二人が市街の事務所に到着する。時計は既に正午を回っていた。揃って本日初めてやって来たその場所で、御幣は普段の通りに机につくと、同じく普段どおりの配置につき、椅子に腰掛け、足を事務机の上げた神和に唐突に言った。
「そう言えば言い忘れてたけど、対処係にちょっと寄ってきたんだ」
「何だ、藪から棒に」
移動中の車内で取った昼食の量が多かったのか、到着寸前からややおネムだった神和の物言いは不機嫌である。昼寝でもしたいところなのだろう。が、御幣はそんなことには構わず、
「だって久し振りに行ったからさ、みんな元気かなーって思って。そしたらさー……」
「要点を話せ、要点を。お前の話は無駄が多い」
にこにこ笑ってそのまま話し始めようとする御幣の言葉を制するように神和は言った。御幣はそれにちょっとだけ眉をしかめ、しかし一つ息をつくと気持ちを切り替えたのか、こう話し始めた。
「本庁からそんなに遠くないところで変な事件が起こってるんだって。何でも、小さい神社の神様がいなくなってる、って」
「……何?」
何だかどこかで聞いたような話だな、思い神和はサングラスの下の眉をわずかに上げる。興味を示した神和に、御幣はその話を続けた。
「最初に見つけたのはうちの巫覡だったらしいんだけど、何でも地鎮に行ったら行った先の神様が留守で、場が荒れてたらしいよ?で、対処係のほうは、別件らしいんだけど、僕らのところのすごく近くだから、様子見して欲しい、って」
「……何?」
その最後の一言に神和は口許をゆがめる。にこにこと御幣は笑い、
「ポルターガイストちっくな事が起こるから調査して欲しいんだって、そこの人が」
「……なんで俺らが?」
「今、余所のもっと大きい事件で動いてて、人手が足りないんだって。それで松浦も今日、対処係に借り出されてるらしいよ?」
「だから……なんで俺達が?」
「いいじゃないどうせヒマなんだし。僕らだってたまには大きく立ち回らないと、体なまっちゃうよ?」
「俺が言いたいのはそういうことじゃなくて、どうしてそんな話をお前が勝手に聞いてきたのかってことだ」
机から足を下ろし、神和はその身を乗り出すようにして御幣に迫る。御幣はにこにこ笑ったまま、
「だって君、そこにいなかったじゃない。今日だって「朝一で本庁に行く」とか言ってたくせにいなかったし。本庁に行くって、あれ、単に松浦の顔見たかっただけだろ?」
言われて、神和は一瞬黙る。が、
「それはそれ、これはこれだ。大体どうしてお前があんなところに来てたんだ?」
「それはさ、一応僕、君の監視役だから。本当に本庁に行くのかなーって思って」
御幣のにこにこが崩れる気配はなかった。神和は黙り、それから疲れたように溜め息をつく。
「全く……余計な仕事頼まれやがって」
「そう?でも神和くんいつもヒマヒマ言って退屈してるじゃない?」
「それはそれ、これはこれだ!誰に頼まれた?」
「植芝係長から、直々に」
質問に、素直に御幣は答える。が、神和にはそれは半ば嫌がらせでしかなかった。別の係の係長、とは言え名前の相手は上司で、しかも余り自分を気に入ってはいない人間だ。嫌いというほどではないが、神和もその係長と仲良くなりたいとは思っていない。なのに、付き合いだけは長い。自分がまだ高校生のころから、相手は自分の素行を知っているのだ。質が悪い。何度目かのため息とともに、神和はその顔を手で押さえる。御幣は笑ったまま、
「でも別に放置しても、特に支障もないと思うよ?貸しは作れるかもしれないけど」
「……何言ってんだお前は、そんなこと出来るか」
「やっぱり?あの人何だかんだうるさいもんねぇ?頼まれたくせにそんなことも出来ないのか、とかさ」
言葉とともに神和は顔を上げた。御幣は変わらず笑っている。神和は顔も上げず、
「勝手に頼まれてきた奴が言うな」
「で、そこ、この近くのビルなんだって」
話が切り替わったのか、元に戻ったのか、御幣の顔つきは全く変わらない。かすかに顔を上げて神和それを見、チ、と舌打ちする。
「面倒な事はさっさと終らせて、その後ゆっくりしない?どうせ僕ら、閑職なんだし」
笑顔のままの御幣に神和は何も言い返さない。人のよさそうなその顔の下には、神殺しというだけではなく、何やら恐いものが住んでいるらしい。この性悪め。胸の内だけで神和は吐き捨てた。それに気付いているのか、やはりにこにこのまま、御幣が言った。
「じゃ、早速行こうか?神和くん」
「……このバカ鼎」
「ん?なんか言った?」
こらえ切れなかった神和が小さく呟く。が、耳ざとく御幣は聞きつけ、やはり笑顔で聞き返した。
「なんかねー、元々ここ、小さい神社があったんだって。代々の土地で、って……神和くん、聞いてる?」
事務所のある雑居ビルから車で五分ほどの、住宅と中小企業が入り混じるような区画、要するに下町の、あまり大きくないマンションの屋上に二人はいた。新しいとも古いとも言えない白亜の建造物の天辺には、いわゆる空中庭園があり、そこに小さいながらも凝った作りの社がしつらえられている。エレベーターと階段を乗り継いで上がったその場所のやや強い風に吹かれて、神和は不貞腐れたままそっぽを向いていた。御幣はそんな神和に一通りの状況説明を使用としているのだが、どうも聞く耳など持ってはいないようである。参ったなぁ、でも、働いてもらわないとなぁ。思いながら、御幣は息を吐いた。が、その男の不機嫌の理由が自分にある、とは全く感じていないらしい。彼の言い分は、本当に困った上司なんだから、と、そんなところだった。
「元々この辺り一体の地主だった家で、今の当主っていう人が何年か前にその土地売り払って、ここにマンション作ったんだって。その時に売った土地の中にあったお社ここに移して、毎朝一回はここでお参りしてるんだって」
「ほぉ、感心だな」
言葉は返すが、神和は話に全く興味がないらしい。が、御幣はすでにそんなことには構っていなかった。そのまま、言葉を続ける。
「その人の奥さんって言う人の親類が、本庁の近くの人で、その紹介でうちが色々お世話のお手伝いとか、してるそうなんだけど……変な事件って言うか現象が起こったのが四日くらい前、って言ってたかな……夜中にオーブがぶんぶん飛んでたりするんだって」
「ほー、オーブが」
やはり神和は不機嫌で、まともに話を聞こうとしない。御幣はその様子に眉をしかめつつ、今度はこんな風に言葉を紡いだ。
「ところでさ、オーブって何?」
「ヒトダマみたいなもんらしいぞ」
「……らしいって?」
全くまともに取り合う気がなさげな神和の様子に、そろそろ御幣の堪忍袋の緒もぎりぎりときしみ始めたらしい。聞き返す声とその肩とがわずかに震えていた。不機嫌丸出しの神和は、ふん、と鼻を鳴らすようにすると、さも面倒だと言わんばかりに言葉を返した。
「正体不明の光の球体、ってところだからな。そいつの総称だろ?だったらそうとしか言いようがない」
「……で、そういう総合的な意見とか見識じゃなくて、君はどう思うの?」
ここで怒ったら会話が続かないし、仕事にもならない。我慢だ我慢。自分に言い聞かせるように御幣は思い、投げた問いの答えを待つ。神和はちらりとその社を見、唐突にそれに向かって歩き出す。
「って、神和くん?」
「ここはそういう奴等には居心地がいいように作られてる。ここの持ち主ってな、なかなか物事が解ってるみたいだな。だが」
神和はその小さな社に歩み寄ると、ためらうことなくその扉に手をかけた。そして、何も言わずにその扉を開ける。御幣は驚き、
「ちょっと神和くん、いきなり何するのさ!いくら何でも……」
「ここには何もいない。いなくなってから、そんなに日は経ってないみたいだが……」
神和は開けた扉の奥に手を突っ込み、何かを握ってその手を引き抜いた。くしゃ、とその手のなかで小さな音が起こる。何事かと、御幣もあわててその傍に駆け寄った。
「何もいないって……本当に?」
「御幣、見てみろ」
引き抜いた神和の手の中には、クシャクシャに丸まった紙片が一枚乗っている。それまで怒りで今にも爆発しそうだった御幣の感情は一瞬にして収まり、変わりに、疑問が沸き起こった。
「何これ?って言うか……」
古びた、折り目の付いた紙切れだが、最近同じ様なものを見ている。思い御幣はそれを手にしている神和の顔を見る。神和は少しの間黙り、それから言った。
「昨日の大口真神の時と同じ折り符だ。誰かに故意に追い出されたな、こりゃ」
「何、って言うか……どういうこと?」
眉をしかめ、御幣は首をかしげる。疑問半分、怒り半分、と言ったところか。その顔を見ることなく、神和はそれを御幣に差し出した。差し出された御幣は黙ってそれを手に取り、ぶつぶつ言いながらびりびりとその紙片を破り始めた。
「ヒトダマの類は、ここの居心地の良さに惹かれて来た浮遊霊か何かだろう。元の主がいなくなったんで、あわよくばここに住み着くつもりだったんじゃないのか?」
「あ、そういうもんなの?」
「けどその「鏡」があって、この庭の中にまでは入れなかったんだろう。それでその辺をうろうろしてるうちに、後からまた同じ様なやつが来て……オーブ以外に何も起こってないのか?」
今度は神和が御幣に問い返す。聞いていないようでどうやらしっかり話を耳に入れていたらしい。少々感心しつつ、御幣はそれに答えた。
「ラップ音とかそんなレベルらしいよ?日中でもパンパン音がしてた、とか……それって何してるの?そのヒトたち」
「縄張り争いみたいなもんだな……寄ってきた霊の」
御幣の答えながらの問いかけに、振り返りもせず神和は返す。そして辺りを見回し、
「今もうろうろしてる。お前がいるから誰も近づけないが……」
「へぇ、そうなんだ……神様でも縄張り争いとか、そういうのあるんだ……」
「あいつらにとっても自分の住処の問題は結構重要だからな。地脈やら気の流れの都合のいいところを好んで住み着くし、条件のいい場所には寄り付く。ふらふらしてるのが好きなのもいるが」
「そう言えばうちの神様も縄張り意識とか、とんでもないもんねぇ。余所の、敵意むき出しの霊が来たりすると、地域住民の事全く考えないでとんでもないことしたりするし。何か神様の癖に了見狭いって言うかさー……」
感心しているのか迷惑がっているのか解りにくい口調で、一人御幣は喋り始める。神和はそれを無視して、
「御幣、あいつらを散らせ」
「……へ?」
その一言で御幣は目を丸くさせる。そして、
「散らすって……誰がどこにいるの?」
「その辺にうようよいるだろう、大してでかくないヤツが」
「ごめん、神和くん。僕、自分に敵意むき出しなのとか結構大きくて普通の人にもよく解るやつとか、そういうのは見えたりするんだけど、小さくてうろうろしてるだけの霊とか、そういうのは見えないんだ」
ごめんと言いつつも謝っている気など微塵も感じさせない笑顔で御幣は言う。チ、と、音高く神和は舌打ちすると、さも忌々しいと言わんばかりに眉をしかめ、
「本当に面倒で使えんヤツだな、お前は」
「そんなこと言ったってしょうがないじゃないか、そういう体質なんだから」
実はこの二人が組まされている理由の一つに、御幣の感応能力のなさがある。その攻撃呪能が余りにも高いためか、彼にはそうした資質が全くと言っていいほどない。そのために、感応に優れた神和と一緒にいて、神霊事象に何とか対応している、というのが現状であった。最も神和は神和で、感応能力はあるものの攻撃や破壊の能力は皆無であるため、御幣と一緒に行動していないと危険極まりないのだが。くっ、と小さく呻いて、神和はその場で手を一つたたいた。そして声高に、神咒と呼ばれる呪文を唱えた。
「われ かのもののふに みせむとせぬ くうにありしひ まなこひらきて そをあらはさむ」
神和いわく、それは自分以外の人間に、自身の能力を一時的に感染させる術、らしい。声の後に御幣は数度の瞬きをし、そしてぐるりと辺りを見回す。そして、
「うーわー……何か3D映像でも見てるみたいだー」
「安っぽい例えをするな」
うすぼんやりとではあるが、そこにいくつもの影が見える。形は定まらないが、それらはそこにうごめき、こちらの様子を伺っているようだ。御幣は感心しているらしい。口を開け放心状態のまま、間抜けなことを口走る。
「神和くんって四六時中こんなの見てるんだー……大変だねぇ……」
「お前、こういう時にそういうジョークはよせ」
「えー、ジョークじゃないよ……本当に君って、すごいんだなーって……」
「だからそんなのんきな状況じゃないと言っとるんだ、俺は!」
余りのマイペースぶりに神和がキレる。が、全くそんな自覚がない御幣はきょとんとした目になると、
「そんなに怒らなくてもいいじゃない、感心してるんだから」
「……お前、本気で言ってるのか?」
「そうだよ?僕だってそこまで根性悪くないもん。仕事中にわざとらしいボケかまして、もし危険な目にでも会ったらどうするのさ?」
その言葉で神和がくずおれるほどに脱力する。座り込んだ彼の様子を見ながらも、やはり全くそれを意に介していない御幣は首を傾げた。が、
「で、散らすって、どうしたらいいの?」
真剣なつもりらしく、それでも神和にとってはふざけているとしか取れないような質問を投げる。投げられた神和は力なく顔を上げ、
「とにかく散らせ。ここにいると痛い目に会うぞ、って、脅し程度でいい」
「とにかく、ねぇ……」
「吹き飛ばすのは構わんが、粉砕はするな。生かして逃がせ」
「何か変な日本語」
言っていることがよく解らない、とでも言いたげに御幣は眉をしかめた。が、すぐにも肩と首とをぐるぐる回し、その両腕を空に向けて高く上げ、
「せーの!」
声高に叫ぶとともに、そこに何かを放出した。ぱりぱりっ、という小気味よい音が起こり、目に、空が揺れるような光景が映る。ぼんやり浮かんで見えていた影達はその振動に驚き、その空でざわざわと騒ぎ始める。それを見て、御幣、
「今の、ちょっと弱かったかなぁ……じゃ、もう一発」
「あんまりやりすぎるなよ。傷付けたり殺したりすると、後が厄介だ」
「解ってるよ……えい!」
ぱんっ ばりばりばりっ 声を放つと同時にその手元からまた衝撃波が飛び出していく。先程より強いそれは再び、しかし今度は強く空にある影を揺さぶった。ぐにゅぐにゅと空事体が歪むような光景が見える。同時に、きゅーきゅーという獣の泣き声のようなものまで耳に届き、御幣はまた驚いた顔になった。
「神和くん、何か聞こえるよ?」
「そりゃあいつらの悲鳴だ」
「君ってすごいねぇ……声まで聞こえるようにしてくれたんだぁ……でも、結構痛そうだね、今の」
自分でやっておいてこれである。神和がその男といて疲れないわけがなかった。ぐにゅぐにゅと空を歪ませていた影は、一つ、また一つとその場から消えていく。中には何やら捨て台詞めいた声を残していくものもあったが、数分もしないうちにそれらは全てそこから姿を消した。
「わー……晴れたー……」
のんきに、と言うより子供のような口調で御幣が言う。額を手で支えるようにして神和は立ち上がり、その額に冷や汗を浮かべて空を仰ぐ御幣を見遣った。これが本当に、神殺しとまで言われる国内最強の戦闘巫覡の姿か、同業者が見たら泣くだけじゃすまないぞ。心中、神和はそんなことを思った。そして、それが毎度のことであることに、疲労と脱力とを感じずにはいられなかった。
「神和くーん、全部散ったみたいだよー。この後どうすんのー?」
御幣と言えば、至って真面目なつもり、らしい。次の指示を上司に仰ぐ、という、尤もと言えば尤もな判断で、しかしその態度はのんきとしか言いようがない。まあこいつはいつでもこんな風だから、一々疲れている俺が面倒くさい人間なのかもしれないけどな。そんなことを思いながらも、神和はそこで気持ちを切り替えるように言った。
「ここの本来の主が戻るのを待つ、と言いたいが……待ってても埒があかんだろうな」
「そうだね、待ってるだけじゃね……どこに行ったのかも解んないし」
神和の言葉に困ったように御幣は息をつく。しばし神和は考え込み、そして何かを思いついたらしい。来ていた上着の内ポケットから小さな鏡を取り出した。
「神和くん、何するの?」
「探せるかどうかは解らんが……ちょっとトレースを」
「トレース?何の?」
「匂いだ」
音や匂いは目で見て確かめることができない。時に人はそれらを感知することを「聞く」と言い表す。神もまた、肉の体を持たないため、人間はそれらを視覚で捉えることが出来ない。それ故にその気配を「匂い」と言い表し、やはりその存在に敏感に反応することを、同じく「鼻が利く」と言う。気配を追いかけて居場所を探る。神を捜すその行為は捜神と呼ばれる。が、その多くは近くに在る神を探す術であり、特定の存在の居場所を探し当てることは稀であり、かつ、困難である。余程の手がかりがない限り、そんなことは叶わない、のだが。
「君って本当に器用だよねぇ……そういうのって神殿で、禊して祝詞読んで、それからじゃないと出来ないんじゃないの?」
感心しきり、といった口振りで御幣が言う。神和は笑いもせず、
「ここにはそいつの匂いが濃く残ってる。行った方角くらいしか解らないかも知れないが、やらないに越したことはない」
「真面目だよねぇ、本当に。そこまでしなくてもいいと思うけど?」
「ここの主を追い出した「鏡」を撤去して、場が不安定な上に無防備になってるからな。元のヤツじゃない霊が入り込んだりしたら、それこそ植芝係長に何を言われるか解らん」
御幣の物言いに、ややいらついて神和は返す。どうも相棒は、天然ボケだけではなくて根が不真面目のようだ。でなきゃ無意識でここまで自分を苛めるものか。神和は思いつつ、御幣を見ずに言った。御幣はその様子に苦笑を漏らし、
「本当に君って、根が真面目なんだから。お人好しなところもあるし、そんなんじゃ楽に生きられないよ?」
「お前にだけは言われたくない……ちょっと黙ってろ」
あからさまに怒気のはらんだ声で神和が返す。怒らせたと感じた御幣は肩を軽くすくませ、それ以上何も言わなかった。
サングラスをはずし、鏡を平らに差し出した左の掌に載せる。何度か呼吸を繰り返し、神和はその鏡の上に手をひらめかせ、しながら神咒を唱え始める。
「あはりや うつさむとまうさむ そのかけ たなくらのみかかみに なれ このちのぬし おりましませ」
天と神和の顔とを映していた小さな鏡の表面が、ぐにゃりと歪む。そのまま、神和はその鏡をじっと見詰めた。呼気さえ漏らさず、ひたすらに、待つ。が、
「……無理か」
「え、なんで?今ぐにゃって、変わったじゃない?もうちょっと待ってみたら?」
言葉とともに落胆の息を落とす神和に、御幣はどこか励ますように言った。鏡を収め、神和は顔を上げる。空気にさらされたその面はどこか悔しげに歪むが、それでもその美しさを損なわない。そのまま舌打ちして、彼は言った。
「追える範囲にいないらしい。この鏡で何の前準備もなしだ。調子に乗りすぎた」
「そうなの?そんなことないよ。だって神和くんって、こういうことにかけては天下一品なんでしょ?」
どこか無邪気に御幣が、思ったままを口にする。悪意はないようなのだが、それが癇に障るんだよな。言われた神和は苦笑して、
「毎日毎日俺を「役立たず」扱いしてるヤツの言い草とは思えんな」
「それはー……何て言うか、コミュニケーションの方法だよ。それに君、おだてすぎると本当に調子に乗るじゃない。締めるとこ締めとかないと……」
言われて御幣は言葉に困りながらも言い訳を始める。何が締めるところだ。神和は胸の中で思って露骨にその眉をしかめ、再びサングラスをその顔にかける。
「しかし……どうするかな。ここを丸裸のままにもしておけないし、かと言って俺達がずっといるわけにも……」
「そうだねぇ……誰か適当に留守番してくれるヒトとか、いないかなぁ……」
そのまま、二人は思案を始める。小さいとは言え、そこは狭庭で、構えは社である。そうした存在が暮らしやすいようにと様々の配慮がなされ、故に様々のものが集まりやすい。その主を排除していたものが、その効果で寄り付こうとするものも遠ざけていたが、それは既に取り払われ、御幣によって破り捨てられている。
「僕、植芝さんには「様子を見てきて欲しい」って言われただけなんだけどなぁ」
「悪かったな、余計な手出しして」
「そこまでは言わないけどさー……困っちゃったねぇ……」
神和が何の気もない御幣の言葉にとげとげしく返す。御幣はそれさえ全く気にしていない様子で、それでもことの厄介さに悩んでいる様子だった。
「神和くんって、神様呼び出す事出来たよね?それでここの人呼んだり出来ないの?」
「見ず知らずの相手を一方的に呼び出せってか?無理だ。近くにいればまだしも……」
「鏡取っ払ったら、追い出してた効果ってなくなるんでしょ?気がついて帰って来たりとか、しないの?」
「仮にしようとしてても、今ここにお前がいるだろう?近づくのも危ない状況になってるからな。さっきの鏡より遠ざける効果は絶大だ」
「……何だか、いやみっぽく聞こえるんだけど」
「お、気がついたか、鈍感男」
ささやかに神和がやり返す。御幣は眉をしかめたが、それ以上何も言わない。とは言え神和も、御幣をやり込められたからと言ってのんきに喜んでいられるわけでもない。困ったように彼は息をつき、その場で考え込む。
「……神和くん、どうする?」
「ちょっと待ってろ……今考えてる」
「そうは言うけど、いい案なんてあるの?」
「いいからちょっと黙ってろ、お前は一々うるさすぎる」
御幣はとっくにそれを考える事をやめたらしい。事の重要性を解っていないのか、それとも単に面倒なのか。神和は一つ年下の一応の部下の態度に呆れつつ、しかしふいにあることを思いつき、ふむ、と小さく鼻を鳴らした。
「……神和くん?」
「ここの主は、この辺り一帯の地主が昔持ってた土地にあった社を、移したんだったよな?」
「え?ああ……そうだけど……」
「要するにこの辺りの土地神だな?だったらその辺をうろついてる可能性がある。それなら呼べない事も……」
「それが、そうでもないみたいなんだよ」
ひらめいた神和のその考えに水を差すように御幣が言う。神和はそちらに振り返り、
「……何?」
「詳しいことは解らないんだけどさ、それ、元はお稲荷さんみたいなんだよ」
「稲荷神?」
「何か、依頼人側も、古い話だからよく知らないらしいよ?」
言って御幣はその場で苦笑する。何、と言ったままの格好で神和は凍りつく。が、すぐにも、
「稲荷神か……この辺で一番近くのでかい稲荷社はどこだ?」
「一番近く?そうだねぇ……中松稲荷辺りじゃない?市内でも結構有名だし……」
思案顔で御幣がその稲荷社の名を口にする。
「……一か八かだ、やってみるか」
そのまま、神和はその場でぶつぶつと、先ほどとは別の神咒を唱え始める。御幣は目を丸くさせ、
「神和くん、中松のお稲荷さん、呼ぶの?」
「そこの分祀だったらそっちに戻ってる可能性もある。調べるだけの価値は……」
「でもこの前言ってたじゃない。あそこのお稲荷さんもうちの神様と負けず劣らずのセクハラだ、って」
「いいからお前はちょっと黙ってろ、集中出来んだろ!」
御幣の言葉にたまらず神和は怒鳴りつける。やや驚いた顔を見せ、そのまま御幣は口を閉ざした。ぶつぶつと、神和は神咒を続ける。
「あはりや あそばすとまうさぬ 中松の稲荷神 その神使 おりましませ」
神和が拍手を打つ。乾いたその二拍の後、その場は一瞬静まり返った。風も止み、遠くから聞こえていたわずかな物音さえ、途切れる。ケーン、と獣の鳴き声が聞こえたのはその後だった。神和はその声へと振り返り、斜め後方の中空を見遣る。
「何だい、山の主の所の審神者じゃないか。一体あたしに何の用だい」
中空には、狐のようなものの影が浮かんでいた。白い毛並みの、突き出した口を持ったその獣は、頭の上に日本髪の鬘をかぶり、身には赤や黒で彩られた派手派手しい振袖をまとっている。ふさふさとした尾は五本ほどだろうか。どうなっているのか、着物の後ろで揺れているのが見える。くるりと、それは宙で弧を描くと、神和の目の前に下りてきた。そして目ざとく御幣を見つけ、
「何だい、じろじろ見るんじゃないよ。全く、何だってお前はこんな物騒なのを連れて歩いてるんだい。おかげでこっちはいつもびくびくしてなきゃならないんだよ」
「……狐なのに、よくしゃべるなぁ……」
思わず、御幣の口からそんな言葉が漏れる。神使はすぐにもそちらに振り向いて、
「誰が狐だい!あたしはこれでも中松の御魂の御使いだよ!全く、今時の人間風情は物を知らないからいけない。あたしのことよりも尊い我等の御魂だよ。狐なんかと同じものにされて、たまったものじゃない。あまつさえ御前に油揚げなんて上げたりして、それで尊い御魂の御神徳を戴こうなんて、全く気が知れないよ」
赤い振袖姿の狐がそう言って嘆息する。それを見て神和は苦笑を漏らす。中松稲荷社というのは、その辺り一帯では商売繁盛もさることながら、芸事の守護神としてよく崇敬されていた。二人の事務所の近くでは最も大きな規模の稲荷社で、創建も古い。元々稲荷社は稲作の守護神である。それが時代を経るにつれ、多くの神得を得、現在では家内安全も芸事の上達も、と庶民の欲の多くを満たす存在となっている。それだけ稲荷と人々の関係が密接であるということなのだろう。ちなみに、その正体は狐ではない。狐は飽くまで稲荷神の使いである。京都の伏見稲荷を本山とする稲荷社の祭神は宇迦之御魂大神、食物の守護神である。
「本当に、あたしらだって暇じゃないんだ。中松の社の辺りはにぎやかだからね。人間どもがちょくちょくやってきて、あれを叶えてくれこれを叶えてくれ、その自分勝手なことと言ったら、目が回りそうなほどさ」
「そいつは悪かったな、急に呼び出したりして」
ちょいと聞いとくれよ、とでも続きそうなその神使の言葉をさえぎるように神和が口を挟む。神使はその声にちらりと神和を見、
「まあねぇ、でも、お前は御魂のお気に入りだからねぇ。あたしじゃなくて他の御使いだって、そんな邪険にはしないよ。そんなことをしたら御魂がなんと仰るか。そちらのほうが恐いからねぇ。あ、今のは御魂には黙っておいておくれよ。あたしは決して、あの方の下にいるのが嫌だとか、御魂を尊く思っていないとか、そんなことはないんだからね」
「本当によくしゃべる狐……」
「何だい、何か言ったかい?言っておくけど、あたしはお前なんかちっともおっかなくないんだよ。ただお前は物騒なんだよ。時々あたしらの眷族を散らしたり切ったりするだろう?それが嫌だってだけさ。おっかないんじゃないよ。何とかと刃物ってやつだもの。お前ほど物騒な人間はいないけど」
「御幣、ちょっと黙ってろ」
小さく呟いた御幣の声にさえ、神使は過敏に反応する。それがおびえの表れだとは当人すら気がついていないようだが、話を簡単に済ませるにはそちらへの関心は低めにしてもらうに越した事はない。思って神和は御幣を制する。御幣はやや不満そうに唇を尖らせたが、それ以上何も言わなかった。
「中松の神使、ちょっと教えて欲しいんだが」
「あら、何だい?ああ、何だい、ってのもなかったね。お前があたしらを呼ぶ時には、大抵何か頼みごとがあるんだものね。でも審神者、良かったら御魂に色々お頼みして差し上げてよ。あの方は本当に、お前を御気に召しているんだから。宮に直に来て、時には話の一つもしていっておくれ。そうしたら御魂もどんなに喜ぶか」
一言の質問にも、長々と途切れることなく言葉が返ってくる。その様子に神和は苦笑し、構わず神使に問いかけた。
「その古い御魂の分かち身が、最近そちらに戻ってたりしないか?」
「御魂の分かち身?ああ……そう言えばここいらに昔、御魂の小さなお社があったねぇ……何だい、人間ども、もう取っ払っちまったのかい?たかが七、八十年で御魂の分かち身に飽きちまうなんて、御身を分けられた御魂に対して、何て無礼なんだろうねぇ」
近頃の若い者は、とでも言い出しそうな物言いである。続きを聞いている暇はないんだが。思い、神和は重ねて尋ねた。
「それで?いるのか、いないのか?」
「御魂の分かち身かい?まあ分かち身と言っても、お前達の言う子供のようなお方が、つい何日か前に、宮の近くで迷子になられておいでで。あたしじゃないがお迎えに出たよ。何でも、お散歩においでになっていた間に、御自分の御社に入れなくなったとかで、本当にお可哀相だったよ。まだ御魂のところから離れて、七、八十年の小さなお方だもの。全く、人間って言うのは本当に、何て酷いことをするんだろうねぇ」
「……そいつだ」
神使が言葉とともに嘆息するのを見もせず、神和は上擦る声で言った。御幣も驚き、
「神和くんすごい、ビンゴじゃない。で?今からどうするの?」
「その分祀に戻ってもらう。それで、その分かち身は今どうしてる?」
御幣の問いに答え、続けざまに神和は神使に問う。神使はその目をぱちくりさせ、
「さあ。中松の宮においでとは思うけれど、あたしはお世話申していないから、よく知らないよ。けど審神者、こちらにそのお方を戻そうと言うなら、直に御魂にお話ししたほうがいいんじゃないのかい?」
その一言で神和はサングラスの下の眉をしかめる。神使はやや上目遣いで神和を見、
「御魂は今度の事には、御腹立ちのご様子だよ。もう分かち身などせぬ、とお思いかもしれないしねぇ。何しろ人間というのは、時が経つほどに欲が深くなって、御魂も呆れておいでの時があるし。まああたしら肉の体を持たないものは、そういう人間風情の欲やらで、この世に繋がっていられると言うところもあるから、何とも言いようがないけれど」
そのまま神和は何も言わない。何やら考えている、というより、無言で拒否している様子が見えて、御幣が言った。
「神和くん、中松のお稲荷さん、呼んでみたら?」
「簡単に言うな。相手は江戸期に創建の、推定年齢三百歳以上の稲荷神だぞ」
「でも君、知り合いでしょ?面識もあるんだし、呼べなくもないんじゃない?て言うか」
「……何だ、御幣」
「この期に及んでセクハラが嫌だから放置、とか、そういうのは……」
「お前はそういう目に会ったことがないからそんな簡単に言えるがな、あいつらのセクハラなんてな、人間社会の比じゃねぇんだ!下手すりゃあの世に引っ張られちまうんだぞ!」
やや遠慮がちな御幣の提案を全て聞きもせず、神和はその場で叫ぶように言った。一瞬にして火が付いたように変わった彼を見、御幣は困ったように言う。
「まあそうかもしれないけど、背に腹は変えられないよ?」
「背に腹どころの話か!俺は命を懸けるんだぞ!」
「でも大人しくしてたら、向こうだって君の事気に入ってるんだしさ。殺されるような目には……」
「あいつらの次元に意識だけ連れ去られて好き放題弄られるくらいなら、死んだ方がましだ!」
「……命がけって、抵抗するのに、ってこと?」
神様のすることって度し難いって言うか、解んないな。何をどうしたら嬉しいっていうか満足なのかな。心の中、御幣は思いつつ、普段以上に感情的になっている神和を見ていた。側ら、赤い衣の神使は少し困ったように、
「全く、審神者もひどいことを言うねぇ。我等の御魂を何だと思っているんだい。あの御方にあれだけ御気に召されていると言うのに、宮に上がらぬだけでなく、愛でて戴くことがそんなに嫌なのかい?」
「好かれる事は多分、気分が悪くない事だと思うんだけど、あなた達の御魂も他の神様も、彼に対してちょっとサディスティックな欲求があるみたいだから」
神使にそう言ったのは御幣だった。その言葉を聞いているのか否か、神使はまた溜め息をつき、
「こんなに嫌われていると知ったら、御魂はどんなにお嘆きになるか。今時はなさらない、と言うより、山の主と取り交わした契約で、審神者を長く独り占めせぬようにとは仰っているけれど、しようと思えば人間など、至極簡単に、あたし達にだってかどわかせると言うのにねぇ。それをなされない御魂のお心が、解らないとでも言うのかい?」
神和はその場に固まったように、動きもしなければ何も言おうとしない。御幣は神使と神和とを交互に見て、あはは、と困ったように笑う。そしてそれからこっそり、
「神和くーん、あの人、もしかしてちょっと怖い?」
「……どういう意味だ?」
「だって今、君のこと簡単にかどわかせるって言ったよ?うちの神様と約束してるからしないけど、って」
御幣の、少しだけおびえた声に神和は何も答えない。その事実も今更だが、先に大口真神の分祀に「布都主」とまで言われた男の言葉とは思えなかった。確かに神和の場合、一人ではそういう危険だらけだが、
「だからお前と組まされてるんだろうが、神殺し」
我慢しきれず、彼はその言葉を漏らす。御幣は目を丸くさせ、
「あ、そう言えばそうだっけ。じゃあ僕がいれば、結構色々大丈夫なの?」
「お前が俺の敵を自分の敵だと思ってくれればな」
微妙な言い回しで神和が答える。御幣はそれに首を傾げ、
「僕、基本的に君の味方のつもりなんだけど……どういう意味?」
問いかけに神和は答えない。そのことに御幣は更に首を傾げる。神和はそんな相棒を無視してその場で嘆息した。背に腹、と言える簡単なレベルではない。が、このままここを放置するわけにもいかないし、かと言って自分たちがここにとどまるわけにもいかない。ここにいたと思しき存在の居場所はつかめた。散歩していて戻れなくなったのなら、恐らく、この場が元に戻り、他に何者もいないことさえ解ればじき戻ってくるだろう。そう、ここが元通りになったことが、解れば。神和は顔を上げた。視線の先には赤い衣の神使が、ぶつぶつ何やら愚痴でも言うように呟いている。そう、そこにいるのは件の稲荷の神使だ。
「……その衣は、どうした?」
唐突に、神和はそう言って神使に声をかけた。何だろう、思って御幣はそちらを見遣る。神使は目をしばたたかせ、
「これかい?人間が芸事がどうのというので、御魂が何ものぞと仰せになって、あたしが調べてお伝えした、その名残さ。それからあたしは、そう言ったことのお世話をするようになってねぇ。御側に仕える神使は、白いような衣を着ていて、頭も、烏帽子なんかを冠っているけれど、あたしはこうして、頭もこの様に……」
「良く似合ってる。御魂もお前のそのナリが嫌いではないだろう?」
あれ、おだててるのかな。神和の言葉に御幣は首を傾げた。慣れないことを言っているためか、それとも何か企んでいるのか、わずかにその声が上擦っている。赤い衣の神使は数本のふさふさとした尾を揺らしながら、その目を細めて、
「さて、どうかねぇ。けれどこれをやめよと、御魂が仰った事はないから、嫌っておいでではなかろうよ。まあそもそも、御魂は余りにもお役が多いから、それであたしらが色々をおおせつかっているのだけれどね。芸事というのも、なかなか難しいよ」
「それを捌いているのだろう……神使の中でも、優れているんじゃないのか?」
「そう思うかい?そうかねぇ。お前、人間だと言うのに良く物が解っておいでだねぇ」
尻尾が嬉しげにふさふさと揺れる。おだてているのは明白だった。赤い衣の神使はその衣を、どこかうっとりした顔で眺めながら、
「この色は御魂の鳥居に似せてみたのさ。こうしたなら、あたしがどこの神使なのか、良く解るだろう?ただ、あたしと御魂と間違えるような、そんな困った輩がいるんだよ。あたしはそんなに尊くないのだがねぇ」
「見紛うほどによく出来た神使ということだろう。でなきゃ誰もそんな勘違いはしない」
「よしとくれよ。そんな、あたしのような神使が、御魂と見紛うほどだなんて……」
「お前達の御魂は……お前のような優れた神使を持っていて、しかも本山の分かち身だってのに、とんでもない神徳を持ってる。だからここの人間も、その力にあやかりたいと思って、ここに社を作ったんだ。流石だな、中松の宮は」
「まぁ、そうさね。この辺りでは、あたしらの御魂より優れたお方なんて、そうはいない……」
「お前はその御魂の覚えも、めでたいだろう?そんな綺麗な衣を着て、良く働くなら。だったら……悪いが、一つ俺に頼まれてくれないか」
神和の言葉に、神使は細めていた目を見開いた。振り返ったその先で、神和はかけていたサングラスをはずし、その顔に笑みを浮かべて言った。
「ここに住まっていた分かち身が、もし宮に戻っているなら、こちらはもう元に戻ったと、そう伝えてくれないか」
神使は、目を更に見開いて神和の顔を見ていた。にこやかに笑うその顔は、非の打ち所の全くない美しい造形である。青みがかった銀色の双眸、すっと伸びた、やや高めの鼻梁。白く滑らかな顔の中の、かすかに緋色を帯びた、余り厚くない唇。こぼれかかる髪は絹糸のように細く、その色は夜の闇を連ねたように黒い。神々の愛児と呼ばれても余りあるその美しさは、人ならずとも、神までも惑わす。神使であってもそれは同じであった。ぽかんと、とがった口をあけ、神使は神和の顔に見とれていた。そしてわずかの間をおいて、その白い顔が朱に染まる。神使は我に返るとあわててそっぽを向いた。そして、
「ああ……でも、あたしなんかは、ただの神使だからねぇ。御魂の分かち身のようなお方が、神使ごときの言うことなど、聞きはしまいよ」
「いや、お前は御魂の覚えもめでたいんだろう?良く使えて、良く働いて、その分かち身は解らないが、御魂自身は、お前の言うことなら聞いてくれるかもしれない」
「そ……そんなにおだてるんじゃないよ。あたしなんて本当に、ただの……」
「頼れるのは、お前しかいないんだ。伝えてくれればいい。戻る気がないと言うなら……ここは荒れて、御魂の神徳もここには届かず、所詮中松の稲荷の加護など、こんなものかと言われるようになるだろうがな」
神和の声が一瞬にして冷徹なものに変わる。神使は血相を変え、あわてて神和に向き直った。そして、
「何を言うんだい。あたしらの御魂のご加護が、こんなもの?冗談じゃないよ。そんな言い方をされてたまるかい。人間どもが勝手に御身を分けろと言ってきて、御魂は御承知なさって、それでここに分けてやったと言うのに、そんなことを言われてたまるものか」
「だが現実に、この場は荒れてる。まあ社の主はいないから、荒れて当然だが」
「そんなもの、分かち身の小さい方がお戻りになられたら、元の通りに戻るんだろう?そもそもあの小さいお方は、こちらにお戻りになれぬから、中松の宮にお戻りになられたんだよ?それを……」
「だから、だ。戻ってくれるように、伝えてくれないか?」
神和の言葉に、神使はその声を途切れさせた。少し離れるようにして、御幣はその遣り取りを眺めている。神々の愛児、と呼ばれる類の人間は、余程のことでもない限り、その神々に嫌われたり、憎まれたりすることはない。それらに深く愛されると言うことが、人の世の意味とは全く異なるとは言え、好きな相手に嫌われたくないと言う感覚は、どうやらあちら側にもあるらしい。神使は小さく呻き、再び神和から目をそらした。そして、
「それでは……お伝えしようかね。けれど審神者、伝えたからと言って、その小さいお方が、ここに戻るとは限らないよ」
「その時は仕方がないさ。中松稲荷の神徳も滞ろうが、それがお前達の御魂の意思なんだろうからな」
ふわりと、赤い衣の神使が空に浮き上がる。見送るようにして、神和は苦笑を漏らす。
「けれどあたしや御魂に向かって、そんなことを言うのだからね、宮の近くに寄ったなら、審神者、お前も御魂の御前に侍るくらいのことはおしよ。御魂の愛でる愛児でなければ、こんな大それたこと、どうしてあたしがしようか」
「そいつはすまないな。近くに寄ったら顔くらい出すことにするよ。その赤い衣にも会いに」
言葉の後に神和がかすかに笑う。宙で振り返り、神使は白い頬をまた朱に染め、眉間に皺を寄せてからくるりときびすを返した。そのまま、赤い衣を着た、数本の尾を持つ狐の姿をしたものは、空に向かって遠ざかっていく。見送って、その姿が見えなくなるころ、神和ははずしていたサングラスを再びかけ、
「……何だ?」
「別に。君って本当に、ある意味「たらし」だなーって思ってさ」
じっと自分を見詰めていた御幣の言葉に、隠れた眉間をひどくしかめた。御幣は呆れたように息をつき、そうしてから稲荷神の神使が去った空を見遣る。
「これでここの神様、戻ってくるかな?」
「さて、そいつは当人次第だからな。何とも言えん」
「一件落着、でもない感じだよねぇ。あー、対処係にどう報告しようかなー」
独り言のように言う御幣に背を向けるようにして、神和はそこから歩き出す。御幣はすぐにそれを小走りに追い始め、すぐ後ろにつくと、再びその口を開く。
「でも、妙だよねぇ」
「何がだ?」
「何って、神様が帰れない、って、今回のこれ。昨日の小さい大口真神くんと全く同じじゃない。術式も、鏡だし」
むむ、と、そのまま御幣は考え込む。振り返りもせず、神和、
「確かに妙だな」
「ただ追い出すだけ追い出してて……でも何がしたいんだか良く解んないし……こんなところの小さい神様追い出すメリットって、何があると思う?」
重ねて問われて、神和は閉口する。そのまま、そこに沈黙が降りた。何も言わない神和に、御幣は更に問うように言う。
「何か思い当たる事、ある?」
「……ないな」
振り返ることもなく神和はそう答えた。御幣はその様子にちょっとだけ得意げに、
「ほら、やっぱり妙じゃない」
「確かに妙は妙だが、そういうお前には心当たりでもあるのか、え?」
調子に乗った御幣にややいらついた口調になった神和が問い返す。御幣はけろっとした顔のまま、
「ううん、何も」
辺りは再び沈黙した。振り返った神和はサングラスの下の眉をひどくしかめて、にこにこと笑っている御幣を睨むように見ている。
「御幣、お前な」
「何?考えなし、とか言うんだったらお互い様だよ?」
先んじて科白を取られ、神和は渋面を更に渋くさせた。マイペースの御幣は笑うのをやめると、
「とりあえず対処係にはここの処理はすみました、って連絡しとけば……」
言いながら着ていた上着のポケットに手を入れようとする。神和はその様子に息をつき、つきかけたところで突然、何かに気付いたかのように彼方へと振り返った。ポケットから携帯電話を取り出した御幣もそれに気付き、
「何、神和くん……何か……」
「鈍感なお前にゃ関係ないことだ……ちょっと黙ってろ」
神和のそれはいつも唐突だった。どうやら彼のレーダーに何かが引っかかったらしい。何かを感知してそちらに意識を向けると、周りがどうなっていようが全く構わない。審神者、というより、人間パラボラアンテナっぽいなぁ、などとそばにいる御幣などは思っているのだが、実のところ、そこまで都合よくも出来ていなかった。一瞬にして五感以外の何かが、彼の総てを支配する。下手をすれば自分の位置も周囲の状況も総て「吹っ飛ぶ」らしく、単独でこれをやられたら、色んな意味でたまらない。いつだったか道路の真ん中で電波キャッチして、独り言みたいにわめいたもんなぁ、あれは恥ずかしかったなぁ、などと、そんな神和を見ながら御幣は思っていた。何かしらの波動を捕まえた神和はというと、その場で全神経を研ぎ澄ませるようにして、微塵も動こうとしない。
「ねぇ、神和くん」
「黙ってろ、お前が近くにいると、捕まえられるものも逃がす」
「何。また小さい霊体でも、近くに……」
「黙れって言ってるだろ、気が散る!」
神和が怒鳴りつける。御幣は不貞腐れ、何もそんな風に怒鳴らなくても、と小さくぼやいた。神和はチ、と舌打ちして、唐突にそのサングラスをはずす。空気にさらされたその目元は険しく歪んでいた。不機嫌や怒りではなく、もっと複雑な心境が見て取れる。
「神和くん?」
「何やってんだ、あんなとこで……」
ぶつぶつと神和はつぶやき、それから御幣へと向き直った。睨むような目にぶつかって、御幣は首を傾げる。
「何、どうしたのさ?」
「ここから南西の方角で、今……」
ぷるるるる、と、やや間の抜けた電子音が鳴り響いたのはその時だった。音の発信源である自分の右手を見て、御幣、
「あ、電話だ」
神和は何度目かの舌打ちをして、怒りに任せるように足元を強く蹴った。無視して御幣が携帯の通話ボタンを押す。そして、今までの神和とのやり取りなど全くなかった様に、ごく普通に電話に出た。
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