Tea for Two

―二人でお茶を―

 

第五話

 

お母さん、相談したいことがあるんだけど、と、とりあえず私はその話を母に振ってみた。何のかんのと言って、できることなら安定志向の私は……やっぱり自分勝手に何かをするわけにはいかないわけで……ぶっちゃけた話をすると、長女だから多少の家のことも、考えていると、そういうことなのだけれど。これって……言い訳なのだろうか。

「何?相談?」

またゆかこさんがお見合いの話でも持ってきたの、と母は、淡々とした口調で言った。私は、そういう話じゃなくて、と言い返して、それから思い切って言った。

「転職しようかと、思って」

「転職?」

「うん……あのね……」

突然の物言いに、母は驚いているようだった。私はざっと今までの経緯を説明し、どうしたらいいと思う、と最後に付け加えた。母は、少し考え込み、それから軽く息をついて言った。

「いいんじゃないの?やりたいことで食べていけるなら。あんただってうれしいでしょう?」

「あー……うん、そうなんだけど……」

「けど、何?」

それまでダイニングキッチンで見る出もなくテレビを見ていた母は、その時とまるで変わらない態度のままで言い返し、私は、うう、と言葉に詰まった。

「……けど、何?」

「いや……その、今までみたいに……もしかしたら、その……」

「その、何?」

母は、容赦もくそもなく私に問い返し続ける。私はうう、とまたうなって、そのそばに座ると言葉を紡いだ。

「生活も収入も……無茶苦茶になるかもしれないと思って……」

「だから?」

「だから……その……」

お母さんはどう思うの、と聞こうとして、できなかった。母は、少しあきれた顔で私を見つめ、それから、多大なため息をついた。

「ひなこ、あんた」

「……何?」

「自分の職業くらい、自分でばっさり決められないの?」

「……そ、そんな……そういう、つもりじゃ……」

しかられるときの声だなぁと、私は思った。母は疲れたような、あきれたような、そんなため息を吐き出した。そして、あんたももういい年なんだから、と言うと、何故かそこでくす、と笑った。

「お母さん?」

「変な子よね、あんたは。昔から、何をするんでも私の顔を伺ってばっかりで。どうしてこんなんになっちゃったのかしら」

いや別に……伺っているつもりはないのだけれど。でももしかしたら、母には私のこういう情けない態度が、そんなふうに見えるのかもしれない。実際私は優柔不断なところがあって、大事な決断を一人でしたことがあんまりない。昔から、何でも人の後だったりしたからかしらねぇ、みやこはあんなにわがままなのに、と、独言のように言って、母はまた笑った。

「ひなこ、あんたもしかして、婿養子もらって家継がなきゃ、とか、親の老後の面倒は自分が、とか、そういうくだらないことを考えてるわけ?」

「く……くだらないことって……それはその……」

「バカねぇ」

母は、余りにもあっさりそう言って今度は本格的にうふふ、と笑った。私は母のその姿にやや呆気にとられてしまった。今時の若い娘がそんなこと気にしててどうするの、と母は笑いながら言い、女の子ならお嫁に行くことをまず考えなさいよ、と付け加えた。

「心配しなくても、老後なんてまだ当分先のことよ?それとも、もう年よりで扱いに困ってるのかしら?」

「ああいや……そんなことは……それは絶対ない!けど……」

力一杯間髪入れずに否定して、私はぶんぶんと思いきり首を横に振った。ふふふ、とまた母は笑い、いつものクールさ加減はどこへやらの顔つきで、更に言葉を紡いだ。

「あんたが変に優柔不断なのは、上の子だからかしらね。そういうつもりで育てたことは、一度だってないはずなのに」

「……何?それ」

言っていることの意味が分からなくて、私は小首を傾げた。母は、けどそういうところがあんたらしいわ、と言ってまた笑った。全くわけがわからない私は、どうして母が笑っているのかも理解できず、しばらくそんな彼女を観察していた。母は笑いを納めた後、あんたはあんたのしたいようにすればいいのよ、と、少しおどけた口調で言った。

「今まで人が半分引っ張ったレールの上に乗ってたから、この先自分で道を切り開かなきゃならないのはかなりこたえると思うけど、ま、がんばんなさい。まだ若いんだもの、ちょっとやそっとの失敗くらいなら取り返せるわよ。もし失敗だったとしても、次にまあまあ失敗じゃないものを選択すればいいんだし」

人生楽あれば、と、母は某ボレロの歌詞をなぞらえるように言った。涙の後にも虹は出る。夜の後には朝が来る。雨はいつか止む。だから大丈夫だ、と。私は、珍しく母親っぽい彼女を見ながら、少し唖然としていた。高校受験の時も、短大受験の時も、就職試験の時も……母はこんな顔をしたことはなかった。あんた□□に行くの、それでいいの、と、そんなことしか、話し合ったりしなかった。考えてみれば高校も短大も、近くて入れるところを選んで、職場にしてもほとんど条件はそれだけだった。特別ああしたいこうしたいと思わなくて、流された結果がこれ、というのか、こんな感じで、ここへ来てようやく私は自分で行き先を決めている、そんな感じだった。がんばんなさいよ、と母は言った。そして、うちにはおいてあげるけど、お小遣いはもうやらないからね、と付け加えた。何だか変な言い分だなあと思って私は少し笑い、当分食いつなげるだけの貯えくらい持ってるわよ、と、冗談めかして言ったのだった。

「でも、お母さんの意見としては、玉の輿辺りが希望ではあるんだけど」

まじめに母は言った。そうしたら、お母さん達も老後が楽でしょう、と言った顔がやや真剣だったので、今度は私が笑いながら、

「でも婿養子なの?」

「希望としてはね……婿じゃ無理かしら」

言ってから、母もそこで笑った。最後の最後に来てやっぱりこんななのね、と思いながら、私はそれでもなんだかうれしかった。すっきり感が、カヅユキと話していたときよりももっとはっきりと自分の中にあって、このまま、何もかもが上手く生きそうな、そんな気分になれた。でもまだ、実のところは何にも始まってなんかいない。大人ですもの、いつまでも夢見るように、ふわふわしているわけにはいかない。しっかりしなくちゃ。前向きに、何事においても、きちんと前を向いて。今勤めている会社にも誠意を示さなきゃならないし、声をかけてくれた宮本さんにも、やっぱり誠意で答えなくちゃいけない。物には段取りがあるから、そこのところもきちんとしなきゃいけない。そう、もう子供じゃないのだ。自分のことは自分ですべて決着をつけなくちゃ。そんなことを思って、私はその日少しうきうきしながら眠りに着いた。カヅユキに叱咤されたこと、母と話せたこと、とにかく冒険してみようと決めたこと、その全てがなんだか新鮮で、ドキドキして眠れなかった。まるで遠足前の子供のような、そんな気分だった。

 

とまあ、こんなふうに格好はつけてみたものの、やっぱり今日の明日に全てを決めることのできない私は、次のヒマはいつよ、と言ってあやことまた、その話題を話していたりするのだった。だって彼女はこの件の仲人だし、報告するのは、義務でもあるわけだし。

「あたし、花屋の社員になるの」

大きなイギリス風の庭園を持つ市営の公園のカフェに連れていくと、先にあやこがそう言った。ここはハーブティーと、庭はイギリス風なのにアメリカンサイズのケーキがおいしくて、とか、いつものうんちくを語っていた矢先の出来事だった。

「は……花屋の、社員?」

「うんそう。ほら、そば道場が無くなっちゃって、しばらく極めるわ、って言ってたでしょ?」

アイスミントティーのストローを何故かグラスの中でくるくるとかきまわしながら、楽しそうにあやこは言った。今日は午後勤務だからちょっとくらいならいいよ、と言って来てくれたあやこは、だからしばらく遊べないかもね、サービス業は土日祝日が忙しいから、とこの場で改めてそう言った。私は驚いて……失礼なことに、大丈夫なのかな、と少し心配になった。あやこはそんな私のことを見抜いていて、笑うのをやめるとこう言った。

「信じてないわね?あんた」

「っ……え?あ……そっ、そんなことは、ない、けど……」

どうしてわかったんだろう、と思ったや先にふふふ、とあやこは笑った。そりゃそうよね、今までいい加減だったしね、と、そのまま彼女は言い、でも今回は本当の本気だから、と付け加えた。

「これで自由なフリーター生活とも、お別れなのよねぇ、だから」

「……いつから?」

「とりあえず来月頭から。四週六休の交代制。ひなことも、またなかなか遊べなくなっちゃうねぇ」

冗談めいた口調であやこは笑って言った。私は呆然として、そんな彼女を何気に見つめた。

「……何?ひなこ。どうかした?」

「ううん。あやこも、大人になったのかなぁと思って……」

「何よ、それは」

言葉の後、あやこは眉をしかめた。私はテーブルの上のレモンバームのお茶を飲みながら、何だかなぁと少し思った。何か、変な感じだ。今までバイトをとっかえひっかえしていて、時には一カ月くらい、まさしくプーの状態だったこともある彼女が、観念して、とうとう定職につくなんて。ああでも、この言い方はちょっと変かな。そして私は、今その仕事をやめようかなと考えているなんて。変な符号(?)だった。何よ、変な顔して、と、黙り込んだ私にあやこが問いかけてきた。私は我に返って、何だか妙な感じで、と、素直に言葉を返した。

「妙って……何が?」

「会社……やめようかと思ってて……」

その一言で、いぶかしげだったあやこの顔が一変した。驚いて丸くなった目がこちらを向く。一と呼吸ついて、私は言った。

「この間の、宮本さんのあの話、もう少し詳しく聞いてみようかと思って」

あやこは驚いた顔で黙っていた。けれどやがて、そうか、そうするんだ、とつぶやくように言って、はあっ、と大きく息を吐き出した。まだちゃんと決めたわけじゃないけど、とあわてて言うと、彼女は、そんなのわかってるって、と、いつものように軽く返した。

「それで妙な感じ、かぁ……言われてみれば、妙な感じもするわ」

ふふふ、と、あやこは笑った。そして、上手い話には裏があるかもよ、とおどけた口調で言ったりした。

「じゃあまあ……がんばって。また何かあったら連絡して。応援するから」

午前にしかヒマが無くて、と言って、あわててあやこは席を立った。伝票は、今回は私が押さえた。

「おごってあげるわ。就職祝いで」

「って……それってちょっと安上がりすぎない?」

でもおごられとくわ、と、言い残してあやこは足早に店を出ていった。見送って、その店で一人になって、その場に残された空のグラスとケーキのお皿を眺めて、私はまた、あやこがとうとう就職するのか、と、そんなことを考えた。短大を出てから五年が過ぎて、私たちはあの頃とあんまり変わっていない気がする。私は、曖昧でけじめをつけにくい性のままで、あやこは、束縛を嫌っていつでも自由にしていた。でも、いつまでもこのままではいられないのかもしれない。みんないつかは大人になって、きちんと自分の足で歩き始めるのだ。今が、その時なのだろうか。空いた器お下げしていいですか、と、いかにも学生バイトのようなウェイトレスがやってきて、テーブルの上を片付けていった。

窓から臨むイングリッシュガーデンを眺めながら、一人私は、いろいろを思った。変わることは、大変だ。どんな形にせよ、自分から能動的に変わっていこうとするのは、とても大変なことだ。いつのまにかの変化は、してしまってから気づくものであって、時間がかかった分自覚もできないけれど、さぁ変わらなくちゃ、と、ことを起こすには、まず勇気がいる。情けないことに、私はその勇気も、回りから少しずつ、少しずつもらって、そうでなければ次へ進めないけれど、でも、それが許されているうちはまあいいかなんて思ったりしてしまう。まだまだ甘ったれで、変わろう、も、冒険しよう、も、安全圏にある、戯言だ。でも。

「……がんばんなきゃ」

一人、私はつぶやいた。がんばらなくちゃ。生まれて始めて、自分で一生懸命考えて選んだことだもの。がんばらなきゃ。言い聞かせるようにして私は店を出た。あやこがちゃんと就職したら、今度はもう少し豪華に祝ってやらなくちゃ。そんなふうに思いながら。

 

「松川さーん、会社やめるって本当ですかぁ?」

ほどなくして、社内にそんな噂が流れた。……ああ、まだ誰にも言ってなかったりするんだけど。え?そこのまだところが甘い?ほっといてよ。結局私は保守的で、とりあえず今のところは、相手の会社がどんな具合のところかを目下勉強中なのだ。さすがに無収入にならない不安が、ないわけでもないし。

「へ?な……何、いきなり」

電算機の端末前でカタカタやっていた私は、不意討ちの科白に驚いて顔を上げた。現場担当の若い女の子(十九、とか言ってたっけ)は、作業着にエプロンという格好で、事務所入り口のカウンターの前でいぶかしげにこちらを見ている。

「えーっ、違うんですかぁ?二係の男の人達が、そんな話してましたよぉ?」

私の目は丸くなった。彼女はそれを見て図星だとでも捕えたのか、

「やっぱり、寿退社ですかぁ?」

「……え?あー……違う違う。それ、デマ」

ああ、そういう噂か。そういえばいつだったか、お見合いしたとかいう話を誰かにしたっけ。思い出して、私はそれを簡単に訂正した。彼女は笑いながら、

「またまたぁ。隠さなくっても。おめでたいことなんだから。あ、もしかして、松川さんてば、はずかしがり屋さん?」

「いや、あゆみちゃん、あのね」

だから本当に、デマなんだってば。そう言う前に、照れない照れない、と彼女、長橋あゆみちゃんは言ってにやにやと笑った。私は、困ったなぁと思いながら、本当にそんなことはないってば、とやや強く言い返した。あゆみちゃんはようやく気がついてくれたらしい。目を丸くさせ、

「何だぁ……そうなんだぁ。がっかり。松川さんが結婚するなら、あゆみスーツ新調して、お祝いしようと思ってたのにぃ」

続いて露骨にその顔に落胆を浮かべた。私は困った噂が流れてるなぁと思いながら、

「残念ながら、私はそういう話題とは縁がない人だから。スーツの口実は、誰か他の人で作ってね」

「でもぉ、言ってましたよぉ?いつだったかの水曜日にぃ」

むぅ、とあゆみちゃんは唇を尖らせて言う。水曜日?私はその単語に耳をそばだてる。

「サラリーマン風の男の人と、仲良さそーに、話してるのを見た人がいる、って」

平日までデートってことは、それだけラブラブってことじゃないんですかぁ?と、あゆみちゃんは言った。思い当たる節があって、私は返す言葉がしばらく見つからなかった。どうやら社内の誰か、もしくは会社関係者の誰かが、あの時の私たちを目撃していたらしい。でも……ほんのちょっとの間、偶然出くわして二言三言、話していただけのことなんだけど……なぁ……。

「彼氏の人じゃないんだぁ、だったら」

彼女はようやく納得したように言い、それでも私を、何だか値踏みするように見つめていた。私は息を飲んで、何、と彼女に問い返してみた。

「もう一つ、聞いてみたいんですけどぉ」

彼女は辺りを見回し、それから、ぴこぴこ、と、その手で私を自分のそばへと招いた。席を立ってそちらに行くと、辺りを伺い伺いして、あゆみちゃんは耳打ちするように私に言った。

「山内さんが会社やめるのに、松川さん、なんかしたんですか?」

「え?」

その名前は、いつか会社側が解雇した、二つ年上の同期の女性のものだった。私は、余りに唐突で意外な科白に驚き、思わずまじまじとあゆみちゃんを見た。

「……あゆみ、ちゃん?」

「あゆみはそんなこと、思ってないけどぉ、パートのおばちゃん達が噂してるの、聞いちゃってぇ……」

言いにくそうに、しかし興味に負けた、とでも言いたげな表情で彼女は言った。私は絶句して、ほんのわずかの間身動きさえ取れないでいた。

 

だって松川さん、そういうことする人じゃないでしょぉ、と、その後あゆみちゃんは憤りもあらわにそう言った。仕事中だったためにいったん中断されたそのネタは、就業後にまで持ち越されることとなった。会社のそばのファミレスで食事をしながら、私と彼女、それに事務の後輩の一人、新垣さんを交えて、変な話は盛り上がっていた。

「この前だって、あゆみが間違えた製品のことで、一生懸命電話してくれたし。この間だって、運送屋のミスの処理一生懸命してたし」

グラスビールとペペロンチーノを頼んだ彼女は、泡が消えないうちにと気をつけてビールを飲みながら、ほぼ独壇場だった。新垣さんはもくもくとリゾットを食べて、おおよその話が終わった頃、ようやく口を開いた。

「松川さん、山内さんともめてたとか、何かあったんですか?」

「そんな……何もないわよ」

「じゃあどうしてそういう噂が出ちゃうんでしょうね」

お見合いの話は私から流れちゃったみたいなんで、謝ります、と言って彼女はぺこりと頭を下げた。それは本当にあったことだし、尾ひれをつけたのは別の人なんだから、と、私はあわててその頭を上げさせた。

「でもぉ、あゆみは山内さんって、あんまり好きじゃなかったなぁ」

あゆみちゃんはそう言って、また言葉を綴った。部署も違うし、年が離れているせいもあって、彼女との接点もそんなに多くはなかったのだろうが、思うところはいろいろあったようだ。

「あゆみが「お疲れ様ですぅ」って言っても、時々無視だったしぃ、何か、言葉に気持ちが入ってなくってぇ。なんて言うのかな。若いからってバカにされてる感じ?」

「でも、そういう人じゃなかったですよ、山内さんて」

かばったのは新垣さんだった。逆に、彼女は同じ部署で二年間一緒にいたわけだから、あゆみちゃんの知らない山内さんのことをよく知っていた。

「時々大事なことを忘れたり、突然休んだりして大変だったけど。意地悪な感じじゃなかったもの。そうでしょ?松川さん」

「まあ……そうね」

おっとりでちょっとだけぼんやりしていて、ついうっかり、を時として連発して、それで会社がパニックになったこともあったけれど……悪い人だったか、と言われると、そうでもない。けれどあゆみちゃんは私が言うと、

「松川さん!どっちの味方なの?あゆみ?それとも、新垣ちゃん?」

と、露骨にその場で頬をふくらませた。まあまあまあ、となだめて、それから新垣さんを見やった。彼女をは何かを考えるように眉を寄せ、それからやや間をおいて言葉を紡いだ。

「山内さんが、自分で仕組んで流した噂、かなぁ」

「うわ!ひどぉい!それサイテー!」

って……会社を辞めていった彼女がいまさらそんなことして、何かいいことがあるのだろうか。思いながら、私はミートソースのパスタをもぐもぐと食べて、物を言わなくてもいい状態にキープしてみた。二人はそのまま、何の根拠もない討論をくりひろげ始めた。

それにしたって、どうして私が仕組んで社員を一人やめさせた、なんて噂が流れたりするのだろう。確かに、彼女は解雇されてしまった。けれどそれは、会社の存続のための手段であって、私が簡単に操作できるようなことではない。小規模な、会長、社長の親族が重役を勤めている様な会社で、そういう点からは部外者である一社員、しかも女の子が、何がうれしくて自分のとなりの席に座っている人を排除したいと言うのだろう。割と、仲良くやっていたつもりでもあったのに。結構、その時はショックだったと言うのに。

「結局あれですよ。松川さん、相模課長のお気に入りだから」

相模課長というのは我が社で一番の美中年で、父の知り合いで確かにちょっとだけよくしてもらっている人だ。しかし、そういうオチになるとは。私は食後のお茶を飲みながら、やっぱりそれも黙って聞くことにした。

「パートのおばちゃん達の一番人気だもんねぇ、課長。やっかまれたんだぁ」

同時に私はそのパートのおばさま方には、あんまり評判がよろしくない。何か悪いことでもしたのかな、とも思ったけれど、これと言って思いつくこともあまりない。ただ、仕事柄、客先からの電話内容を伝えに行くことはよくあって、要するに、私が無理を言って仕事を増やしているのではないかと……そういう風に思われてしまうことも、よくあるのだ。いやもう……時には泣きたいくらいのことも、言われるし。

「松川さん、かわいそう」

「仕方ないですよ。若いってだけでやっかまれるのは。実際若いんだから」

何だかなあ、としか言えないようなオチに、私はやっぱり何も言わなかった。一度全面対決とか、してみます?と、何気に新垣さんが言ったけれど、それにも私は何も答えず、世の中って複雑よね、と、総評を述べた。この世は本当に、ままならない。いやはや。

「やっぱりあそこは、長居する会社じゃないのかなぁ」

ぽつりと、不意に新垣さんが言った。あゆみちゃんは食後のデザートを食べながら、

「あたしはぁ、彼氏と結婚したらやめちゃうよ?仕事なんか。って、まだ当分、先の話だけど」

そう言いながら豪快に笑った。私たちの行き着く先は、どこなのだろう。このまま流れていったなら、どんなところにたどり着くのか。若い女の子三人は同時にそんなことを考えて、その場で一緒にため息をついた。結婚するまでは、他にやることもないしぃ、と一人目、でも今会社辞めても、次の仕事がすんなり見つかるかどうかもわからないし、と、二人目。三人目は、世の中上手く行かないものよね、と苦笑した。

 

その週末、私は宮本さんに呼ばれてあるところへ出向いた。もし良かったら少しつきあってくれないかしら、と言われて行ったその場所は、まだガラスから注意のシートも剥がされていない、一戸建ての真新しい店舗だった。今度頼まれているお店なのよ、と言って彼女は笑い、その何もないところをうろうろしながら、私は彼女が私にさせたい仕事というものをじっくり見せてもらうことにした。

「イギリスっぽいスタイルにしようと思ってるの。壁は、上からレンガ風タイルを張り付けて」

彼女はそう言って店のプランをざっと私に話してくれた。古城のイメージで、女王様気分でお茶が楽しめるところ。オーナーは元大学で英文学の講師をしていた人で、何故かあちらのお菓子づくりにも精通している、四十代の男性なのだということまで教えてくれた。

「今日はご本人さんとの打ち合わせ前の下見ってところかしら。どう思う?」

「ど……どうって……」

年上の、お姉様という形容が似合いそうな彼女は、目をきらきらさせて私に問いかけた。私は困惑して、辺りをぐるりと見回し、彼女が言ったイギリスイメージなカフェを想像してみた。お城みたいな喫茶店、かぁ……。頭に浮かぶのは、まず紅茶で……。

「バラのフレーバーなんかあったら……ゴージャスな感じ……」

思いついたのは内装とは全く関係の無い、そんなことだった。バラのフレーバーね、と言って宮本さんはくすくすと笑い、私は我に返ってとんでもなく間抜けなことを言ったなぁと、思わず赤面した。

「彼女の言ってた通りね。紅茶とコーヒーが大好き、って。えーと……」

なんて言ってたかしら、と、彼女はその場で思案をし始めた。何のことだろう、と思っていると、

「そう……酒乱、じゃなくて……」

「……茶乱、ですか」

「そうそれ!上手いこと言うわよねぇ」

感心したように宮本さんは言った。ほめられたことじゃない上に、そんなことまで話してるのか、と思うと、私はまた恥ずかしさのあまり赤面した。でも、それと彼女の仕事との接点は、一体どこにあるのだろう。お店の見た目を作るのが仕事なら、私のそういう趣味は、モニターとしてしか役に立たないのではないだろうか。考え込んでいると、その様子に気づいたのか、宮本さんは言った。

「飲食店のコーディネーターって言うのは、内装やファブリックや、そういうものだけじゃなくてトータルサポートするのが仕事なの」

私の専門はインテリアだから、最初のアプローチはそこからなんだけどね、と付け足して、彼女は言った。

「あなたには、そうね……将来的には飲食店のアドバイザーみたいになってほしいわけ」

「あ……アドバイザー……ですか」

「そう。私も、仕事柄勉強だと思っていろいろ見て回っているけど、やっぱり勉強だと、どうしても苦しくなってきたりして。自分は一体何のためにここのケーキを食べてるんだろう、って考えたりするし。そうなるといくら仕事でも、嫌になってきちゃうでしょ?うちのスタッフにも甘いものが好きな人はいるし、彼女達も一応プロだからチェックは細かいけど、あなたみたいにトータルで点数つけて喜んでる人はいないわね」

言葉の後、黙っていると、ああ、これはほめてるのよ、と、あわてて宮本さんは言った。着眼点がとてもいい、メニューや内装、テーブルウェア、その全てを見る様子に愛さえ伺えるもの、と、彼女は付け足した。確かに、私は喫茶店が好きだ。毎日きれいに掃除された床や、外とはちょっとだけ違う空気の感覚や、色ガラスのコップで出てくるお水や、こだわりの器でコーヒーを出してくれるその心意気や、その他が何だかもう、とても好きだ。多分私がほしいのは、その愛の部分なのよね、とも宮本さんは言った。チェックが細かくなったきっかけは、布教したい、という気持ちだったけれど、それが苦痛になったことなんか一度もなかった。

「例えば、私たちがインテリアをコーディネートするでしょう?パソコンでいうならハードの部分よね。そうしたらあなたにはアドバイザーとして、お店のソフトの部分を担当してほしいの」

でも、と、私は口に出して言った。そして、今までお客さんだった人に、そんなことできるんでしょうか、と、疑問を投げる。宮本さんは目を丸くさせ、それから、くすくすと少し笑った。

「人間誰しも可能性の塊なのよ?やってみて、もしかしたら意外な才能が芽生えるかも。それに、あなたの場合、それはもう天職なんじゃないかしら?」

天職、かぁ。そこまで言われると、そんな気分も頭をもたげた。こんなにほめられたことなんて、今までの短い人生の中でもそうあることではなかった。ほんわりとうれしい気分に浸っていると、でもね、と彼女は言葉を再び切り出した。

「楽しいとか好きってだけじゃ、やっぱりやってはいけないわよ。これは仕事で、お金をもらってやっていることだし……お客様と意見が合わないこともよくあることだし……OLさんには、ちょっときついかもしれないわね」

だからじっくり考えてね、と、彼女は言った。私はほんわりとしたいい気分から開放されて、やっぱりそうだよなぁと、言われるままに納得してしまったのだった。何でもそうだ。働いている以上、好きなジャンルでも、嫌なことはある。お客様というものが存在する限り、それに逆らうこともできない。それに、上手くいかないことも多くてやめたくなることもしばしは。仕事とは、働くということは、つまるところそういうものだ。楽しいだけじゃない。生きていく糧を得るために、それでもしていかなきゃならないことなのだ。

 

「宮本さんは……今のお仕事、自分で始められたんですか?」

今日は下見だから、このくらいにしましょう、と言った宮本さんについて私は店を出た。帰りがけに、近くに気になるお店があるんで寄っていっていいですか、というと、あら、お茶するの、いいわよ、と言って彼女も着いてきてくれた。そこはチャイナティーが飲める、いわゆる茶房だった。最近はウーロン茶などの半発酵茶だけでなく、中国産の緑茶もブームで、茶乱の私としてはうれしい限りだったけれど、この店は何かが違うような気がした。出てくるお茶はおいしいのに、ボーンチャイナはいいのに、どうして持ち手のついたティーカップなんだろう。もっと格好をつけない、ややださいくらいのカップのほうがいいのに。そんな細かいこだわりはともかく、そのお茶を飲みながら、私は半分形式のような、変な質問を彼女にしていた。

「ええ……立ち上げてまだ一年くらいかしら」

彼女はそう答えてから、中華のおやつって結構かわいいわね、と言って、中国のねじりかりんとう、マーファールをぽりぽりと食べた。ここ、お茶やおやつをテイクアウトできるのね、とも彼女は言い、何かおいしいお勧めのものってない、と私に訪ねた。目の前には二人とも、キンモクセイの花がブレンドされたウーロン茶がポットで、そしてそれを注ぐためのティーカップが並んで置かれている。

「最初は、たまたま父の知り合いが居酒屋を改装するから、っていう話だったのよ」

お茶を飲みながら、彼女は少し恥ずかしそうに、照れながらそのきっかけを話してくれた。当時大手内装メーカーのデザイン室にいたという彼女は、お父さんの知り合いの居酒屋が改装するので相談に乗ってほしい、と言われてその店に出向き、居酒屋の店主である人と、その息子という人の意見の食い違いに驚いたことが、はじまりと言えばはじまりかな、と彼女は言った。

「お父さんは、今までの常連さんが和める、暖かい感じの店にしたいっておっしゃって、息子さんは、新しい客層を増やしたいからモダンな感じにしたらどうだ、って言ってたの」

この親子が二人ともそろってすぐにかっとなるタイプで、と、困ったように宮本さんは笑った。とりあえず二人の意見を聞いて折中案のようなものを出したけれど、これを二人ともそろって嫌だと言い出し、そこから、彼女のいわく「戦い」が始まったのだという。

「こうなったら、どうにかしてこの大の男二人に、ありがとう、よくやってくれた、って言わせなくちゃと思って。次の日からリサーチの開始よ」

彼女はちまたの居酒屋を毎日のように巡り、ハシゴし、時にはショットバーやいわゆるスナックのようなところもチェックして、一体どんなふうに作ったなら二人を納得させられて、常連客には逃げられず、新しい客層を増やせるのか、それを研究し続けたのだという。

「それで、改装は何とか上手くいって……二人が納得して、私も納得の形は作れたんだけど、会社側はそれを納得してくれなくて」

それでデザイナーとしてフリーになって、とりあえず今までの仕事を生かしてインテリアの仕事を始めたの、と、宮本さんは言った。

「最初は、ブライダル関係のインテリアの相談窓口から始めて、そのうち、小さなレストランとか、地方自治体の持ってるホールなんかの細かいところの演出をしてくれないか、って話が来て……」

軌道らしいものが見えたのは最近なのよ、と、苦笑いして彼女は付け足した。

「スタッフがいると言ってもアシスタントが二人いるだけで、しかもデザイン学校を出てきたばっかりの女の子だから、会社経営と言うところまでまだ漕ぎ着けてもいないし。正直言って仕事が途切れたら、私たちみんな路頭に迷うのよね」

あーあ、どうしてこんなに自転車操業なのかしらねぇ、と、彼女はため息まじりに言った。そして私を見て少し笑うと、

「だから、あなたみたいな人が見つかってうれしかったのよ。会社でお勤めしてた経験があれば、電話も取れるし、伝票のファイリングもできる。経理は?」

「資格は……ないですけど……」

それで私にお鉢が回ってきたのか、と、正直この時は少しがっかりした。宮本さんは少しの間妙に真剣な顔をしていたけれど、ややもすると困ったような笑みをその顔に浮かべた。

「聞こえ方が悪いかもしれないけど、そういうスタッフもうちには必要なの。と言って……雇うにしても、全然興味のない人じゃ困っちゃうし……これから先もっといろいろ展開していきたいこともあるし、ね」

「それで……私、ですか?」

そうよ、と軽く宮本さんは言った。そして、私を見てまた笑った。

「松川さん、小さくてかわいいものを作ったり見たりするの、好きでしょう?」

「え……ええ、まぁ」

「でもそういう人はたくさんいるの。これも好きあれも好き、これもできるあれもできる。だから使ってください、って人は、結構たくさん見てきたわ。その中で選りすぐりの人たちを選んだと思ってるけど……でもやっぱり、彼女たちにも足りないものがあるのよ。あなたは、ちょうど上手い具合にそれを持ってる。そうねぇ……三国志の、劉備と孔明みたいな感じかしら」

チャイナだしね、と、彼女は付け加えて軽く笑った。そういうことが全然わからない私は、はぁ、チャイナですか、としか言えず、その場で、その二人はお茶のすごい人、陸羽より有名なのだろうか、とくだらないことを思った。

「でもやっぱり、普通の会社に勤めるような感覚じゃ、やっていけないところだから。もしあなたが……そんなふうでもやってみようって思ってくれたら、うれしいけど」

こちらは急ぐつもりはないから、じっくり考えてね、と、重ねて宮本さんは言った。私は、はい、とだけ答えて、とりあえずお茶を飲むことに専念した。実際、興味はとてもある。例えば、今ここでこうして飲んでいるお茶の器を、本場中国で普段に使われているようなものにする、とか、ポットも、洋風のものではなくて、もっともっとシノワズリーにする、とか。建物をもっと徹底的に中華風にするとか、テイクアウトのお菓子を入れるパッケージのデザインにもっと凝る、とか。トータルコーディネートでソフトの部分、というとそんなことを考えるのでいいんだろうか。

お茶を飲みながら、お茶は確かにおいしいんだけどなぁと、私は思った。そして、いつもなら楽しいうれしいで終わっていることを、仕事にしたならそれで片付けてはいけないんだなぁ、とも。それにしてもよく知ってるわね、と、宮本さんはお茶をしながら笑って言った。私は、こればっかりですから、と、何だか素直に笑えない気分で答えたのだった。

 

その夜、私はあやこに自分から電話をかけた。少し遅い時間だったのでどうかな、と思っていたら、明日朝からだから手短にね、とあちらが先に言ってくれた。じゃあ経過だけね、と言ってざっとその話をすると、あやこは電話のむこうで、そりゃあ今まで通りに楽しいだけとは行かないでしょうよ、と、あまりにもあっさりすぎる口調で返した。

「だから働くの、きらいだったのよねぇ、あたしも」

「何、それ」

何が楽しいのか、あやこはくすくすと笑っていた。私は首を傾げて、笑う彼女の言葉の続きに耳を傾けた。

「だーかーら、好きだけで持たないでしょ?「働く」って。嫌いなのよりはましってだけで。興味がないくらいのほうが割り切ってできたりして。そうじゃない?」

「それは……でも、才能が関わってくる仕事だったら、そうはいかないんじゃないの?」

それはちょっとあるけど、と言って、けれどあやこは私の意見に賛同する様子はなかった。毎日毎日従事してたら、たまにはいやになるもんでしょ、と彼女は言い、それから、くすくすと何故かそこで笑った。

「……何よ?」

「大したことじゃないわよ。あんたも、毎日喫茶店のこと考えてたら、少しは考えたくなくなるかなって、ちょっと思っただけ。土日にめぐるから楽しいんであって、毎日観察してたら、いやになったりするんじゃないの?」

「そ……そうかなぁ……でも、お茶もコーヒーも、毎日飲んでるけど飽きないわよ?」

そういう言い方は何か違うような気がして、一つの例とともに私は反論してみた。あやこは、それはカフェインの常習性ってヤツでしょう、と、何故かさらに大きな声で笑った。確かに、カフェインは一種刺激物であるから、くせになることはなるんだけど、

「あやこの言い方だと、危ないクスリみたい」

「普通の人には危なくなくても、あんたにとったら危ないクスリも同じでしょ。茶乱なんだから」

言われてしまえば、それまでだった。えーえー、どうせ私は茶乱ですよ。思いながらも、私はそれに対しては特別何も言わなかった。でもそれだけ好きなら、何とかなるかもしれないけど、とも、あやこは言った。

「ひなこ、今の仕事は好き?充実してる?」

「何よ、いきなり」

笑いながらの変わらない口調で問われて、思わず私はそう言い返した。いいから答えなさいよ、と促されて、私は言った。

「好き、とは思ってないけど……充実は、けっこうしてるわよ?」

「就労って、本当はそのくらいが一番いいとは思わない?惚れ込んだ一つのことを追求していく途中経過でお金がもらえたら、うれしいかもしれないけど」

私は何も言わなかった。その程度が適当だよ、と、あやこは言っているのだ。冒険しろ、とか進めたくせに、今ではもしかしたら、彼女のほうが尻込みしているのかもしれなかった。いや、もう一つ別の理由から、こんな、らしくないことを言っているのかもしれなかったけれども。あやこ、と、変に改まった口調で私が言うと、何よ、と、いぶかしげに彼女は返した。

「何かあったんでしょう?いやなこと」

あったの、ではないところがこの場合のミソだった。あやこは少し黙って、わかっちゃうもんよねぇ、と最後には困ったように口に出した。接客業だから、日々いろいろあることはあるんだけどね、と言った彼女は、

「お金をもらうって、大変なことなんだわって実感した感じかな」

何があったのかを話そうとはしなかった。でももともと、ぐずぐずと他人に愚痴を言ったりするタイプではない。それにそういうときはもっと……何と言うか、かなりまずいことになっている場合が多い。へぇ、そうなんだ、それで説教臭いのね、とだけ言い返すと、彼女はまた、お金をもらうって大変なのよ、と、今度はもう少しおどけた様子で言った。

「でも、外からあんたを見てる側としては、そういうくだらない理由で、せっかくやろうって決めたことをやめないでほしいってのもあるのよね、本当は」

まだ決定はしてないんでしょうけど、と、付け加えるのをあやこは忘れなかった。私は苦笑いしたけれど、それに否とも応とも答えなかった。

「それでどうするの?本当に。ことわるなら今のうちでしょ?むこうはあんたのこと結構気に入ってるみたいだから、早いほうがいいよ?」

「うん……そうだねぇ」

ここへ来てこんなのんきでいいのかしらと、自分でも思っていた。あやこも同様で、あんた自分のことでしょう、と、言いながら少し憤っていた。

「もう少し考えてから、結論出すわ。あわてるたぬきはすぐ転ぶって言うし、あやこも、気にするし」

「あんた……だからあたしのことは気にするなっていってるでしょう?」

あわててあやこが反論するものだから、思わず私は笑ってしまった。それから、冗談よ、と言葉を返して、私は言った。

「一生喫茶店に捧げるのも……悪くないかなぁ……」

「って……一生?」

あきれた声が受話器から聞こえてきた。私は、それもいいなあと本当に思いながら、

「うん、一生。これって本当の幸せかも」

「……まぁ、いいけど」

じゃあね、と言って私は電話を切った。そして、我ながら、一生を喫茶店に捧げるとは、上手い言葉だったかしらとふと思った。そして、そんなにいい考えはほかにはない、とも。ただ、世の中は上手く行かなくて、そういうことだらけで、もし転職してそういう仕事をしていくにしても、挫折しないとも限らないわけで。定年まで、単純計算してもまだ三十五年もの歳月があって、年金をもらうまでには、それからまだ数年あるらしい。長生きしたいとは思わないけれど、死にたいとも思わない。今までは中庸で、適当でいいかと思って生きてきたけれど、そろそろその中庸の規格からも、外れつつあるようだし。お見合いは、断ったし、もう、へらへら笑っていて決断力のない女の子も、卒業しようと決めたことだし。

「……なーんか、うれしい感じかな」

一人で私はつぶやいて、一人でくすくすと笑った。何だか本当にそれがうれしくて、うれしさのあまり、夜遅くだと言うのに、一人で濃い目のコーヒーを入れて、秘蔵のポーションをたっぷり入れて三杯も飲んだ。そうしてしばらく、家中のみんなが眠ってしまっても起きていたのだけれど、ふと、こういうときに一緒につきあってお茶してくれる人がいると、もっと楽しいのにな、とそんなふうに思ったのだった。

 

 

 

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