太陽がゆっくりと西に傾いていく。視界は、そこに来た時よりも確実に悪くなっていた。このままだとすぐに暗くなっちゃうかなぁ、ああでも、ライトとか、点けてもらえるのかなぁ。スラックスのポケットに手をつっこんだ格好で、御幣は暢気にそんなことを思っていた。騒ぎの中心から少し離れた場所から、その騒ぎが僅かに見える。住宅地は避難の指示でも出ているらしく、住人らしい人影は全く見られない。ばたばたと走り回っているのは警察関係者と、同じ団体の同じ部署の、別の係の人間らしい。この人数が動くとなると、結構大掛かりな事になるなぁ。そう言えば、今、何がどうなってるんだろ。あの、変に大きく膨れ上がった霊の塊とか、どうなってるのかな。思っていると、声は突然投げられた。
「御幣」
「何?植芝さんから、なんか指示、出た?」
「いや……まだだが」
「……あ、そ」
振り返る事無くそんなやり取りをして、御幣は嘆息した。と同時に、思わず本音が口からこぼれる。
「退屈だなぁ……僕達実はこのまま待機、で、済んじゃいそうじゃない?」
言葉と同時に御幣が振り返ると、視線の先では松浦が苦笑していた。怠惰でやる気の殆ど伺えないその様子に、松浦は苦笑のまま、
「いつも通りに、余裕だな」
「よゆーってゆーかさー、だりーって感じ?こんな所に立ってるだけだよ?暇もいいとこだし、お腹も空くしさー」
言いながら御幣はその場で伸びをし、ついでに大きく欠伸をする。松浦は困ったようにかすかに笑い、
「私から、対処係に申し出ようか?必要が無いなら帰らせてもらいたい、と」
「必要がないならさっさと帰してくれると思うよ?特に僕は」
笑いもせず、御幣はその言葉に即座に返す。松浦はその表情に一瞬息をつめる。御幣は気付かない様子で更に言った。
「ここに来た時より、神和くんにかけてもらった術もゆるくなってるみたいで、余計に状況が解り難くて、いらいらするんだよねー……かゆいところに手が届かない感じ?」
「多少の窺見なら、私にも出来なくはないが……」
少々遠慮がちに、松浦が申し出る。御幣は目をしばたたかせると、困った様な笑みを浮かべて、
「ああ、そういうんじゃなくて。なんて言うのかなぁ……僕の場合、自力で見ようとすると、漏れるんだよ、力が」
「力が、漏れる?」
「うん、そう。で、相手にもろバレになったり、下手すると攻撃するみたいになるんだ」
にこやかにあっさり、御幣は言った。松浦はその言葉に、思わず御幣に尋ね返す。
「攻撃するみたいに、なる?」
「あー……説明するより、やって見せた方が早いかなぁ?」
言って御幣はその首をめぐらせた。薄闇の広がる向こうには、黒く山陰が見える。
「大体あっちの方?今、どんな感じ?」
「……まだ、影のままだ。しかし、気配は強くなっている……我々が来た時より、大きくなっているようだ」
問いかけに、松浦が返す。御幣はその場で軽く目を閉じ、しばしその場で考え込む様に黙した。
「御幣?」
「……あ、見えた、あれだ」
言いながら御幣が目を開く。直後、かすかに周囲の空気が振動した。軽い電流でも流れたかのような感覚に松浦は思わず身構える。それと間を置かず、体の表面を鳥肌が駆け巡った。感じているのは寒さではない。体の表面ではなく奥底で、遠く離れた何ものかの、悲鳴じみたものを捕えたのだ。思わず肩が跳ねる。御幣はそれを見ないまま、困ったように笑った。
「ほら、今のでちょっと……多分痛がってると思うよ」
「今の、で?」
一体この男が何をしたと言うのか。思いながら、松浦は驚愕の表情を御幣に向けた。困った笑みで、御幣は言葉を続ける。
「ほら、僕のこういうのって、体質でしょ?神和くんにもよく言われてるけど、気をつけてないと「垂れ流し」なんだって。一応僕も本庁の職員だし、そういうことに借り出されるし、訓練とかしてるんだけど……って言うか、本気出そうと思うと相手が過剰反応する、って言うか……出さなくても、漏れっぱなしって言うか……」
「……流石は「神殺し」の異名を持つだけあるな」
御幣の拙い説明に、驚きを隠さないままで松浦が返す。御幣は困り顔を解く事もなく、
「あー……でも僕は本当に、困ってるって言うか、哀しいんだよねー……本殿の杜の小さい神様達にも不可抗力的に嫌われるし、僕にその気がなくても、時々襲われたりするし」
言葉の後、ははは、と乾いた笑い声が漏れる。松浦は何も言えず、その場で奇妙に緊張した息を吐き出した。
「そんな訳だから、僕が大人しくしてないと、下手に相手を刺激するばっかりなんだ。勿論向こうに殺されそうになったりしたら、僕も本気って言うか、手加減なしなんだけど。でも何て言うか……役に立たないよねぇ……」
声に力が感じられない。時に「神殺し」とさえ呼ばれる御幣の能力は、常軌を逸する、などという言葉では表せない程のレベルにある。国内一の戦闘巫覡と言われるのも頷ける。しかし、その男にとって、その「体質」は疎ましいものなのだろう。それでも、彼と同じ破壊的呪能を持つ他の巫覡からするなら、その力は羨望の的以外の何物でもない。松浦は再三息を飲む。そして、かすかな苦笑を漏らす。目の前にいる男は、間違いなくこの国で、もしかしたらこの世の人間の中でもっとも強烈な攻撃呪能を持っているのかも知れない。その体から常にその力は滲み、それ故に「カミ」と呼ばれる全ての存在に忌み嫌われ、時には滅ぼされそうになる。神殺しの力、それが暴走した時何が起こるのか、想像には難くない。知らないわけではなかったが、それをこうして目の前で示されると、流石に驚かずにはいられない。ましてやこのこの男の場合、それは「体質」であり、鍛錬によって得た「能力」ではないというのだから。
「……流石だな」
「あー……僕にとってはそれは褒め言葉じゃないんだよねぇ……て言うか、今のちょっと嫌味でしょ?」
苦笑しながら御幣は松浦へと振り返る。同じく苦笑で返し、松浦は言葉を返した。
「そうだな……私も鍛錬して、その手の術を使うから、正直、君のその能力はある種の羨望に値する」
「羨望ねぇ……されてもあんまり、嬉しくないなぁ……」
「君はその能力を、多少は誇った方がいい。そうでないと余計に嫌味だ」
続く松浦の言葉に御幣は眉をしかめた。構わず、苦笑のまま松浦が続ける。
「その能力は、他の誰が願っても手に入れられるものじゃない。羨望の的の本人がそれを疎めば、周りの気分はもっと悪くなる」
「……じゃあ松浦も、僕のこと、嫌い?」
不貞腐れた顔になって、御幣は傍らの友人に尋ねる。その、やや幼い表情に一瞬松浦は目を丸くさせ、すぐ軽く吹き出した。
「……僕、結構本気で聞いてるんだけど?」
そのままくすくす笑い出した彼女に、不服の態度で御幣が重ねて尋ねる。松浦は笑ったまま、
「そんなことを聞かれるとは思っていなかった。意外だ」
「……あのねぇ、僕だって、確かに何か変な仇名で呼ばれる超能力者だけど、中身はごく普通の人間だよ?友達だと思ってる相手に嫌われてるかも、とか思ったら、気分だって良くないよ」
笑う松浦を見て御幣は膨れる。膨れっ面の年下の友人の様子に、やっぱり笑いながら、松浦は軽く返した。
「私は平凡な能力者だ。国内一の戦闘破壊巫覡を敵に回したいなんて、思っていないから安心してくれ」
「……何かそれ、あんまり嬉しくないコメントなんだけど」
御幣のむっつり顔は治らない。それがおかしいのか、松浦はまだ笑っている。何かちょっと悔しい感じ、思いながら御幣はしばし黙すも、不意に何を思ったのか、こんなことを切り出した。
「松浦は……とりあえず僕のことは、嫌いじゃないんだよね?」
「……まぁ、そういうことになる、かな」
「じゃあ、神和くんのことは?」
その問いかけに、松浦は目を丸くさせた。そして、
「何だ……急に、そんなことを……」
御幣は先程とは一変して、その顔に極上の笑みを浮かべていた。その男が満面の笑みを浮かべている時というのは、何を考えているのか解らない場合が多々ある。松浦は黙し、そのままその笑みを見返していた。重ねて、御幣、
「神和くんのことは?どう思ってるの?」
沈黙が数秒、返答はない。松浦は何か言いかけるも、困ったようにその視線を泳がせる。
「……あの男が、どうかしたのか?」
「どうって、特別どうもしないけどさ。高校に通ってる頃からずーっと松浦の事が好きみたいだし、だったら松浦はどうなのかなーって思って」
にこにこと御幣は笑っている。松浦は横目でちらりと御幣を見る、が、やはり無言である。
「黙ってないで教えてよ?僕と松浦の仲じゃない」
「……どういう関係だ?私達は」
「同じ職場の友達、てやつ?」
白々しくも聞こえる台詞をさらっと吐いて、御幣は笑っていた。松浦はしばし黙し、それから苦笑すると、
「『審神者』の美称を持つ男か……羨ましい限りだな」
「『羨ましい』?何それ」
思いもかけなかった返答に、御幣は首をかしげる。苦笑のまま、松浦は答えた。
「私の家は伊勢の巫女の流れを汲んでいる。『名を嘉するも畏れ多い御方』と通じ、交わる事に最も重きを置く、そういう術を行なう家だ。それにはあの能力はうってつけだ。尚且つ『神々の愛児』として、あちら側の方々に佳く愛でられている。巫覡として、これほど恵まれている存在もない」
淀みなく紡がれた言葉に、御幣は目を丸くするばかりだ。松浦は軽く笑い、
「だから、正直あの能力が羨ましい。初めから神と交わり、愛される事の叶う巫覡など、そうもいないからな」
「松浦、僕が聞きたいのは、そういうのじゃなくて……」
「君同様、妬ましくない、と言えば嘘になる。しかし特別嫌ってもいない。友人だから」
重ねられた松浦の言葉に、御幣は目をしばたたかせる。そして、今度は困ったように少しだけ笑うと、
「友達なの?彼も」
「高校の後輩、でもあるな」
「何それ、取り付く島もないって感じ?」
「祖母が甚くあの男を気に入っている。あの呪能に加えてあの顔だ。あの人は面食いだから。婿にするならああいうのを連れて来い、だそうだ」
淡々と、それでもどことなく意地悪く、松浦が言う。御幣は肩を軽くすくめて、
「……何か、誤魔化されてる気がするなぁ……」
「私は思ったことを言っているだけだ。何も誤魔化しているつもりはない」
「でも、思ってる事の全部は言ってないよね?」
「人の悪い友人に、あまり色々話すと後が厄介だからな」
ややしつこい御幣にさらりと松浦が返す。御幣は直後、
「ちょっと、それって酷い言われようじゃない?松浦。僕、これでも本庁じゃ君の先輩になるんだよ?」
「そうだったな、忘れていた。とは言え我々は友人同士だ、遠慮する必要もないだろう」
松浦に取り付く島はないらしい。御幣は眉を酷くしかめるも、すぐに苦笑を漏らし、
「ま、そうだね。そういう素直じゃないところも、神和くんは好きみたいだしね」
そう言って肩をすくめる。松浦は無言のまま軽く笑って返し、改めてその視線を暗い山陰の方へと向けた。
「しかし『審神者』か……確かに今ここにいてくれると、助かるんだが……」
「あー……そうだったね、そう言えば」
吐息交じりの松浦の言葉に、御幣もその山陰へと向き直る。そして、
「何なら、呼んでみようか?多分彼の仕事ももう終ってる頃だろうし」
言って何気に上着の内ポケットに手を入れる。松浦は目を瞬かせ、
「そう言えば……御幣、君と神和は一体どこに……」
「僕?出先で可西くんから電話があって、結構近くだったから神和くんが行って来い、って言って……あ、僕達例の鏡の術式で追い出されたっぽい神様の方、片付けてたんだ。で、術式撤去したところに電話が入って……」
松浦の質問に答えながら御幣は携帯電話を操作し、スピーカーを耳に近づける。電子音が耳に届いて数秒後、コールが鳴り始めた直後、ざり、という砂を噛む足音が聞こえて御幣は目を上げた。
「……あれ?まだ電話、通じてないのになぁ?」
はーはーと肩で息をした、何故かよれよれでふらふらの神和辰耶がそこにいた。唐突に現れたその姿に目を丸くさせ、御幣は携帯電話もそのままに神和に尋ねる。
「何やってんの?てかいつの間にここに来たの?神和くん」
はーはーはーはー、と、息をするばかりで神和は何も答えない。そのうち、無言のままで神和はその場に崩れた。べしゃ、という擬音語も似つかわしいその崩れ方に、御幣は目を丸くさせたまま歩み寄り、
「って、何?いきなり潰れないでよ。展開が見えないんだけど?」
と、やたらに暢気な言葉を発した。
数分後。
「珍しいよねー、神和くんがここまで疲労困憊になるまで、全速力で走ってくるの、って。まあでも君の場合は普段からぜんっぜん運動とかしてないから、しょうがないのかもねー」
ひーひーはーはー、の神和を目の前に、御幣は笑っている。手にミネラルウォーターのボトルを持って、神和はその目の前で座り込んでいた。呼吸は未だ落ち着かない。その様子を、二、三歩ほど下がった位置から松浦も伺っている。にこにこ、御幣は笑っていた。笑いながら、
「今、植芝さんもこっちに来るって。詳しい事、教えてくれるみたいだよ?」
対して、神和はそのにこにこ笑顔をどことなく恨みがまし気な目で睨んでいる。手にしていたボトルに口をつけ、口許を湿らせる程度にそれを口に含み、飲み込んで神和は言った。
「対処係は、こんなとこで何やってんだ?」
「え?何って……あの変なヤツ、見張ってるんじゃないの?何かねー……」
「この近くで、変なモンが暴れてるんだろう?」
暢気すぎる口調で説明を始めようとした御幣を制して神和が口を開く。御幣は目をしばたたかせ、
「あー……うん、そうなんだ。そう言えばあの時、君も何か変なのが暴れてるみたいなの、見てた……」
言葉の後、神和が高く舌打ちする。ぱちぱち、瞬きを繰り返し、御幣が重ねて尋ねる。
「何?そっちでも、何かあった?」
「対処係は何をするつもりだ?」
「あー……その辺は、まだ僕達も、何にも聞いて……」
御幣の返答も待たず、神和は立ち上がる。その様子に、松浦、
「神和、どうした?あれに何かあるのか?」
「あるも何も……あいつはこの辺一帯の土地神やら何やらの集合体だ。下手に危害でも加えてみろ、土地ごと呪われる……」
「うん、そーみたいだね」
けろっとした顔で言ってのけたのは御幣だった。神和が全速力で振り返ると、
「対処係と松浦と、僕と君のしてた仕事の話を総合すると、何かそうみたいだよ?あーでも……どうして君がそんなこと……そうか君って感応能力者だから、そーゆーの……」
「いいから責任者呼べ、このバカナエ!!」
怒声と共に御幣に掴みかかる。あっさり襟を取られ、尚且つ締め上げられながらも、御幣の態度は全く変わらない。笑ってはいないが平気そうな顔で、
「だから今、植芝係長が来るってば……何そんなにキレてるのさ?て言うか、バカナエ、はひどいなぁ……」
「俺はお前と違って真面目に働く時は真面目に働くんだよ!てめーにゃ真剣になるって時がねーのか!!」
「失礼だなぁ。僕だってちゃんと真面目にやってるよ。そんなに怒ったってしょうがないだろ?確かに、来てからずーっと待たされてるけどさ」
御幣の眉が僅かに歪む。神和はぎりぎりとその襟を締め上げつつ、ふとある事に思い至って振り返った。
「松浦……なんでお前がここに?」
「対処係の応援で呼ばれた。詐巫の調査で」
短く簡潔に松浦が答える。神和は数秒沈黙し、
「詐巫の調査?」
「そうなんだって。で、それがさー……」
「誉田係長からの要請で対処係が動いていたそうだ。何者かが小規模の神社から術式を使ってその主を追い出していた、という件で。それが、私が追っていた詐巫と、同じ人間だったらしい」
間に口を挟もうとする御幣に構わない様子で松浦が説明を続ける。神和は固まったまま、
「……てことは……何だ?」
「だからさ、小さい神様達を追い出してたヤツが、この辺で金銭詐欺みたいなのもやってて、そいつが集めた小さい神様達で作ったのが、あの変なの、って話らしいよ?」
まだ襟元を開放されていない御幣が、これでもかというレベルに簡単に説明する。神和はまだ固まっている。沈黙がその場に下りて、数秒後、
「何ぃー!!」
「わ!ちょ、ちょっと神和くん、締まってる、締まってるってば!」
神和の声と共に御幣の襟が更に締まる。御幣が驚いて抵抗するも、神和は全くそれに気が付いていないらしい。
「松浦、すぐに植芝係長呼んで来い!あいつらに下手なことされたら、こっちがたまったもんじゃない」
「だから、植芝さんならこっちに向ってるって……」
「神和、どういう意味だ?」
慌てふためく、血相まで変えた神和の様子に松浦も戸惑いながら尋ねる。忌々しげに舌打ちし、神和は締め上げていた御幣の襟を開放した。投げ出された格好になって、御幣がよろめきながらその側を離れる。神和は大きく嘆息すると、苛立たしげな様子でその髪をかきむしった。
「中松の分祀と誓約したんだよ。俺があいつを何とかする、って」
「誓約?何それ、てかそんなこと、いつの間に……ってゆーか……えーと……あれでも、どこで?」
唐突な神和の言葉に御幣が混乱する。困り果てた様子で神和は再びその場に座り込み、その顔を手で覆いながら、泣き言めいた言葉を続ける。
「しょーがねーだろ、あのチビ稲荷神、あんなヤツがいたらそのうち食われる、とか言って、また中松稲荷に戻ろうとしてたんだぞ?」
「神和くんって、なんでそーゆーとこ、そーゆーふーなのかなぁ?真面目って言うかさー……そんなのテキトーにだまくらかしてテキトーに戻ってもらえばいいんじゃん」
呆れ口調で御幣が正直すぎる意見を述べる。神和は顔を上げて、
「馬鹿言え!お前、相手が何モノか解って言ってんのか?」
「って言うか、理由はそっちじゃなくて君の性格でしょ?何だかんだ言って重い腰が上がったと思ったら、完全遂行主義なんだから……矛盾してるよねー……」
「うるせぇ!俺は根が真面目なんだよ!このすっとこふざけ男!てめーなんかと一緒にすんな!」
怒り心頭に来たらしい、神和は勢いよく立ち上がり、再び御幣に掴みかかる。御幣は疲れたように息をつき、困ったように笑うと、
「まあそこが君のいいところなんだよねー、本当は優しいって言うかさー……」
「お前は、人を持ち上げる気なのかそれとも怒らせたいのか、どっちなんだ、ええ?」
「困った事だね、って言ってるんだよ、僕は」
ははは、と軽く御幣が笑う。その視線が松浦に向くと、目が合った彼女も苦笑し、しながら神和に尋ねる。
「それで、中松の稲荷とは、何と誓約したんだ?」
「……あいつらを、元の通りに解いて、何とかする、って……」
「また無茶なこと言っちゃったねぇ……僕が一発かましたら、全部片付いちゃうのに……」
何気なく発せられた御幣の言葉に神和はその顔を睨みつける。その目つきの鋭さに、思わず御幣は僅かに身を引いた。
「しかし……「元の通りに解く」か……一体どうするつもりだ?」
松浦が思案顔で問いかける。神和は何度目かの溜め息を忌々しげに吐き出し、しながら、
「あれは人為的に集められてる。術者を探し出して、そいつに何とかさせる」
「何、ここまで来て他力本願……」
「バカナエ、ちょっと黙ってろ!」
細かい御幣のツッコミに、神和は容赦なく切り返す。怒られたよ、とでも言いたげな顔で御幣は肩をすくめる。苛立たしげな態度のまま、神和、
「対処係がそいつを捜してるって言うなら話は早い。とっとと居場所を突き止めさせて……」
「残念だが、当事者は死亡したようだ」
それまでそこに聞こえなかった声色の言葉が聞こえて、神和は振り返り、締め上げていた御幣の襟元を投げ捨てるように開放した。そして唐突に現れた、困惑と疲労の表情を浮かべるやや彫りの深いその顔を見、神和は思わず素っ頓狂な声を上げる。
「何だって?死んだ?」
「植芝係長、それはどういうことですか?」
やってきた対処係長、植芝の言葉に松浦が問い返す。植芝は嘆息し、忌々しげに言葉を紡ぐ。
「我々が今監視している「あれ」を、どうやら御し切れなかったようだ。こちらの窺見では、どうやらあれの核になっているらしいが……」
「……作った本人も、食われたってか?」
思わず、神和の口から言葉と笑い声とが漏れた。植芝はその様子に、しかめた眉を更に歪ませる。
「そのようだな。こちらとしてもできる限り穏便に事を片付けたかったが、そうもいかないらしい」
その場が、沈黙した。神和は顔を手で覆うようにして、御幣は困惑顔で、松浦は眉根を寄せた難しい表情で、その場で何も言わない。その沈黙の中、植芝は苦笑を漏らし、その場の三人に声を投げた。
「とは言えこのまま放置する訳にもいかない。夜に近付くにつれてあれは力を増す。そのうちまた実体を取って、次からは霊ではなく肉の体を持ったものを食い始めるだろう」
「うっわー……それってかなりやばいっぽい……」
植芝の言葉に、思わず御幣が声を漏らす。苦笑のまま、植芝、
「最悪の事態になる前にこちらとしても始末をつけたい。審神者の見解は?」
「……あいつを、元の通りに全部ばらしたい」
問われて、神和は躊躇いながらも答える。植芝はその言葉に僅かに息を飲み、
「元の通り、か……難しいな……」
「もういっその事、僕が一発『どかーん』ってやった方が早いと思うんだけど……」
「それが出来るんだったら俺の見解なんて聞きゃしないだろ、そうでしょう?植芝さん」
口を挟む御幣に言い返し、神和が植芝へと向き直る。植芝は苦笑のまま、
「そうだな。君がそう言うのなら、我々もそれに従うのみだ」
「……話が早くて助かりますよ」
植芝の言葉に、神和も苦笑で返す。御幣はそれを少々不満の様子で見ながら、無言で首を傾げる。短く息をつき、続けて神和は言った。
「御幣、行くぞ」
「え?何、行くってどこに……」
「決まってんだろ、あのどでかい『九十九神』の側だ!」
突然の発言に御幣が困惑する。同時に眉をしかめて、
「でも僕じゃ、今回何にも役に立たない気がするんだけど。ほら、僕の呪能って完全破壊型だし……」
「どの道お前なんか後方支援だって出来やしねーんだ、ぐだぐだ言ってないでさっさとしろ!」
つかつかと歩み寄り、神和が御幣の襟首を真正面から掴む。よれよれの襟元をまた握られて、御幣はぐえ、と小さくうめき声を漏らした。
「我々は?どうしたらいい?」
そのまま御幣を引き摺って歩き出そうとする神和に、植芝が問いかける。振り返り、
「そうだな……これ以上あれがでかくならないように、近寄ってくるヤツらをシャットアウトしてくれ。それに、この辺はごたついて、もう場が澱んでる。ついでに、その辺のアフターケアも」
「了解した」
神和の言葉の後、短く植芝が答える。口許だけゆがめるように笑って、神和は再びきびすを返し、御幣を引き摺って歩き出す。苦笑しながら植芝はそれを無言で見送る。松浦はそれらを眺めて、それから、
「係長、私も、彼らと一緒に行きます」
不意に投げられた声に、植芝がその視線を松浦へと移す。直後、僅かに会釈して、松浦が歩き出そうとする。
「松浦……これを持って行ってくれ」
が、すぐにもそれは彼の声に制止された。松浦が振り返る。植芝は手にした小さく閃くものを松浦に差し出す。目を僅かに見開き、松浦が問い返す。
「係長、これは……?」
「万が一に備えて、だ。元は宮の水晶守りだが、暫く持っていたから追跡機くらいにはなるだろう。出来れば誰か一人こちらの人間をつけたいが」
苦笑交じりに植芝が言う。松浦は無言で再び一礼し、今度こそ振り返らず、神和と御幣の後を追い始めた。
「ねー、こーなぎくーん、思うんだけどー」
「何だ、バカナエ。言いたいことがあるならさっさと言え」
「このペースで歩いてると、あいつの側につく頃、もう真っ暗になってるんじゃない?」
ずるずると引き摺るようにして、神和は御幣を連れて歩みを進めていた。足取りは、やや重めである。引き摺られる体の御幣が暢気な顔で言うと、神和はその足を止めて唐突に彼へと振り返る。
「な……何?神和くん」
神和は無言だった。表情は暗い色のサングラスで隠されていてよく解らない。が、額の辺りが痙攣しているようにも見える。まずい、本格的に怒らせた、というより、余りにも感情的になりすぎて、周りも見えていないような状況らしい。思って御幣は乾いた笑い声を漏らす。そして、
「も……戻って、車の一台でも借りよーか?」
上擦る声で、場を取り成すように発言してみる。神和は強く舌打ちし、御幣から顔を背けた。
「こ……神和くん……そ、そんなに、怒んないでよ……」
その男は、見た目だけは真実、並ぶべきものがないほどに整った美青年だが、実際のところあまり寛容な性質ではない。人並み以上に恨みがましかったり、執念深かったり、気が短かったり、人間くさいと言えば聞こえはいいが、仮にも宗教従事者というには、あまりにも、ぶっちゃけ「器が小さい」タイプだ。二十代の青年男子の人間ができているというのも度し難いが、それにしたってこのできていない加減はどうしたものか、というレベルである。ここまでこじらせると、当分まともに口も聞いてくれないかも。思いながら御幣は困ったように、ただ笑っていた。それ以外、どうしようもないと言った方がいいのかもしれない。
「こーなぎ、くーん……」
参ったなあ、これからどうしよう。そんな風に御幣が思案を巡らせ始めたその時だった。低い音がして、御幣はそちらに目を向けた。二人の後方から、一台の軽自動車が走ってくる。それは二人のすぐ側で止まり、
「二人とも、乗れ」
「うっわ、松浦、グッドタイミングだよ!!」
運転席から覗いた同僚の顔とその言葉に、御幣の表情は一変した。助かった、と目いっぱいの安堵を表す彼とは対照的に、神和は未だに不機嫌、というより、ほぼ無表情だ。無言のまま助手席のドアに手をかけ、さっさとその自動車に乗り込む。御幣はどこか浮き足立った様子で、良かった良かったと繰り返しながら運転席の後ろの座席に乗り込んだ。
「いやー、本当、助かったよ。松浦。君が来てくれなかったらどうしようかと……」
三人を乗せた軽自動車は走り出す。背後で安堵しきりの御幣を余所に、松浦は神和に尋ねる。神和はしばし黙し、それから、やや思い息を吐き出した。良かった良かった、の御幣の声がその溜め息にぴたりと止まる。そして、
「神和くん……大丈夫?ていうか、どうすんの?本当に」
「……できることなら無傷で、あれを全部解きたい」
「だから、どうやって……」
「やかましい!だから今それを考えてるところだ!お前はいつもいつも、この俺がどれだけ苦労してるか、考えた事があるのか、ああ?」
車内に神和の怒声が響く。ああ、また怒らせちゃった。御幣は思いながら困ったように笑い、
「そんなに怒らないでよ……僕だって少しは君の苦労も、解らなくもない……」
「解くにしても、だ。術者はもういない。それに、術式を調べて解くほどの時間も残っていない。対処係の巫覡の中には怪我人もいる。あの手の霊は能力者の血を取り込めば、厄介なものに変わることもある……元の通りに解くのは、無理があるだろう」
車を走らせながらも、冷静に松浦が意見を述べる。神和は苛立たし気にその髪をかきむしり、再び重く息を吐き出す。
「……出来れば、一匹たりとも消したくない。誓約を違える訳にもいかないしな」
「無理な約束してきちゃったね、神和くん」
何気に御幣が発言する。神和はむっと唇を尖らせるが、後部座席の男には目もくれず、
「あれは元々がレベルの低い地霊の集まりだ……集めてるものか結んでるものをばらせば、簡単に解けるはずだ。が……術者の死骸が核になってるとしたら……厄介だな」
一人ごちる用に言って、再び黙り込む。御幣はその言葉に目を丸くさせ、それから不意に、
「ねえ神和くん、そう言えばさ」
「何だバカナエ。今考え事してんだ。ちょっと黙ってろ」
「うん、でもちょっと気になってさ」
その言葉に、神和が後部座席へと振り返る。御幣は変わらない顔で、
「君、どうして全速力で走ってたの?」
「……は?」
「だから、さっき。なんであんなに慌ててたのかなーって……」
神和がその言葉に硬直する。が、それも束の間だった。すぐにも、
「テメエ!俺がさっき言ったこと忘れたのか、ああ?」
火がついたような勢いで神和が怒声を放つ。御幣は動じる事もなくけろっとした顔で、
「中松の稲荷の分祀が、っていう話は聞いたよ。でも、なんで中松の分祀のヒトがそんな事君に言ったのかなー、って言うか、君、あの場所にそのヒトが来るまで待ってなくていいって言ってたじゃない。なのにわざわざ待ってたのかなー、ってちょっと思って……」
その言葉に、神和の怒声が止んだ。車内はしばし沈黙する。御幣はやはり変わらない顔で、目をぱちくりさせながら神和の言葉を待った。
「あ、いや……それは……」
「それは?」
「……お前があの屋上から離れた後、昨日の大口真神が現れて……」
「えっ、昨日の、あのかわいい子犬の神様が?」
御幣の目が、子供のように僅かに輝く。どこか呆然としたまま、神和は言葉を続けた。
「そしたら、あいつが……郎女が何かに食われたから、助けろ、って言って来て……」
「ええっ、あのコのカノジョが?」
御幣の表情が蒼白になる。車内は再び静まり返った。そして、
「……神和くん?」
「あいつも……あれに食われたんだ。俺の目の前で」
「って……ええー!!ちょっと神和くん!そういうことは早く、って言うか、どうして一番最初に言わないのさ!!」
御幣の絶叫に近しい声が車内に響いた。神和は疲れたようにがくりと肩を落として、それ以上言葉もない。運転しながら松浦は内心冷や汗しつつも、
「何だ、その、大口真神、というのは」
「僕達が昨夜自宅に帰れるようにしてあげた、あるおうちの屋敷神のヒト。ほら、さっき話した、人為的に追い出された小さい神様と同じケースで……」
「それで……元の場所に戻ったものが、どうしてここであれに食われたんだ?」
「……あれ、なんでだろ」
重ねて問われるも、御幣は答えに窮する。神和はしばし肩を落としていたが、不意に顔を上げると、
「もしかしたら……上手くいくかも知れない」
「え、何?神和くん、いい方法でも思いついた?」
覗く口元が僅かに笑っている。それを見て、御幣が問いかける。神和はそのまま、
「というより……他にいい手も思いつかない……一か八かだが」
「って何それ。大博打じゃないの?」
続いた言葉に御幣は眉をしかめる。松浦は傍らの神和を横目で見て、
「何をする気だ、神和」
「だから、あいつを解くんだよ。一柱たりとも殺さないで……済むかどうかは、そこにいる、国内一の破壊巫覡次第だがな」
「え、何?僕?」
後部座席で御幣は目をしばたたかせる。ふふん、と鼻先で笑って、神和は言った。
「まあ見てな。国内一、って呼ばれる、俺とこいつの実力でも」
それは一つの意志で動いてはいなかった。一体どれだけのものが繋ぎ合わされ、練られたものなのかそれ自身にも自覚はない。ただ、狭いところに無理矢理に押し込められて、何だ何だと皆が言っている間に奇妙に膨れ上がり、その器からあふれていた。
最初は、秋の集まりのようだなどと楽観視していたものもいたが、次第にそれとは全く違うことに気付き、そうしたものほどその事実に驚き、戸惑っていた。時折気に入ったもの同士が一つにまとまることも、その世間では少なくなかった。が、それにしたって数が多過ぎだったし、彼らの意志とは関係なく一つにまとめられて、いささか憤慨しているものもあった。
それらには意志があるのだ。いや、意志しかないのかもしれない。強く念ずることによって生じたものもあれば、誰か他のものの意志によって生まれたものもあり、吐き捨てたため息の中に残留する不快感から生じたものもいた。彼らは神と呼ばれるものだ。そして神とはそんなにも、曖昧でいい加減で、感情的で気紛れなのだ。寄り合わされ、練られ、一つの大きな塊となった彼らはやがてまた別のものの意志と作用によって、いわゆる実体を得た。肉の重い体は彼らの意志通りには動かず、厄介なことに痛みさえ感知し、やがて共通の感情をもたらす。いらだち、怒り。通じ合ったものがそこに生まれたとき、寄せ集めの彼らはその力をようやく束ね、その不快な器から逃れようと、いらだちのままに暴れ始めた。それを阻止しようとした人間を一人瀕死の重体に追い込み、その時に得た衝撃で、かろうじて実体化した器を脱ぎかけた。しかし。
夕闇の迫る、人気のない、開発途中の宅地の最も奥まった地点に軽自動車が辿り着く。街灯さえろくにないその場所で、その助手席に乗っていた男は真っ先に車を降り、そしてその視線の先を見て苦笑を漏らした。すぐ近くまで迫る山並の手前、黒く大きな塊が、のたうつのが見える。
「ちょっと神和くん、一人で降りたら危ないって!」
「何にも解らんくせに解ったようなことを言うな」
「いや……そうだけどさ……」
後部座席から、それを追うようにもう一人の男が車を降りた。そして、
「でもさ、実際何がどうなってるの?……って言うか、あれ?さっきはちょっと見えてたのに……」
「昼間お前にかけた術の効き目が切れたんだ……自力で見ようとするなよ」
明度は、低い。というよりそこにはもう、闇と言っていい暗さが横たわっていた。すぐ近くにいる人間の顔も、その目で判別する事は難しいだろう。目を凝らすようにする御幣の様子を見もせず、神和は言った。御幣は一人、眉をしかめたり目を細めたりしながら、
「解ってるよ……この近距離だと確実に、向こうに何か影響出るだろうし。でもさあ」
言葉を遮るように、軽自動車のドアの開閉音が今一度当たりに響く。運転席の松浦も車から降りたらしい。感じ取って、神和はその目をしばたたかせた。
「松浦、お前は……」
「神和、一体どうする気だ?」
短く簡潔に、問いは投げられる。神和は苦笑しながら、かけていた黒のサングラスを外し、
「まあ下がって見てろ。つーかこの場合、お前は出張らない方がいいぞ。相手が相手だ。下手すりゃ食われる」
冗談めかしたその言葉に、松浦はその眉を寄せる。神和はそのままの口調で、
「あのテの奴らは昔っから、若くて美人が大好きだ。その上高い能力を持った巫女なら、尚更だ」
言葉に、松浦は何も返さない。あははは、と軽い笑い声の後、御幣、
「神和くーん、君がそれ言っても説得力ないよ?っていうか、そんなこと言ったら君が一番危険でしょ?何てったって「超絶ハイパー美形巫覡」で、国内一危険な「神々の愛児」なんだからさー」
その言葉に神和の額に血管が浮かび上がる。松浦は御幣の言葉にかすかに笑うと、
「確かに」
「って言うか神和くんってさー、何だかんだ言って青臭いって言うかさー、今更そんなに格好付けても、何て言うか……」
神和は御幣に何も言い返さない。御幣は笑いながら、今一度彼に問いかけた。
「で、僕はどうすればいいの?神和くん」
神和はむっとしているのか、黙り込んだままだ。御幣はその眉を僅かにしかめ、しかめながらも口許にだけ笑顔を作り、
「こーなぎくーん、僕どーすれば……」
「俺を守りながら、あいつに近づけ」
「……へ?」
短く、神和が言った。御幣は目を丸くさせる。笑っていた松浦は息を飲み、驚いた様子で、
「神和、一体何を……」
「言っただろう?あいつを解く、一柱たりとも殺さずに。こいつがさっき言った通りに大博打だが」
問いかけに答えると、神和は何のためらいもない様子ですたすたと歩き出す。御幣は慌てて、
「って、ちょっと待ってよ、神和くん!守りながらって、一体どうすればっ……」
駆け出すと同時に、周囲で何かがざわめく。はっとして御幣は顔を上げ、瞬間、空気の振動のようなものを感じて声を上げた。
「うわっ、な、何、これ……」
「何もくそもあるか……攻撃されてんだよ」
突き放した様な神和の声に、御幣、
「攻撃されてるって……だって僕まだ何もしてない……」
「あんなんになってもあいつらは……いや、ああなったから尚更だな。この俺が食いたいんだよ。何がなんでもな」
「って、何平気な顔して言ってんのさ!君、死ぬ気なの?」
余りにも落ち着いたその声に、御幣が思わず激昂する。神和は振り返り、
「悪いな、俺ぁこーゆーのにゃ慣れてんだよ。だからほれ、さっと守れ」
「さっさとって……」
「俺が何と対峙してんのか、今、見せてやる」
言いながら、神和は振り返る。御幣が驚きの表情でそれを見た瞬間、神和がにやりと口許を歪めて笑った。
「っ……え?」
目が合ったのと同時に、体がぶれるような感覚が走る。何だこれ、そう思った次の瞬間、闇の向こうから縄状の物が飛来して来るのが見えた。
「うわ!」
叫びながら、御幣が飛び退る。ヒュー、と小さく神和は口笛を吹き、
「おーおー、流石は戦闘巫覡だ。反応速え速え」
「って、ちょっと神和くん、これ何っ……」
「だから、攻撃されてるんだよ。今の所はまだ影だけだが、そのうち……」
「って言うか、なんで僕が!」
「あー……その辺は、あれだ。お前がいなくなれば、俺が簡単に食えるから……」
「簡単にそういう怖いこと言わないでよ!!」
感心している神和の言葉を余所に、御幣は闇に対して身構える。そして、
「もう、しょうがないな……で、どうするのさ?前進すんの?あいつどーすんの?」
怒ったように御幣が、尋ねると言うより詰め寄る様に言う。神和は笑いもせず、
「とりあえず……あいつに手が届く位置まで行け。後は指示を待て」
「指示?待てなかったら?」
やけっぱちらしい。いらつく声が聞こえる。神和は僅かに眉を寄せ、
「手は出すな。指示があるまで待て」
「だから、僕が殺されそうになったらどーすんのって聞いてるんだよ!それでも?」
「一柱たりとも殺すな。とにかく待て」
「それって、全然答えじゃないんだけど」
応とは言わず、それでも御幣は走り出していた。神和はそれを見送り、その場で短く息をつく。松浦は、二人のやり取りと御幣の受けている攻撃とを見ながら、その場でただ驚いていたらしい。言葉もなく、駆けて行く背中を見送る。
「さて、と……このままあいつと同調して、どこまで見られるか……」
一人ごちる様に神和が呟く。かすれた声で、松浦はやっとの事で彼に尋ねた。
「神和……何をする気だ?あれを一体、どうやって……」
声に、神和はちらりと松浦を見遣る。そして、どこかいたずらっぽく笑うと、
「布と一緒さ。ほつれた所を一気に引き抜く。俺はそのほつれ目を探すだけだ」
「ほつれ目……」
古来、機織りは呪術とみなされた。繊維が糸に、糸が布に変わるその様子を、人々は不思議と捕え、それを神聖であると認識した。布は神々の起こす奇跡同様、奇跡によって成るものと認識され、それ故に神聖であり、また布のはためきは、その様子から同様に、魔を除け邪を払うともされた。拠り集められて変化するもの、そしてそれが織られて、更に変わるもの。その法則はまた、彼らにも通じる。
「まあ……向こうに応えられるだけの余力があれば、って話なんだがな」
ぼやくように言いながら神和は歩き出す。松浦はその場所で固まったまましばらく動けずにいた、が、
「神和!」
叫ぶような声に呼ばれて、神和は振り返る。闇の中でも、彼にはその顔が見えた。いや、その表現は不適切かもしれない。彼は人の言う「視覚」で物を見ない事が多々ある。同時に、身近にいる人間の感情さえも、時に読み取る事すら叶う、そういう能力の持ち主だ。にやりと、神和は笑う。そして、
「何だ、松浦。そんな怖い顔して」
「っ……今はそんな冗談を言っている場合か」
「俺はいたって真面目だぜ?お前といる時は特に」
何が楽しいのか、彼は笑っている。しかも、口調からすると自信満々のようだ。それが場違いな気がして、松浦は更に言った。
「何をする気だ。御幣に、何を……それに……」
「しくじった時はあれだ、この辺一体がとんでもない事になる上に……そうだな、俺の霊が中松の稲荷辺りに食われるかも知れないが……まあその時はその時だ。本庁にはそれなりの術者がごろごろしてるし、そいつらが本気になったらそれも何とか片付くだろ」
「何を暢気な……死ぬ気か?」
問われて、神和は目を丸くさせる。そしてまた、奇妙に楽しげに笑った。彼女はそれに思わず怒鳴りつける。
「神和!」
「いや、死にたかないぜ、これでも。つーか、俺のこと、心配してくれるのか?千五穂」
問われて、名を呼ばれて、一瞬松浦は怯む。が、
「……そういうこちらの気持ちを踏みにじる気か、君は」
性質の悪い男だ。思いながら松浦は嘆息する。付き合いが長いだけ、その男の性格も良く解っているつもりだった。どこか不真面目でいつも無気力で、そのくせ自信家で、こちらの意など殆ど介していない。だというのに時折、生真面目がすぎて厄介ごとに巻き込まれる。何だかんだと文句を言いながら、頼まれた事を断り切れず、遂行するのも彼の常だ。心配などしても、きりがない。
「そう心配すんなよ、千五穂。俺なら生きて帰ってくるから。でも、そうだな……事が丸く収まったら、何かご褒美でもありゃ、もっとその甲斐もあるってモンだけどな」
松浦は彼を睨んで無言だった。全く構わない様子で、神和は言葉を続ける。
「今度の休みに、メシでもどうだ?」
「……あの手は、夜が更ければ更けただけ、力を増す。早めに何とかして来た方がいい」
答えず、溜め息と共に松浦が言った。ニヤニヤと笑ったまま、神和はきびすを返し、
「じゃ、約束だぞ、千五穂。済んだらデート、な」
答えを聞くことなく、その場から歩き出す。見送って、松浦は一人苦笑を漏らす。
神和の背中の向こう、その気配は彼女にも感じられた。それは気配というより、畏怖そのものだ。余りにも雑多で、どこか苦し気で、そして畏れ多い。感じながら、松浦は眉をしかめる。
神とは、一体如何なるものなのか。それを考える時、彼女はいつも迷う。そして結局、彼女自身の答えには、一度も辿り着いた事がない。彼女も巫覡としての能力があり、それらに感応もする。時には呼び出して対話を行い、意思の疎通さえ図る。しかしその存在には、確固とした「何か」がない。その「何か」も、どう呼んでいいものなのか、良く解らない。ただそこに、意思とでも呼ぶべき、何ものかは存在する。
そう、それらは「意思」だ。時に、肉の体を持たずに、いやそれ故に、滅びることなく存在し続ける。
意思を持つ、人智では図れない力。人はそれを「カミ」と呼ぶ。そしてカミはあまりにも種々雑多で、人の常識では理解できない次元で、その力を行使する。
「女巫」
それは唐突に、彼女を呼んだ。驚き、松浦は打たれたように振り返る。姿は見えない。気配は感じられるが、どこにあるのかは解らない。探るように意識を向けると、気配は楽しげに笑うように、彼女に話しかけた。
「見物よの」
「……こんな所へお出でになって……貴方は平気なのですか」
言葉を選ぶようにして、松浦は問いかける。姿はどこにもない。ただ、どこかに気配がある。しかも、それを知らされているのは自分だけのようだ。思いながら彼女は眉をしかめた。その存在も、性質が悪い。正体は片田舎の山だという。大地の意思の片鱗、とでも言うべきか。彼女の属する団体の元は、その山を神体とする神社と、それを奉る宗教団体から成る。
「御坐主」
呼ぶと、傍らに薄ぼんやりと、その影が現れた。闇の中だというのに、白く輝く光を纏ったその存在は、整った口許を楽し気に歪め、笑っている。
「我は彼奴等ほどに小さくはない。食らうも叶うが」
「……その、おつもりですか?」
笑いながら紡がれる言葉に、思わず松浦が尋ねる。くすくすと笑いながら、それは返した。
「真逆。その気なら主らより先にここに在ろう。あの様なもの、食おうが食わずが、我は我ぞ。さして変わらぬ」
「では何故……こちらに……」
「言うたで在ろう、見物と」
口調は、落ち着き払っていて、ただ楽しげだった。松浦は眉をしかめて、その姿から目を逸らす。光を纏った、白い髪と真紅の目の、若い男を模した姿の存在は、くすくすと楽しげに笑い、その形のいい指で、自身の顎を捕まえ、更に言った。
「人風情が、人の与り知れぬものを、捌くか」
「……人の与り知れぬものを……捌く?」
口調は、奇妙だった。いや、その言葉の選び方もまた、気になる。思いながら、松浦がその言葉を、繰り返すように口にする。笑っていたそれは、満足げな表情のまま、
「まあ見ておれ。何、時として我等も、主らの手を煩わせるという事。尤も、あれをああまで募ったは、人のしでかした事。でなければ、分かれるも容易いが」
「……解るの、ですか?」
「愚問よの、女巫」
思わず発した彼女の問いは、一笑に付される。それは薄く笑ったまま、そこからゆっくり消えていく。
「御坐主っ……」
「我等は審神者を、されど審神者は主を所望ぞ。あまり連れぬもあれが哀れ。審神者の望むままに、大人しう御合え、とまでは言わぬが、須らく意に沿わぬでも無かろう。主ももそっと、己の心に添え。我なれば、巫女は他にもある。伽にあれが無ければならぬ訳でもなし。むしろ、言祝ぐが」
「……何の話ですか……」
言葉の意味が、解るような解らないような、解らなくてもいいような気がして、松浦は思わず言い返す。声は笑いながら、気配と共に消える。松浦は一人その場に残され、吐息と共に呟く。
「見物、か……」
その言葉が意味する所は、解らない。いや、暢気に見ていられるレベルだと、判断出来る状況ではない。思いながら、松浦は無言で歩き始める。
二人を信用していないわけではない。けれど気懸かりなことに変わりはない。それに、もしもの為に誰か一人でも近くに術者がいれば、後の事もスムーズにいく。自分はあくまで保険だ。そして多分、無用な類の。思って松浦はかすかに笑う。歩みはいつか早まり、駆け足に代わっていた。見物というなら、見てやろう。そしてまた、あの二人との力の差を知らされても構うまい。
「しかし、食事か……そんな余裕があるのか、あいつは」
走りながら、何気に松浦はぼやく。年下、とは言え職歴で言えば先輩に当たる男の財布は、甚だ不安だ。思いながら、松浦は苦笑する。そしてその思いを吹っ切るように、彼女は走る速度を上げた。
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