惟 神

KAMUNAGARA

 

其之弐

 

事務所から車で三十分ほどの、ごく一般的な住宅街にその家はあった。古びた平屋建てでもない、ごくごく普通の、小さめの建売住宅、というのが神和の目に映る建物の体裁だ。周りには似たようなサイズの、少しずつで残を変えた家々が軒を並べ、余り厚くもない塀で取り囲まれている。白い壁に赤茶色の屋根のあまり大きくない家は、見た目からすれば霊的な存在とは無縁であるかのようだった。建設会社と不動産会社が共同で開発したらしい物件には歴史どころか大した年月もなく、無機的にそこにたたずんでいる。

「庭に……石の祠があるって?」

自分をそこに連れてきたのは、数日前に事務所に訪ねてきた依頼人の女子高生だった。依頼人は玄関先で少しだけうろたえて、接客に全く向かない尊大な態度の黒ずくめに言った。

「あります、本当です!ここに引っ越してくる前に、おじいちゃんが前の家の近くの神社の人に頼んで、お祓いもしてもらって、一緒に引っ越してきたんです!」

今時の女子高生とオカルトの接点とか言うものは、テレビで騒いでいる程度のものだろう、と、頭から思い込んでいた神和は、彼女の様子に軽く息をつく。とかく、世間にはその手のネタが多すぎる。そしてそれらは心無い輩の手でけばけばしく虚飾され、本来の姿を失うほどの大きなものに膨れ上がっている。その実、その虚飾をはがされた後に残るものは思い込みであったりやらせであったり、全くのデマだったりすることもある。が、

「そいつは、信心深いじいさんだな」

そこまでして連れて来たのか。言いながら神和はそう胸の内で呟く。屋敷神と言って、家の敷地内に祠を据え、近隣の神社からその祭神を分社してもらうことがある。分けられた、というより複製されて小さくなったその存在も、その元である本体と同じく神たる存在には違いない。とは言えそれらは縮小されたその大きさに見合うだけの力しか持たず、神という大袈裟な名には見合わない、可愛らしい存在になることが多い。

「ここが気に入らなくて出てった、とか、そういう可能性もあるんだが」

何気に神和が呟く。側らの依頼人は血相を変えて、

「そんなことないです!だってうちの神様、時々いなくなったりはしたけど、今までこんな風にいなくなったことなんて、一度だってないんだから!」

「そいつはまた……義理堅いんだな」

神和は奇妙な言葉を返し、その場で一つ息をついた。そして、彼女の方は見ずに尋ねるように言った。

「でもなんでまた、わざわざ田舎の家の屋敷神なんかを連れて来たんだ?あんたのじいさんって人は」

「それは、よく、知りませんけど……ねえ本当に、見てくれる気、あるんですか?」

依頼人は神和の態度に耐えかねたように声を荒くする。やはり振り向きもせず、神和は肩をすくめて言った。

「結論だけ言おう。ここにはそういうものの気配はない」

「ないって……うちにも入ってないのに、どうしてそんなことがっ……」

「悪いな、そういう体質なんだ」

言って、神和は初めて振り返った。目の前には驚きと、そしてどこか悲しささえ入り混じった顔の女子高生がいる。こういう場面に接客に向いた男がいないでどうする気だ、と思いつつも、変わらない顔で神和は話し始めた。

「確かに、ちょっと前までは何かが住んでた気配はある。だが今はいない」

「どこに行ったか、とか、解りますか?」

「そういうことは、ここからの感じじゃよく解らん。調べる事は出来なくもないが、仮にそいつが気まぐれでどこかへ移っていたとしたら、それでも連れ戻したいか?」

「え?」

依頼人にしてみれば、それは思いがけない問いかけだった。変わらない顔で、と言ってもいつも通りに黒いサングラスをかけているので、その下の表情は見られないが、淡々と神和が問い、その答えを待つ。

「気まぐれで、どこかへ……?」

「あんたも、そいつがいたりいなかったりすることが解るんだろう?出かけて戻ってくる、って、その感じが」

人はそれを霊感と呼ぶ。その、肉の体を持たないものの気配を感じ取ったり、意思の疎通を図ることが出来る、その感覚を。戸惑う少女を見、神和は言った。

「あいつらにも意思や感情がある。仮に、そいつがここへ来た事が不本意だったとして、それを無理やり連れ戻す事になったとしても、それでもいいかと聞いているんだ」

「む、無理やりなんて……だって、うちの神様なのに?」

「そいつらは誰かの所有物に出来るようなものじゃない。言っただろう?意思があるんだ。いやだと言うものをここへ連れてくる事は、出来なくもないが……そういうことは素人にはオススメできない」

「……どういうことですか?」

不安げに、少女は神和に尋ねる。笑いもせず、神和は返した。

「俺達は基本的にそいつらを世界の天辺近くに置いた宗教団体の人間だ。まあ、俺は信心深いとか、そういう手合いじゃないが、個人の欲だけでそいつらを一つの場所に縛り付けるような真似も、正直したくない。労力もかかるし、そうなってくると依頼料もかかってくる。今日のはサービスだけどな」

呆然と、少女は神和を見ている。やれやれ、話が難しかったか。思い神和はかすかに苦笑を漏らす。そして言葉を続けた。

「そいつが自分の意思で出て行って、ここよりも住みやすい場所を見つけて、そっちがいいって言っても引っ張ってくるってことは、そいつの意思を無視してることになる。あんたが、したくもないことを無理やりやらされて、それでも抗えない状態になったらどうだ?気分がいいか?「カミ」と呼ばれてるあいつらにも、そういうものがある。俺はその辺のことを言ってるんだが」

「神様が、家出したって言うの?」

そこでようやく少女が言葉を返した。苦笑を口許に浮かべ、神和は、

「まだそこまでは解らないが、そういう可能性もある、ってことだ。綺麗さっぱり何の気配もない。人為的に動かされたんじゃないなら、自分でどこかに行っちまった感じだ」

そう言って辺りを見回すようにした。彼の感応能力はその能力を生業にしている人間の中でも、抜きん出て優れている。その「審神者」なる美称も伊達ではない。何しろその場にいるだけでそこかしこに居るものの気配の総てを感じられるのだ。感覚を開く技術よりも、閉じる術でも身につけねば、居ても立ってもいられないほどに。何かがいるいないの判別どころの話ではない。神和はそのまま、少女の答えを待つ。少女はその場で何処か悲しげに眉をゆがめて、それから、泣き出しそうにさえ聞こえる声で言った。

「うちに帰ってくるのがいやだったら……もういいです。好きなところに行くんなら、仕方ないもの。でももし誰かがどこかに連れて行って、帰れなくて困ってたりしたら、その時は……」

「じゃ、庭、見せてもらおうか」

その先を聞こうともせず神和が言う。少女は拍子抜けしたような顔で、

「え?」

「その「神様」とやららの意思を尊重するんだろ?連れ戻す前に」

だったら特にする話もないだろう。その確認が取れれば良かったのだから。そんな思いで神和が言う。拍子抜けしたままの依頼人はそんな神和のペースに巻き込まれたように、

「は、はい……こっちです……」

そう言って微妙に首をかしげ、神和を先導して歩き出した。

 

「あ、お帰りー、そっちどうだったー?」

黄昏も程近い時刻、神和が事務所へ戻る。御幣は食べかけのドーナツを片手に、いつもと変わらない、どこか間の抜けた声を投げた。事務ブースに向かって歩く神和の言葉はない。返答を特に待ってもいない御幣は、ドーナツを片手に、それを振り回すようにしながら話し続ける。

「さっきTXで岩居さんに会っちゃったよ、土御門の。あの人も大変だよねぇ、本家の総会で広報にご指名だってさー」

言って、あはははは、と御幣が笑う。見もせず、神和は着ていた上着を脱ぎながら、

「増ヶ崎の方はどうだった?」

「んー、彼?いつもと変わらなかったよ?でも最近殊勝になってきたよねー、パフェおごってくれたりしてさー」

「……またたかったのか……」

笑い続ける御幣をちらりと見て、聞こえるか否かの小さな声で神和は呟く。聞えているのか否か、御幣の表情はにこやかなまま変わらない。御幣はそのにこやかな顔のまま、再び神和に質問を投げた。

「で、そっちは?どんな感じだった?家出した神様」

「家出というよりは立ち退きだな。無理やり……追い出されたと言うよりは、帰れなくされた感じだ」

「何それ」

溜め息交じりの神和の答えに御幣は笑うのをやめ、その首を傾げる。神和は疲れた様子を隠そうともせず、デスクのいすを引っ張り出し、どかりとそれに腰掛けた。足を高く組んで再びの吐息の後、こう続ける。

「家の周りをぐるっと壁が作られてた。大したものじゃなかったが……勘には触るんだろうな。よく出かける性質だったらしい」

「そこをやられちゃったわけ?締め出し?」

「そんなところだ」

「で、君は?どうしてきたのさ?」

興味深げに、御幣が身を乗り出す。神和はそれをほぼ無視したような態度で、

「一番の原因になってそうな物は外して来た。それ以上は何の下準備もなしにやりようもないしな」

「何それ、無責任だなぁ」

「他人の仕掛けた術式に勝手に手出しなんか出来るか、お前でもない限り」

言いたい放題の御幣に神和は変わらない様子で切り返す。返された御幣はその言葉にいつもの害意を受け取って、いつものようにその眉をしかめる。見ず、神和は机の上に黄ばんだ紙片を取り出した。クシャクシャになったそれを見て、また御幣の顔つきが変わる。先ほどの不機嫌も忘れて、

「何これ」

「折り符だ。鏡に模してあったみたいだが……」

「鏡?これが?」

くしゃくしゃのそれはすでに原型を留めてはいなかったが、規則正しい折り目が僅かに残っていた。疑問に眉をゆがめて御幣はそれを手に取る。折り符とは、清浄な紙を用い、現したい対象物の姿を念じ、それに模して折り整え、見立てて用いる、符術と呼ばれる術式の一つである。それらは呪物だけでなく時には動物や植物の姿形を現し、その代替物ともなりうる。鏡は覗いたものの姿を写し、光を反射させる。それは真実の姿をそこに顕にし、また反射によってそのものを退ける力を持つ。それによってそこに入ろうとするもの、または映り込む位置に向かおうとするものを退ける。己の真実の姿をもし他者に知られれば、どんな災厄に見舞われるかも解らない。その為、カミと呼ばれる様々の存在はそうした鏡の性質を嫌うことがある。術を行った術者はそれを利用したようだ。へぇ、と感心したような声を漏らし、御幣はその紙片を手に取った。恐る恐る指でつまみ上げるその様子を見、笑いもせずに神和は言った。

「御幣、それ、破れ」

「え?いいの?これ術に使った折り符でしょ?そんな不用意に破ったりして……」

「お前だったら平気だ。もうかなりそいつの効果も薄れてるし、お前なら充分トドメがさせる」

「……何、それ」

眉間の皺を寄せたり延ばしたり、忙しく御幣の表情は変わる。そんな、不機嫌にやや膨れた御幣を余所に、神和はしゃあしゃあと言った。

「お前のその体質だったらその程度の術なら無意識でも壊せるってことだ。便利じゃねぇか」

「あのね、僕が言いたいのはそういうことじゃなくて……まあ、いいけど」

言いながら御幣は手にした紙片をびりびりと破り始めた。黄ばんだ紙片はこまかい紙くずに変わり、彼の机の前に小さな山を作る。それを見届けるようにしてから、おもむろに神和は言った。

「もういいぞ、出てこい」

「へ?」

独り言、若しくはかなり怪しい言動としか取れないその声に、紙片を破り終わった御幣が、目を丸くさせて神和を見る。神和は眉一つ動かさず、

「お前に言ったんじゃない、一々ムダに反応するな」

「って……そんなこと言ったって……」

しなかったら君が変な人じゃないか。思いながらも御幣はそれ以上を言わなかった。サングラスから覗く神和の眉間がわずかに歪む。彼はすぐさま舌打ちし、

「だから、客が来てるんだよ。お前にゃ解らんだろうがな」

そう言ってそこから突然視線を窓辺へと向けた。御幣はきょとんとして、

「お客?どこに?」

「お前は黙ってろ。出張られるとやりにくい」

「出張るも何も、僕何もしてないじゃない……」

「あいつらはお前がいるだけで警戒するんだよ、その殺気垂れ流しのおかげでな」

忌々しげに今一度神和は言った。御幣の表情はそれによってまた不機嫌なものに変わる。むっと唇を尖らせる彼を余所に、神和は忌々しさの残った顔で、中空に呼びかけるように言った。

「こいつには何もさせない、だから出てこい。それとも俺に、その性質(たち)を明らかにさせたいか?」

強い声の後にも、そこは沈黙していた。いらだたしげにちっと神和が舌打ちする。御幣は尖らせていた唇を元に戻し、大人しく何かが始まるのを待っていた。が、待ちきれる性分でもないらしい。すぐにいつものように神和に尋ねた。

「ねえ、一体何なのさ?何がいるって言うのさ?」

「すぐ解る。つーか別に、お前には解らんでもいい」

そしてその答えにまた不機嫌な顔になる。膨れたりきょとんとしたり、忙しい御幣は、それでもそんなことになど気付いていない様子でまた膨れて、

「そーゆーのってないんじゃないの?今だって何かしてあげたじゃないか。僕だってここの職員なんだから、何が起こってるのか知る権利くらい……」

「だから大人しくしてろ。お前の場合、その感情の起伏だけであいつらの気に触るんだ。何度も言わせるな」

小さな子供のしでかしたいたずらに腹を立てる、気の短い大人さながらの態度で神和は言った。御幣はその扱いにますます腹を立て、

「だったら先に説明しなって言ってんの!誰が来て何してるのかって!」

しかし今度は神和はそれに何も言い返さない。無視された体の御幣は更に激昂して、

「ちょっと神和くん?人の話聞いて……」

「お前が怖くて出るに出られんと言っとるだろうが!黙ってろ!」

その激昂した声を一喝するように神和が怒鳴り返す。強い声に驚き、御幣はその目を丸くさせ、すぐにも口を閉じた。変わらず、神和は彼を見ようとしない。事務机から二メートルほど離れた先の大きな窓の足元を見て、また独り言のように言葉を紡ぐ。

「ああ……すまないが、あいつにも見えるようになってやってくれ……この馬鹿を無視するわけにもいかないんでな」

「……馬鹿で悪かったね」

小声で御幣がその言葉に反応する。しゅるしゅると、その場で風のような何かが渦を作ったのはその時だった。ゆらりと、室内の空気が揺れる。神和はそれを察知しているのか否か先ほどから同じ場所だけを見詰めて、御幣は、室内の異変にあちこちを見回す。

「ねえ神和くん、何か起こってるの?」

「ちょっと待ってろ、ガキじゃあるまいし」

声を投げればけんもほろろの返答なのはいつものことだ。別段堪えてはいないが不平不満垂れ流しの御幣は、ここでもまたむっと眉を寄せ、それでも神和の言った通りにそれを待つことにした。先ほどの室内の異変は自分でも感じられる。何かがここに現れるらしい。でも誰が、何のために?思って待っていると、それは空気の中からにじみ出るように、そこにゆっくりと像を結び始めた。目で見える、と言うべきか否か。瞬きして、御幣はそれを見ていた。白い、毛足の短い、子犬。それは彼の目にそう映った。その白い子犬は後ろの二本の足で立ち、身には水干と呼ばれる古い装束をまとっている。それを確認した直後、御幣の顔は道端で犬猫を発見した五歳児のそれと変わらないものになっていた。

「うっわぁ……かーわいいー……神和くん、わんこが水干着て立ってるよぉぉ……」

「……せめて犬って言え」

言いながら、がくりと神和はその肩を落とした。それはその男の悪癖というか、たちの悪い嗜好だった。小動物に目がない。道端でもテレビでも、見たとなったら周りのことなど全く意に介することなくそれにまっしぐら。確かに人の好みを縛る事は出来ないが、この男のその悪癖に神和は参っていた。御幣は目を輝かせてそれに駆け寄る。そしてそばにしゃがみこむと、一人で勝手に喋り始めた。

「ねえねえ君、どこの子?どこから来たの?すごーいふかふかだー……ねえねえ、抱っこしていい?抱っこしてもいい?」

「いい加減にしろ、このバカ」

子犬にメロメロの御幣を見ながら忌々しげに神和は言う。その白い犬の姿をしたものはひどく困惑した様子で、かすかにその身を強ばらせるようにしながら、神和へと目を向けていた。短い白い毛が逆立っている。御幣のそばにはいたくないらしい。その様子に深く息をつき、神和は言った。

「お前が触ったらそいつは消えるぞ」

「えっ、ごめん、そうなの?ごめんねー、怖かったねー、大丈夫だよ、僕何にもしないからねー」

言っている御幣は既にその犬を抱き上げていた。抱き上げられた方はその腕の中でぶるぶる震えながら硬直している。ずかずかと神和はそれに歩み寄り、無言で子犬を御幣からもぎ取った。

「ああっ、神和くん何するのさ!落としたら痛いでしょ!」

「お前が触ってる方がよっぽどダメージだと言っとるのが解らんのか!」

がう、と吼えんばかりに神和が強く言う。子犬を奪われた御幣は泣きそうな顔になって、

「えー、そんなぁー……せっかくかわいいわんこなのにー……」

「いい加減その体質を自覚しろ、この「神殺し」」

「そんなこと言ったって、僕だって好きでこんなんじゃないんだからさー……」

「大体こいつは犬じゃないんだ。解ってるのか、お前」

「だって犬以外の何に見えるって言うのさ、その子」

「子って言うな」

哀しくも切なげな顔で御幣は言って、奪われた子犬を見ていた。時としてカミと呼ばれるその存在は、獣の姿をとることがある。最も、彼らが人に感知させている外見は、人側が抱く彼らのイメージに近い。カミは姿も肉体も持たない、ただ意思と超常の力のみを持つ。それらが見せる姿は仮の姿であり、その本性を現していることはほとんどない。

子犬の姿をしたそれは、神和に抱かれるとほっとしたようで、それまで強ばっていた表情と体中の緊張を解く。そして礼でも言うかのように、すりすりとその身を神和に摺り寄せる。見ながら、神和はその犬に問いかけるように行った。

「大口真神の分祀、か……」

わん、と、小気味よい声で子犬の姿のそれが鳴く。御幣は抱かれているそれを覗き込み、

「オオクチマカミ?オオカミの神様?」

とたんにその小さな大口真神はまたその身を強ばらせる。御幣は困ったような笑顔を作って、

「だから何にもしないってば。そんなに怖がらなくても大丈夫だよ」

「だから、何もしなくてもお前が触ったらそれだけでこいつにはしんどいんだよ」

全く懲りないと言うか解らないと言うか自分の欲求を抑制しない男に対し、神和は呆れ口調で言葉を放つ。御幣は困ったように笑い、

「本当、僕って哀しい体質だよねぇ……何にもしなくても、こんな可愛いわんこに嫌われちゃうなんて」

そんな風に言った。

 

応接ブースのテーブルの上で、水干を着た子犬のようなものが正座している。その前には素焼きの皿に米と日本酒とが入れられていた。水干姿の子犬はまず前足を合わせると、交互にそれらを口に運び始めた。

「わー……わんこがごはんとお酒、食べてるよ……」

「だから犬じゃないと言っとるだろうが!」

「やだなぁ神和くん、ジョークだよ、ジョーク」

額をひくつかせ始める相方に、のんきな男は笑顔で答えた。子犬は目の前の二人になど構わない様子で酒を飲み、米を食べ、器が空になると今一度その前足を合わせ、長い口をぱくぱくと動かし、言った。

「ああ、くちくなった、馳走になった」

二人はその言葉にそちらに向き直る。子犬とさほど変わらない、そこにいる「神」なるものは、ふさふさの尻尾をゆらゆらと揺らし、空腹を満たされてご満悦、の様子だった。本来、神に姿形はない。そしてそれを「見る」という認識もまた、正しいものではない。勿論それは音声にも言えることだ。だがそれを感知するものはそれらを「見」「聞き」していると言い表すことが多い。そう感知していると言えば、それらを感じる事のかなわない相手にも、そこに何かがいて、その意思を伝えようとしていることは解る。そして同時に、五感ではないどこかでそれらを感じている自分を、その狂気から遠ざけるためだ。その存在と多く交われば、それらに魅入られ、引き込まれる。例え体はそこを動かなくとも、その意識は定かではない。何しろ相手は「神」、肉の体を持たない、強い力を持った意思だ。人間風情に比べれば、その力の意思も、遥かに強く大きい。

「お腹膨れた?でもごめんね、お米も古いし、お酒も、あんまりいいのじゃなくて」

そしてその狂気とやらを全く解っていない、今現在何とかその存在を感知している男は、機嫌よさげに、しかし申し訳なさそうに言った。傍らの男はけっと小さく吐き捨て、それ以上は何も言わない。

「いやいや、充分じゃ。腹もくちくなったわ。久々にまともに食ろうたしの」

「久々?」

その言葉に眉をしかめたのは神和だった。子犬の姿のそれはその言葉に、その口をまたぱくぱくと動かし、

「おう、とは言え儂らは、主らのように日に何度も食わねばならぬこともないがな。ここのところ、ちょっと贅沢での。日に一度は何やら食わせてもろうておったで、それがひょんと途絶えて、ちと堪えたわ」

御幣はそれを笑わない顔で、見た目は子犬なのに、何か年寄り臭い喋り方だなあ、と思いながら、じっと眺めていた。神和はその言葉に、サングラスの下の眉間をわずかに寄せる。

「どういうことだ?それは」

「どうもこうもない。儂、帰られんかったのじゃ」

神和の問いに、素直に子犬は答える。そして困ったようにくぅん、と一つ鳴いて、その、人語を操るには向かない口を動かし、話し始めた。

「何かの、ちょっとじゃ、散歩しておったじゃ。連れがおるので、そこへ行っておったじゃよ。それで、お腹もすいたのーって、帰ろうと思ったじゃに、帰れなんだじゃ」

「散歩?一人で?」

言ったのは御幣だった。子犬は振り返り、

「そうじゃ。儂じゃとて散歩くらいしたいさ。犬でもなし、ヒトに綱着けられてなんぞ、出はせん」

「えー、でも、急に道路に飛び出したり、はぐれたりして帰れなくなったら……」

「御幣、お前は黙ってろ」

小犬以外の何物にも見えないそれに言われて反論しようとした御幣を、怒気をはらんだ声で神和が制する。一々怒るのも手間だが、その男に喋らせれば話は前に進まない。自分の言葉をさえぎられた御幣はかすかに唇を尖らせるが、ひとまずそこで黙った。小犬の姿の小さな大口真神は再び神和を見、困った様子のままで言った。

「このまんまではあそこへ戻れん。何とか出来ぬか、お主ら」

「お前らをはじき返す「鏡」は撤去して、今こいつが壊した。もう戻れるはずだぞ」

「え、何?このわんこがあの女の子のとこの神様なの?」

二人のやり取りからそれを察知して、御幣が驚きの声で言う。否とも応とも神和は答えず、小犬の答えを待った。キューン、と、それはまた小さく鳴いて、困った様に視線を泳がせる。

「そんなこと言うがの、儂らはちーさいんじゃ。それがなくたって、帰れん事もあるのじゃ」

「何それ、どういうこと?」

「さっき言っただろう、壁だ」

再びの御幣の質問に、答えたのは神和だった。あ、と小さく言って、御幣は自らその答えを口にする。

「そうか、鏡と壁で、追い出されて、鏡は壊れたけど、壁がまだだから帰れないんだ」

「じゃからお願いしに来たんじゃ。儂、あそこへ帰りたい」

どこか寂しそうな顔になってそれは言った。御幣の顔つきがとたんに同情のそれになる。が、神和は大して変わらない顔で、

「そんなに大層な術じゃないだろう。通る時に多少癇に障る程度だ。お前が戻ろうと思えば、できないほどじゃない」

「でもあれがあると、何か嫌じゃ。毛が引っ張られるみたいに痛いし、ちりちりして落ち着かん」

小犬は神和に反論する。それを見て、口を開いたのは御幣だった。

「ねぇ、神和くん、かわいそうだよ。出入りする度にそんな、何かいじめられるみたいな目に合うなんてさ」

「俺がいじめてるわけじゃないぞ。大体、そいつをまともにいじめようと思ったら……まあお前なら側にいるだけで充分だけどな」

長い付き合いとは言え、その男との会話は難易度が高い。思いつつ神和はそう返す。御幣はとたんに眉を吊り上げ、

「神和くん、今はそういうジョーク言ってる場合じゃないでしょ?君もっとTPOってもの考えて色々言いなよ。このヒト、困ってるんだよ?」

「……お前には言われたくないぞ、俺は」

度し難い相方に強く詰られ、神和は呆れ心地で言い返す。そして溜め息をつくと、

「確かにあそこにはそいつらが嫌がる壁はある。だが大したものじゃない。そいつが本気を出せば簡単に破れるレベルだ」

「やじゃー、おうちに帰りたいけど、あの痛いのはやじゃー」

ぴー、と声を立てて小犬の姿の大口真神が泣き出す。それを見、御幣の表情は更に険しくなる。

「ほら、泣いちゃったよ?充分いじめてるじゃない」

「って、お前なぁ……」

「僕らで何とかできるんでしょ?何とかしてあげようよ。ねえ?」

泣き出した小犬と変わらない顔で御幣が言う。

「うえーん、帰りたいのじゃー、帰りたいけど、痛いのはやじゃー」

「神和くん、見損なったよ!こんな小さいヒトの頼みも聞いてあげられないなんて、根は優しくて真面目で、本当はいいヤツだと思ってたのに、やっぱり君ってただの無責任なんだね!」

そのままその場で一人と一匹(正確には一柱、だが)がそれぞれにわめき始める。神和はうんざりしたように息をつき、二人から露骨に顔をそらした。

「解ったよ、本庁に連絡してやる。で、お前の住処の周りの壁をちゃんと取り除いてもらってやるから」

そしてその言葉のとたんに、わめいていた二人の顔つきが一変する。小犬も御幣も揃って神和の元へと飛びつき、

「本当か?本当に帰れるようにしてくれるのか?あの痛い壁、取ってくれるか?」

「さーっすが!神和くん。解ってるじゃない」

「まあ本庁のヤツらに頼めば二、三日のうちには何とか……」

しかしその言葉で、それまで喜びに目を輝かせていた二人の顔つきはまた一変した。

「えー、二、三日もかー?」

「そんなにかかるの?今夜中とか、今から、とか、もっと早く何とか出来ないの?」

再びその場に不満が垂れ流される。神和は額近辺の血管がぴくぴくするのを感じながら、

「何だ、それで不満なのか?それに、そいつらに二、三日の時間が何だってんだ。俺らの二、三年、平気ですっとぼけてられる種類のイキモノだぞ。ああ?」

「やー……不満って言うかさー……」

「だって儂の事、待っておるんじゃろ?あの家の娘」

どうしてか不貞腐れる御幣の隣で、どこか哀しそうな顔になって小犬の姿のそれは言った。怒りで眉を吊り上げていた神和の、その眉がわずかに緩む。子犬はくぅ、とまた小さく鳴いて、

「儂、早く帰りたいのじゃ。待って、気も休まらぬのじゃろ?あの娘」

「それは……そうだが……」

言われて、神和は閉口する。小さな大口真神は、そんな神和の前に出て言った。

「あの娘は、儂にごはんをくれる。そんで今は、待っておってくれるんじゃ。儂はちーさいから、大したこともやってやれんが、そんでも、貰ったごはんの分くらい、何ぞしてやらねばのぅ。神様なんだし」

自覚してんのか、と、心の中だけで神和は呟く。そしてチ、と舌打ちすると、忌々しげにそこから顔を逸らし、言った。

「解った、解ったよ。今夜中に戻れるようにすりゃいいんだろ?」

再び、御幣と子犬の顔が明るくなる。見ず、神和は言葉を続けた。

「そこにいるその「神殺し」がいりゃ、大抵の術だったら木っ端微塵に壊せる。多少場は乱れるだろうが……」

「ちょっと待ってよ神和くん、本庁の誰か、頼むんじゃないの?」

その言葉に水をさすように、御幣が口を挟む。と言うより、それは彼にとっては意外な提案だったらしい。神和はそんな御幣に振り返った。そして、笑うもせずに言った。

「何言ってる、この最強破壊巫覡。その手間があるから二、三日かかるって言ったんだろ?今」

「えー、でも、僕そういうの……解術とか、やり方良く知らないよ?大体術式が解らないとそれの解き方だって……」

「誰がお前に「解け」なんて言うか」

呆れと怒りの混じった声で神和は言い返す。御幣は目を丸くさせたまま、

「え?じゃあどうすんの?」

「壊せ」

「僕が?どうやってさ?って言うか、それって危ないんじゃない?」

「お前なら心配いらん。丈夫だけがとりえだ。そんなことくらいでいちいちダメージ食らうほど繊細にも出来てないだろ」

それは今までの反撃を含んだ言葉だった。無責任で乱暴な神和のその物言いに御幣は眉をしかめ、

「って……何かちょっと引っかかるんだけど、その言われ方」

「それ以外の取り得もないんだ。それに、お前が言い出したんだ。役に立つのは当然だろうが」

「まぁ……そうなんだけど、さー……」

しかし言い返され、御幣はそのまま反論の術もなく、膨れて言葉を濁す。子犬は二人のやり取りをどこか不思議そうに眺めていたが、間を置いて、

「儂、帰れるのか?待たなくていいのか?」

「今すぐ、は難しいが、今夜中には何とか帰れるだろう。な?御幣」

にやりと、答えた神和の口許が笑う。膨れたまま、御幣、

「今夜?いいよ、どーせヒマだもん。役に立つって言うんなら、立たせてもらうよ?」

「だそうだ。ちょっと荒っぽいやり方にはなるな……下手したらあの壁より後が厄介かもしれないが、それで良きゃな。あいつに出来るのは壁を「粉砕」することだし」

「え?」

ニヤニヤ笑ったまま言った神和のその言葉に、子犬の姿の大口真神は固まり、恐る恐るとふてた御幣を見遣った。

 

そして、夜。

「こーなぎくーん……何してんの?」

夜陰にまぎれて、とは言え街灯のちらほら点る、その中途半端な闇の中、二人と一柱はいた。人気はない、というより、ない時刻を選んでいる。特別邪魔ではないのだが、何かしら術やそれに類するものを行う時には、極力関係者は巻き込まないに限る。それに、もし仮に微弱ながらも霊感を持つ人間が通れば色々と厄介事も起こる。それを実行する時刻が深夜であることは、その点からも合理的といえた。尤も、霊的作用を増幅する時間帯、という観点からしても、闇の深いその時間が望ましいのだが。

「一応、壁を作ってるものの下調べだ」

「一応?僕が壊せばいいだけじゃないの?」

神和は手にした鏡を見ながら御幣に答える。御幣は、スポーツの前の準備体操でもするように、肩や膝をほぐしている。これから、見ず知らずの霊能者が作った、いわゆる結界を破壊する、とは到底思えない暢気さだ。神和の肩の上では白い小さな大口真神が、二人のやり取りをどこか不安げに見ていた。何しろ周りのことは二の次で、とにかくその術式を「壊す」というのだ。何物であっても不安は隠しきれない。

「だ、大丈夫かの?」

「何が?」

小さな白い子犬の姿のその存在の、不安の言葉に聞き返したのは御幣だった。それは怯えるように御幣を身、その御幣から隠れるように、神和の体にぴたりとその身を寄せる。肩に乗っている怯えた子犬の様子に神和は息をつき、

「御幣、壊すのは術式だけだ。他のものは乱すな」

「乱すな、って言われても……僕じゃそういうの、解んないんだけど」

「だからこっちで見てるんだ。この家の周りを囲むように土鈴が五個仕込まれてる。それを外して壊せば術式事体も壊せるはずだ」

淡々と、と言うよりも憮然とした顔で神和が言う。御幣は首をぐるぐる回しながら、

「了解。で、一個目はどこ?」

「家の真南だ」

言って神和はその鏡を上着のポケットにしまった。御幣は言われたとおりにその真南、玄関前へと移動し、その扉を目の前にその目を丸くさせた。

「うーわ、フツーのおうちだねぇ。建売かな。神様、ここんちに住んでたの?」

「余計なことはいいからさっさとやれ、お前は」

後についてきた神和が呆れたように言う。構わず、御幣はその家を観察していた。

「今時の神様ってこんなモダンな家に住んだりするんだー、へえー……座敷わらしみたいに古い家が好きなのかと思ってたよ」

「御幣、いい加減にしろ」

その男のペースに付き合っていると物事はスムーズに進まない。が、その男がまともに自分の意見に取り合うことも少ない。解っていながら、神和も何も言わずにはいられない。苛立ちを含んだその声に御幣は振り返り、ぺろ、とわずかに舌を出すと、

「解ってるよ、いいでしょちょっとくらい。で?肝心のブツは?どこ?」

「お前の真後ろの、電柱にへばりついてる、それだ」

言われて御幣は振り返る。そして見つけたその電柱に向かって歩み寄り、

「……これ?外していいの?」

言いながら答えも聞かずに、見つけたものに手を伸ばした。焼き物で出来た小さな鈴は、彼の目の高さよりわずかに高いところに、泥のようなもので電柱に固定されている。手を当てて強く引けば簡単に取れそうだ。

「ねえこれ、とったら中からミミズとかムカデみたいなの、出てこないよね?」

「そんな感じはしない。出てきてもなんだってんだ」

「えー、だってゾロゾロってしたらいやじゃない、手の中で」

「いいからさっさとやれ!」

ぶつぶつと文句ばかり多い御幣にたまりかねた神和の声が強く大きくなる。御幣は変わらない顔で、

「解ったよ、じゃ、外すからね。よいしょっ……と」

言いながら背伸びして、その土くれに手をかける。電柱に擦り付けられるようにして付いていた土の塊は、その手の中でぼそぼそと崩れて、簡単に御幣の手の中に収まった。赤茶けた土くれを手に御幣は神和へと振り返り、

「ねえ、何にも入ってないよ?鈴みたいなの」

「良く探せ。その中に符が仕込まれてる」

「良くって言われてもなぁ……土ばっかりにしか見えないし」

ぎゅ、と御幣はその土の塊を握りこむ。と、かすかに固い感触を覚えて、そのまま何も言わず、周りの土だけをその手から振り落とす。赤土の中からは、神和の言葉の通りに小さな焼き物の鈴が姿を現した。とたんに、御幣の口から感嘆の声が上がる。

「わ、本当だ。鈴、入ってるよ。神和くん、これどうすんの?」

「踏むなり何なりして壊せ。それでいい」

「あ、そうなの?そんなに簡単なの?」

「お前だからな」

最後の一言に眉を寄せつつ、御幣はその鈴を足元に落とす。そしてためらいもなくそれを足で踏み潰し、じりじりとにじった。ごり、という鈍い音とともにそれは砕かれ、その中から小さく折りたたまれ、尚且つ踏み潰されて破れかかった紙片が現れる。御幣はそれをなんともない様子で拾い上げ、掌の上に載せてじっくりと観察する。

「こんな紙切れ一枚で、神様ってうちには入れなかったりするんだねぇ」

「そんな紙切れでも、こいつらや他の術者には色々感じるところがあるんだよ。それに、まだ四枚残ってる。そいつも破れ」

感心しているような御幣の言葉を否定するように神和が言う。言われるままに御幣はその紙片を開き、小さなそれを二つに破ってぽいと捨てた。見て、神和、

「お前といるとこういうところは楽だな」

「こういうところ?」

「たったそれだけでそれが簡単に壊れるってことが」

「何それ、褒めてんの?」

いまいち言葉の意味が解らず、解らないが故に御幣が笑う。神和はしかし、それにも変わらない顔で、

「ま、褒めてる類にはなるな。のべつまくなしの壊し屋でも役に立つって言ってるんだから」

「……全然褒めてないじゃない、それ」

「そんなことより次だ、さっさとしろ」

冷たく神和は言って上着のポケットから再び鏡を取り出す。その肩の上の子犬の姿をしたものは、怯えながら、ふて腐れる御幣を見て、言った。

「お主、すごいのう」

「何が?」

「今ので、嫌なのがちょっとなくなった。儂、今夜のうちに帰れそうか?」

子犬は、神和の陰に隠れるようにしながらも、御幣から目を逸らさないように言う。御幣はその様子を見て口許だけをかすかに緩めると、

「そうだね、何とかなると思うよ。だからもうちょっと待ってて」

そう言って笑い返す。子犬はそのままじっと御幣を見つめていた。その様子に首を傾げて、御幣が尋ねるように言う。

「何?」

「お主……すんごく、怖いが」

「……うん、そうみたいだね」

その言葉に御幣は苦笑する。体質、とは言え本人の意に反して、それは余りに大き過ぎる力だった。「神殺し」の通り名そのままに、彼はその存在を抹殺することも出来る。そういう性分じゃないし小さい神様ってすごく可愛いから、出来たら仲良くしたいよね、とか言う主張も、周囲には全くの冗談としか取られないレベルに。

「でも別に、のべつまくなしいじめたいわけじゃないんだよ、僕も」

「そんなのは解る。解るが……何かちりちりするのじゃ、お主の近く」

子犬は困ったように、くぅ、とかすかに声を漏らす。あーあー、可愛いなぁ、大丈夫だよー、とか言って撫でてやれたらどんなにいいだろ。思って御幣はまた苦笑いを浮かべた。そして、

「解ってくれる?だったらいいや。世の中みんな頭固くてさ、解ろうともしてくれないヤツの方が多いんだ、実は」

そう言って軽く肩をすくめる。肩の真横でされるやり取りにわずかに眉をしかめ、

「次は東南だ。行くぞ」

そう神和が言うと、御幣は軽く肩をすくめ、きびすを返して歩き出した。

 

「で……あれが最後の一個?」

四個の土鈴が撤去され、砕かれ、その中の紙片が御幣によって引き裂かれる。道路に放置もなんだけど持って帰っても困るし、どうしようか、という御幣の暢気な質問にも神和は答えることなく、ただ次の目標物を探しては指示し、ここへ来ても、

「あれが壊れればここは元に戻る。これで終わりだ」

「終わりだ、はいいけどさー……あれ、余所のうちの、ボイラーだよね」

御幣の視線の先は隣の家の塀にへばりつくように設置された、旧式のボイラーに向けられていた。風呂用の灯油式の湯沸しである。泥の塊が擦り付けられた体裁のそれを見て、御幣は眉をしかめる。

「あそこに黙って入ったりしたら、家宅侵入とかになるよねぇ?」

「仕掛けたやつは入ったんだろうな」

「じゃあ見つけたら訴えられる……じゃなくてさ」

「心配するな、ばれなきゃ平気だ」

「って……そう言うけどさ……」

あごで「行って来い」と神和は指示する。御幣はいつもののんきも忘れてやや深刻そうに、困った様子で神和と目標物とを見比べた。

「ここは正確にこの家の北東だ。あれがあってもこいつの出入りには大した差支えもないが、あんなものがあると余計なものがこの辺でたむろするだろうな」

「余計なものって何だよ」

「ああいうものに敏感で、呼ばれる性質のものだ」

「だからそれが何かって聞いてんの」

「大体の察しは着くだろう。その辺をうろうろしてる……」

「……いいよもう、解ってるから」

遠まわしに「面倒くさい」と言ってだだをこねているような御幣だったが、神和の全く取り合わない態度に溜め息をついて言い返す。神和は眉をわずかに上げる程度に反応して、

「お、そうか、じゃ、やってくれ」

「だからさ、やるのはいいんだけどさ」

「何だ、まだ何かあるのか?」

うんざりした顔で御幣は振り返る。神和は眉をしかめ、

「だったらさっさとやれ。暗いうちに済ませないと色々厄介だぞ」

「警察沙汰にならないように、フォローとか、してくれない?」

えへ、とか笑いながら御幣が提案する。が、神和は変わらない顔で、

「お前、俺が「本庁に頼めばに、三日のうちに」って言った時、なんて言った?今夜中とか今からとか何とか……」

「それとこれとどういう関係が……」

「そっちに話を持っていきゃ、そういう面倒もなかったんだ」

ばっさりと切り落とされるように言われて御幣は口ごもる。神和は変わらない顔で、

「自業自得だ、さっさとやれ」

「……はぁーい」

返答して、御幣はその場で何やらぶつぶつ言い始める。神和が溜め息をつくと、相変わらずその肩の上に乗っているものが、その耳に囁くようにこう言った。

「何やらあの者、良う働くのう」

「実働があいつの本分だからな。まぁ……力がでかすぎるんで、色々問題はあるが」

「そうじゃのぅ。何かすごく「怖い」し」

肩の上のものがびくびくしているのが解る。神和は苦笑を漏らした。御幣はその右手を、剣と呼ばれる、人差し指と中指を伸ばし、その他を握る形に結び、自分の額に当てて何やら念じている様子だった。見て、神和はそれに声をかける。

「お前はそんなに器用じゃないんだ、家ごと壊さない程度にしろよ」

「うるさいっ、集中してるんだから黙っててよ」

声をかけられた御幣は、勿論そのためだけではない苛立ちを、露骨にぶつけるように言葉に混ぜて神和に返す。神和の方の上のものは、そんな彼を見て再び尋ねた。

「で、何をしよるんじゃ、あれは」

「まぁ、大人しく見てろ。あんなヤツだがやる時はやる。恐い気配は垂れ流しだが、あれで結構役に立つんだ。ついでに、その垂れ流しが一番嫌いなのが、本人だからな」

問いに曖昧に返し、神和はその場で苦笑を漏らす。性質は悪いが、悪い人間というほどではない。子犬の姿を見せる、肩の上のものは、神和の言葉と仕種に小首を傾げた。見ず、独り言のように神和が続ける。

「だからその辺は勘弁してやってくれ。あいつも結構苦労してるんだ。ろくな感応能力も持ってないくせに、でかいばっかりの破壊能力のおかげで、昔から訳の解らんヤツや解っててわざわざってヤツらに襲われて、死にそうな目にも何度か会ってる。不憫なところもあるんだ」

「そうなのか……それは、憐れじゃの。儂も、最初は恐くてどうしようかと思ったが……話してみると、悪くはなさそうじゃ。儂を子犬扱いするのは、許せんが」

その言葉に神和は苦笑を漏らし、しながら御幣の背中を見遣った。何やらぶつぶつと言い続けていた御幣は、それとほぼ同時に顔を上げ、剣に結んだ右の手を振り上げ、何かを投げつけるように振り下ろす。

「ていっ!」

声の後、ブン、と空気の震える音が起こった。それは同時に周囲の総てを揺るがし、次の瞬間大地が低く唸りを上げる。ゴゴゴ……。

「うわっ」

「あ、絞り足りなかった……」

声とともに神和とその肩にいたものとが地面に倒れこむ。微弱、とは言えない地震が辺りに起こり、どこからともなくガチャガチャという破壊音までもが耳に届いた。揺れているのは辺り一帯らしい。夜半であると言うのにぽつぽつと家々に明かりがともる。勿論、壁を隔てたボイラーの設置されたその家などは震源地であるから、その大きさも他より大きい。ゴゴゴゴ、と、地面はうなりを上げ、その揺れはその音が遠のくのと同時に沈静化していく。辺りは再び静まり返り、そこにいた三人はそれ以前とは全く違った格好で、と言うべきか。神和は地面にはいつくばって、御幣は困ったように前方を見て固まり、そこにいた。わずかの間をおいて、御幣は神和と子犬の姿をした小さな紙に振り返る。そして、

「……てへ?」

「てへ、じゃねぇ!何やってんだお前は!」

次の瞬間神和は立ち上がり、御幣の襟首を引っつかんでいた。掴まれた御幣は困った顔で作り笑いして、

「ごめーん、ちょっと、絞り方が足りなかったみたい……」

「ちょっと?あれのどこがちょっとだ!見てみろ!周りみんな起きてんじゃねーか、ああ?軽く震度三はあったぞ!」

「そんな、神和くん、地方気象台じゃないんだから、震度まで感知しなくても……」

「バカヤロー、地震は気象庁の管轄だ!」

何だか訳の解らない事まで神和がわめき始める。えへへ、と笑ったまま、御幣はそんな彼に言った。

「でもほら、もう揺れも収まったし、あの泥の固まりも外して、中身も粉砕したっぽいし、この人のうちの庭、元通りになってるはずだよ?」

「……何?」

言葉の後、襟首を掴む手を緩めないまま神和は固まった。肩の上のものは瞬きして、ふわりとその肩から浮き上がる。そしてふわふわと宙を漂いながら、その家の塀へと向かう。

「本当じゃ、もう痛いのも変な感じもせんじゃ。お出かけの前と一緒じゃ」

ぴこぴこと、ふさふさの尻尾が嬉しげに揺れる。御幣はそれを見てにっこり笑うと、

「でしょ、そうでしょ?ちょーっと荒っぽかったけど、これでもう元通りだよ?」

そう言いながらまだ自分を掴んでいる神和の手を簡単に振り払った。驚いているらしい神和は何も言わず、にこやかに笑う御幣と嬉しそうに尻尾を振る子犬とを見ていた。

「助かった、礼を言うぞ。お主、かなり恐いけど、でも本当はいいヤツじゃのう」

「どういたしまして。って、その言われ方だとちょっと哀しいけどね」

大喜びの子犬は尻尾をパタパタ振りながらその場で小躍りするように跳ねている。そしてしながら、

「本当に助かった、礼を言うぞ、審神者、()()(ぬし)

そう言い残してしゅるん、と、塀を飛び越えてその中に消えていく。見送りながら、

「……フツヌシ?」

そう言って首をかしげたのは御幣だった。側らの神和は苦笑しながら、

「言いえて妙だな、布都主、か」

「ねえ神和くん、フツヌシって何?」

審神者が彼だから、と判断した御幣は自分がそれに相当するのだと判断して神和に問いかける。神和は笑いながら、

「布都主は布都主だ。お前の体質そのまんまだよ。古事記やら日本書紀やらに書いてあるだろ?タケミナカタだとかアメノミカホシだとか、そういうヤツらを平らげた剣だ」

布都主、経津主、とも表記されるそれは、この国の神話において最強の神殺しの剣の名である。天から降り立った神々、天津神に逆らった、地に住まう神々、国津神を平定するため、天より下ろされた剣だ。

「それって結局僕のこと「恐い」ってこと?」

自分で言って御幣はその眉をしかめる。神和はニヤニヤと笑いながら、

「しょうがねえだろ、お前はそういう性質なんだ、諦めろ」

そう言ってそこから歩き出す。辺りは夜明け前だと言うのに騒然とし始めていた。時折、明かりの点った家々から人声が漏れて聞こえる。御幣はそんな中でわずかの間、子犬の姿をした小さな大口真神が去った家の塀を見ていたが、すぐにきびすを返して神和を追い始めた。

「でも何だったんだろうね、今日片付けたのって」

「何って、何がだ?」

歩きながら、早くこの場を去らねば、と、神和はその足を速める。それに離されない様にしながら、御幣は胸の内の疑問を口にした。

「あんな小さな屋敷神、わざわざこった術使って追い出す、なんて。ここの人が迷惑がりでもしたのかな?」

「それはないだろ。何しろわざわざうちに探せって頼みに来るくらいだ。あの女子高生以外の家族がどう思ってたかは知らないが」

「だよねぇ……あんな小さい神様じゃ、できる事も本当に知れてるわけだし」

歩きながら御幣が首を傾げる。神和は笑いもせず、

「ま、ここから先のことは俺達には無関係のことだ、気にするな」

「そりゃそうだけどさ……なんかその言い方って無責任じゃない?」

普段どおりの神和に普段どおりに御幣が噛み付く。そしてやはり神和は、普段どおりにそれを相手にしない。

「首を突っ込みたいって言うなら俺は止めんぞ。好きにやれ」

「そういうつもりは、ないけど……」

神和の言葉に御幣は口ごもる。神和はその様子をちらと見遣ると、

「お前も因果と言うか……何でそんなに面倒なんだろうな?」

「別に僕は面倒じゃないよ。君の方がよっぽど因果で面倒なんじゃないの?」

言われた言葉をそのまま、御幣は神和に返した。

 

 

 

 

 

 

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