スガネタ。

 

 イメージ小説 「夏陰」

 

世間の盆休み期間に休暇が取れない、と電話の口で言うと、彼女はさも嫌そうな声で、何それ、信じらんない、と言った。世間は夏休みなのに、そんな時にまで働かなきゃいけないって、どういう会社、とか何とか文句を垂れたので、こちらも腹が立って、きつい口調で言い返してしまった。

「お前、だったら俺が無職になってもいいのか、ああ?」

蒸し暑い夜で、彼女にはもう三週間も会っていなくて、電話も週に二度か三度、という体たらくだった。お互いいらいらしていたのだと思う。怒鳴るように言うと彼女は怒った声で、じゃあもういいよ、お休み、とか何とか言って電話を切ってしまった。僕は僕で、何だよ、だから悪いって言ってるじゃないか、と一人ごちた。

愛していない訳じゃない。誰でもいい訳じゃない。彼女に、そばにいて欲しい。だからこそ、僕のことを解ってほしい。こちらの事情も汲んでほしい。だと言うのに、あの態度は何だろう。僕は僕で、電話の最中も、切れた後にも、ずっとそんなことを考えていた。

仕事なんだから仕方がないだろう、お互い子供でもあるまいし。生活のためには働かなきゃならないし、その為に犠牲にしなきゃならない事だってあるだろう。そりゃ、一ヶ月近くろくに会ってもいないのだ。不平はあるにしても、もう少し、物の言い方ってものがあるだろうに。こちらだって何も思っていない訳じゃないんだ。気持ちを汲んでくれたって、罰は当たらないだろう。

でももしかしたら、そう思うのは我侭なのだろうか?たった一人の相手だからこそ、僕を理解して、許してほしいのに。蒸し暑い夜中、僕は一人そんなことを思った。

そんな風にして、何日か、上手く眠れない日が続いた。彼女は相当怒ったらしく、電話もメールも、しばらく寄越さなかった。それならそれで、と僕の方も、彼女に全く連絡を入れなかった。すねた子供宜しく、大人なんだからちょっとは折れろ、などと思いながら。

久々の電話は、ある日の、会社の昼休みも終わる頃だった。自分の机で軽く昼寝をしていた僕は、久々の着信音に起こされ、何だよ人がせっかくいい気分で寝てる時に、とか思って、その電話に出た。

 

「もしもし、ねえ、月末とか、休み取れない?三日くらい……ああ、土日踏んでもいいけど」

「……何だよ、急に」

「いいから。こっちも急いでんの。どう?」

「……聞いてみる」

 

そんな簡単なやり取りで、彼女からの電話は切れた。何だったんだ一体、と思いながら、僕は昼休みが終わると、直属の上司に、月末の月曜か金曜、休暇もらえませんか、と尋ねていた。上司は少し驚いた顔をしたが、金曜なら何とか都合が付くだろう、盆も返上だし、と淡々とした声で言った。僕はその言葉に頭を下げて、就業後、彼女に電話をかけた。

 

盆が過ぎて、八月も終わろうというその金曜、僕は早朝から彼女にたたき起こされ、彼女の運転する車の助手席にいた。仕事は、もうその頃にはとっくに方が付いていて、僕以外の同僚も、取れなかった盆休みの代休を、交代で取っていた。上司もその頃には、本当に一日でいいのか、などというほどになっていたのだが、僕は僕で、そんなに休んでも仕方がないし、予定は十分こなせますから、と言って、特に休みを増やす事もしなかった。

運転席の彼女とは、約二ヶ月ぶりの何とやら、だったのだが、僕の方は眠いやら疲れているやら、で、ろくな感動もなく、半分寝ているような状況で、その助手席に沈んでいた。彼女は僕を連れ出したその当初から妙にハイテンションで、こちらの体調も気分もお構いなし、らしい。一人で勝手に何やら喋りながら、機嫌よく車を走らせていた。

「……なあ」

「ん、何?お腹でもすいた?」

「……どこ行くんだ?」

あんまりご機嫌でハンドル握ってると、事故るぞ、などと言える訳もなく(それで激昂されるともっと怖いことになりそうだからだ)僕はそんな風に尋ねた。彼女はニコニコで、ハンドルを握って前を向いたまま、

「えへへー……ナイショ」

言葉の後、また更に機嫌が良くなったらしい。

やたらにはしゃぐ彼女とは裏腹に、僕はぐったり疲れていた。休日の朝っぱらから、一体何をやっているんだろう。そんな気分にさえなった。

実際、僕は疲れていた。このくそ暑い時期に、殆ど休みもなく毎日働いていたのだ。疲れていない方がおかしい。仕事は一段落して、それなりに落ち着きはしたものの、毎晩のような熱帯夜で、ぐっすり熟睡したという記憶も余りない。こんなんで、良く働いてたよな、俺。そんな風に自分を褒めてやりたくなる。そんな状況だと言うのに、こんな風に連れ出されて、何やってんだ、とさえ思う。こんなことなら、一日寝ているほうが良かったかもしれない。休みをとっても、これでは全く体が休まらない。思いながらちらりと、僕は彼女を見遣った。

彼女はカーステレオから流れる歌に合わせて、鼻歌交じりに車を走らせ続けていた。時々、お腹すかない、とか、眠いなら寝てていいよ、とか聞こえたが、僕はそれにも生返事だった。その度に彼女は小さく、やっぱり楽しそうに笑い、何よその返事、とか言いながらも上機嫌だった。まあ、機嫌が悪くないなら、それでいいか。僕は思って、やっぱりシートに沈んでいた。どれほど走ったか解らない頃合に、海が見えるよ、と言われた気がするが、それにさえも適当な返事しか返せなかった。

 

「ほら、着いたぞ。いい加減起きろよ」

「……あ?」

気が付いたら、僕は彼女に揺さぶられて目を覚ましたところだった。どうやら眠っていたらしい。あまり大きくない乗用車のシートで眠っていたせいで、体のあちこちが痛い。そして、体中が汗ばんで、べたついて気持ちが悪かった。ぼんやり目を開ける頃、彼女は運転席から軽やかに車外に出て、また嬉しそうな声で言った。

「気持ちいーい。やっぱり夏は海だよねぇ」

「……海?」

「ほら、あんたも出て来たら?潮の香りがするよ」

窓からひょっこり顔を出すと、そこには人気もまばらな海辺が見えた。風は、少々強い。盆過ぎの海といえば、大体そんなところだろう。波も高めで、クラゲも出る。僕は車外へ出て、大きく伸びをして、してから、

「お前、この時期に海か?」

「そうだよ?すいてたし、安かったし」

「泳ぐ気か?」

「うん……あ、水着は、去年と一緒だよ?」

「そうじゃなくてな」

別にそんなところに期待はしていないのだが。思いながら、僕は言った。

「盆過ぎの海に入る気か?」

「え?ダメ?」

「クラゲに刺されるぞ」

その一言で彼女は僕に振り返った。ちょっと情けなく見えたその顔に、僕は言った。

「だから安いんだよ。知らなかったのか?」

「えーっ、で、でも、まだ夏だよ?残暑だけど、暑いよ?」

「残暑だから、波も高めだけどな」

何だこいつ、そんなことも知らなかったのか。思いながら、僕は目の前でうろたえる彼女をしばらく見ていた。彼女はしばらくその場で狼狽して、それから、さも残念そうな顔になって、今一度海を見遣る。

「……ちぇーっ。せっかく気合入れて、早起きして来たのに」

彼女は不貞腐れて言い、走らせてきた車に寄りかかる。僕はそれを見て、

「ま、リサーチ不足ってやつだよな」

「そんなこと言ったって、そっちがお盆にちゃんと休んでくれれば、こんなことにならなかったのに……」

「しょうがないだろ。こっちはこっちで忙しかったんだから」

「……解ってるよ、そんなの」

そうは言いながらも、彼女の声は何も納得していないかの様な、残念そうな声だった。しばらく彼女はそのまま、無言で海を見ていた。そしてもう一度、ふてた顔で言った。

「ちぇーっ。折角気合入れて、色々準備してきたのに」

「ま、そんなこともあるよな」

その様子に、僕は少し笑った。膨れた彼女はそんな僕を見て、無言のまま、また更にふてた顔になった。そして、

「しょうがないなあ……海は諦めて、次、行くか!」

「……は?」

そう言って再び車に乗り込んだ。僕は訳が解らず、車へと振り返る。

「ほら、早く乗んなさいよ。一日はまだこれからよ?」

運転席に乗り込んだ彼女は、つい先ほどのふてた顔とは裏腹に、またニコニコと笑っていた。こいつとは、割と長い付き合いだと思うのだが、こういうところが未だに良く解らない。思いながら、僕は再びその助手席に乗り込んだ。そして、

「で、今度はどこに行くんだ?」

「うーん、そうだなぁ……じゃあ、ここ!」

いつの間にか、彼女の手にはガイドブックが握られていた。覗き込んで、僕は首をかしげた。

「……バナナワニ園?」

「そ、バナナワニ園。れっつらごー!!

言って、彼女は再び車のエンジンをかけた。僕は眉をしかめて、またこんな風に言った。

「……このくそ暑いのに、温室か?」

 

それから僕は、れっつらごー、とか何とか言った彼女に、まずはバナナワニ園に連れて行かれた。この辺りは良質の温泉もあるとかで、その地熱を利用しているらしい。バナナやワニ以外の熱帯植物や動物(主に鳥だった)を見た後にはまた車に乗せられ、今度は水族館に連れて行かれた。

水族館では、メインイベントである、イルカだかアシカだかのショーは終わって、他の入場者達は既に帰宅モードに入っていて、館内は微妙に空いていて、ごみごみとした夏休みの印象は薄めだった。イルカのショーが見られなくて残念、とか何とか彼女は文句を垂れてはいたが、それでも十分楽しそうで、様々な魚が入れられた大きなアクリルの水槽の前ではしゃぎ、小分けされた軟体動物の水槽の前で奇声を上げ、珍しい熱帯の甲殻類の前で、コレって食べられるのかなあ、とか何とかぼやき、という具合だった。

昔からだが、彼女の喜ぶ様子は人よりも大袈裟だった。僕はそんな彼女に時折疲れたが、しばしばそれに癒された。幾つになっても少女、というより子供のままで、一体いつになったらこちらの手を焼かせなくなってくれるものか、という心配の気持ちと、いつまででもこうして、僕の隣ではしゃいでいてくれたら、という思いで、僕はいつもそれを見ていた。ねえねえ、と言いながら、彼女はいつもの様に僕を手招きし、僕は少し疲れて、何だよ、という具合に、いつもの様に聞き返した。

「お刺身とか、食べたくない?」

「お前……このシチュエーションでその科白かよ」

回遊魚が泳ぐ大きな筒状の水槽の前で、真顔で言う彼女に、呆れて僕は言い返した。

 

閉館まで水族館にいて、それから僕はまた車に乗せられた。彼女は運転席で、いつものようにご機嫌で、僕が話し半分以下ほども聞いていないと言うのに、やたらに喋り続けていた。僕は僕で、今日までにたまった疲れと、今日新たにたまった疲れ(実際、彼女といると働いている時の軽く三倍は疲れる)で、いつの間にか眠ってしまっていた。いつからどれくらい寝ていたのか解らないが、起きたのは、車が止まって、そのドアの派手な開閉音が聞こえたからだ。何だ、次の目的地か、と思って僕が目を開けると、彼女はもう車の外にいて、全く疲れていない声で、またやたらと嬉しそうに言った。

「ほら、着いたよ。降りて降りて」

「……今度は何だよ?」

眠い目をこすって車外を見遣ると、夕暮れで薄闇に包まれた、あまり大きくない板張りの建物が見えた。コテージ、というヤツか。思っていると、彼女は言った。

「本日のお宿」

「……宿?」

「ほら、降りて降りて。ふかふかのベッドと貸切の温泉付きだよ」

言いながら、彼女は後部座席に乗せてあった荷物を下ろし始める。僕はまだ助手席にいて、宿ねえ、などと思いながら、そのあまり大きくないコテージを眺めていた。

 

彼女の手配したその宿、というのは、風呂に天然温泉を引き入れた、見たままのコテージだった。運営しているのはこの辺りのリゾートホテルらしいのだが、食事は自炊で、という、近頃流行のタイプのものだ。

「ちょっとお手ごろだったから、奮発しちゃったー」

言葉の後、えへ、と言って彼女は笑った。僕は自分の荷物もろくに持たず(気がついたら荷下ろしは終わっていた)彼女に引き入れられるまま、そのコテージに足を踏み入れていた。一階にキッチンとミニリビングとバスルーム、二階にベッドルームが二部屋、という間取りの、個人の家ほどの規模の建物には、当然ながら僕ら以外の人気はなく、僕はそのリビングで、室内を眺め回していた。

「今からご飯作るから。お風呂でも入ってなよ」

彼女はというと、いつの間に買い揃えたのか、大きな紙袋一杯の食材を抱えてキッチンに入り、何やら大仰な事を始めた、らしかった。゙くはそんな彼女の背中を見ながら、何か言いかけて、何となくそれをやめてしまった。鼻歌交じりで彼女は料理を始め、僕は無言でしばらくそれを見ていたが、何も言わないまま、ふらりとコテージのベランダに出た。

最初に連れてこられた海辺とは違って、そこは完全に高原だった。その辺りは急峻な山が海に迫っている地形らしい。いわゆるリアス式海岸というやつも近くにあるようで、近辺では観光地として有名なところだった。温泉つきコテージとは、また奮発しまくりだよな、幾ら位するんだ、と、僕は何となくそんなことを思った。折角連れて来てくれたというのに、けちというか現実的すぎる、と言うか。自分のことをそんな風に思って、僕は少しげんなりした。こういう時は素直に感謝すればいいだけなのに。とはいえ、彼女といると、それですまないことは多々ある。ありすぎる。知り合って数年が経っているが、その辺りはまったく代わっていない。というより、時経るごとに僕の心配や不安は、大きくなるばかりだ。もっと大人になって、落ち着いて、あまりヒヤヒヤさせないで欲しい。見ていないと、いや、見ていてもかなりどきどきする。

それでも、そんな彼女と、着かず離れず程度ではあるかもしれないが、続いているのはどうしてだろう。ゆるゆると吹く、夕暮れの、ひんやりした風に撫でられながら、僕は何気にそんなことを思った。

付き合い始めの頃は、こんなに不安にさせられるとは思っていなかった。無邪気に笑う様子が可愛いと思って、外見もまあまあ好みだったし、彼女がやや奇妙な行動に出ても、変わった人だな、とか、面白いヤツだな、とか、そんな風にしか思っていなかった。そのうちに、彼女が、あまり学習能力に秀でていない事や、素で「子供」なのだということが解ると、今度はやたらと心配になった。こいつはこんな風で、大丈夫なのか。職場で一人、浮いていないか。いつ首を切られるか、とかそんな風になってはいないだろうか。

けれど彼女はそんな僕の気持ちなどはお構いなしで、いつでもけろっとした顔で、逆に僕を心配していた。あんたは働きすぎだから、と言って叱られたり、そんなに頑張らなくていい、と言って慰められたり。彼女に言わせると、僕のような人間が、真面目に会社に勤めていることの方が、ずっと不思議だという。素直じゃないしひねくれているし、世間を斜めからしか見ていないし、そんな人間が、会社組織みたいなところで、よく持っている、と時々言われる。そして、そんな風だと人より疲れるでしょう、とも。

人より疲れているかどうかは解らないが、彼女の言うこともあながち間違いではなかった。それなりにとうの立った男が、素直でいい子である方がおかしいのだが、言われるように僕はひねくれていたし、意固地なところがあったし、何より負けず嫌いだった。会社だろうがそれ以外だろうが、鼻で笑われる、というのが大嫌いで、お陰で出来そうもないことを振られて、やらされて、必要以上に消耗する事がよくあった。そういうところが子供だ、と彼女に言われることも度々だ。仕方ないだろう、そういう性分なんだ、と言い返すと、だから心配なんでしょ、と、呆れ顔で彼女は言った。

こんな自分と、どうして彼女は一緒にいるのだろう、と思う。彼女以上に、僕という人間は面倒くさいのかも知れない。扱い難くて、一緒にいて、気分のいいことなんか、ないのかもしれない。

この休みをとる前でも、取れることになったその後にも、僕の態度はどちらかというと素っ気無かった。疲れていた、のはあるけれど、きっとそれは言い訳にはならない。何かしてもらっても、ろくに反応もできない。よっぽどの物好きでもなければ、そんな相手を構っても、楽しくも何ともないだろうに。

コテージの玄関口の階段に腰掛けて、遠くを眺めながら、そんなことを思って、僕は凹んだ。俺って一体何だろう。何やってんだろう。本当は、こんな風に連れ出してくれて、嬉しいはずなのに、文句しか言えない。こんなつまらない男に、なんであいつはこんな風に良くしてくれるんだろう。側にいてくれるんだろう。思って吐き出した溜め息は、やたらに重くて、僕は更に凹んだ。

「ねぇ、ごはんできたよー」

背後のドアが開いたのは、その時だった。僕は物憂げに顔を上げて、エプロン姿でやっぱり笑っている彼女を一瞥する。彼女はそんな僕を見ると、その目をしばたたかせ、

「何?具合でも、悪くなった?」

「……そうじゃないけど」

言葉の後、僕は大きく溜め息をついた。彼女は目を丸くさせたまま、座り込んだ僕の隣にしゃがみこんで、

「ごはん、食べる?後にする?」

「……そのうち食うけど……」

「……けど?」

言葉が続かず、僕はただ嘆息した。彼女の顔が、まともに見られない。目を丸くさせた彼女は、しばらくそのままでいた。僕の言葉を待っている、らしい。僕はもう一度溜め息をついて、それから、

「……何か、悪いっツーか……悪かったな」

「悪いって、何が?」

言葉に、問い返されて、また僕は黙り込む。彼女は、また黙ったまま、気が付くと僕の隣に腰掛けていた。ちらりとその顔を見て、やっぱりまともには見られなくて、僕はまた、息を吐く。

「……疲れた?具合、悪い?ごめんね、あたし……」

不安気な声が聞こえて、僕は眉をしかめた。違う、そうじゃない。お前は何にも悪くない。思っていると、何だか泣きたくなってきた。僕はその気持ちを自分の中で押しつぶすように、自分の膝に額をつけるほどに屈みこんだ。

「……そうじゃないよ」

それでも、言葉を紡いだ声は、何とも情けなかった。彼女は不安気に、僕の顔を覗き込んでいる。そんな顔をさせる自分が、情けなかった。こんな男に、何でこいつは、そんなことばかりが頭を過ぎる。

「……中、入ろう。もう暗くなってきたし……寒くなりそう……」

となりで、彼女が言う。僕は答えず、何だかあやふやな言葉で、彼女に問いかける。

「……なあ、お前、さ」

「何?」

「休み取れなくて、あの時、怒ってただろ……」

「ああ……うん。でもほら、ちゃんと埋め合わせしてくれたでしょ?すんだことだし、もう気にしてないよ?」

慌てた様子で彼女が答えた。僕はちらりとそれを見て、けれどそれ以上、また何も言えなくなってしまった。彼女はまた少し慌てて、

「いやだから、本当に、気にしてないよ?っていうか、今日だって色々付き合ってくれたでしょ?車の中で、結構寝てたけど……」

「そうじゃなくて……」

何が言いたいのか、僕には解らなくなっていた。頭の中がごちゃごちゃして、一体どの思いを伝えたらいいのか、どれが相応しい言葉なのか、見当がつかなかった。感謝している、とか、ありがとう、とか、そんな風に言っただけで、この気持ちが伝わるのか、落ち着くのか、それでいいのか、それさえ良く解らなかった。彼女は黙ったままの僕を見て、ますます不安そうな顔になった。そして、泣きそうな目になって、

「もしかして……って言うか、迷惑だった?こういうの」

「……だから、そうじゃない……」

どうしてかうろたえ始めた彼女を見ても、僕には何も言えなかった。そうじゃないと言っているのに、彼女はその場でおろおろし始め、やや混乱気味で、

「ごめっ……ごめんね?いいよ解ったから。明日、送ってくから。本当はもっとゆっくりって思ってたけど、迷惑なら、っていうか、自分のうちでゆっくりした方が、きっと休まるし……」

「そんなこと、思ってないよ」

漸く、やっとのことで僕はそれだけ言って、彼女に顔を向けた。彼女のうろたえた顔に、ほんの少し、安堵が戻る。ほっと息をつきかけた彼女は、だというのにぶるぶると顔を横に振って、小さく、ダメダメ、と声を漏らす。何がダメなんだろうと思っていると、彼女は勝手に喋り始めた。

「あたし、鈍いから。あんたが疲れてるのも、解ってたつもりだけど……あたしとしては、あんたがずーっと忙しかったから、パーッと遊んで、美味しいもの食べて、温泉につかったりしたら、いいのかなーって思ったんだけど……そういうので余計に疲れちゃうこともあるもんね。だから……」

そう言って、彼女はその両手で、自分の頬をぱちんとたたいた。そしてその手で顔を掴んだまま、

「今から、ちゃんとそっちの要望とか、聞くから。何言われても、その通りにするから」

「……何だよ、それ」

展開にいまいち着いていけなくなって、僕は問い返していた。彼女はぎゅっと目を瞑って、

「だから!どうしたいのか言っていいから。煩いから構うな、とか、そういうのも含めて」

「……そんなこと、思ってないよ」

僕が言うと、彼女はその目を恐る恐る開いた。僕は、どうしたものかと思いながら、そんな彼女に向って、重ねて言った。

「そんなこと……思ってない……つか、むしろ感謝してる」

「ほ……本当?」

僅かに、彼女の顔が明るくなる。それを見て、僕は少しだけ笑ってしまった。けれどすぐに、何だかその反応さえも申し訳なく思って、彼女から視線をそらす。

「……何?」

心なしか明るくなったはずの彼女の声が、また暗くなる。僕は軽く眉をしかめて、大きく息をついて、情けない声で言った。

「何か……俺の方がよっぽど、お前に迷惑かけてるなーって……」

「そっ、そんなことないよ!そりゃ、あんた結構面倒くさいし、あたしも気が短いから、すぐ喧嘩になったりするけど!」

むきになったように彼女は即答した。ああ、やっぱり俺、面倒くさいんだ。思って、僕はまた少し凹んだ。彼女は彼女で自分の失言に、言ってしまってから気がついたらしく、慌てて、

「ああっ、でもね!あたしそういうとこ、結構好きだし!何だかんだ言ってほら、あたしの思い付きにも付き合ってくれるし!ほ、本当は優しいでしょ?っ……て、別に、いつも優しくないとか、そう言う事じゃなくて……あの……」

慌てふためく彼女を見て、僕はまた少し笑った。彼女は笑ったり凹んだりする僕を見て、困っているらしい。あの、とか、ええと、とか言いながら、目の前で固まっていた。僕はその様子にまた少し笑って、それから、溜め息と一緒に言った。

「……ありがとう」

「っ……え?」

「だから、ありがとう、って言ったんだよ」

「えっ、えっと……ど、どういたしまして……で、良かったっけ……」

唐突な僕の言葉に、彼女はまた混乱していた。僕は少し笑って、それから、何だか急に楽な気分になって、そこから立ち上がった。驚いた顔で、彼女は僕を見上げ、

「……え?な、何……?」

「メシ。食わせてくれるんだろ?」

座ったままの彼女が、僕を見上げている。見下ろして、僕は手を差し伸べた。少し笑うと、彼女の、不安気で混乱していた表情が消える。何だか少し腑に落ちないけれど、まあいいか、とでも言いたげな、少し不思議な表情で、彼女は僕の手をとった。そして、

「シーフードのリゾット作ったの。さっき海老見てたら、ムショーに食べたくなって」

「さっきって、水族館のアレか?」

「うんそう」

手を握って、僕らは笑っていた。僕はそのまま、

「お前って本当に、変なヤツだよな」

「何よ、いいでしょ?食べたかったんだもん……市場でも結構お買い得だったし」

「市場?そんなとこ、いつ寄ったんだ?」

笑いながら、僕は尋ねていた。ついさっきまでの、泣きたくなるような、情けない気持ちはそこになかった。変わりに、言葉にしようのない、暖かで嬉しい気持ちが、胸に満ちていた。彼女は少し笑って、

「だってあんた、寝てたじゃない。起こそうと思ったけど……」

「このくそ暑いのに車に俺を放置か?お前。脱水症状でも起こしてたら、どうする気だ?」

「そんなこと言ってたら買い物できないでしょ?ぐうぐうだったんだし」

減らず愚痴に言い返されても、僕は笑っていた。彼女は少し膨れて、何よ、と言ったけれど、その後いつものように、少し幼い顔で笑った。

「じゃあ飯食って、ゆっくり風呂に浸かって……」

「あ、明日はどこ行こうか?あんまり疲れてるならアレだけど、近くに鍾乳洞とか、あるんだって」

「……ゆっくりすりゃいいだろ?ここで」

さっきは「疲れているなら帰ろう」と言った口で、やたらにはしゃいでそう提案する彼女を、また僕は笑って見ていた。彼女はそれにまた少し膨れたが、まあいいか、と小さく言うと、またさっきの笑顔に戻った。握ったままの手を、彼女が握り返す。僕はその手を見て、それから、

「……なあ」

「ん?何?」

「……いや、何つーか……」

この手を、ずっと離さないでいられたらと、願ってもいいのだろうか。何気に僕は思った。そう口に出して言ったら、彼女はどんな顔をするだろうか。またさっきのように笑ってくれるだろうか。それとも、意地悪く、現実にはそれは無理だ、と言われてしまうだろうか。思っていると、彼女がうふふ、と笑った。顔を見ると、

「久し振りだね」

「あ?」

「手、つなぐの。あんまり久々すぎて……ちょっと照れる、かな」

そう言って彼女は僕から目をそらす。僕はそんな彼女を少しの間ぼんやり見詰めて、それから、

「まあ……アリなんじゃないの?久々なんだし」

そんな風に笑って言い返した。

 

ねえ もしかなうなら どんな願いをひとつ選ぶと思う?

ずっと思いめぐらしていたら 足下までもう夜が来ていた。

 

 

 

自分ツッコミ・かなり遅くなりましたが!!スガシカオさん、43歳のお誕生日、おめで……たいのかなあ(待て)という訳で「夏陰」をお送りしてみました……何かリテイクとか途中で書けなくなったりとかヒマなかったりとかで、書いてない日が沢山間に入った一本になってしまいました……そしてオチてない……何か「このままいくとスガネタ。がプロポーズ短篇化するかも」という危惧だったので無理矢のその手前でぶった切ってしまいましたが……大体「夏陰」選んだ時点でだな(もういい)……さておきさておき。今年の夏休みはばっちり自宅待機の私です。海には行かないし山には……そう言えば「夏陰」自体は南国リゾートで作られたそうでその話を聞いた時「なんてスガスガしくない」と思ったのは私だけでしょうか……まあでも内容はメガネヘタレっぽくて(もういい)スキーですよ、ええ。メガネヘタレっぽくて。とりあえずスガ誕(略しすぎ)おめでとー!!そしてありがとー!!でした。次はそろそろ「スガスガしい」のをやりたいですな。何書こうかな〜、てかいつになるかな〜(滝汗)

 

 

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Last updated: 2009/08/10

 

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