カンタレラ

 

T

 

 

それは劇薬だから、と言ったのは誰だったか。

だったら何だと言うのか。

ならば、それを飲んで死んでしまおう。

貴方が、得られないのなら……。

 

闇の中に高く足音が響く。何事かと思いながら視線を廻らそうにも、何も見えない。そのうち、じゃっ、という軽い金属の擦れ合う音がして、きつい声が放たれた。

「若様、若様!!いい加減起きてくださいまし!」

エレナ、という名の、かつてはその姿を一目見んと、屋敷の周辺を若い男達が群がるほどだったメイドも、今では老婆というに相応しい老女中だ。一体いつまでうちにいるつもりか、と彼が尋ねた時には、それは勿論、死ぬまででございますよ、といけしゃあしゃあと言ってのけた。エレナに頭が上がる人間は、このボカロジア家には誰一人としていない。当主であるモントリーヴォですら、彼女の前には子供も同然だ。そりゃあ私は、今の旦那様がおむつの頃からこの屋敷においていただいているんですから、というのがその老女中の口癖である。誰が本当の主なんだか、と、ベッドの中の彼はうんざりしながら思っていた。

「……勘弁してくれよ、帰ってきたの、夜明け前なんだぜ?」

「それは承知しております。おりますけれどね、若様。世間様はもうお昼なんですよ?いくら今日がお休みだからと言って、いい若者が朝帰りの上、昼過ぎまで寝ているなんて。しかもボカロジアの若様ともあろうお方が……」

エレナの説教は長い。彼はベッドの中で寝返りを打ち、開きそうで開かない目蓋をじわじわと開いた。昼だという陽光が、開け放たれたカーテンの外から強く差し込んでいる。眩しい事にはもう一つ理由があった。今は盛夏だ。夜半と言われる時刻まで、この国では太陽が輝いている。真昼の太陽なら、言わずもがな。直射でなくともその光は彼の目を焼く。眉をしかめ、彼は渋々ベッドから起き上がった。

「解った、起きるよ、ばあや」

「お目覚めになりましたら、お支度なさって食堂にいらしてくださいまし。寝巻きのままではいけませんよ」

畳み掛けるようにばあやの声が続く。眉をしかめ、彼はベッドからさほど離れない、大きな窓の側の老女中を睨む。

「なんでだよ?いいよ、腹も減ってないし……きついエスプレッソでも持ってきてくれたら……」

「今日はお客様がおいでなんです。旦那様からも言い付かっておりますし……ああ、この間着ていた、破れた真っ赤なシャツみたいな、あんな格好ではおいでにならないで下さいましね。お客様に失礼ですから」

彼の眉は更にしかめられる。黒とも藍ともつかない、暗い色の柔らかな髪と、同じく深い色の双眸。肌の色は少々血色に乏しい。その白い頬はその時、微々たるものではあったが痙攣していた。不機嫌なのだろう。しかし、目の前の老女中にしてみれば、孫にも近いような年頃の青年である。主の子息であろうとなかろうと、その扱いはぞんざいだった。

「ほら、若様。お起きになられたんなら、ちゃっちゃとお動きなさいまし。それとも何です?二十四にもなって、まだばあやの手を煩わせるおつもりですか?」

「……解った、解ったよ!ああもう……」

うんざりしながら青年は言って、その柔らかい黒髪をかきむしった。苛立つ彼の様子に満足げな笑みを浮かべ、老女中は早くお支度なさってくださいまし、と言葉を残して部屋を出ようとする。

「ったく……人が寝てる時に……誰だよ、昼飯に呼ばれる客、なんて……」

「おや、ばあやは昨日言いませんでしたか?今日はモリエーロから、エリザベッタ様とルクレチア様がおいでになる、と」

「初耳だよ……叔母上と、ルゥが?」

老女中が早くお支度を、と重ねて言い残し、部屋を出て行く。彼は、どこかぼんやりとした目で、しばしベッドに座ったままだった。

 

ボカロジアと言えば、その一帯では知らない人間はいない。グラローニ一の資産家であり、数百年の歴史を持つ旧貴族の血脈を継ぐ一族だ。かつてはこの地方の領主だったらしいが、今でも町の四割ほどの土地を所有し、その商業施設の殆どがボカロジアと何らかのつながりを持っている。現当主モントリーヴォ・ボカロジアはここ何代かの当主の中でも抜きん出て商才に優れ、先の代よりも更にその富を増大させた、とも言われている。町はボカロジアで成り立ち、ボカロジアなしでは立ち行かない。元領主、ではなく、未だにその土地はその一族に統治されているようなものだ。加えて某国の王族に端を発した、と言われるその血統も連綿と受け継がれており、生きた歴史を証明する一族、とまで呼ばれている。聞く度、ご大層な事だが、とその家に生まれた青年は、その事柄を鬱陶しく思っていた。家の名の為に、いい思いは勿論してきた。恐らくその名があれば、この土地で、一生暮らすには困らないだろう。どんなに小さな野望を持った野心家でも、その名に惹かれない人間はまずいまい。旧貴族、元領主、加えて土地一帯でも屈指の資産家、と来れば、どんな形でも繋がりを得たいと思うに違いない。グラローニで成功したければ、どんな形でもボカロジアとつながる事だ。それが一番の近道で、そして確実な手段だ。おかげで、彼の周りにもその目的を達しようとする人間が耐えない。もっとも、今現在の彼には何の力もない。仕事に就く事を拒んで、町にある小さな私立大学の大学院で、ひねもす文学を紐解く身である。それでも、その名と彼の身分は魅力的だ。現ボカロジア当主の一人息子、エドアルド・チェーザレ・ボカロジア。近隣の年頃の女性達も、勿論彼の一挙一動に注目している。何しろボカロジア家唯一の男子だ。お眼鏡にかなえば、妻にはならずとも、一時は、いい夢が見られようというものだ。

「何をしていた、このバカ息子」

身支度を整えて食堂に足を踏み入れる。まず最初に彼が浴びたのは、父親の忌々しげな罵声だった。眉一つ動かさず、エドアルドはその声に返す。

「その日最初に会ったら、まず挨拶が先ですよ、父上」

「減らず口を叩いている暇があるなら、お客人に先に挨拶しろ」

嘆息混じりの低い声の後、くすくすと楽しげな笑い声がして、エドアルドは顔を上げた。自分と同じ色だったはずの、白いものが混じった髪と髭の男の傍ら、柔和な笑みの熟女の姿がある。亜麻色の長い髪を結い上げた、空色の瞳の女性は少女のような笑みをたたえて、さも楽しげに言葉を紡いだ。

「お久し振り、エドアルド。相変わらずお父様と、仲が悪いのね」

「……お久し振りです、叔母上。叔母上は相変わらずお美しくいらっしゃる」

叔母、エリザベッタの言葉に、エドアルドはにこやかに微笑み、軽く頭を垂れて返す。澱みなく流れる言葉に彼女はまたさらに楽しげに笑い、

「お上手ですこと。流石はボカロジアの若様ね。兄さんの若い頃とは全然違うわ」

「リザ」

その言葉に、モントリーヴォが思わず妹を叱責する。くすくすと笑いながら、妹は構わない様子で言葉を続けた。

「兄さんが貴方くらいの頃には、もっと乱暴で粗野で、まだ可愛らしいくらいの顔だったのに無精ひげまで伸ばして。あれは正直、みっともなかったわね。それでもばあや以外はみんな兄さんを持ち上げるものだから、見ていられなかったわ」

「へぇ……父上にそんな過去が」

わざとらしく目を見開くようにして、エドアルドは父親を見遣る。かつての青い過ちを披露された男はぐっと言葉を詰まらせ、再び叱責するように妹の名を口にした。

「リザ!」

「はいはい、もうこの話はお仕舞いにしましょうね。当主様がお冠のようだわ」

「それは残念だな……とても興味深いのに」

言いながらエドアルドは父親の顔を見ずに席に着いた。やり込められた形のボカロジアの当主は、言葉もなく、苦虫でも噛み潰したような顔をしている。全く構わず、エドアルドは室内を見回し、誰に問うでもなくその問いを投げた。

「ルゥも一緒だと、聞いたのですが」

「ああ、あの子は……」

「お前を待っていられずに、先に食事を終えて、出て行ってしまったよ」

叔母の言葉を制するように、父の声がする。そうですか、と軽く返し、エドアルドは今度は叔母に尋ねる。

「モリエーロは如何です?」

「そうねぇ……こちらよりまだ涼しいかしら。私達は相変わらずよ」

「相変わらず、ですか」

「ええ、そう。亡くなった主人の遺産で、悠々自適」

くすくすと叔母は笑っている。エドアルドは何も返さず、テーブルの上で指を組んだ。

父親の妹であるその女性は、二度の結婚の後、二人目の夫に先立たれていた。二人目の夫であった男は彼女より二十歳以上も年上で、しかも先妻が二人あり、その先妻達との間に数人の子供を儲けていた。子供、と言っても彼女とさして年齢も違わない。嫁いだ先はモリエーロ一の名家で、ボカロジア同様に旧貴族の後裔だ。それは明らかに家同士の策略のための結婚だった。彼女の悠々自適、も、どこまでが本当のところかは解らない。金銭的に困窮するとは到底考えられないが、彼女の立ち位置は苦しいものに違いあるまい。この柔らかい少女のような笑みの下には、何が隠れていることか。思わずエドアルドは吐息を漏らす。聞こえたのか、父親の咳払いが耳を打った。目を上げると、モントリーヴォのあまり機嫌の良くなさげな目がこちらを向いていた。無視して、エドアルドは言った。

「一度モリエーロにも伺いたいですね。いっそ、そうだな……もっと北の方まで足を伸ばそうかな」

「あら、避暑にでも行くの?いいわね、それ」

「ここは暑いですからね。寝ているだけでも汗だくになる」

「それは貴方がお昼まで眠っているからよ。私はグラローニの夏の朝が好きよ。とても気持ちが良くて、毎朝生まれ変わったような気分になれるわ」

和やかに叔母と甥の会話が続く。再び咳払いが聞こえて、二人は漸く昼食の主催者を見遣った。

「夜には、アデレードも呼んでいる。リザとルクレチアは、暫くこちらにいることになった」

「へぇ……姉上も……そうなんですか」

父親の言葉にエドアルドはまた僅かに目を見開く。叔母は変わらない笑みのままで、

「そうなの。暫くお世話になるわね、エド」

「こちらこそ、叔母上」

軽く頭を下げた彼女に、満面の笑顔で彼は応えた。

 

身なりを整えろ、と言われた昼食も、客が身内だったおかげが堅苦しいこともなく、ただ父親の機嫌を損ねた程度で片付いてしまった。叔母と一緒にやって来たはずの従妹は結局その席に顔も出さず、流石の叔母もそれには幾分か不服の様子だった。いつまでたっても子供で、とこぼしていたが、そういう叔母も、いつまでたっても少女のような部分を持ち合わせており、時折対応に困る事がある。その叔母の娘たる従妹は、確かまだ十七歳だ。子供であっても何の不思議もないだろう。ふらふらと庭を歩きながら、エドアルドはそんなことを考えていた。

ここ数日、帰宅は夜半過ぎか夜明け前、という生活を繰り返している。帰る家は、このやたらと大きな屋敷だ。他に行く宛もない。しかし、喜んで帰るような場所でもない。旧貴族で資産家、といえば聞こえはいいが、暮らしている人間は到底、人の羨むような暮らしをしてはいなかった。まず、当主の妻たる女が、そこにはいない。もう数年前から別居しており、息子であるエドアルドでさえ長い間まともに顔も見ていない。まともに顔を見て話したのは、いつの事だったか。彼の母親は、町の、屋敷がある一帯とは別の高級住宅地にあるアパルトメントで、メイドと暮らしている。が、それ以外の情報は彼のところには入ってこない。

恐らく父と母は、そろそろ離婚するだろう。元々まともな結婚ではなかったらしいことは、様々な形で彼の耳にも入っている。何しろ家柄が家柄だ。男女の情愛で結婚など決められるはずもない。そして、資産が資産だ。肉欲を満たすための相手なら、金に飽かせれば幾らでも選べる。万が一の事があったとしても、それも幾らでも闇に葬ることが出来るだろう。どこの土地のどんな家にでも良く転がっている話だ。だから当然、彼もそれを気にしてはいない。

彼を育てたのは母顔ではなく、彼の祖父と、屋敷に仕える使用人達だった。父親は、同じ屋敷で寝起きを共にしてはいるものの、到底、育てられたという感覚は抱けない。それでも、幾分か母親よりはましのような気もする。褒められる事は殆どなかったが、叱られ、罵倒される事は日常茶飯だ。最近では逆にやり込めて、溜飲もいくらか下げられるようになった。厄介な年上の悪友、とでも言う感覚か。養ってもらっている身分ではあるが、彼にとって父親は、そういう形で近しい存在だった。

もう一人の血縁者は、母親を別にする姉だ。その姉も、父親と同じくボカロジア本家の屋敷で暮らしている。が、最近は父親からもぎ取る形で手に入れた仕事が楽しいらしく、朝早くに出かけて行って、帰宅はやはり遅いため、顔を合わせるのも週に二、三度程度しかない。それでも姉、アデレードは、彼にとってはもっとも気安い家族だ。母親が違い、育った環境も違うが、そのせいか気性の強い彼女を、エドアルドは嫌いではなかった。そう言えば夕食には呼んでいると父が言っていた。叔母と従妹を迎えての夕食会でもするつもりなのだろう。暫く二人とも滞在すると言っていたし。

姉が家にいると、場が活気付く。華やかというよりも、彼女にはその形容が相応しい。聡明で、それでいて炎の様な気性で、これまで二度の結婚をしたが、いずれも長くもたなかった。もっとも、最初の彼女の結婚は相手側の政略的なもので、二度目は分家から押し付けられたものだった。やはり情愛の欠片もなく、そんなものを黙って享受できる性分でもなかったのだろう。今度三度目の夫を紹介する、といつか言っていた。今度もどれだけもつか、解ったものではない。

その彼の姉は、何故か叔母と気が合った。同じく、ずっと年の離れた従妹とも。今度の滞在を聞けばきっと喜ぶ事だろう。多少は家に寄り付くようになるかもしれない。だとすると、自分も家に縛り付けられるようになりそうだ。思ってエドアルドは一人苦笑した。老女中と姉には叶わない。そう言えば二人はどこか似ている。あまり仲は良くないが。

「お嬢様、年頃の娘が、そんなはしたない!」

「だってここはモリエーロと違って暑くて。それに、町の女の子はみんなこんな服を着てるもの。はしたなくなんてないわ」

「それでも、お嬢様は肌がお弱いんですよ。せめて肩は隠して……ああもう、爛れでもしたら、どうなさるんです!」

噂をすれば影か。老女中の声に何気にエドアルドは思い、視線をめぐらせた。庭師の手で美しく整えられた庭の向こう、老女中、エレナと、十代の少女とおぼしき声の持ち主が、何やら騒いでいる。従妹がいるらしい。真夏の日差しの中、眩しさにエドアルドはその手で日差しを遮るようにしてそちらを見遣った。叱咤する老女中の前を、まるで子犬のようにはしゃぐ少女の姿が見える。亜麻色の髪を二つに分けた、藍とも青とも付かない色の大きな目をした少女は、笑いながらくるくると身を翻す。

「もう、ばあやったら。私はお母様じゃないわ。ちょっと日に焼けたくらいで爛れたりしないから、安心して」

「何を仰いますか!ばあやだってそんなに耄碌しちゃいませんよ。それに、いつだったかおいでになった時、お庭でお倒れになった事をお忘れですか?ああもう、本当に……」

「やーねぇ、それってもっとずっとちっちゃい子供の頃でしょ?私だってもう子供じゃないんだから、そんなに心配しなくても……」

「ばあやからしてみたら、ルクレチア様はまだまだ子供ですよ。お母様も同じ様にね。さ、言う事をお聞きになって。こちらはモリエーロと違ってまだまだ暑くなるんです。涼しいお部屋にお戻り下さい」

「はぁーい……つまんないの」

はしゃいでいた少女はそう言って軽く肩を竦める。キャミソールにショートパンツ、という、夏の町では珍しくないその格好が、老女中には気に入らないらしい。過保護な事だ。思いながらエドアルドは、声もかけずにその様子を見ていた。七つ年下の従妹は、ばあやが言う以上にまだまだあどけなく子供っぽい。見ているだけで頬が自然と緩む。とは言え、会うのはいつ以来か。思いながらエドアルドは歩みをそちらに進めた。くどくどとばあやのお説教が続く。少女の表情がうんざりしかけた頃、エドは声をかけた。

「ばあや、お客様だろう?そんなに意地悪するもんじゃないよ」

からかい口調のエドアルドの言葉に、老女中と少女は一瞬にしてそちらを向く。直後、少女は満面の笑みを浮かべてすぐさまエドアルドに駆け寄った。

「兄さま!」

弾けるようなその動きに、エドの表情が緩む。胸に飛び込んで、少女は無邪気に笑い声を立てた。

「大きくなったな、ルクレチア。久し振り」

「そうよ、もう十七歳。なのにばあやったら、私のこと赤ちゃんみたいに言うのよ?」

胸の中、拗ねるように言ってルクレチアはちらりと老女中を見遣る。エレナはやれやれと溜め息をついて、

「ええ、お嬢様も若様も、エレナからすれば大きな赤ん坊みたいなものですよ。全く、二人とも、ちゃんとお昼にも出られないなんて。亡くなった大旦那様が知ったら、なんて情けないと、お嘆きになりますよ」

「あら、私はちゃんと伯父様とお昼をご一緒したわ。いなかったのは兄さまだけよ」

エレナの言葉に少しだけむきになってルクレチアが反論する。ははは、と軽く笑い、

「俺も、昼の席には行ったんだけどね。ルゥは待ちきれなくて、どこかに行った後だった」

「だってお腹がすいてたんだもの。兄さまこそ、お昼の時間になっても起きなかったんでしょ?私とどっちが非常識?」

「どちらも同じ様なもんですよ」

エドの言葉にまでルクレチアが反論しようとする。制したのはエレナだった。胸に彼女を抱いたままでエドは笑い、その髪を何気なく撫でる。

「背が高くなったな……前に会った時には、もっと小さかったのに……」

「やん!くしゃくしゃになっちゃう!」

撫でられた頭をかばうようにしてルクレチアがエドの胸から離れる。幼い仕種にまたエドは笑って、

「もうずっとくしゃくしゃだよ。はしゃぎすぎだ」

「兄さまのいじわる!」

ルクレチアが舌を出す。その様子を見て笑うエドアルドの傍ら、老女中は疲れたように言った。

「若様、お嬢様も。夕食にはきちんとおいでになってくださいまし。旦那様が、今夜はアデレード様もご一緒にと仰っておいででしたからね。宜しいですか?」

「解ってるよ」

「はぁーい」

「それから、お召し物も。若様は構いませんが、ルクレチア様は、そんな下着のようなものじゃなく、ちゃんとした服を御召し下さいまし。仮にもボカロジアの……」

老女中の説教が始まろうとしている。二人は目を合わせ、同時に笑うと、

「逃げるぞ、ルゥ」

「はぁーい。じゃ、エレナ、またねー!」

そう言って同時にその場から駆け出す。弾ける様に飛び出した二人に驚くも、エレナはそれを追うことも出来ず、

「あっ、お二人とも!お待ちなさい!まだばあやの話は終わっちゃいませんよ!待ちなさい、こらー!!

その場で一人、大きく喚いた。

 

七つ年下の従妹、ルクレチア。エドアルドの叔母、エリザベッタの最初の夫の娘である彼女は、幼い頃からしばしばボカロジア家を訪れていた。母親の実家である事を鑑みれば何の不自然もないことではあるが、嫁したはずの女性が、それほどまでにしばしば実家に戻るのは、果たして常識的なのか否か。幼い頃ならまだしも、今ではそんな邪推をせざるを得ない。久々に対面した従妹のはしゃぐ様子を眺めながら、エドアルドはそんな思いを巡らせていた。叔母にはルクレチア以外には子供がいない。元来、病弱だったらしい彼女には、妊娠も出産も容易ではなかったのかもしれない。兄であるモントリーヴォにはその頃のトラウマでもあるのか、妹に対して時折異常な執着を見せる。事ある毎に彼女をグラローニに呼びつける。亡くなった祖父もそうだった。そうかそれで、叔母もこの子もこの家に良く出入りしていたのか。エドアルドは胸中、自分の行き着いた結論に納得する。物思いに耽る彼の目の前、はしゃぐ従妹は高く細い声で笑いながら、

「兄さま、夏のお祭はいつだったかしら?……ねえ、兄さまったら!」

全く自分の話を聞いていないエドアルドに、漸くそこで気付いたらしい。笑顔からふくれっ面に一瞬にして豹変すると、

「兄さま、私の話、聞いてるの?」

「あ?……ごめん、何だっけ……」

気のない声音でエドアルドが謝罪すると、ふくれっ面の少女は更に憤慨して、

「もういいわ!お祭には、アデレード姉さまに連れて行ってもらうから!」

「祭?……何だ、そんな時までこっちにいるのか?」

滞在は数日の事かと高をくくっていたエドアルドは、半月ほど先の夏祭りの話題に目を丸くさせた。ルクレチアはふくれっ面のまま、そっぽを向き、

「わかんないけど……母様が、伯父様と大切なお話があるから、暫くはグラローニにいる、って」

「……大切な、話?」

少女の表情が曇る。瞬きして、エドアルドは彼女の言葉を待った。しかし返答はない。数秒の沈黙の後、エドアルドがその名を、何かを問うように呼ぶ。

「ルクレチア?」

「……モリエーロの、一番上のお兄様が……」

「君達に、出て行け、とでも言っているのか……」

不安気で、沈んだ語調の言葉が途切れる。先読みして、エドアルドは嘆息した。ルクレチアはその眉を痛々しいほどに顰めて、無言のまま小さく頷く。そして、

「兄さまは……ルゥと母様が、ここにいるのはいや?」

問われて、エドアルドは瞳を見開いた。力ない、弱々しい視線がこちらを向いている。泣き出しそうな双眸を見返して、エドアルドは笑ってみせた。

「どうしてそんなことを?」

「……ちゃんと答えて。私だって……もう小さな子供じゃないんだから」

かすかに震えながらも、声は気丈に答えを求める。儚くも果敢、と言うべきか。すねたようにも見えるその表情にまたエドアルドは笑みをこぼした。そして、

「いやじゃない。ルゥは好きなだけ、ここにいるといいよ」

返答の直後、曇っていた少女の表情が明るくなる。輝かんばかりの笑顔で、ルクレチアはエドアルドに飛びついた。

「良かったぁ……兄さま、大好き」

「それはそれは、光栄です、お嬢さん(セニョリータ)

お嬢さん(セニョリータ)?」

聞き慣れない、と言うより言われ慣れない単語に、胸の中でルクレチアが顔を上げる。不思議そうに自分を見上げるその目を見返して、エドは笑って返した。

「だってルゥは、もう小さな子供じゃないんだろ?社交辞令だよ」

「なぁに、それ」

その言い様が気に入らないらしい。ルクレチアはまた膨れて、僅かに恨みがましげにエドアルドを睨む。エドの手が伸びて、金色の髪を撫でようとすると、先んじてルクレチアがその胸から離れる。

「何だ、撫でてやろうと思ったのに」

「それのどこが大人の扱いなの?失礼しちゃう」

拍子抜けしたエドアルドの言葉にルクレチアは舌まで出して言い返す。その様子に自然とエドアルドの表情が緩む。この子が来るといつもそうだ。華やかで、けれどどこかぎこちない家の中が、明るく柔らかい空間になる。年下の従妹の来訪が、彼は嫌いではなかった。長期間になればそれだけ束縛もされるだろうが、所詮自分はしがない学生の身分だ。毎日忙殺されている訳でもなし、恐らくこちらには他にろくに知り合いもいない、この従妹の相手役をするのに、不都合は特にない。それに、飽きたら飽きたでその時には、残酷かもしれないが本当のことを言えばいいだけだ。いや、黙ってそれを隠し通す事の方こそ、酷い仕打ちなのかもしれない。けれど、相手はもう子供ではないと言い張るのだ。なら、それ相応の扱いをしてやらなければ、失礼というものだ。

「ねぇ兄さま、私、町をお散歩したいわ」

ふくれっ面も瞬きほどの時間で解けて消える。少女は無邪気に笑って、どこか残酷な思いを巡らせる男に手を伸ばす。エドアルドは苦笑して、

「散歩ですか。この暑いのに、物好きだね、君は」

「だって何だか久し振りなんだもの。こうやって兄さまと会うのも、この家に来るのも」

「君のお目当ては散歩じゃなくて、ノッチェの店のスウィーツじゃないのかい?」

やれやれと言いながら漏れる嘆息には、笑みが混じる。えへへ、と笑うルクレチアに、年上の従兄は笑い返してその手を取った。

「仕方ない、お供しますよ、セニョリータ」

「わぁ、有り難う、兄さま。だから兄さまって、大好き」

細い指が彼の手に絡む。本当に、この子は大きくなった、大人になろうとしているのだな。以前、手を繋いだのは、いつだったか。その手を掴み返して、思いながらエドアルドは言った。

「本当に大きくなったな、ルクレチア。というか……手の形、叔母上にそっくりだ」

「そう?でも母様の手は何にも出来なくて、不器用なのよ?ばあやが何でもやってしまったから、なんですって」

くすくすと、たわいのない言葉にも少女は笑う。軽く握って、エドアルドは笑った。

いつか、この手を捕まえて、引き寄せたから、この子はここに来なくなった。でも今は、忘れていよう。この手はそれをきっと望んでいない。自分の手も、離すことを望まない。だから。

「兄さま、どうかした?」

不意に黙り込んだエドアルドに、ルクレチアが問いかける。頭を軽く振って、

「何でもないよ。君は食べるのが遅いから、さっさと行って帰ってこないと、夕食に間に合わないかな、って思っただけ」

「やん。もう、兄さまの意地悪」

詰りながらも少女は笑っている。詰られた男は、言葉なくただ笑い返した。

 

「全く、一体どこをほっつき歩いてらしたんです?ばあやがあれほど、今日の夕食会には遅れないように、と口を酸っぱくして言ったというのに」

夕刻。自室でエドアルドは夕食会に出るための身支度を整えていた。傍らには老女中が鬼のような顔をしており、まるで自分を見張っているようだ。白いシャツと細めに作られた袖の上着に腕を通し、袖口を金鎖の連なるカフスで留める。身内の夕食会というには少々仰々しすぎやしないか、という反論は、あっさりと退けられた。叔母と従妹とは言え、二人は食客である。昼食は簡単に済ませはしたが、夕食ともなればそうは行かない。正装とまではいかずとも、きちんと整った身なりをしてもらわなければ困る、というのが老女中の言い分だった。そしてその文句に、エドアルドはやはり反論できない。と言うより、それを聞いてはもらえないようだった。襟元まで揃いのブローチで固められて、思わず小さくうめき声を上げる。

「こんなのつけてたら、まともに飯なんて食えないよ」

「若様、お口が汚うございますよ」

「だって本当のことだろ?第一、なんでうちで食事するのに、こんな……」

「このところ若様はたるんでおいでですから、こういう時くらいはばあやがピリッとさせて差し上げなきゃなりませんからね。毎晩毎晩、バールでだらだらお酒なんかお召しになって。そんな風では折角覚えたマナーも何もかも、忘れておしまいになりますよ。そうなったらまた……」

「あー、解った、解ったよ。けどろくに食えなかったら、夜食の一つも支度してくれるんだろうな?エレナ」

恨みがましく老女中を睨むと、彼女はしれっとした顔で、

「今夜の泊まり番はばあやじゃございませんからね。誰ぞ他の者に頼んでくださいな。それでも若様、あんまり遅いお時間に食べますと、お太りになりますよ?」

「……ああ、そうだね。覚えとくよ」

反撃も虚しく、エドアルドはそれ以上の攻撃をやめた。落ち着きすぎず、それでもそこはかとなく華やいだ雰囲気のスーツを身に纏うと、傍らの老女中がおやおや、と感嘆の声を漏らす。

「そうやってちゃんとなさっておいでになると、亡くなった大旦那様のお若い頃のようですよ」

「それって、俺、褒められてるの?ばあや」

「当然ですよ。グラローニでも一、二を争う伊達男と呼ばれた方ですよ、あの方は」

「……へーえ」

どこか恍惚さえ見え隠れする声音の老女中の賞賛に、エドアルドは冷めた声で返す。チェーザレ・ボカロジア。現ボカロジア当主の父親で、エドアルドの祖父だ。数年前に没して入るものの、この近辺で彼を知らない人間はいない。エレナの言う通りに若い頃には浮名も流したらしい。どこまでが本当か嘘かは解らないが、手をつけられて愛人に昇格したメイドも、少なくないと言われている。

ボカロジアの男達は女にだらしがない。この町に来てその名を出せば、まず最初に出てくるのがその言葉だ。昼過ぎからバールで程よくアルコールに侵された老人達は、まず決まってその話をする。どこそこの若い娘が、あの大きな屋敷の使用人に連れて行かれ以来、家にも戻らず、屋敷の一室でそれまでとは比べ物にならない暮らしをしていた、だの、壁を塗る職人が日参している間に女主人が何人変わった、だの、ある日は赤ん坊を抱えた女が門扉の前で、主の名前を叫びながら泣いていた、だのと、話の種は尽きない。そのどれが嘘でも真実でも、言いたいことは同じなのだろう。巨万の富と権力を独り占めし続けた一族の主を、男として妬み、同時に羨んでいる。自分にも同じだけの力があれば、同じ事をどれだけ言われようとも、きっとそうするに違いない、と言わんばかりに。愚にもつかない酔っ払いの言葉の中にも、ボカロジアへの羨望と嫉妬は存在する。この土地のどこへ行っても、それは一族に纏わり付いた。

女にだらしがない、その次に言われるのが女達の不貞だ。幾度となく結婚と離婚を繰り返し、その多くが最終的にはこのグラローニに戻ってくる。子連れで、或いは子供を置き去りにして。かつては幾度も政略結婚を繰り返し、そうしてボカロジアの家は大きくなってきた。それは今でも変わらないのかもしれない。ボカロジアと繋がりを得たい人間は、未だに消えてなくなりはしないし、それを利用して、一族は今もその富と力を増大させている。例えば、叔母であるエリザベッタだ。一度目の夫とどんな理由で離婚したのかは知らないが、二度目の夫は明らかに、この家との繋がりを得るため彼女と結婚した。先妻と離婚してまで。その夫も亡くなって数年が経つ。当然のように、嫁ぎ先での彼女の立場は悪くなる一方だ。今度の滞在も、それと関係があるのかもしれない。もしかしたら彼女も、他の女達のように、このグラローニに戻るのだろうか。

そうしたら、ルクレチアはどうするのだろう。ふと思って、その思いに至った自分をエドアルドは笑った。自分はあの子を意識しすぎている。従妹は彼女しかいないのだから、それを心配するのはおかしな話ではないが、それにしても、あまりにも彼女のことを考えすぎている。理由は、と問われれば、恐らく困窮するほどに。年が離れていて、見ていられないからだ、と言い訳して、どれだけの人間が納得してくれるか。いや、あの子は本当に子供だから、誰もが納得してくれるかもしれないが。思うとまた、口許に苦い笑みが昇った。

「ああ、もうこんな時間だ。若様、早くなさってくださいな」

老女中の急く声がする。エドアルドは笑って、

「解ってるよ。俺より、もう一人手のかかる大きな赤ん坊はいいのか?ばあや」

「ルクレチア様にはばあやじゃなくて、ルカがついております。あの子は若いながらにしっかりしているから、大丈夫です」

「へぇ……やるなぁ、ルカも」

冗談めかして言葉を返して、エドアルドは部屋を出る。

食堂に続く長い廊下を歩く間、エドアルドの表情は凍えた様にぴくりとも動かなかった。幾つかの角を曲がり、時折数人の使用人とすれ違うが、視線はそちらを向くこともなく、同様に反応もしない。屋敷は普段通りに静けさの中にあった。夕食会、と言えば通常なら外からの客を招き入れて行なわれるため、邸内は波のようなざわめきに包まれているものだが、今夜はごく身内のみの会食だ。静かであっても何の不思議もない。が、その中に僅かに雑音が走っている。突然戻った叔母が、暫くこの屋敷に留まる、そのことを噂しているらしい。口さがない、下賤が。耳元に届く僅かな人声に、エドアルドは小さく舌打ちした。

使用人は所詮雇われの身だ。ボカロジアの人間ではない。広い為に、身内よりも他人の方が数多く蠢くその家が、彼は好きではなかった。だから寄り付かないでいたかった。そうしてしまったこの家の、その名も、忌み嫌っている。

母親が出て行ってしまった理由の一端も、もしかしたらそこにあるのかも知れない。嫁いで来た彼女にしてみれば、嫁ぎ先の家族よりも厳しい目が、それ以上にあることは苦痛に違いない。そんなところにだけ、彼は母親に同情した。それでも、憐れとは思わない。彼女も家の道具として使われた。しかしそれは、己の意志の弱さのためではないのか。強く拒んだなら、こんな家に嫁がされる事もなかっただろうに。思い至り、何気に嘆息する。自分の耳にも重く響いたその吐息に、声は投げられた。

「あら、お疲れ?エドアルド」

高くはないが女性の声に、彼は目を上げた。深い臙脂のスーツを身に纏ったブルネットの女性の姿に、思わず頬が緩む。情熱的な真紅のルージュを引いた口元が微笑んでいるのを見て、彼は口を開いた。

「お久し振り、というべきでしょうか、姉上」

「あら、私はお前とは違って毎日ちゃんと家に帰ってるわよ?エドアルド」

「そうでしたっけ?ではお会いしないのは、どうしてかな?」

「……まあ、その辺はお互い、不問にしましょう」

腕組みして、楽しげに彼女は笑っている。歩み寄って、エドアルドは気安い口調で彼女に尋ねた。

「忙しいみたいだね、姉さん」

「まぁね、ヒマじゃないわね」

「会社の方はどう?少しは落ち着いた?」

「そうねぇ……ぼちぼち、ってところかしら」

砕けた弟の言葉に、姉と呼ばれた女性が同じく、親しげな言葉で返す。アデレード。エドアルドとは母親の違う、彼より五つ年上の、この家の長女だ。髪を短く切った髪と、大きく、どこか鋭さを感じさせる瞳はチョコレートブラウン、とでも言うべきか。母親似なのよ、と決まって言う彼女だが、その商才は間違いなく父親譲りだ。彼女がもしエドアルドと同じ母親から生まれていたなら、間違いなくモントリーヴォは後継者に彼女を選んでいた事だろう。父親から奪うような形で得た小さな会社を、今では手に入れた当時の三倍ほどにまで成長させている。その実力は分家の人間も一目置いているらしい。それでも、彼女が妾腹であることを理由に、この本家から切り離そうと言う輩は多い。彼女が経て来た二度の結婚も、そのために分家から持ち込まれた、と言っても過言ではない。最も、どちらも半年ともたずに解消されているのだが。

「そんなスーツで、ばあやに何か言われないの?」

からかい口調で笑いながら、エドアルドがアデレードに尋ねる。笑い返して、

「家で夕食をとるのに、いちいちドレスなんて着ていられないわよ。それに、そんな、なんていうけれど、結構これ、いいものなのよ?」

「知ってますよ。エルヴィラの新作でしょう?本店の大得意様だって、評判だし。似合ってますよ」

「まぁね」

身に纏うお気に入りのスーツを褒められて、アデレードも悪い気はしないらしい。くすくすと笑うと、弟に先んじて食堂のドアへと歩みを進め始める。

「商談にはこのくらいが丁度いいわ。相手に見くびられもしないし」

「この辺りで姉さんを見くびるような相手なんて、まだいるんだ?」

言葉とともにエドアルドも歩き出す。わざとらしく嘆息して、

「そうなのよ、結構いるの。例えば、ボカロジアの当主様とか。本当、バカにするのもいい加減にしろ、って言うのよ」

「……一応釘は刺しておくけど、今夜は叔母上とルゥのための夕食会だからね」

「解ってるわよ。でなきゃわざわざ仕事を切り上げてまで帰ってこないわ」

この気性の激しい姉と、幾つになっても我侭を通そうとする、子供じみた父親は、会う度何かと衝突する。とは言え、憎み合うほどでもないらしい。血族の妙、とでも言うのだろうか。それとも、姉にも父にも、別に思うところでもあるのか。その間に立つ女性が、亡くなったとは言え、この家の本妻ではなかったことも含めて。

エドアルドは何も言わずに苦笑して、扉を開ける姉に続いて食堂に入る。白く大きなその扉が両開きに開かれると、真正面、無駄なほどに大きなテーブルがあった。季節の花々で彩られた食卓には、主催者であるこの屋敷の主人と、主賓である叔母と従妹が既についている。アデレードを先に行かせて、無言でエドアルドは歩みを進める。数人の若い使用人と、父親の側にいる古参の執事の姿が見える。食事がすめば若い使用人達はすぐにも部屋を追い立てられるだろう。執事は父親の腹心だ。あの老女中と同じく、モントリーヴォが幼い頃からこの屋敷を出入りしているらしい。重々しい身内の話はそれからか。それとも、あの子も同じく外へ出されるかな。何気に思いながらエドアルドが席に着く。それよりも先に、室内にルクレチアの声が響いた。

「姉さま、お久し振り」

「ルゥ、大きく……ああでも、あんまり変わってないかしら。元気?」

「姉さま、ひどーい!」

テーブルを挟んで、賑やかにやり取りが始まる。はしゃぐ従妹とそれを揶揄う姉、という光景が、彼は嫌いではなかった。見ていると頬が緩む。彼と同じく、叔母もその様子を、穏やかな笑みで見詰めている。ごく自然で、当たり前で、それ故にここでは滅多と見られない光景だ。しばらくこんな夕食が続くのだろうか。悪くはないかも知れない。

「あらあら、おしゃれして。そのドレスはどうしたの?」

「え?これ、姉さまのお古じゃないの?」

「私は知らない……って言うか、そんなの、作った覚えはないわよ?」

ライムグリーンの、肩を見せる形のカクテルドレス姿で、ルクレチアは目を丸くさせる。長い髪も、昼間とは違って高く結い上げられていた。華奢な首筋が更に映える。こぼれる金色のほつれ毛が、燭台の明かりに音もなく煌く様子を、エドアルドは眺めていた。大きくなった、いや、大人になった。これから、この子はもっと変わっていくことだろう。もう子供ではないといって尖らせた唇も、いつかは艶然とした微笑をたたえるようになるに違いない。それとも、叔母と同じ様に、いつまでたっても、どこか少女のような印象を、ずっと持ち続けるだろうか。ほんのりと化粧を施した、それでも幼い顔に不思議そうな表情を浮かべて、ルクレチアは首を傾げている。

「今夜のドレスはルカとばあやが直したものだそうよ。物がいいから、新しく作るよりはそうした方がいい、ですって」

アデレードとルクレチアに、エリザベッタが教えるように言った。

「へーえ、ばあやとルカが。やるわね」

「元々は私のものだったのだけど、着るのは今夜で三人目、だったかしら」

「叔母様の?」

「じゃあ二人目は誰?母さま」

従姉妹同士の二人が、ドレスの元持ち主に問うように言葉を投げる。元持ち主は微笑んだまま、

「この家の娘、だとすれば、貴女のはずよ?アデレード」

くすくすとエリザベッタが笑う。アデレードはその言葉に驚き、戸惑いながら、

「え?そうだったかしら……ごめんなさい、全然覚えてない……」

「そうね、貴女がそれを着ているのを見たのは、私も一度だけだし。覚えていなくてもおかしくないわ。でも私も、それを着たのは何度もないのだけれど」

女達の他愛のない会話が続く。無言で、エドアルドはその様子を眺めていた。しばしの歓談の後、咳払いが響く。放置すれば終わりの見えない会話を、夕食会の主催が制したのだろう。女達の視線がそちらを向く。モントリーヴォはテーブルの上で指を組んだ。

「そろそろ始めてもいいかな?三人とも」

それぞれの表情で女達は沈黙する。一人、熟女は困ったように笑い、少女は恥ずかしそうに小さく肩をすくめる。もう一人、淑女と呼ぶには激しい気性の持ち主は少々不服そうな顔をするも、異論もないのか、やはり黙していた。主催者が傍らの執事に耳打ちすると、一礼して執事が動き始める。家族の食事に、この仰々しさは必要だろうか。その様子にエドアルドは短くはあるが重めの息を吐く。何が出てきても、もしかしたら味も解らないかもしれない。そんな不安が過ぎるが、しかしそれも杞憂に終わった。

食事が始まると、女達は先程と同じようにおしゃべりを始め、アルコールが回りだすと叔母は自分の兄をからかい半分にいたぶり始めた。アデレードは乗じて彼女の兄、自分の父親を攻撃し始め、やりこめられまいと彼は子供のように反論した。食卓は、それまでの堅苦しい雰囲気もなく、そしてそれまでにエドアルドが知っていたものとは全く違う展開を見せた。姉と叔母とが笑い合いながら、グラスを交わし、心地好い音を立ててグラスは何度も満たされる。従妹はそれを口に出来ないことを悔しがりはしたが、それでも楽しげに会話に混じり、主催者の前に出たデザートをねだってみせた。野に出て採る昼食のように、そこにあったのは、明るく楽しい、笑顔の絶えない空間だった。会話に参加せず、エドアルドは暫くその様子を静観していた。笑うつもりもないのに、頬は自然と緩み、気がつくと叔母や姉と共に父親に口撃していた。やり込められまいと当然相手は反論するものの、悔しげな表情の端にも、暗い影は見られない。

これは何だろう、やけに楽しい。どうしてこんな風に、自分達は心地好く、嬉しくなっているのか。これも、従妹と叔母のおかげだろうか。父はこうなる事を見越して、この夕食会を催したのか。

気がつけば、食事は総て終わっていた。食後の飲み物をサーブする使用人が姿を消し、残ったのは執事一人になる。誰もがその顔に満足げな表情を浮かべ、一人未成年の従妹も、ご機嫌で、クリームたっぷりのカプチーノを口に運んでいる。こんなに楽しい食事はいつぶりだろう。いや、もしかしたら初めてかもしれない。奇妙な、そして高揚すら覚える違和感に浸りながら、エドアルドは小さく笑った。悪くはない、いや、むしろいい気分だ。

同時に、心のどこかが冷ややかにそれを判断する。二度とこんな夜はないかもしれない。どんな境遇にいて、どれほどの暮らしをして、どれだけの財を所有していようとも、こんな風にいつも冷めている自分がいる限り。二度とないのなら、これは幻だ。夢と同じで、儚く、そして価値もない。確かに掴んでおけないものの価値は、量れないのではなくて、量らない。時と共に記憶が薄れゆくなら、それも同じく価値のないものだ。見ただけ虚しさを覚える夢。あまりに鮮やかで眩しい、幻だ。

「エド、どうかしたの?」

表情に影を覗かせたエドアルドに、エリザベッタが何気なく尋ねる。笑みを作って、エドアルドは答えた。

「いえ、何も。少し疲れているみたいです」

「そう?そう言えば、昼間はごめんなさいね。ルクレチアが我侭を言ったみたいで」

「いいえ。お構いなく」

自分を気遣う言葉に、同じ笑みのままでエドアルドは返した。くすくすと、未だ姉は笑っている。

「でも、何だか久し振りに楽しかったわ。ご飯も美味しかったし。こんな風なら毎日ちゃんと同じ時間に帰って来たいわね」

「姉さま、私たち、暫くこっちにいるのよ?」

アデレードの何気ない言葉に、ルクレチアが嬉しげに反応する。飛び出したその言葉にアデレードは一瞬驚くも、すぐにも楽しげな顔になり、

「あら、そうなの?あー……でも、毎晩ルゥの相手も、疲れるかなー……」

「姉さま、ひどい!」

「あはは、冗談よ、冗談」

膨れる従妹を姉が笑っていなす。価値のない幻だ、そう判断したはずの光景に、無意識にエドアルドの頬は再び緩んだ。笑い声が室内に響く。遮るように、モントリーヴォがその時、口を開いた。

「エリザベッタとルクレチアは、暫くこの屋敷にいることになった。そのうち、別邸に移るが」

言葉に、エドアルドは父親に向き直った。アデレードもルクレチアも、同じくモントリーヴォに向き直り、その顔に驚きを浮かべる。困った様に微笑んで、エリザベッタは無言だった。誰もが沈黙する中、屋敷の主たる男は言葉を続ける。

「ロミッツィ側も承諾した。離婚の成立も、時間の問題だ」

「叔母様……本当なの?」

驚愕の表情でアデレードが詰め寄るように尋ねる。エリザベッタは肩を軽くすくめて、

「ええ。ごめんなさい、アデレード。お話が遅くなってしまって」

その返答に、アデレードは沈黙する。静まり返る室内、長く重い嘆息をモントリーヴォが漏らす。

「もっと早くても良かった。あれからもう三年だぞ。私も、これで一安心だ」

「母さま……私達、もうモリエーロには、帰らないの?」

不安げに、ルクレチアが母親に尋ねる。尋ねられた母親は優しく微笑んで、

「ええ、そうなるわね。ごめんなさい、ルクレチア。貴女にはもっと早く話しても、良かったのだけど……」

「あちらがリザの離縁に応じたのが昨日の夜だ。話している時間もなかったんだ。ルゥ、リザを責めないでやってくれ」

再び、嘆息と共に重く、モントリーヴォの声が響く。困惑の瞳を彷徨わせ、ルクレチアは言葉を失う。誰もが黙り込む中、エドアルドは微かな苦笑を漏らした。そして、軽い口調で言った。

「いいんじゃありませんか、叔母上は、貴女の妹なのだし。離婚したなら実家に戻るのは、当然でしょう」

場に、奇妙な緊張が走る。誰もが驚きと、奇妙な戦慄さえ含んだ視線でエドアルドを見る。おやおや、と言いたげに眉を上げて、殊更軽く、エドアルドは言った。

「今までのロミッツィの方がおかしかったんですよ。ボカロジアとの繋がりを絶ちたくないが為に、叔母上を縛り付けすぎていた。叔母上だって、まだお若い上に、こんなにもお美しいんです。今度こそ、生涯を共にする伴侶を得ても、罰は当たらない。違いますか?」

その言葉の後、僅かの間を置いて、吐息に溶けるようにエリザベッタが微笑む。ほんの僅かに、困惑しているような笑みで、彼女はエドアルドに返した。

「そう言ってもらえると、気が楽になるわ。有り難う、エドアルド」

「僕は事実を言っているだけです。この家だって馬鹿みたいに大きくて、部屋数だけは無駄に多い。叔母上やルゥの一人や二人、転がり込んだってびくともしませんよ」

肩をすくめ、少々おどけてエドアルドが言う。エリザベッタは安堵したように息を吐き、それをきっかけにするように、その場の緊張がそっと緩んだ。

「エドの言う通りね。うちは大きなのだけがとりえみたいなものだし、ルゥが走り回ったって壊れるほどボロでもないものね」

続けてアデレードがおどけた声で言うと、ルクレチアはそれにすぐにも頬を膨らませ、

「姉さま!」

「やーねえ、ルクレチア。例えばの話よ。そんなにすぐ怒らないの」

声を上げたルクレチアの様子に、アデレードが声を上げて笑う。最後に、安堵の息を吐いたのはモントリーヴォだった。表情は緩むも、言葉はない。笑顔のアデレードは、構わず言葉を続けた。

「二人とも、ここが本当の自分のうちだと思ってくつろいだらいいわ。私は今少し忙しくて、なかなか戻ってこられないけど……今日の夕食は本当に楽しかったもの。こんなに楽しいの、本当に久し振りだし」

「それは私達も同じよ、アデレード。本当に有り難う。心から感謝するわ」

「やぁねぇ、叔母さま。そんな堅苦しいこと、言わないでよ。家族みんなで食事して楽しい、なんて、普通の事よ?」

エリザベッタの言葉に、照れ隠しでもするようにアデレードが返す。確かにそれは、ごく普通の事なのだろう。それでも、ここでは滅多と見られない光景だ。いや、そんなものがここに存在していた事など、未だかつてあっただろうか。表面だけの笑顔のまま、エドアルドは言葉もなく、そんな思いをめぐらせていた。

物心ついた頃には、食卓にはいつも、自分と母親以外、家族の姿はなかった。姉はその頃、まだこの家にはいなかったし、父親は不在がちな上、母親が彼の同席を嫌っていた。理由は解らない。姉であるアデレードがこの家で暮らし始めたのは、彼女の母親が亡くなってからだ。

隣町に、何代か前の当主が作らせた、小さな別邸で、姉はその母親と十五歳まで暮らしていた。彼女がこの屋敷に引き取られた頃、エドアルドの母親はここを出ていた。以来、モントリーヴォが在宅の時、エドアルドの母親がここに足を踏み入れる事は殆どなかった。

それでも、その場所に全く団欒がなかった訳ではない。時折叔母と従妹がこの家を訪ねたその時には、必ず父親と姉、そして生前には祖父が、同じ食卓を囲み、こうして食事をした。それはまるで、ボカロジアの人間が、その血縁ではないものと相容れない、そんな事を暗示しているような光景だった。ルゥと叔母と、初めて食事をしたのは、いつの事だっただろう。不意に、エドアルドはそんなことを思いつく。記憶を辿っても、その先端は見えては来ない。しかしその場所に、自分の母親が同席していた事は一度もない。夫の妹と同席しない妻というのは、果たして尋常な女なのだろうか。それとも、やはりこの家の人間が、どこか歪んでいるのか。

「エドアルド、どうしたの?さっきから黙ったままで」

アデレードが声を投げる。気付いて、エドアルドは我に返った。打たれたように目を上げると、女達の不思議そうな視線とぶつかる。

「いや……寝不足かな……朝はばあやにたたき起こされたし……」

誤魔化すように言って、エドアルドは笑った。心配そうにその顔を覗いて、エリザベッタは彼に尋ねる。

「やっぱり、昼間ルゥが我侭を言ったから、疲れているのね」

「いえ、そんなことは……」

「今夜は早く休んだほうがいいわ。これから抜け出して、バールになんか行っては駄目よ、エド」

心配そうに響きながらも、言葉には皮肉が混じる。思わずエドアルドが目を丸くさせると、エリザベッタは少女のように楽しげに笑い、

「ばあやが困っていたわよ。毎晩のように外で飲んで戻ってくる、って。体を壊さないとも限らないわ、もう少し、自重なさいね」

「……敵わないな、ばあやと叔母上には」

してやられた格好になって、エドアルドは苦笑する。ほんの僅かに離れた場所で、不安げな目でそれを見つめていたルクレチアの表情も、その言葉にそっと緩んだ。

 

 

 

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Last updated: 2008/11/17

 

 

 

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