局その週末、私達はほとんど口も利かなかった。土曜の夜も日曜も、ヤスヒロはずーっと不機嫌なままで、私はその顔を見ているだけでも辛かった。ほぼ無言の彼は、無言でも、四六時中私を責めているようで、何か言わせたらまたケンカになりそうで、部屋中にいやなムードが満ち満ちていた。私は自分の部屋にほとんど引きこもって、一日の大半を寝て過ごした。たまに下に行くと、ヤスヒロは見るでもなしという具合にテレビをつけっぱなしにしていた。トイレに行ってもキッチンに行っても、私の事はほぼ無視で、こちらに気付いても振り返ろうとさえしなかった。

いまだかつてない最低の二日間は、けれどすぎてしまえば瞬く間で、私達はいつも通りに月曜を迎え、その月曜も普段どおり、というには静かにとげとげしく始まった。ヤスヒロは「言ってきます」も言わずに出ていってしまったので、ろくに顔も見ていない。せめてこちらを一瞥でもすれば、もう少しましな状態になるかもしれないのに。私はそんな彼を恨めしく思い、いやな気持ちを溜め込んだまま、やっぱりいつもの月曜と同じ様に出勤した。

 

そしてそれもあいまって、その月曜はプレッシャー過多の一日となった。朝からうんざりした気分で働いていると昼休みに、金曜の帰りにお話した件なんですが、と、坂田さんがやってきて、先方に約束は取り付けられましたが、中山さんの都合はどうですか、というようなことを尋ねられた。都合も何もあったものでもなかったが、私は逆に坂田さんに聞き返した。

「都合、ですか?」

「ええ。何しろ移動距離が半端じゃありませんから。見学しに行くとなると一日お仕事もお休みすることになりそうですし」

私はそれにびっくりした。が、考えてみれば当たり前のことだった。仕事を休むのか。そう思うと朝からのうんざりに加えて、更に重いものが私にのしかかってきた。余所の仕事に移るために一日休んでそちらを見てきます、なんて都合で、私は休みを取らなきゃいけないのだ。それに打ちのめされて、でも私はすぐに気持ちを切り替えた。こんなことくらいでめげてたまるか。こっちは色々覚悟の上でやってるんだ。一日二日休んだところで何が変わるって言うのだ。有給はないから、収入には響くけど。そんなわけで私は休みをとるべく、そのまま坂田さんと一緒に組長の元へ行き、私用でお休みが欲しいんですが、こちらの都合はどうですか、というような具合に尋ねてみた。組長はその時、出荷の事務ブース脇の喫煙コーナーでタバコをふかしており、しながら、ちょっと困った顔で行った。

「お休み、ですか……いつ?

「いやその……できれば早いうちに……急ぎじゃないんですが」

坂田さんは、というと、そばにいたけれど全く助けを出してはくれなかった。そりゃそうだろう。派遣会社側だって「この人を移動させるために休みを貰いたい」なんて下手に言えないだろうし。組長はタバコをくゆらせてううむ、と唸ると、ちょっと難しそうな顔で言った。

「そうですか……じゃ、明後日辺り、どうですか?」

「明後日、ですか」

難しそうな顔のわりにその答えはあっさり出て、私はそれにちょっと拍子抜けした。組長は難しそうな顔のまま、

「いや、俺が明日、出張でいないんで……そうすると手が足りなくなっちゃうんでね。明後日以降なら、何とかなるんだけど……」

その答えに私と坂田さんは顔を見合わせた。そして、それに返したのは坂田さんだった。

「じゃ、明後日、水曜ということで。中山さんも、それで宜しいですか?」

「ええ……それでお願いします」

続けて尋ねられた私は、勢いに流されるようにそう返事をした。それは「水曜に見学に行くようにするが、構わないか」という質問も含まれていた。なんだか美妙にあやふやな返事をすると、傍らの組長が苦笑して言った。

「申し訳ないです。けど、中山さんが「休みが欲しい」なんて、珍しい。何かあったの?

「いえあの……ちょっとした、私用でして。すみません」

当たり前のようにされた質問に、私はあやふやに答えた。組長はそれ以上の追求もしてこず、それじゃあよろしくお願いします、と一言残して坂田さんはその場を去っていった。私も同じ様に組長の前を辞し、その足で仕事場に戻った。

事務ブースでは山村さんが、机について何やらやっていた。昼休みもまだ終っていないというのに仕事かしら、と思ってちらりと見ると、私に気付いたらしい彼女は振り返った。その反応の速さにぎょっとして(何だかちょっと後ろめたい気持ちもあったので)私は思わず言った。

「やまっ……山村さん、もうお仕事ですか?」

声はひっくり返っていてみっともなかった。山村さんはちょっとだけ不思議そうな顔をして、

「まさか。私はいつもここでお昼だから。中山さんこそ、早いわね」

「いや、私は……」

山村さんは机に着いて、読書でもしているみたいだった。私はその向かいの席に着き、再び本に目を落とした山村さんを少しの間無言で見ていた。明後日の事を言わなくちゃ、という気持もあったけれど、その前に、この人はここでこうして働いていることを、どう思っているのかと、そんなことも気になった。ぱらり、と、頁をめくる音がして、その後再たブースの中は静まり返った。今邪魔したら悪いかしら、でも、仕事中じゃないし。思って、私は言った。

「山村さん、すみません」

「何?

いつものように彼女は問い返して、正面の私に目を向けた。私はまっすぐに彼女を見て、笑いもせずに言った。

「明後日、私用でお休みとりますので、お手数かけますが、よろしくお願いします」

「……はい、了解しました」

淡々とした言葉のやり取りは、ものの数秒で終った。彼女は何もなかったように再び本に目を落とし、でも私は、続けて彼女にこう言った。

「もしかしたら、お勤め先、変わるかもしれません」

山村さんは目を上げた。そして本を閉じ、私をまじまじと見た。私は、何故だかこの人にそのことを黙ってはいられなかった。少し怪訝そうな視線がこちらを向いたので、私は続けて説明した。決して、言い訳ではない。

「ここがいやだとか、そういうことじゃないんです。探してた職種の会社で求人しているのを、派遣会社が見つけてくれて。それで水曜に見学に行くんです」

「……どうしてそんなことを、私に?」

怪訝そうな目は変わらずに、私をまっすぐ見ていた。それは少し挑むようにも見えて、でも私は、怯むことなく言った。さっきは後ろめたかったくせに、この時の私にはそういう気持ちはかけらもなかった。

「山村さんに黙ってるのは、卑怯かと思って」

それから、私は今までの経緯をざっと彼女に話した。機械関係の仕事に就きたくて、工業大学を出たこと。必死になって就職して、男の人の中に混じって働いていたこと。それでも、出向先の会社が潰れて居場所がなくなったこと。そして無職になって、今こうして契約派遣社員として働いていること。山村さんは黙って全部の話を聞いていた。そして、話し終わると苦いものの混じった笑みで、こう言った。

「大変だったのね」

「そうでもないです……山村さん、あの……組長に、聞いたんですけど……」

そこまで言って、私はそれを切り出した。何が卑怯かって、自分のことを言わずにそれを聞くことだろう。山村さんはその目を丸くさせた。気分悪くしちゃうかな、と思いながら、でもそれが聞きたかった私は彼女に尋ねた。

「元は営業に、いたんですか?」

山村さんは目を一瞬大きく見開いて、それから瞬かせた。そしてまた、どこか陰のある、苦いものの混じった笑みを浮かべて言った。

「ええ。ここへ異動して、まだ一年も経ってないかしら」

「その時、会社を辞めようって、思わなかったんですか?」

言っては何だが、ここの仕事はぶっちゃけ、事務だけやる女の子でも充分出来る仕事だ。営業でばりばりやっていたような人には、物足りないんじゃないだろうか。それに、この仕打ちはもしかしたら、私が受けたものと同じレベルにひどいんじゃないだろうか。思って、私は答えを待った。山村さんはふぅ、と息をついて、それから、困ったように笑って言った。

「ええ、思ったわ。でも、この歳で次の仕事を探すのも難しいし、そんなことくらいでやめるのも、何だか悔しかったから。貴方みたいに、お付き合いしている人もいなかったから、結婚もできなかったし」

「えっ……あ、いや、私はそんな……そういうことは……」

冗談めかして、のその言葉は、ちょっとどころかかなり怖かった。そんなことを聞きたかったわけじゃないし、そんなデリケートなことは……全く気にならないわけでもなかったけど……そんなことを思っておたついていると、山村さんは遠くを見るような目になって、どこか懐かしそうに、でも切なそうに言った。

「でも実は、飛ばされた原因が、その相手だったんだけどね」

「はっ……はい?

私の声は裏返っていた。構わず、山村さんは続けた。

「取引先の課長でね……その人の家庭に、一波乱起きちゃって」

「かっ……家庭に一波乱?!

それってもしかしなくても、不倫とか言うものでは?!聞いた途端に私は心の中だけでツッコんでいた。山村さんはこちらを見ず、懐かしそうに目を細め、かすかに笑った。

「確かに私は飛ばされたけど、ここでしている仕事は、嫌いじゃないのよ。やることは全然違うから、最初は戸惑ったし悔しかったけど、やりがいがないわけじゃないし、退屈でもないもの。きれいごとみたいに聞こえるかもしれないけど、仕事は楽しんでるわ。私なりに」

その笑う顔に、私は見とれていた。それは本当に、きれいごとでも強がりでもなくて、この人の本心なんだろうなあと思えた。山村さんはこの部署に「飛ばされた」と言ったけれど、それでもやりがいとか充実感とか、そういうものを確かに感じている。何だかすごい。すごいというか、大人だ。いやなことも全部飲み込んで、与えられた仕事の中でその楽しみまで見つけている。しっかりしていて実は優しくて、しかもこんなに出来た人なんだ。私は彼女の人柄に、感動さえ覚えた。尊敬できる。すごい。私なんてまだまだ甘ったれで、どうしてもしたい事を譲れないでいるのに。思っていると、彼女は私のほうを見た。そして、優しく笑って言った。

「頑張ってきてね、応援してるわ」

「あっ……はい、頑張ります!ありがとうございます!

ちょっとぼんやりしていた私の反応は少し遅れた。でも山村さんはそんなことも気にせず、何だか楽しそうに笑っていた。そして笑いながら、また冗談めかしてこんなことを言った。

「でも良かった、原野さんみたいに、仕事とか、私がいやでやめるんじゃなくて」

「や、やだそんな……そんなこと、あるわけないじゃないですか……」

ひー怖いー。言い返しながら、私は心の中で言った。山村さんはちょっと意地悪な顔で、さっきよりももっと楽しそうに笑っていた。

 

そして、水曜はあっという間にやってきた。その朝私はいつもより一時間早く起きて身支度を整え、まずは私の登録している派遣会社に向かうことになっていた。のだが、あまりのことに現役の就職活動の時期より緊張していた私は、予定より更に一時間早く起きてしまっていた。ヤスヒロはいつもの通りに出勤で、朝はニアミス程度にしか顔を合わせないのだが、早すぎたおかげで彼もまだ目を覚ましてはいなかった。ついでに言うと、土曜からこっち、まともに会話もしていない。ヤスヒロはまた仕事が忙しくなったらしく午前様ぎりぎりの帰宅で、しかも疲れ果てていたから文字通り「ばたんきゅー」の毎日だったし、私は私で彼をずっと避けていた。その日の朝も、顔を合わせないならそのほうがいいと思っていた。またわからず屋の駄々っ子とけんかをして、その気分を引きずって出かけてたりしたら、上手くいくこともいかなくなってしまう。朝食は外で取ろうと決めて、私は極力こっそり家を出た。ヤスヒロは、気がついているのかいないのか、ベッドの中にいた。一応、今日のことは月曜の夜のニアミス(寝る直前に三分もなかったくらいだ)で知らせてはあったけれど、起きていても私に構ったりなんかしないだろう。何だか嫌な感じかも。出かけに、私はそんな風に思った。だから玄関の外でこっそり、彼に行ってきますだけを言った。聞こえてなんかいないだろうけど、そうせずにはいられなかった。

 

そしてその日の見学兼面接は、比較的スムーズにいった。派遣会社から坂田さんと自動車で一時間半移動した先の会社は、あまり大きくない機械部品を作っている会社だった。

まず私達は相手先の人事担当者に会い、簡単な会社の説明を聞き、聞いているうちにそれがいわゆる面接になっていった。坂田さんは気がつくと四、五歩ほど私から離れていて、要するに関与しない、ということらしかった。私は、今の職場のこと、前の会社のことを訪ねられ、特に準備も無しで面接なのね、と内心思いつつもできるだけ簡潔にその説明をした。話は学歴のことにまで及び、大学で何を学んだか、どうして志望したか、そんなことまで聞かれた。もう十年も前のことで詳しく覚えていませんが、というと、相手はそんなに前になるんですか、と露骨に驚いた顔をしてくれた。場を和ますジョークにもならなかった。

そして前の会社を辞めることになった理由について聞かれ、私が潔く「回顧されました」と答えると、質問者はその潔さにううむ、とちょっとだけ唸った。けんか腰のつもりはなかったけれど、それだけ、私はその場に力を注いでいた。何しろ、次の仕事がかかっているのだ。自分の生きがいとか人生をかけているのだ。気を抜けるはずがなかった。

無駄に全力投球の面接を終えると、今度はそこに現場の担当者が現れた。そして私と坂田さんとをつれて、仕事をしている現場に案内した。しながら、その人は今求人している職種の仕事内容を簡単に説明してくれた。現場職で、主に製品の生産に携わるとこと、その中で製品の管理や試作などのアシスタントをしたり、場合によっては工場の機械の整備や管理、その作成などもするかもしれないこと。それは私の希望していることと完全に合致してはいなかった。けれど相手に言わせると「工場機械も触れる、設計にも携われる人間」が欲しいそうで、私のように専門的なことを勉強して、尚且つやっていいたと言う人は願ったりかなったり、のようだった。それでも、これでここへの異動は決定ね、とは、ならないようだった。現場の担当者も、そして面接の人事担当者も、別の場所で私に同じ事を聞いてきた。

「中山さんは……通勤時間は、どのくらいかかりそうですか」

二時間弱です、と、私はそれさえも、怯むことなく答えた。嘘をついても仕方がないし、それは承知できているのだということを相手にも感じて欲しかったからだ。そして二人は共に、その後あまりいい顔をしなかった。そしてそっくり同じに「じゃあ通うのも、大変そうですねぇ」と言った。

そして帰り際、人事と現場の担当者は私たちを見送るようにそろって、こんなことを尋ねてきた。

「うちとしては……そうですね、手は欲しいと思うんですが。中山さんはどうですか?」

「は……どう、といいますと?」

微妙な言い回しの質問に、私は目をしばたたかせた。相手は、続けてこう言った。

「見てもらって解ると思いますが、うちは貴方が元いたところに比べても小さいところですし、環境も、女性向きとは言いがたいですよ?」

って、工場なんてそんなところではないか。何を言っているのか。私はちょっと呆れてそんなことさえ思った。それが解らなくてこんなところに職を求めに来るのは、よっぽど切羽詰っている人か知らない人かのどちらかだろう。思って私はまた目をしばたたかせた。そしてしながら、特別何も考えないままこう答えた。

「工場は慣れてますし、働くのは私で、前の会社とは関係ありませんから」

そうして、私の会社訪問は終った。帰りも来た時と同じ道をたどり、私と坂田さんはひとまず派遣会社へ戻り、そこで別れた。帰る道すがら、坂田さんは私よりご機嫌で言った。

「手ごたえありましたね、中山さん」

一応、返事は今週中に、ということではあったのだけれど、坂田さんにしてみたら私の採用は決まったようなもの、のようだった。私も、何となくそんなことを感じてはいた。嬉しくなかったわけではない。でも、何だかはしゃげなかったのは確かだ。きっと私はここの会社に異動することになる。そうしたらまた一から仕事を覚えなおして、でもきっと毎日満ち足りた気持ちで生きていけるのだろう。何か別のことに気をとられる暇もなく。そうしたら、時々襲ってくる変な虚無感ともさよならできるし、好きなことに従事していると思えば、派遣だとか契約だとかそんなことに苛まれることも減るかもしれない。通勤片道二時間はツライだろうけど、その辺のことはやってみてから出ないとちゃんと解らないし、解った上で無理を感じたら、何か手段を講じればいい。

でもそんなことより、私に引っかかっているのはヤスヒロのことだった。金曜に怒らせてからほとんど口も聞いていない同居人は、この結果にどんな反応をするだろうか。勝手に決めて、とかなんとか言って、また駄々っ子のように怒るだろうか。それとも、私のワガママに、今度こそ呆れてしまうだろうか。一人になった帰り道で、私はそんなことをずっと考えていた。ヤスヒロに何て言おう。どうやって話そう。今日のことも、今の気持ちも。けれど結論の出ないまま、私は部屋に帰りついた。

部屋に着くと時計は一時を回っていて、昼食をとっていなかったことに今更気がついて、おなかがすいてるからこんなことばっかりくよくよ考えるのかな、何か適当なお昼あったかしら、と思いながらドアに手をかけると、それは勝手に中から開いた。

「おぅ、遅かったな」

「……ヤスヒロ?!

部屋の中から玄関を開けたのは、会社に行っているはずのヤスヒロだった。その姿を見て私は飛び上がりそうなほどびっくりした。どこかふて腐れた顔でヤスヒロは私を見ていた。そして、あごで入れ、と示しながら私に言った。

「メシは?」

「まだ……あんた会社は?」

「さっき帰ってきた」

「は?

何言ってんのこいつ、と思いながら私は部屋に入った。ヤスヒロはパジャマよりちょっとましな格好でキッチンに向かい、しながら、

「今支度してやるから、着替えて来い」

そんな風にぶっきらぼうに言った。けれど言われても、私は彼がそこでそうしていることを呆然と見ていた。ヤスヒロは黙ってそのまま私のお昼御飯の支度をし、テーブルにそれを並べながらこちらを見ずに言った。

「で、どうだったんだ?」

「どうって……何……」

「会社見てきたんだろ?」

「あ……うん。見てきた、けど……」

不機嫌な顔で、彼はこちらを見なかった。私はその横顔を見ながら、ぼんやりした口調で言った。

「何とか……とってもらえそうな、感じ、かも……」

「そっか。良かったな」

そう言ってからヤスヒロは私を見た。顔つきは「良かったな」なんて言葉が出そうな感じではなかった。ふてた顔を見て私はそのまま何も言わなかった。すぐにもヤスヒロは眉をしかめて、そんな私に言った。

「何だよ?

「何って……」

「人の事じろじろ見て。つっ立ってないで早く着替えて来いよ」

別に着替えなくてもご飯くらい食べられるのだが。何だかヤスヒロは私を追い立てたいみたいだった。そしてすぐにそっぽを向いて、それから、今度は本当に苦々しい顔で、搾り出すように言った。

「……ここ、出てくの、か?」

「え?

「だって、通勤大変なんだろ?会社の近くに、移るのか?」

そう言ってヤスヒロはまた私を見た。泣きそうな顔があって、私は思わず言っていた。

「あた……あたしは、別にここがいやだとか、そういうことは……それにまだ、ちゃんと決まったわけじゃないし……」

「そんなの解ってるよ。でも、そうなりそうなんだろ?

「解ってるなら、なんでそういうこと……」

「オレがわかんねーのは、こういう時どうしたらいいかってことだ」

私達はお互いをまっすぐ見ていた。自分の顔がどうなっていたかはわからないけれど、ヤスヒロはもっと泣きそうな顔になって、鳴きそうな声で続けた。

「かのこがやりたい仕事に就けて、嬉しいんだったら俺だって嬉しいよ。でもそれでかのこがどっか行ったり別々になるのはいやだ。だから、喜んでいいのかどうしたらいいのか、オレだってわかんねーんだよ」

私は何も言わなかった。ヤスヒロはゆっくり歩いて、私のすぐ近くにやってきた。泣きそうな目で私を見下ろして、彼は気持ちを吐き出すように、少し大きな声で言った。

「オレはみっともないしガキだし、こんなんでかのこが俺と一緒にいてくれるなんて、ありえないことくらい幸せかも、とか思ってる。ここで「良かったな」ってお前のこと送り出せたらどんなにいいかって思ってる。だけどやっぱりできない。かのこが俺のそばからいなくなるのだけは、やっぱりいやだ」

そう言ってヤスヒロは息を継いだ。それは本当に、次の言葉のために呼吸した、そんな感じだった。そして勢いに乗せるように、一息に言った。

「かのこ、オレと結婚してくれ」

そのままヤツは私の手をとった。そして私の顔を見ず、訴えかけるように言葉を続けた。

「一緒にいられないんだったら、ずーっと俺のかのこだっていう約束みたいなの、してくれ」

「約束、みたいなの……?

「働くなとか、ここでてくなとか、言わない。言わないけど、ずっとオレのかのこでいてくれ。そしたら俺、ちゃんとかのこのこと応援できると思う。別々にすむのもたまにしか会えないのも、そしたらオレ我慢する。だから……」

それは子供がお母さんに「もうしませんから許してください」と言っているのと良く似ていて、私はそのことに少し笑ってしまった。そっとそっと、ヤスヒロは震える手で私の手を掴んでいた。その手も、まるで「離さないでくれ」と願っているようで、やっぱり子供みたいに思えて、また私は笑った。くすくすやっているとヤスヒロは顔を上げた。そして、泣きそうでかつ、少し怒ったようなすねた顔で私をにらみつけた。

「おまえ……ここが笑えるところかよ?オレは真剣に……」

「だって、おかしいんだもの……ヤスヒロ、子供みたい……」

笑いながら、私は掴まれている手を握り返した。そうする私の手も震えていたかもしれない。ヤスヒロの顔つきが驚いたものに変わる。そして彼は今度はおろおろした顔になって、心配そうに私に言った。

「かのこ……泣いて……」

泣きながら、でも私は笑っていた。こいつというヤツは、本当にもう、そんな気分だった。言いたい放題言ってくれちゃって、自分だけ言いたい事言ってくれちゃって、どうしてやろう。そんな気分だった。だから私は笑いながら報復した。もちろん、涙は止まらなかった。

「何が「約束みたいなの」よ……あんた、変な本でも読んだんじゃないの?

「へ……変な本?」

おろおろしながら裏返った声でヤスヒロは言った。それさえも可笑しくて、また私は笑った。

「悪い事した子供みたい……お母さんに「ごめんなさい」って、そういう感じ……」

そういいながら、私は無言で彼に寄りかかっていた。ヤスヒロはおっかなびっくりの態度でそんな私を抱きとめて、それから、恥ずかしそうに言った。

「悪かったな、ガキで。これでもオレは真剣なんだぞ」

「だからおかしいんでしょ。あんたって本当に……」

それ以上私は何も言わなかった。ばかなんだから、とか子供なんだから、とか、選ぶ言葉はいくらでもあった。そしてその全部が当てはまって、どれか一つには絞れなかったのだ。例えば、やさしいんだから、とか。ヤスヒロはしばらく黙っていた。私は目まで閉じて、支えてくれる彼にずっともたれていた。けれど不意に、彼は私の体を自分から少し浮かせた。何事かと顔を上げると、ヤスヒロはまた真剣な顔で私を見下ろし、言った。

「かのこ、オレと結婚してくれ。オレの奥さんになって、ずっとオレのかのこでいてくれ」

私は何も答えなかった。そのままヤスヒロは私の顔を捕まえた。二度ほど瞬きして私は目を閉じて、そのまま降りてきたキスを受け止めた。

 

そうして、週末から続いた私たちの変な確執は解けた。これからもよろしくお願いします、みたいに、私たちは久し振りに世の恋人同士みたいになって、お互いを労わりながらその日の午後を過ごし、夕食はちょっといい格好をして外で食べたりして、ほろ酔いになりながら、ちょっとだけ将来のことを話したりして、世に言う中でもかなりのレベルの「いいムード」になったりした。よく考えなくても私はプロポーズをされて、とても大事にされていることを再確認して、そのことで自分のワガママ振りをちょっと反省したりもして、女のコとしての幸せを噛み締めていた。この人に好きになってもらえて、好きになってよかったなあとか、そんな甘酸っぱい気持ちに満たされて、夜もそのせいで中々寝付けなかったりした。要するに幸せだった。冗談ぽく甘えられても「ばか」とか言って笑っていられたのだから。これでこのお話もハッピーエンド、ああ良かったね、で、終るはずだった。私の進退はともかくとしても、だ。

 

それは金曜の終業後にやってきた。そしてそれは、あまりにも静かにやってきて、あまりにも短い時間で、あまりにも大きなものを木っ端微塵にしていった。地震や台風があって瞬時に何もかも壊していった、というわけではない。でも私にしてみたら、そんな感じの衝撃だった。

 

「中山さん……お疲れ様です」

「あ、お疲れ様です」

終業直前の出荷場に現れたのは坂田さんだった。私は大体の仕事を終えて、帰り支度を進めているところだった。坂田さんは最初からこわばった笑みをその顔に貼り付けて、とてもぎこちない足取りで私のところにやってきた。そして、何だか妙に緊張した声で言った。

「今、ちょっといいですか?」

「は?ええ……構わないと思いますけど」

何か用かしら。ここのところ少々幸せボケしていた私はそんな風に返した。その態度も表情もあからさまにおかしかったと言うのに、それに対して特に気構えもしなかった。普段の、ちょっとすねた自分ならすぐにも「何かあるな」と勘繰るはずなのに、だ。坂田さんは辺りをちょっとうかがった。そして、私の顔から露骨に目をそらして言った。

「水曜の……件なんですが」

「ああ……私だったら、何とか通えますから、先方さんには……」

「いやその、それがですね……断られまして」

「……は?

私はそこで真っ白になった。固まったと言うか、凍りついた。驚くと言うかびっくりすると言うか、それはそんな言葉で言い表せるような状況ではなかった。何しろ、何を言われているのか意味が解らなかったのだ。何、何?今この人。何言ったの?気分はそんな感じだった。固まっている私を余所に坂田さんは続けた。

「最初はあちらも、中山さんにだったら来て欲しい、というようなことを言ってたんですが……あの後でまた別の人の応募があって……中山さんほどの人ではないそうなんですが、何でも自宅が徒歩でも三十分程度のところにあるとかで……今回はそちらの人を採用されるそうです」

何ィー!と、私は心の中だけで絶叫していた。口から、声は全く出なかった。心の絶叫と共に私の頭の中は真っ白に燃え尽きていた。風でも吹いたら、ちりちりと崩れていきそうな、そんな感じだった。脳みそオールクリア、もう何が何だか解らない。手足の感覚さえ、しびれて消えていきそうな、そんな感じだ。坂田さんは固まった私を申し訳なさそうに見た。そして、それじゃあこれで、来週もお仕事頑張ってくださいね、お疲れ様でした、とか何とか言い残して(聞こえていても良く解らなかった)立ち去った。私は心の中に「何ィー!」を響かせたまま、坂田さんがいなくなってもその場に固まっていた。体まで真っ白の灰になったようで、歩こうとしたら全身が崩れてしまいそうな、そんな錯覚さえ覚えた。

「中山さん……中山さん?」

声がかけられて、私はちょっとだけ我を取り戻した。振り返ると、そこにいたのは山村さんだった。山村さんはちょっと驚いた様子だった。振り返った私の顔が怖かったのかもしれない。けれど私にはそんなことの判断はつかなかった。というより、自分の中の「何ィー!」のあまりの強さに、外のことに対処出来ないでいた。

「……どうかしたの?何だか、様子が……」

びっくりした顔で山村さんはそんな風に言った。私は二、三秒、そんな山村さんを見ていた。そしてその二、三秒後、やっとの事で今あったことを飲み込んで、それに反応していた。

「やまっ……山村さぁぁぁん!うわーんっ」

そのまま、私は彼女に抱きついて号泣し始めた。あまりのことに山村さんは更に驚き、周囲数メートルにいた社員の人たちの視線もいっせいにこちらを向いた。

「中山さん?どうしたの?何かあったの?」

混乱気味に山村さんが尋ねてくる。けれど答えられるはずもなく、私は出荷場で大勢、でもないけれどそれなりの衆人環視の中、山村さんに抱きついて大声で泣き喚いた。

 

そしてその週末は、先週とはまた別の意味での最低の週末となった。帰宅してからも私は一人ビービー泣き続け、いつもの通りに午前様ぎりぎりで帰ったヤスヒロに悔しさのあまりに報告ついでに八つ当たりまでした。ヤスヒロはその報告に最初は驚いて、けれどすぐにもほっとしたように息をつきやがった。だから八つ当たりになったのだが。

「何?今の「ほっ」は」

「何って……別に……」

「あんた今あたしの転職がダメになってほっとしたでしょ!安心したんでしょ!

「いやそんなことは……そんな、かのこ、ちょっと考えすぎ……」

「なんでそこで安心してんのよ?何が良かった感じなのよ!それって一体どういうことよ!

「いやだから、それはー……」

そのまま私は夜半までヤスヒロに当たり続け、ヤスヒロは当たられ続け、最初うんざりしていただけの彼もとうとうキレて、とうとう怒鳴りあいのケンカに発展してしまった。最低だったのはこのケンカだけではない。翌日また休日出勤だったヤスヒロは寝不足で出勤する羽目になり、私は私で二目と見られないほどひどく目を腫らして、先週と同じ様にまた週末のほとんどを寝てすごすこととなった。ヤスヒロの機嫌は何とか日曜の夜までに修復されたけれど、私のほうはそうはいかなかった。

人生終るほどのショック、それも二度目。一度目は前の会社の解雇で二度目がこの直前の不採用。私ってもしかして働くことに縁がないのかしら。こんなだったら生きてる甲斐だってないじゃない。そんな風にヤスヒロに愚痴ったりもして、そのたびヤスヒロは、しょうがないな、というような顔で「そんなことないよ。他に楽しい事だって一杯あるだろ?」なんていって慰めてくれた。でも最低の状態の私は「そんな無責任で適当なこと言わないでよ」とそれをはねつけ続け、月曜の朝になってもふて腐れていた。

それでも、というか、世の中悪い事ばかりでもなかった。月曜に出勤すればしたで、山村さんが私のことを自分のことのように心配してくれたし、経過を報告するとやっぱり自分のことのようにがっかりして「残念だったわね」と言ってくれた。金曜にやらかした騒ぎのことで現場の皆も心配して、色々とやさしい言葉もかけてくれたし、ざっとことのあらましを話すと、やっぱり「残念だったな」とか、中には「でも中山さんがいなくなると困るから、会社代わるなんて言わないでよ」と言ってくれる人もいた。ついでに、先日やめてしまった原野さんの後任もまだ決まらずじまいで、組長からは「スライドで申し訳ないけど、仕事も覚えてもらったし、中山さんにずっとここにいてもらうわけにはいかないかな」とまで言われてしまった。多少なりでも当てにされていることが、私はちょっと嬉しかった。そして、やっぱり自分はワガママなのかもしれないな、と、週末の自分をちょっとだけ反省することもできた。働いているって、こういう事なのかもしれないな。私はそんなことをちょっと思って、縁のなかった会社のことも、ここにいることも、うらんだり憎んだりすることじゃないのかもしれないと、そんなことさえ考えたのだった。

 

「なーかのこ」

「何?

「どっかで休み取れない?平日」

「……どうして?

そしてまた、次の週末。洗濯物を片付ける私の側らで、ヤスヒロは床に寝そべってそんな風に言った。

「市役所に行くの、夜中とか日曜じゃなくて、どうせなら平日の昼間とかの方がいいかと思って」

「……市役所?」

何を言い出すんだろうと思っていると、ヤスヒロはいつもと変わらない、ちょっと気だるい声で言った。

「だから、ほら、籍だよ」

「籍?」

私は洗濯物をたたむ手を止めた。ヤスヒロは起き上がることも私を見ることもなく、天井を仰いで言葉を続けた。

「婚姻届け。俺今貯金ないから、派手な式とかできないけど、とりあえずそこんとこだけでも片付けときたいと思って」

「片付けるって、何をよ?」

「だから、籍。婚姻届」

そう言ってやっとヤスヒロは起き上がった。私は彼をにらみつけて、その言葉を繰り返すように言った。

「籍?婚姻届?」

「だってかのこ、オレと結婚してくれるんだろ?」

そして次の瞬間、沈黙が部屋を支度した。ヤスヒロは私の顔を、子犬みたいな目で覗き込み、私は、ああ、と疲れた声で言って返した。

「そんな話もしてたわね、この間」

「してたわね、って、ちゃんとしたじゃん。何、その言い方」

私はそのことをすっかり忘れていた。何しろその後に起こった事件が私にとっては大打撃すぎて、他のことなんかどうでもいいレベルになっていたからだ。そして今現在でも、それは結構どうでもいいというか、面倒くさいレベルの問題になっていた。だから私はこう返した、

「でもあれは、私がここから出て行くかもって、そういう状況だったからでしょ?

ヤスヒロはそんな私の態度にちょっと怒ったようになって、

「だってかのこだっていいって言ったじゃん。オレの奥さんになってくれるんだろ?

「返事した覚えはないんだけど?

「え?だっていいって……」

「私、何も言ってないわよ?」

「でもあの時、いいみたいな感じだったじゃん!キスしても、嫌がらなかったし!

そのうちヤスヒロの顔が必死なものに変わった。私はそれでもしらっとして、

「そうだったかしら。そんな昔の事は忘れたわ」

「そんな!

「それに、あんたあたしの転職ダメになった時、ほっとしてたわよね?

言いながら私はヤツを睨み返した。ヤスヒロはそれに怯み、うう、と唸りながらわずかにその身を後ろへ引いた。

「あたし、あんたのこと買いかぶってたわ。その件に関しては、もっと熟慮させてもらうから」

「ってそんな!

ヤスヒロの顔が青くなる。ざまあ見ろ、という気分で私はまた彼から目をそらした。

「かのこのいけず、けちんぼ!いいじゃん籍入れるくらい、減るもんじゃなし!

そんな私に向かって、ヤスヒロは子供のようにわめき始めた。私はやっぱりそれを見ないまま、

「減りはしないけどバツはつくでしょ。あんたあたしの戸籍、そんな安っぽいものだと思ってるわけ?

「そんなの思ってないよ。それに、オレは絶対そんなことしない!

必死にヤスヒロが言い募る。それでも私は意地悪く、

「あんたはそうでもあたしはどうかしらねぇ?

「か、かのこ?!

ヤスヒロの顔が真っ青になる。私は意地悪な顔で少し笑って、

「そんなことぐだぐだ言ってないで、あんた自分のものくらい自分で片付けなさいよ。後で何がないって言われても、知らないから」

そう言ってその場を後にする。情けない顔で間抜けな格好のまま、ヤスヒロは青い顔で叫ぶ。

「かのこ!今の何?冗談だろ?オレ絶対かのこのこと大事にするから、なぁ!そんな……そんなひどいこと言わないでくれよ!

「狭いところでわあわあわめかないでよ、うるさいから」

ヤスヒロの悲痛な叫びに、ちょっと意地が悪すぎたかしら、と私は思ってちらりとそちらを見た。ヤスヒロは真剣に、今にも泣きそうな顔で私を見ていた。私はそれにぷっと吹き出し、ヤスヒロはそれを見てまた過剰に反応した。

「なんっ……何がおかしいんだよ?オレは本気だぞ!冗談なんかっ……」

「はいはい、解ったわよ。騒いでないで、そこ片付けて。今お茶入れるから、そういう話はもっと落ち着いて、ゆっくりしましょうね」

笑いながら私はわざとらしい猫なで声で言った。ヤスヒロの表情はそこで一瞬、喜びに満ちたものに変わった。が、すぐにも眉はしかめられ、

「かのこ……おまえオレの事、からかってんだろ?」

「え?何が?

うふふ、と笑って私は答えた。ヤスヒロはむっとした顔のまま、

「かのこのいけず!根性悪!俺のこといじめてそんなに楽しいのかよ!人が真剣に話してんのに!

「おかしいわよ、ガキみたいにすねたりして」

素直に私は答えた。ヤスヒロはふて腐れたまま立ち上がり、私より先にキッチンに向かった。そして怒った口調で、

「今からオレが世界で一番美味しいエスプレッソ淹れてやる!そしたらかのこ、オレの話ちゃんと聞けよ、いいな?」

何よそれ、と思ったけれど私はそう言わなかった。変なの、でも、楽しいし、彼が愛おしい。思ってまた私は少し笑った。声が聞こえたのか、またヤスヒロは怒って、

「笑うな!俺は本当に……」

「はいはい、解ってるわよ。ちゃんと聞いてあげるから、世界一のエスプレッソとやらを淹れてちょうだい」

ヤスヒロはコーヒーの支度を始める。私は洗濯物のそばで、そんな彼をただ見守っていた。本当に美味しいエスプレッソが出てきたなら、一体どうやって答えようか、そんなことを思いながら。

 

 

 

 

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Last updated: 2006/09/10

 

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