スガネタ。

 

   イメージ小説「310

 

引っ越す事になったので、女と暮らすことにした。それ以外にその女と暮らす理由はないと思っていた。

 

勤めて六年ほどの会社は、景気が悪いと言うのにそれなりに仕事を回していた。とある大手企業の下請けの下請けの、その取引先、という、何とか日本経済の一角に食い込んで、小さな歯車のような立場を失わずにいるその会社での、僕の立場は下から二番目で、一番下と何が違うのかと聞かれたら「勤続年数」としか答えようがない。一番下の奴等よりも勤続年数が多いから、一番下ではなくて、勤続年数が多いから、それだけの給料をもらっている。働きは、と言われれば、人並みかそれ以下か。それ以上だ、と胸を張って言えるほどでないのは確かだ。ただ、欠勤を出来る限りせずその場所に日参して、何かしら片付けている。とりあえず若者らしいが(二十代だから)仕事に対して夢や希望、というものを感じたことは、実は入社以来一度もない。毎日、ほとんど代わり映えのないような作業をこなし、時には客先に叱られ、上司に走らされ、下を上手く使い、そんな風に日々は過ぎていく。自分では特別できるともできないとも思わないし、真面目とも不真面目とも思っていない。大体のところ、労働と言うか就業と言うか、そういうものは「時間を売る」ことだと考えているような人間だ。意欲と言うほどの意欲はない。飯を食うのに働かなきゃならないから、働いている。そういう感じだ。だからと言って就労が嫌いというわけではない。しかしやはり同じ様に、好きでもない。だから休みたいと思う時もあるし、長期の休暇に暇をもてあますこともある。そんな人間はどこにでもいくらでもいるだろう。中庸だとか平凡だとか、そういわれる類のサラリーマンだ。今のところ、特別な大金が必要でもなく、しかし全くの無収入でもやっていけない、だから働いている。他にすることもないし。他人に特別褒められもしなければけなされもしない。見習われもしなければ反面教師にもならない。ごくごく、僕は平凡な男だ。子供の頃から今までがそうだった様に、きっとこの先の人生も、特別何事もなく過ぎていくのだろう。そしてそれに、特別な感慨も不満もない。現状に満足しているかと言われると困るが、不満も特にない。幸福だとは感じないが、不幸でもない。けれど叶うなら、と思うことが一つだけある。「現状維持」がそれだった。

 

「は……□◆支社に、ですか」

引っ越す事になった理由は、転勤だった。支社、と言っても組織自体が小さなところだから、その一つきりしかないのだが、僕はそちらに転属させられる事になった、らしかった。まだ内々の話なんだが、と、その話を僕に持ってきたのは、その小さな会社で人事のようなことも任されている課長だった。昼休み少し前の喫煙ブースに連れて行かれた僕は、こそこそと、何がやましいのか解らないが、そんな雰囲気をかもしている課長の言葉にも、少し驚いただけだった。はあそうですか、転勤ですか。腹の中でもそんな気分で、僕はどうしてかまだこそこそしている課長の続ける言葉に耳を傾けた。

「実は支社の方で定年退職者が何人か出てね。新しい人間をとるのもそうなんだが、それだと流石に追いつかないところがあるもんだから」

世に言う「2007年問題」というヤツらしい。そんなことを言ったら本社でも、同じ問題が発生するのだが、そこはそれ、小さいと言いつつも本社だ。その点のカバーが出来る程度に人手は足りているらしい。目をぱちくりさせながら、特別何事かを思うこともなく、僕はその話を聞いていた。

「それで、君もその候補に選ばれていると言うか、その……」

「僕の方は別に構いませんが」

支社、本社、と言っても、小さな会社だ。所在地にしても、二つとなりの市で、地の果てに飛ばされる、というわけでもない。自動車で移動しても二時間弱、という距離だし、仕事の内容が大幅に変わりでもしなければ、さしたる問題はない。

大体、僕は会社にも仕事にも、あまり固執していなかった。この会社のこの職種で定年までやっていこう、というような感覚をほとんど持っていない。今のところはやめる理由もないし、特別折り合いがつかない仕事でもないからここに勤めてはいるが、何か大きなアクシデントがあって、何だこんな仕事、と思ったなら、その時はわからない。すっぱりやめても構わないし、その時は他に仕事を探すだけのことだ。だから転勤、要は仕事場が変わると言うことになるのだが、その事にも特別な感覚はなかった。確かにそうなると一から人間関係の作り直しだとか、そういう懸念もあるのだが、行き先は外国でもなければ余所の会社でもない。支社なのだ。そしてその支社のことも、全く知らないわけでもない。仕事の都合で何度も行き来しているし、あちらに知った顔がないわけでもない。だから職場に関しては、それほどの不満はなかった。

「あのでも、そうすると、あっちに通うわけですよね」

僕は少し思案して、目の前の課長にそんな風に言ってみた。課長はちょっと不思議そうな顔で、それでも、僕の機嫌を特別に損ねてはいない思ったのか、笑いながら、

「まあ、支社の所属になるから、そうだな」

「……ちょっと通勤が、大変っすね」

僕の懸念はそれだけだった。と言っても、その懸念も大したことでもなかった。会社命令の転勤である。住まいに困ると口に出して言ったなら、それなりに会社の方だって動くだろう。最低でも、通勤費は全額支給してくれるはずだ。何分小さなところだから、あまり期待もできないが。

「できたら近くに住めないですかね」

僕はすでにその転勤を了承したような、そんな気分で、そんな口調で言ってみた。課長はどこかほっとしたような顔になると、浮かべた笑顔を大きく崩すこともなく、

「ああ、部屋か。そうだな……総務と相談してみるよ。引越し代くらいは」

そしてそう言うと自分の腕にはめた安っぽい腕時計を見、じゃ、決まったら再た呼ぶから、とかなんとか言ってその喫煙ブースから歩き去っていった。僕はそれを見送ると、何となくその場で小さく呟いた。

「引越し代くらいかよ」

とは言え、その引越し代もばかにならない世の中だ。そして世知辛い世の中の、小さな会社組織の一員である。部屋代全部出してくれるような、そんな会社でないことは解っているし、そこに大きな期待は、寄せるだけ無駄というものだ。まあでも、と僕はそこで考えを改めた。引越し代くらいは出るらしい。今住んでいる部屋にも特別愛着もないし、たまには引っ越しでもして、自分の周りの景色をがらっと変えてみるのも悪くはないだろう。僕はそんなことを何となく思った。

僕のこういうところを見て「前向き」だと評する友人が数人いる。世の中ではこういうことが前向きなのか、と物事に大した興味がない僕は思うのだが、それでも後ろ向きと言われるよりはいいだろうと、やっぱりそんな具合に考えている。大体、興味がないのだ。生きていくことや、時間をつぶすための趣味や、とにかくそういうことに。意識しているわけでもないのに時折「クール」だと言われるのは、そのためなのかもしれない。

二日後、案の定辞令は降りた。引っ越すようなことを臭わせたお陰で、休みも優先的に取らせてくれるとかくれないとか、そういう話も出た。同僚たちからは送別会をどうこうすると言う話も出て、大袈裟だと思いつつ、それでもタダで飲み食いが出来ればそれに越したこともないと思って、僕はそれにも適当に返答した。送別も何も、車で二時間の支社に移動するだけなんだが、と思わなくもなかったし口にもしたが、回りにしてみれば、多分何か肴に飲みたいのだ。それ以上のことは言わなかった。

周りが騒ぐ中、僕は一人引っ越す先のことを少し考えた。次の部屋は今より広い部屋に、一人ではなくて、もう一人くらい暮らせる、そんな部屋にしようと思っていた。それは「引越し」という単語が頭に浮かんだときから漠然と考えていたことで、思いついた夜にはそのもう一人と連絡も取っていた。こういうとき普通はどういうのかは知らないし、何を思ってそうするのかもよく解らない。ただ僕は彼女にごく簡単に説明した。転勤することになったから、一緒に住もうか、と。

 

「一緒に?何それ、どういうこと?」

彼女は、一応世に言う「恋人」なのだろうか。そのことにさえ僕は執着が薄かった。恋人というよりすでに腐れ縁、と言えそうなその相手は、そろそろ三十にも手が届こうと言うのにフリーターだった。特別したいこともないし、かと言って真面目に働くのも性に合わないから、できるだけ生活に追われていたほうがいい、というのが持論らしく、その年になるまで定職についたことは一度もなかった。知り合ったのがどこで、どういういきさつでそういう間柄になったのかは、ちょっと思い出せない。ただ、気が合うと言うほどでもなく、邪魔にもならず、下らない話をしてお互い適当にを時間をつぶせる、そんな関係だ。

その話をしたのは居酒屋のカウンターで、彼女は何杯目の焼酎で酔っ払っていた。僕は同じ様に飲んでいたのだが、アルコールにもあまり振り回されない体質なので、いつものようにその彼女にそれを告げて、どうもこうもない、と付け加えた。

「今より広いところを探すから、一緒に住むぞ」

「だから何それ。どうしてそうなるの?

「さあ」

僕の言葉に彼女は声を立ててケタケタと笑った。笑ってやっぱり、何それ、と付け加えたが、それでも僕の申し出を断ることもなく、ちゃんとしたことが決まったら連絡してよ、こっちにも色々あるんだからね、と、また笑って言った。それは勿論「了承した」と言う答えだったし、僕はそうでなくても彼女と一緒に暮らすことに、自分の中では勝手にしてしまっていた。何かを特別に考えていたわけではない。一緒にいると便利だとか都合がいいとか、いつでも会えるとか、そういうことは全く思わなかった。ただ、いないということだけは思いつかなかったし考えもしなかった。常に近くにいる、そういう当たり前を手放す気がなかったことは事実だ。だから僕は彼女を連れて行くことにした。養えるとか、養いたいとか、そういう意識もなかった。

引越しは割合スムーズにいった。男の一人暮らしの荷物は、何ともこじんまりとしていた。物事だけでなく、物質であるものにも執着や興味ががあまりないので、部屋には家具らしい家具もあまりなかった。テレビなどの電化製品と身の回りのもの、僕の荷物はそんな程度だった。当然荷造りも、仕事を休んでまでするほどもなく、ダンボールも大して使わない、そんな感覚だった。

一方の彼女も、何と言っても裕福ではない。荷物も当然質素で、やはり僕と大差ないような量で、しかも暇は僕より格段にあったため、僕よりももっと手際よくその支度をして、あろう事か新しい部屋に先に住み始めてしまっていた。と言っても二日程度のことだったが。何でも家賃やら光熱費の都合で出来るだけ早く移動したかった、というのが本音らしい。しかも彼女は引越しに当たって、それまでしていた二つのアルバイトを一気にやめてしまった。引っ越すから、という理由で。当然越してしまえば、そのアルバイトを続けることは困難になるだろう。引っ越した先は前の住処、要するに僕の会社から遠くない距離から、僕の転勤した支社に割合近い場所にあるのだ。通勤時間もばかにならない。どうせアルバイトだし、時給幾らの仕事だったら見つかるのも早いわよ、と、彼女はからからと笑って言った。

「でも、ちょっとの間は養ってもらうかもねー」

その言葉にも、僕は大して動揺もしなかった。ああそうか、そうなるのか、その程度の認識で、それを嫌だとも迷惑だとも、嬉しいとも思わなかった。収入がない相手に直接金銭を渡す気はなかったが、一緒の部屋に住んでいるのだ。腹が減ったら部屋にあるものを食べればいいし、水が飲みたくなったら水道のパッキンをひねればいい。そういう感覚だった。そしてそうされても、やっぱり腹も立たなかった。彼女も笑って平気そうな顔でそうしてはいたものの、いつまでもだらだらとそんな暮らしをしていられる性分でもなく、すぐにもアルバイト情報誌を片手に歩き回り始めて、その五日後には仕事を決めて来た。変に心配することもない相手だった。

 

そうやって僕らは二人で暮らし始めた。と言っても、仕事も生活も、実はそれぞれにあってばらばらだ。僕が部屋に帰っても彼女がいないことはざらで、僕が休みでも、彼女が働いていることはよくあった。いわゆる週休二日の生活を送る会社員の僕と、アルバイトで時間を自由に組むことができる彼女とではその辺りの足並みも、そろいにくいといえばそうだった。運が良かったのは揃って夜勤というものがなかったことくらいだろうか。

僕の仕事は、遅くなればとことん遅くなる類のものだったが、そんなことは滅多になく、彼女の方は朝の時間が僕より二時間ほど遅く、夜はまちまち、という感じで、夜中から明け方、普通に人が眠る時間帯だけは同じ部屋にいられた。厳密に言えば夜眠る前から僕の出勤時間まで。休みが重なることは滅多になかったが、その辺りを調整することも出来たし、それ以前にそういうことに僕も彼女もこだわらなかった。どうして一緒に住むことにしたのかさえ、よく解らないくらいだった。

別に、帰宅したときに「お帰り」と言って欲しいだとか、毎日食事の支度をして欲しいだとか、家のことをして欲しいとは思わないし、特別にさせてもいない。朝食は「面倒だから」「昨夜の残り」で一緒に作るらしいが、夕食は僕が支度するほうが多かったし、風呂の支度も然りだ。帰宅時間が固定されている僕が、同じ時間に何となくすることになっていた。掃除は、お互い一人で暇なときに、相手の陣地を侵さない程度にしていた。唯一の例外は洗濯だった。彼女はどうしてもこまめにしたかったらしく、それだけは任せざるを得ない感じで、おこぼれに預かる形で僕はそれをしてもらっていた。恐らくこれは「世話になっている」とか「やらせている」範疇ではないだろう。

だから僕らはほぼ対等だった。家賃も食費も光熱費も、稼ぎと関係なく折半だったし、どちらかに過剰な負担かけているつもりも、かけられている気もなかった。だから、と言うのは変だが、二人で暮らし始めて増えたものが一つあった。けんかだ。

彼女も僕も、実にわがままで自分勝手なところがあり、しかも意思が強い、というか意固地なところがあった。関係ないし関係するつもりもないことに口を出されたり、或いは出したりして、僕たちは以前よりも頭をつき合わせている分、良くけんかをした。いや、その星だけではないかもしれない。仕事をして帰宅すれば疲れていて、時にはいやなこともあって、ストレスもないわけではない。そういうときに口を利く相手がいれば、多少はまぎれる。しかし、お互いにその場合、相手を思いやる余裕があればいいが、ない場合にはどうしたって衝突は起こった。下らない些細なことで怒鳴ったり揚げ足を取ったり取られたり、そのことに激昂したりさせられたり。実に下らないことには焼きそばをおかずに白いメシが食べられるかとか、そんなことでさえけんかの種になった。後日その辺りは折中案が出て(要するに「焼きそば定食」の存在を示唆して)何とか丸く収まったのだが。

その実に下らないけんかの繰り返しで、勿論僕の彼女も、幾度となく二人で暮らすというのはどうなのかと考えたり口にしたりしたのだが、僕は僕で彼女がいないと言うことを考えられなかったし、彼女は彼女で行き場が他にあるわけでもなく、ここも居心地が悪いわけでもないらしく、別れる、という結果には至っていなかった。それでも、あるとき僕は何気に、彼女に聞いてみた。

 

「お前さ」

「ん、何?」

それは普段どおりの風呂上りのあとで、僕は壁にもたれて床に座り、缶ビールをちびちびやっていた。彼女は濡れた髪をタオルで拭きながら、僕のそばにやってきて、そんな僕を見下ろしていた。

「ここに住んでて……何か不都合とか、ないわけ?」

上手く言葉が見つからなかったので、質問はそんな感じになった。彼女は一瞬変な顔になり、それから、はん、と鼻先で笑った。

「別に。特にないけど」

そして、何よ急に、と言ってくすくすと笑った。僕はビールを飲みながら、黙ってそれを聞いて、

「けど……急に引っ越すことになって、仕事も変わってるじゃん」

「変わってるって言ったって、所詮フリーターだもん。それに、あたし結構順応能力高いのよ?ヘーキヘーキ」

その言葉に、僕はまた少し黙った。彼女はくすくす笑って、それから頭にかけていたタオルをその辺の床に落とすと、僕に顔を近づけるようにそばにしゃがみこんだ。

「それ以前に、あんたがここに連れてきたんでしょ?今更何言ってんのよ?

僕はやっぱり黙っていた。彼女はちょっと意地の悪い顔になると、ビールに口をつけていた僕の頬を軽くつまんだ。僕はそれに眉をしかめて。缶を口から離した。

「何するんだよ?」

「あんたって時々、卑怯よね」

「卑怯?オレのどこが?」

イキナリ訳の解らない事を言われて、僕は眉をしかめた。彼女はやっぱり意地悪く笑って、

「そんなこと聞くことが卑怯なの。あたしにどう答えてほしいのよ?」

「どうって、別に……」

頬はぐにぐにとつねられた。痛いというほどではなかったが、ちょっと不快だった。

「離せよ」

彼女は何も言わずに黙って笑っていた。僕はその手をほどかせて、それからまたビールを飲んだ。そして、何が聞きたかったのかと少しだけ考えてみた。彼女の言うとおり、僕がここへ彼女を連れてきた。仕事もやめさせた。あまりにあっさり、とんとん拍子にそれは運んだ事だが、よく考えなくてもそれはおかしな話だった。今更考えることでもないが、どうして彼女がここにこうしているのか、それは一種の謎だった。

「あんたはどうして、あたしをここに連れて来たの?」

今度は逆に問われて、僕は閉口した。意地悪く彼女は笑っていて、僕は答えを探すように少し黙り込んだ。が、それは見つかりそうになかった。

「いや……何となく」

「何となく、人から仕事を奪って、無理やり連れてきたって?」

「……だったら、ついてこなきゃいいじゃん」

そういうことなんだと、僕は思った。いやなら断ればいいじゃないか。そんな、下手したら人生を狂わせそうな事に、付き合わなきゃいいじゃないか、と。彼女はそれもそうね、と言って笑った。けれど顔は全然笑っていない感じだった。そして、今度は少し怒ったように言った。

「前から聞きたかったんだけど、あんた、あたしを何だと思ってるの?」

「何って……お前はお前じゃん」

「だから、あんたにとってその「お前」って、何?」

何を聞かれているのか、言葉の意味は良く解らなかった。彼女は溜め息をついた。そしてそれから立ち上がり、捨てられていたタオルを拾い上げた。僕はそれを眺めて、そしてまたビールを飲んだ。そしてそれから、何となく言った。

「だって、オレだけこっちに来たら、あっちまで通わなきゃなんないじゃん」

「一体何のためによ?」

彼女にはその答えがわからないのだ、と、僕はそこで初めて気が付いた。そして、同時に落胆した。何だこいつ、わかってないのか。だからこんなに怒ってるのか。僕は少し黙っていた。彼女は僕に背を向けて。また一つ溜め息をついた。そして、何だか不機嫌そうに(もしかしたら泣きたかったのかもしれない)言った。

「言いたかないけど、あたしだって適齢期すぎたような女なんだから」

「だから、何だよ?」

「いつまでもふらふらしてるわけにもいかないのよ。国民年金だって、払ってるけどどれだけもらえるか、わかんないんだし」

「だったらさっさと稼ぎのいい男とでも結婚すりゃいいじゃん」

「だから、あんたにそれが言えたことなのかって……」

「結婚したいんだったらそうしろよ。他のとでよけりゃ」

「……ちょっと、本気で怒らせる気?」

顔つきが完全に怒り始めた。僕は、怒るのは勝手だが、と思いながら言った。

「連れてこないと都合が悪いから連れて来たんだろ。お前を」

「何よ、その言い草」

「だって、そばにいなきゃ、いちいちあっちに通わなきゃなんないじゃん」

「だから、どういう意味かって聞いてるの!

僕はまた少し黙った。そして、どういう意味もないのに、どうしてそれを説明しなきゃならないのかと、何となくうんざりするように思った。

「だから、そーゆーことじゃん」

「……だから、どういう……」

ここにこうしているんだから、それをわざわざ別に用意することもないだろう。特別に理由もないのだから、別の誰かを選ぶこともないだろう。二人でいることが当たり前なんだから、わざわざ一人になることはないだろう。僕はそう思っている。彼女が怒っても、そう思っている。だから連れてきた。わざわざ、というほどのこともなく、それが当然の成り行きだと思ったからそうした。というより、それ以外考えられなかった。だから僕は落胆した。そんなこともわからないのかと。そして落胆ついでに、溜め息をついて言った。

「お前、ばかか」

「ばっ……ばかとは何よ!

「ばかはばかだ。頭悪すぎ」

「ひどっ……ちょっと酷すぎない?今の言い方!

拾い上げたタオルは、僕にたたきつけられた。いてぇな、と思いながら僕はそれをのけて、そこに立っている彼女に向かって言った。

「通うのが面倒だから連れてきたっつってんだよ。わかんないのか?

「わかっ……わかんないわよ!そんなこと言われても!

いや、本当はわかっているはずだ。僕が言いたいことも、思っていることも。でなけりゃ、最初のけんかで彼女はここを出て行っているはずだ。一体僕に何を言わせたいのか。ここにいろと、懇願でもしろと言うのか。思うと、何だかやけに腹が立った。座ったまま、僕は彼女を睨んで言った。

「じゃ、何でついてきたんだよ?仕事もやめる羽目になって、引越しまでして」

「そ、それは……」

僕の問いに彼女はしどろもどろだった。僕はそのまま強く言った。

「そういうことだろ?それ以上に何があるってんだよ?なんでわざわざ適齢期すぎたような女、こんなとこに住まわさなきゃなんねーんだよ?お前以外に」

彼女は黙ってしまった。黙って、変な顔で僕を見ていた。僕は腹が立っていたので、その変な顔が何を言いたいのかさっぱりわからなかった。そのうち、唖然としていた彼女の変な顔が崩れて、微妙な笑みが口に上った。別に機嫌を取ったとか、そういうことは全くないのだが、彼女は機嫌を直したらしかった。そして変な顔で少し笑って、それからまた、僕のそばにやって来た。

「……何だよ」

「ばかはそっちでしょ、って言うか……もうちょっと、言い方考えてよ、そういうの」

僕は首を傾げて彼女の言葉の意味を考えた。けれど良くわからず、何だそりゃ、と小さく言った。彼女は僕のそばにまた座り込んで、えへへ、と小さく笑った。僕はまだ不機嫌なまま、

「変な顔すんな、ばか」

「ばかとは何よ……ひどい言い方」

「ばかはばかだろ。他にどう言やいいんだ?

「そっちこそ……おおばかの癖に」

言いながら彼女は僕に抱きついた。僕は解きもせず、ぬるくなった残りのビールを飲んだ。そして、いやまあそれもある種そばにおいている理由ではあるのだが、と思いつつ、缶を手にしたまま、その体を抱き返した。

その体は柔らかくて暖かかった。さわり心地は最高で、それも手放せない理由だと、僕は知っている。そして触られるほうも、何だかんだと言いながらそれが嫌いではないらしい。

と言いつつも、何がどういうきっかけで、僕たちがそんなことになったのか、実は良く覚えてはいなかった。ただ何となく、そこにいることが自然で、いないことが異常になっていた。こうして触ることも、どちらともなくそれを求める事も、当たり前の日常の一部だ。マグカップの底のようなもの、と言ったら変だが、それはそんな感じに似ていた。ないと機能しないのだ。欠けた部分がたとえ小さなものでも。カップの底が欠けたら穴が開いて水が漏れる。そうなったらそれはカップというよりゴミだ。彼女がいないと僕が機能しない、と言うのはおかしな言い方だが、機能しない事もないかもしれないが、それでなおかつ生きている自分を考える事は、いつの間にか難しくなっていた。どうしてかは知らない。ただそんな風に、僕の中ではもう決まっていて、覆しようがないものになっていた。

 

「そう言えば」

「ん、何?」

「最初って、どんなんだっけ?俺ら」

眠るわけでもないのにもぐりこんだ狭いベッドの中で僕は言った。彼女もしっかり起きていて、すぐ近くでその目をぱちくりさせた。

「最初って、何が?」

「俺んちに来たんだっけ、それとも、お前んとこ行ったんだっけ?

僕の言葉に彼女は少し眉をしかめた。そして少し膨れて言った。

「あんたってサイテーな男ね、本当に」

「ん、そーか?

「あたしもそういうの、特別どうだとは思わないけど?フツーそういうこと、口に出して聞く?わざわざ。ま、覚えてろとも言わないけど」

溜め息交じりの言葉は、完璧に僕を批難していた。僕はそれでも、そういうもんかな、としか思わず、薄暗がりでそんな彼女をただ見ていた。

そんなことは本当は、どうだっていい事なのかもしれない。大事なのは今だけで、もしかしたら未来も、少しは大事なのかもしれないが、終ったことはどうしようもないことばかりだ。時間は戻らないし、過ぎたことはなかったことにもならない。なかったことにしたいわけでもないし、悔やんでいるわけでもない。ただ単に今を生きている、それだけのような気もするし、現状の維持という奴を、望んでいるのかもしれない。現状には、満足というほどでもないが不満もない。満ち足りてはいないが足りなすぎることもない。今のこの状況が、もしかしたら僕らのちょうどいい形なのかもしれない。そんなことを考えて、また僕は言った。

「なんで俺らって、こうなってんの?」

「……さあね。あたしはあんたがやけに絡んでくる事のほうが、よっぽど気になるけど?

彼女はため息まじりに言った。そして、小さくぼやく。

「なんであたし、ここにいるんだろ」

「そりゃ、あれだ。俺が連れてきたから……」

「そうじゃなくて!

その小さなぼやきに思わず反応すると、彼女は僕の数倍の速さでそう切り返してきた。僕はそのツッコミのあと、なんかまた不機嫌になったなと思いながら、言った。

「そばにおいといたほうが色々楽だろ?どうせずっと一緒にいるんだから」

 

そうだ 遠いあの日 夕暮れの舗道で

ぼくらは手を握って 未来だけ見つめていた

 

310・終

 

 

自分ツッコミ・わはははは()書いてみました……なんか違いますが気にしないで下さい(ダメ)日記でちらっと予告したように十二月ですが「310」です。イキナリ書きたくなってイキナリオチつけたくなってこんな感じです。歳を誤魔化した女と前よりちょっと広いマンションで住むあたりだけ踏んでみました……あんまり踏まないほうがいいかと思ったんですが。この歌はカラオケで歌えません……でもラストに使ったフレーズがとても効いていて好きなのです。でまあ、そこんとこを目指しました。できるだけチープな「ラヴ」を書かないように気をつけたのですが……どうなんでしょう……そんな感じです。さあスガページは何とか更新できるぞ。次は雑記だ、雑記なんか書かなきゃ、年内に!!

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Last updated: 2005/12/27

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