スガネタ。

 

   イメージ小説「坂の途中」


 

 

その日、真夜中に電話があった。眠っているのか起きているのか解らない、闇の広がる部屋でその呼び出しに出ると、いつか聞いた男の声が聞こえた。

「久し振り、元気にしてる?」

それはかつての恋人の声だった。その電話が夢だったのか現実だったのかはっきりと解らないのは、その男がつい先日亡くなったらしいと、友人から聞かされたからだった。

 

学生の頃は家を離れていた。現在も一人暮らしだ。けれど大学があったところよりずっと、実家の近くに暮らしている。OL三年目。どうということはない、フツーの一般職だ。そろそろ親類のおばちゃん達が永久就職の斡旋を始めるお年頃で、まあ斡旋はあったりなかったりで、でもまだ当分そんな気がない私は、それをいつものらりくらりとかわしていた。だってまだ社会人になって三年だ。やっと色んな意味で親から離れて自由になれたのに、どうしてそんなに早く片付かなきゃいけないのだ。人生長いのだ、もっと楽しみたいじゃないか。私の言い分はそんなところだった。人生、楽しんでるかって?その辺もまあ、人並みだ。朝起きて会社に行って机に向かって働いて、定時になったら帰宅。時々友達と会ってご飯を食べたりお酒を飲んだり。楽しいことばかりじゃないけど、こんなのも悪くないと思っている。毎日が同じことの繰り返し、だけど時には予期せぬアクシデントに見舞われたりもする。人生って、そういうもんでしょ?

そんな風に地元に帰ってOLをやっていた私が、かつて暮らした町に足を踏み入れたのは、かれこれ三年ぶりのことだった。大学を出てから、薄情なのか、私はその近くに立ち寄ったことが一度としてない。実家から電車やバスを使って二時間弱、という中途半端に近くて遠い、特に呼び物もない学生の町だから、それはそれで仕方ないのかもしれない。その近くには今では親しい友人も暮らしていないし、学校に特別な用もないし。そうなれば自然と足は遠のいて、振り返ることも余りなくなっても不思議ではないだろう。

ああでも、実はもう一つ、ここに来たくない理由が、あるのかもしれない。大した理由ではない。その町にあるあまり大きくない公園で、私は恋人と別れたのだ。大学卒業の間際に。どうして別れたのか?それは今話すことじゃないからおいておくとして、とにかく私は、その、最後の最後に嫌な思い出を作ってしまった土地に、三年ぶりに足を踏み入れていた。どうしてそんなところに来たのか?それは、あの電話のせいだった。

 

「久し振り……はいいけど、何、こんな夜中に……てかあんた、なんでケータイの番号知ってんの?」

「まーまー、細かいことは。それよりさ、今度の日曜、時間あるか?」

「何……なくもないけど……」

「学校の……隣の区だな。お前、そこまで来いよ」

「はぁ?何、なんで?てかあんた、死んだんじゃ……」

「今から説明するから。Hヶ丘の駅から極楽行きの市バスに乗って、終点から三つ目のバス停で降りて……」

「ってちょっと待ってよ。何勝手にそんなこと……」

「いいから!俺、そこで一日中待ってるから。な?絶対来いよ」

 

かなり一方的にかかってきた電話は、同じく一方的に話し倒されて、一方的に切られてしまった。真夜中、しかも週のど真ん中、私は大切な睡眠時間をそんな勝手な男に邪魔されて、奪われて、次の日一日不機嫌だった。何が「一日中待ってるから」だ、ふざけんな。電話が切れてもう一度眠る直前、そんなことを思った。思ったはずなのに、私は次の日曜、学生時代を過ごしたこの街にいた。正確に言うとその隣の区に向かっている途中で、大学の最寄駅のバスターミナルで、何だか複雑な気分でバスを待っていた。駅発西回り極楽行き、というバスは、閑静な住宅街に向かう市バスの路線だった。極楽というその変わった地名の場所には、極楽の名前と奇妙に符合する場所もあった。大きな寺院と無宗教墓地の公園だ。いつか誰かが「極楽行きに乗って墓参り、ってのもなんかビミョー」と言っていたが、まさにそんな感じで、お盆やお彼岸などその手のシーズンになると、誰からともなくそんな話題が出て、私たちは笑っていた。後で知った事だがその大きな寺院の名前からその地名はつけられているそうだ。確か極楽院、とか言ったか。何しろ学生の頃に又聞きした話なので、記憶も曖昧だ。

日曜のお昼少し前、私は駅からそのバスに乗り込んだ。一日中待っている、と言われても、自宅から二時間近くの時間を要する遠隔地に向かうのだ。早朝から気合を入れる、というのも憚られる、と言うか、何だか気に入らない感じだった。大体、呼び出した相手は昔の彼氏で、私達は別れたのだ。しかも、余りいい別れ方ではなかった。そんな相手に喜んで会いに行きたい人間なんて、そうそういてたまるか。そう思っていながらも、彼に会いたくないわけではなかった。確かに別れた彼氏だけど、こじれる前までは仲良くしていたし、すれ違いが生じた後も、私はまだ彼が好きだった。正直、別れる事になっても別れた後も、彼を嫌いにはなれなかった。

そんなに好きならなんで別れたのか?そこが人間関係の妙と言うか、複雑さと言うか、何と言うか。好きだからと言って何もかもを許せるわけでもないし、何もかもを認められるわけでもない。相手は別の人間なのだから、考えていることが解らなくても、違っていても、それは当たり前だし、その為に近くにいられなくなることもしばしばなのだ。

彼はその日大学の近くの公園で、私にこう言った。

 

「卒業式が終ったらインドに行くんだ。ついて来いよ」

 

彼は、部類の旅行好きだった。しかも未開地へ行くのが大好きで、そのインドも四回目、とか言っていた。それまでにもエジプトやアフリカやベトナムやタイやカンボジアなど、凡そ女子大生がきゃーきゃー大騒ぎで行きたがるとは思えない、やや危険地帯を旅していた。私も、何度も誘われた。そして一度だけ、香港に連れて行ってもらったこともあった。連れて行ってもらったと言うか、アジアへ行くなら水洗トイレでドアがちゃんとついているところでないと嫌だ、と私がだだをこねたからそうなったのだ。彼は、私のリクエストだからとしぶしぶそれを承知したが、旅行会社など通すこともなく、飛行機からホテルから全ての手配をし、現地につくなり裏通りのマーケットに足を踏み入れようとして、何だか怪しいお兄さんに絡まれたりして、私の折角の旅行は「たかが香港」の筈が大波乱になってしまったのだった。そんな彼だったので、一緒の海外旅行は二度と御免だった。だからその時、私はそれを断った。

 

「インド?勘弁してよ、しかもこんな時に」

私達は仮にも、卒業間際の大学生だった。四月からは新しい環境で、今までと全く違う生活を送ることを余儀なくされている。私は何とかぎりぎり内定をもらっていて、しかも地元に帰る事に決まっていて、そんな余裕は全くなかった。しかも。

「それにあんた、四月からの身の振り方、決まってんの?」

「そんなの、戻ってから捜せばいいよ」

「そんな暢気なご時勢じゃない事くらい、解ってるんでしょう?」

 

私と彼が別れた理由は、その認識の違いだった。彼はどこまで行ってもマイペースで、先を心配すると言うことを知らなかった。外国へ言っても、もし何か危険な目に会ったらどうするのか、という類の心配は全くしておらず、代わりに、いつ死んでもいい、みたいな覚悟はしていた。旅の空で死ねたら本望、とか何とか、その頃からずーっと言っていた。そりゃあんたはそうでしょうけど、私はそうじゃないのよ、と、一体何度言った事だろう。

確かに彼のことは好きだった。でも、私は彼の様には割り切れなかったし、きっと生きられなかったのだろう。だから別れたのだ。こんなに考えが違うのに、続けてなんかいけない、あんたがどこかで野垂れ死んでも知らないままで、後から誰かに教えてもらって、無駄に嘆くなんて嫌だ、そんな風に言って。

彼は私がそう言うとひどく驚いた顔になった。そして、そうか、それじゃあ仕方ないな、と淡々と言った。そして最後にこう言った。

 

「俺はお前と行きたかったんだ、色んなところに」

 

ごめんとかありがとうとかさよならとか、そういう言葉は全くなかった。彼はそのまま私に背を向けて、一人でさっさと消えてしまい、私は一人その公園に残されて、泣く事も出来ずにしばらくぼんやりしていた。彼と別れて、実家に返って、一人で暮らし始めても、そのことで泣く事はなかった。勿論哀しかったり悔しかったり、寂しかった。だけど全然泣いたりしなかった。きっと就職したり引越ししたりで忙しくて、そんな暇がなかったからだろう。だって私達は生きていかなきゃならない。泣いている暇なんてどこにもない。そして、嘆かないで済むならそれに越した事はないじゃないか。その頃は、そう思っていた。今は、どうして泣かなかったのか、良く解らない。今更泣いたりする事でもないから、わざわざ泣いたりしないけど。

日曜の昼時、市バスの乗車客は他にもちらほらとあったけれど、私の他にはそこで下りる人はいないらしかった。次は極楽坂下、というアナウンスを聞きながら、私は「つぎ止まります」のボタンを押し、あんな風に最低な別れ方だったのに、なんで今更自分は呼び出されて、のこのこ来てしまうんだろう、と他人事のように少し考えた。昔別れた彼氏に呼び出されて。しかも、歯切れというか後味の悪い別れ方をして。もし友達の誰かがこんなことになったら、やめた方がいいと言うに決まっているのに。

バスを降りて、私は歩き出した。待ち合せの指定の場所はそこから歩いて十分ほどのところにある喫茶店らしい。バス停を下りてすぐの坂道を登っていくと、そのうちに小さな看板が見えるから、とのことだったが、その坂道を見て私は変な声を漏らした。

「げ」

坂道、というより絶壁のように見えた。白い舗装のされた、車が入ることが難しそうな狭い坂道が、まるで空にでも上っていくみたいにしてそこにあった。これを登れと言うのか、あいつは。思って、私は少しうんざりした。自分勝手というか相手の都合を考えていないというか、何と言うか。そして同時に思った。別れたあの頃からあいつは全然変わっていないのだ、と。こんな所に呼び出して、迎えにも出てこないで、こちらが行くと約束したわけでもないのに「一日中待ってるから」なんて言いやがって。思いながら私は溜め息をつき、そして辺りを見回した。このまま、引き返してやろうか。そうしたら、あいつは一体どう思うだろう。来なかったじゃないか、どうしてだ、とか電話でもかかってくるかしら。そうしたらそうしたで、そんな義理なんかないと言ってやればいいだけのことだ。のこのこ出てきて帰るのも、無駄と言うか損をしている気にはなるのだが。せいぜい待ちぼうけでもしていればいい、それはそれで清々する。私はそう思って少し笑って、でも、それも悪いかな、と思いなおした。折角ここまで来たんだし、向こうは一日待っていると言ったし、待たせて、そんなひどい事をするのも、可哀相かも知れない。思うと、胸のどこかがかすかに痛んだ。いや可哀相なんて、思ってやる必要だって、本当はないのだ。私の方だって可哀想だった時があったんだから、このくらいの制裁は受けるべきだ。制裁なんて、大袈裟なものでもないけれど。思っているとカバンの中で携帯電話が歌い出した。知らない番号が表示されて、誰かと思って出てみたら、あいつだった。

「バス着いたか?」

開口一番、どこか子供っぽい声が聞こえた。私はちょっと驚いて、

「なっ……なんで、解るのよ?」

然様言った直後、自分が呼び出されてのこのこやってきたことが相手にばれたわけで、私はしまったと思った。電話の声は少し笑って、

「勘だよ、勘。道、解るか?」

「……この坂、登ればいいんでしょ?」

笑われて、多分あいつの思うつぼなんだろうなあと思いながら、私はそう返した。彼はうんそう、と短く言って、ちょっと解り辛いから表に出てるよ、と言って電話を切った。私は溜め息をついて、こうなったら引き返すことなんて出来ないし、と自分に言い聞かせて坂を登りはじめた。

 

絶壁みたいな坂は、本当に天に向かって延びているようだった。坂の上には空しか見えなくて、このまま登り続けたら、天に辿り着くような、そんな錯覚さえ覚えた。のぼりながら、なんであいつはわざわざこんな処に呼び出したのかと、そんなことを考えていた。そして、呼び出されてきた自分のことも考えた。どうして別れたんだろうとか、何であんな男が好きだったんだろう、とか。

彼と出会ったのは、二年生のある講義の教室だった。たまたまその時となりに座って、その後も別の講義でその姿を見かけて、同じ学年で同じ科なのかな、と思っていたある時、ノートを貸してくれ、とか言われたのだ。

 

「田代先生と鈴木先生の講義、取ってただろ?」

「うんまぁ……取ってるけど」

「その時に返すからさ」

 

ほぼ初見だったのだが、彼は臆する事も遠慮する事もなく私にそう言った。私も、じゃあその時にノートを返してもらえばいいや、と思って気軽に貸して、それから丸一ヶ月、彼は学校に来なかった。やってきた時には髭だらけのくたくたの格好で、さらにこう言ったのだ。

 

「先月分の被ってる講義のノート、全部貸してくれない?」

 

それから私は、タダというのは困る、とか何とか言って彼にノートを貸す様になった。別に報酬が欲しかったわけではない。何か担保でも取っておかないと、いつまでたってもノートが返ってこないからだ。彼は少し考えて、質草にこんなものを寄越した。

 

「パスポート?」

「これじゃダメかな……金目のものとか、あんまり持ってないんだ」

「金目って……パスポートだってお金になんないじゃん」

「うんでも……それがないと、どこにも行けないからさ」

 

それで私は、彼が一ヶ月も大学を休んでいた理由を知ったのだった。最初はベトナムに行って、それからぐるぐるとあちこち歩き回っていて、気がついたら一ヶ月も経過していた、らしい。とりあえずその時はパスポートを担保にノートを貸し、それが縁と言うのも変だけれど、私達はお近付きになった。彼のする話は大抵旅行の話で、私はそれを聞くでもなしに聞いていた。そしてノートが返って来る度に、たまには日本にいて講義も受けなさいよ、とか何とか、言うようになって、気がついたら付き合い始めていた。

付き合い始めてからも彼の旅行好きは治まらなかった。学校以外なかなか一緒にいられなくて、自分達は一体何なのかと考えたこともしばしばだった。彼は毎日バイトに明け暮れて、お金が貯まるとどこかへ行ってしまった。ふらっと消えるくせに、戻ってくると、欲しいと言ったわけでもないのに変なお土産を持って、真っ先に私のところに帰って来た。そして話の最後にはいつでも「いつか一緒に行こうな」と言うのだ。おかげで卒業するまでに変ながらくたが部屋に溜まってしまった。待っている間、私はそのがらくたを見て、また増えるなあと思いながら、それでもそうなる事が嫌でも苦でもなかった。それが増えることは、彼が私のところに帰って来る、そのしるしだった。

とは言え、そんな彼との関係も二年で終わってしまった。一緒にいられないことに我慢が出来なくなった、というのか、彼が余りにも暢気すぎたから、というのか。大学を出た後のことを全く考えていない男と、そうでない私の意見が食い違って、現在に至る、という感じだ。卒業式が終ったら二人でインドに行こう、と言われた時、私はもうダメだと思った。こんなのが一生続くなんて耐えられない。仮に着いて行ったとしても、そしてそれが楽しかったとしても、その後のことなんてこいつは何にも考えていないのだ。旅行以前のことなんて、何も頭にないのだ。生活するとか、将来の事とか、何も。

 

「……くそ、なんであの男は、こんな時にも、こういう場所を選ぶかな……」

坂道を登りながら私はぼやいた。ぼやく声も、息も絶え絶えで、小さくすませるには余力がなくて、毒づくような格好だった。久し振りに昔の知り合いと会うのに、こんな解りづらい、来た事もないような場所を選ぶなんて、どうかしている。やっぱりあいつの頭は何にも考えていないに違いない。私はそれを思ってうんざりした。ということは何か、呼び出されて聞かされる話も、やっぱりあの頃と変わらないわけか。きっと長い旅行から久し振りに日本に帰って来て、帰って来たらこうするのが決まりだとか何とか、ぬかす気なのか、今更。思って私は顔を上げた。坂道はまだまだ続いていて、何だかうんざりした。引き返そうか、このまま、トンズラこいてやろうか。思ったその時、声が聞こえた。

「何へばってんだよ、こんなとこで」

顔を上げると、彼がそこにいた。こざっぱりした、髭も生えていない、あの頃より少し痩せた顔の彼は、私を見てニヤニヤ笑っていた。びっくりして、私は少しだけのけぞった。

「なっ……あんた、いつからそこにっ……」

「いつって、今だよ。店の前で待っててもなかなか来ないから、迎えに来たんだ」

彼はそう言うと屈託のない顔で笑った。そして私に手を差し伸べた。

「ホラ、捕まれ」

その手に、私は怯んだ。体を普通に立たせて、私は少し高い位置の彼の顔を見上げた。彼は笑って、何だよ、と言い、せかすように差し伸べた手を私に突き出した。しぶしぶ私はそれを手にとって、ぎゅ、と握られた時に、何やってんだ自分、と思った。その手は力強く私の手を引いて、絶壁のような坂をすいすい登りはじめた。ぐんぐん歩いている間、彼は私を見なかった。私は彼の後姿を見ながら、どうしてか解らないけれど目にじわじわ涙を溜めていた。

 

手を捕まれて、引っ張られてきた先は、古い民家だった。木製の塀でぐるりと囲まれた、大きくも小さくもない民家の屋根つきの門の前には小さな看板が立てられていた。最近流行のスタイルの民家カフェらしい。茶房極楽、と書かれたその看板を見ていると、彼は言った。

「貸切なんだ、ここ」

「え?」

「何か食う?」

民家さながら、というより、親戚の家、みたいなその場所には、私達以外の客はいなかった。門をくぐって玄関を上がって、小さな庭に面した縁側に出ると、小さな円卓と座布団が二人分用意されていた。どこかがらんとしたその家は、子民家を利用した喫茶店、という雰囲気さえなくて、私は少し動揺した。

「本当にここ、喫茶店なの?」

「うん」

「だってお店の人は?」

「奥にいる。呼ぼうか?」

彼は何でもないように言った。私は辺りを見回して、それから、首を横に振った。彼がそう言うならそうなのだろう、表に一応看板もあったし。思いながら溜め息をつくと、彼は笑って言った。

「座れよ。何か食う?」

「……いい。お茶だけで」

そうか、と彼は言った。私はその縁側の座布団の上に座って、彼はそんな私を見ながら嬉しそうに笑っていた。目の前で、手馴れた様子で彼はお茶を入れてくれた。そう言えばあの頃も、私の部屋に来ても、彼はこうしてお茶を入れてくれたっけ。ぼんやりそんなことを思い出していると、彼は口を開いた。

「元気でやってるか?」

「そこそこ。あんたは」

「俺は……俺もそこそこかな」

何だか私は疲れていた。坂を登ったり時間をかけてわざわざ出向いたから、ではなかった。気疲れ、という感じだった。何に気を使って疲れているのかは良く解らなかった。でも何だか、変に気持ちの方が強ばっている気がした。どうしてだろう、なんでだろう。そんなことを繰り返し考えて、それさえも億劫になった。そして、彼に尋ねた。

「で、なんでわざわざこんなところに呼び出したの?」

「ああ……わざわざって言うか……二人で話がしたくて」

「今更?」

今更、と言った私の声は冷たかった。それを装ったつもりはなかったのに、何だか淡々としていた。彼はその声に少し顔色を変え、そして苦笑いを漏らした。

「手厳しいな」

「だって今更でしょ?あれからもう三年だよ?」

「うん」

「うんじゃなくて……」

彼は、苦笑いだけど笑っていた。私は言葉を失って、そんな彼を見ていた。少し黙っていると、彼は庭に目を向けた。私も、同じ様に、余り広くないその庭を眺めた。辺りはしいんと静まっていた。外からの音が殆ど聞こえなくて、それがとても不思議だった。彼は黙っていて、お茶を飲んだり、庭を見たりしていた。私はそのうちに沈黙に耐えられなくなって、とうとう口を開いた。

「……インド、行ったの?」

「あ?」

「だから、あの後……」

「ああ……インド行って、ネパール行って、パキスタン行って……チベットも行ったかな」

彼は何でもなさそうに言って、それから少し笑った。その何でもなさそうな態度に、私は少し眉をしかめた。昔を思い出して気分が悪かったとか、そういうことではない。どうしてか、そんな顔になってしまった。彼は笑って、それから私を見て言った。

「本当は、二人で行きたかったけどな」

「っ……だからそれは、今更……」

「解ってる。今更だよ、本当」

そう言った彼の顔が、少し寂しそうに見えた。私は何も言えなくなって、また眉をしかめた。何だか少し哀しかった。切なくなって、彼から目をそらした。

「……最近は、どこか行ってたの?」

「ん?まあな」

会話は、そこで途切れた。彼は笑うのもやめて、また庭を見た。私はその横顔を見て、彼が何か言うのを待っていた。少しの間、彼も私も何も言わなかった。沈黙に責められているようで、何だか辛くなって、また何か言おうと思ったけれど、言葉は出てこなかった。彼は黙って、それから少し笑って、唐突に言った。

「×△に行ってた」

「×△っ……ええ!!

その国の名前に私は驚きの声を上げた。そこはここ数年、長い間戦争と言うか内戦状態で、何日か前にも爆破テロがあった、とニュースで言っていたところだからだ。彼は私を見て軽く笑った。そして、少しいたずらっぽい顔で言った。

「驚いた?」

「おど……そりゃ、驚くわよ……なんでそんなところに……ていうか、危ないでしょ、そんなとこ……」

「うんまあ……色々危なかった」

そのまま彼はさらりと言った。私はあっけに取られて、開いた口がふさがらないまま彼を見ていた。しばらく、さっきとは種類の違う沈黙が降りた。彼は笑っていた。けれど不意に小さく息をついて、それから言った。

「元気そうだな」

「え?」

「お前だよ」

「ああ……まあ、普通に元気、だけど……」

「良かったよ、本当に」

何だか変なやり取りだった。私は黙って、あの頃と変わらないような、少し大人になったような彼を見ていた。彼は軽く肩をすくめて、それから言った。

「あの時、何か変な感じだっただろ」

「あの時?」

「インドに行かないか、って言った後だよ」

言われて、私は目をしばたたかせた。そして、

「変、って言うか……中途半端って言うか……」

「俺は、お前と一緒に行きたかったんだ。インドだけじゃなくて、色んなところに」

あの時も、確かそんなことを言っていた。言っていたけれど、私はそんなことを聞いている場合ではなかったし、聞かなかった。彼は私から目をそらした。そしてさらりと、いい天気だな、とでも言うように言った。

「プロポーズだったんだ、あれ」

一瞬何を言われたのか解らなくて、私は言葉を失った。そして何秒かの間の後、叫んだ。

「ぷっ……プロポーズ?!

「びっくりした?」

彼は楽しそうに笑っていた。私は驚いて、度肝を抜かれて、そのままあんぐり口をあけたまま、閉じる事もできなかった。彼はそんな私を見て、不意にどこか寂しげな顔になった。そして、また肩を軽くすくめた。

「振られちまったけどな」

どことなく自嘲しているような目で、彼は言った。私は驚いたまま何も出来ず、そんな寂しそうな彼を見ているだけだった。それからまた、私たちは沈黙した。彼は笑うのをやめて私から目をそらした。私は何も言えないまま、笑っていない彼の横顔を見ているだけだった。

「お前と、色んなところに行きたかった」

「……うん、聞いた」

「連れて行けなかったけどな」

ぽつりと言った彼の言葉に、私はやっと我を取り戻した。彼はこちらを見なかった。深く息を吐いて、それから、少し笑った。

「久し振りにこっちに来て、お前のこと思い出したんだ。今何してんのか、とか、思ったら、会いたくなった」

「……うん」

彼の言葉に私はそう返した。彼はくしゃりと顔をゆがませて、泣きたいような顔で、でも笑っていた。笑っていなかったかもしれないけれど、私にはそんな風に見えた。私は、何も言えなかった。でも、黙っている事も辛くなっていた。何だかんだ言って、呼び出されて、私だってあの時のことを、全く忘れている訳じゃなかった。どこかにずっと引っかかっていて、でも思い出すまいとしていた。こんな人、忘れてしまいたかった。忘れたかったけど、出来なかった。でもそれも、やっぱり今更なのだ。今更そんなこと言っても、どうにもならない。だから私は、こんな風に言ってやった。

「あんた……変な噂になってるわよ」

「変な噂?」

「爆破テロに巻き込まれて、とか……×△みたいなところに行ったりするから……」

「何だ、知ってたのか」

皮肉めいたことを言うと彼は少し驚いた顔になった。私はその反応に驚いて、

「知ってたって……知らなかったわよ。あんたがそんなところに行ってたなんて……」

「そうじゃなくて、そのこと」

彼はまた、さらりと言った。余りに簡単に言われたその言葉の意味が、私には解らなかった。言ってから、彼は困ったように笑った。何だこれ、と思ったのはその時だった。彼は困ったような顔で、全く別のことでも話すように、口を開いた。

「あの時、何か変な感じに終ったから、ちゃんとしとこうと思って」

「……何よ、急に」

「俺なりの義理。こっちに戻ってきて、この辺の景色見て、もうここに来る事もないからと思って」

真正面から彼は私を見た。私は、何が何だか解らないまま、どうしてか解らないけれど、小さく震えて、そんな彼を見ていた。

「帰って来たから、お前に会いたくなったんだ。あの頃みたいに」

「ちょっ……ちょっと、待ってよ、何よ、それ……」

「これから、もっと遠くに行くから、その前に、ちゃんと言わないとと思って」

「だから、それ、何……」

「聞いたんだろ?俺のこと」

頭が真っ白になった。聞いたと言っても噂だ。中東のある国で爆破テロに巻き込まれて、死んだ、とか。テレビのニュースで見たわけじゃないし、葬式の連絡を貰ったわけでもない。ただ、そうらしいと誰かが言っていたのを、ちらっと聞いただけだ。だからそんなのは、単なる噂だと思っていた。だって電話だってかかってきたし、呼び出されたし、現にここでこうして、会って話している。さっきだって迎えに出てきて、坂道を登る私の手を引いて、ここまでやってきたではないか。今だって、現にこうして……。

「もう会えないんだ、って思ったら、すごく会いたくなった。もう帰れないって思ったら……何かすごく、お前に会いたくなったんだ」

彼は重ねて、会いたかった、と私に言った。私はちゃぶ台に手を着いて、体を半分起こしていた。彼はそんな私を見て、哀しそうに笑っていた。

「……嘘でしょ?本当に……」

「うん、俺、生きてないよ」

言葉が胸に突き刺さって、私はそのまま固まった。体はすとんと座り込んで、がたがた震え始めた。何だこれ、とか、そういうことも考えられなくなっていた。死んでるって、死んだって、どういうことだ。思って震えていると、彼は少し声を漏らして笑った。私はそれが頭にきて、彼を睨んだ。

「……何よ、笑い事?」

「そうじゃなくて……泣いてくれるんだな、って」

彼はそういうと立ち上がって、ちゃぶ台の横を通って私の傍にやってきた。そして無言で私の肩を抱き寄せて、耳元で言った。

「最後に会いたかったんだ。俺、本当にお前のこと、好きだったから」

そんな言葉を聞かされたのは初めてだった。あの頃にだって、そんなことは一言も言わなかった。私は気がつくとぼろぼろ泣いていて、彼の肩に額を乗せて、顔を押し付けていた。声も言葉も出なかった。ただ恨めしさが胸に募った。

「お前と一緒に色んなところに行きたかった」

「ばか……今更、何言ってんのよ……」

「お前と二人で、色んなところに行きたかった」

私は彼の腕の中に納まって、その胸に顔を押し付けて泣いた。出会って、別れて、初めての事だった。

 

どのくらいの間だったのか解らないけれど、私はそうやって泣いて、それから、彼とぼそぼそと色んなことを話した。別れて、卒業してから、どんなことがあったのか、今は何をしているのか、会社はどうなのか、どんな暮らしをしているのか。実家に戻ったのにまた家を出て、一人で暮らしている、彼氏はいない、と言うと、あいつは何だよそれ、と言って笑った。

 

「一人で住んでんのに、男もいないのか?」

「一人で住んでるからって、簡単に出来るもんでもないでしょ」

「あ、そーゆーもんなの?」

「そういうあんたはどうだったのよ。あの後」

「俺はいいんだ、そういうのは」

「よかないでしょ。人のことはそういう風に言っといて……」

「こんなんになっちまったから……いなくて良かったんだよ、そういうの」

 

庭を眺めながら、私達はずっとそんな話をしていた。気付くと夕暮れが迫って、辺りは薄暗くなり始めていた。東の空に一番星が見えるかな、と思った頃、彼が言った。

「もう帰れ」

「え?」

「お前んち、近くじゃないんだろ?」

言われて、私は息を飲んだ。彼はそう言いながら、優しく笑っていた。笑って、言葉を続けた。

「今日は来てくれて、嬉しかった」

「……うん」

「もう会えないけど……達者でな」

「……何かその言い方、年寄りくさいわよ」

「そうか?」

最後の最後に来ても、私は皮肉めいた事しか言えなかった。もう会えない、その言葉は私に突き刺さった。もう会えない、もう会えない。これが最後なのだ。だって本当は、彼はもう死んでいるのだから。ここにいて、捕まえる事も出来そうなのに、本当は生きてはいない。この世にもういない。なんでこんなことになっているのかは解らないけれど、でも、彼がそう言うのだから、そうなのだろう。それが巧妙な嘘だとしても……もう会えないけど、とその口が言ったのだ。それだけは、きっと真実なのだろう。

「元気でな」

「……うん」

隣で、彼は言った。私はそんな彼を見て、何か言いかけた。でも、言葉が出てこなかった。

「何?」

「……何でもない」

さよなら、とでも言えば良かったのだろうか。あんたも元気でね、なんて、言いようもないのだから。だって相手は死んでいるんだし、そんなやつに元気も病気もないし。

最後に私は彼の顔を見た。どんな顔をしていたのか解らないけれど、彼は私を見て少し笑った。そして、私の頭に手を乗せて、髪をくしゃくしゃとかいた。その手は重くて暖かくて、とても死んだ人間の手だなんて思えなかった。でも、もう触れることもない。もし仮に生きていても、二度と会わないのは、死んだ事と一緒なのかと、私は思った。

どこかで生きていても、二度と会わないということは、死んでいるのと同じなのだろうか。二度と会わないなら、その人が生きていなくても、それは同じことなのだろうか。少し考えて、それは違うと私は思った。死んでしまったら二度と会えない。生きていて二度と会わなくても、それは死んだ誰かとのこととは、違う。どこがどう違うのかは解らないけれど、私にとっての彼とのことは、そういうことなのだ。

「……あのまま、会えなくなってても、良かった」

何故か私の口からそんな言葉が出た。彼は少し驚いて、笑うのをやめた。

「二度と会えなくても……あんたがどこかに行っちゃっても……生きててくれた方が良かった……」

どんな別れ方をしても、それが思い出したくないくらい、辛くても。そう思ったら、治まっていたはずの涙が溢れ出した。手でそれを拭いながら、私は繰り返した。

「会えなくても、生きててくれれば良かった……一人でも、他の誰かと一緒でも、どんなところにいても……帰ってこなくても、生きててくれた方が、良かった……」

「無茶言うなよ……もう、死んでるんだし……」

「こんな風に会いたくなかった。あんたが死んでから……こんな風に会いたくなかった……」

生きてずっと、傍にいてほしかった。着いていけるものなら、どこへでも行きたかった。だって彼を好きだった。今更だけど、逃げたのは自分だけど、それでも本当は、彼をとても好きだった。泣きながら私は思った。

「泣くなよ」

声が聞こえて、私は顔を上げた。彼は困った顔で私を見て、それからまた、その顔に笑みを浮かべた。

「もう会えないけど、最後にお前に会えて良かった。元気でな」

彼の言葉に、私は何も言わなかった。涙を拭って頷くと、彼は嬉しそうに、そしてどこか安心したように、それまでよりも優しくて暖かい顔で笑って見せた。

 

それから、私は帰宅した。一体どこをどうやって帰ってきたのかよく覚えていなかったけれど、気が付いたら大学の最寄り駅にいて、そこから電車に乗って、夜遅くなる前には自分の部屋にいた。その夜私はべろべろのぐしゃぐしゃに泣いて、これまた気が付いたら眠ってしまっていた。翌日は月曜日で、朝からとんでもないことになってしまっていた。顔はむくむわ目は腫れるわ化粧は乗らないわ。それでも何とか普段どおりに会社に行き、何とかその月曜も、その後の一週間も無事に過ごした。暫くの間、一人になると唐突に彼のことを思い出して、時には泣いたりしたけれど、それもいつか収まって、私の周りは以前のように何事もない、平穏な毎日に戻った。

大学の近くに行く事は、それから二度となかった。やっぱり少し離れすぎていて、気楽に立ち寄れるところではなかったし、近くに親しい友人も暮らしていないし、特別に用もないし。それでも時々は思い出して、その頃の友達と連絡を取ったり、一緒に出かけたりもした。彼が死んだと言う話は、もうどこからも出なかった。私もそれを話したりしなかった。大学近くの古民家カフェを貸切にして死人と会っていた、なんて話したとしても、きっと誰も信じてはくれないだろうし、自分でも、あれが本当にあったことなのかどうか、解らなくなっていた。

それでも私は時々、彼を思い出した。もう泣く事はなかったけれど、忘れる事はなかった。もう一度、あの坂を登っていったら、本当にあの古民家カフェがあるのだろうか、もしかしたら、まだ彼はあそこにいて、行ったなら「何だよ、また来たのか」とか、言ってくれるんじゃないだろうか。そんなことを思いはしたけれど、二度とあの場所に行こうとはしなかった。

あの出来事が一体何だったのか、彼が遠い外国で本当に死んでしまったのか、真実は解らない。でも、それももう今更の事だ。私と彼はあの場所で、いつか出来なかった「さよなら」を、ちゃんとしてきたのだから。

 

うしろを見ないで のぼること

坂の途中 夕やみが おりたら ぼくに電話をしてよ

休まないでのぼること まだ半分だよ

 

【坂の途中・終】

 

 

 

 

 

自分ツッコミ・約一年ぶりのスガネタです……うひー!!()一年ぶりでスペサルというわけではないのですが、いつもより沢山書いて居ります、うへー(滝汗)。いや、いつもと同じ長さの予定だったんですけど……気が付いたらこんなことに。ついでにスガスガしくない加減もぶっちぎり。何このさわやかさん。さておき()このネタは仕事中ぼんやり「そう言えば大学の近くでもないけど遠くでもない駅から「極楽行き」っつーバスが出てたなぁ」と思い出し、いつだか車に乗っけて送っていった大学の先輩の下宿がすごい急斜面にあった事を思い出し、友人に連れて行ってもらった古民家カフェを思い出し、とんでもない海外旅行好きな別の先輩が卒業から一年暇になるかも知れない時に「そしたら世界一周してくる」と言っていたのを思い出し(テロに会ったりしてません念の為)出来上がったものです。まさに「つぎはぎ小説」ですが……こ、こんな終わりで良かったのかなー、と言うか、どこが「坂の途中」って言うか……いやEDに流れる感じで「坂の途中」ってことでお願いします〜トホ〜(こんなんばっか)しかし久し振りに短くぎゅって書こうと思うと上手く行きませんね。詰め込みすぎか……精進精進……トホ〜(もういい)

 

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Last updated: 2007/10/08

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