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モリエーロのロミッツィと言えば、ボカロジアと同じく、某国の王族を端に発する、旧貴族の家系だ。グラローニでボカロジアが、まるでその土地を支配しているかように、ロミッツィもまた、半ばモリエーロの支配者のような存在だ。膨大な資産と土地、そして政府関係者との強いつながりを持ち、中央政府に揺さぶりをかけることさえ容易にやってのける。ボカロジアとロミッツィの違いは、そのパイプの有無だった。一地方の資産家、というには、ボカロジアは余りにも大きな資産を所有しているが、かと言って当主には、中央へ進出しようという気はさらさらないらしい。分家の中には様々な手段を投じて、政治家であるとか、中央の財閥や銀行と繋がりを持とうという輩もいるが、その志は半ば折れることが多い。ボカロジアの名は、中央でもそれなりの価値を持つのか、最初は分家ではあってもそれ相応の処遇をされる。だが、所詮分家は分家である。飽きられればあっさりと手を切られ、逆に吸い取られて捨てられるような憂き目にも会う。これでは自分の家はおしまいだ、と、当主に泣きつく人間も少なくない。とは言え本家の当主はそれほど甘くはない。名を没収するほどの事は今ではできないようだが、それ相応の対処はしているらしい。つまり、手を差し伸べるような事は全くしない。それは当代も先代も、全く同じ考えらしい。滅びるなら滅びればいい、没落するならすればいい。自分達は家を繋ぐ為に生まれた訳ではない。土地を守るために生きている訳でもない。エドアルドの父親も祖父も、その点に関しては何故か共通の認識を持っていた。だと言うのに、この家を捨てようとも、外へ出て自由に生きようともしない。傍から見れば、彼らはボカロジアを堅く守っているようにさえ見える。不思議といえば不思議だった。執着などしないと口にしながら、彼らは家を捨てる事はできずにいる。結局はその財や力に、しがみ付いて生きるしかないと、知っているからなのだろうか。確かに、家という柵よりも、そちらの方が遥かに魅力がある。この土地にいる限り、その財がある限り、ボカロジアの人間に、できない事はない。金に飽かせて派手に生きる事も、その金を回して更なる財を得ることも。例えそれにしくじったとしても、彼らの資産はその穴を埋めて余りあるほどだ。後方を憂うことすら、夢幻の如く、だ。 自分には商才もなければ、政治にも向かない、と、エドアルドは父親と話したことがあった。この家を継ぐなら姉、アデレードの方がずっと相応しい、とも。確かに、商家としてのボカロジアを、このまま永く繋いでいくのなら、彼女の方がその主には相応しいだろう。妾腹ということで、分家の連中は喧しく言うだろうが、今のボカロジアの財産を維持できるとすれば、彼女以外にはいまい。しかし、血統や家柄のボカロジアの後継者となれば、エドアルド以外には存在しない。 分家というのは、祖父以前の当主達が、愛人に生ませた男子から派生したものだ。その中でも商人としての才を持ち、グラローニで豪商と呼ばれるほどまで大きくなった家の子孫だけが、一応の分家としてボカロジアを名乗っている。当然、時流に流されて消えていく分家も多い。本家に直接連なる人間は、実のところ余り多くはなく、その本家の人間の方が、ボカロジアに対する執着も薄い。分家の人間は、それでも本家を守ろうとする。それはその名の持つ影響力の為だ。この地方だけではなく、この国のどこでも、その名は威力を発揮する。その名に縋って生きていく限り、本家はなくてはならない一族の要なのだ。 「……おかしな話だ」 昼下がり。庭木が大きな影を落とす、窓際のソファに横たわり、エドアルドは呟く。庭先ではエレナがまたルクレチアを叱っていた。屋敷に叔母と従妹がやってきて、そろそろ二週間になる。従妹は先日、当主にねだって小さな子猫を手に入れた。どこかで購ったものではなく、散歩に出た先で拾ってきたらしい。それも、四匹。老女中はそれを許した当主にお冠だった。飼うなとは言わないが、余りにも彼がルクレチアに甘い、と言って。結局、紆余曲折を経て、子猫は一匹だけが屋敷に残される事になった。後の三匹は使用人達が手分けして、あちこちに引き取られたらしい。確か一匹は、老女中の孫が引き取ったとか。 ばあやの怒鳴り声が庭から聞こえる。また子猫が何かしたようだ。毎日毎日、年が多いというのにばあやは元気だ。こちらは暑さにやられて、参りかけているというのに。 「お嬢様、その子はお嬢様の猫なんですよ。ちゃんとしつけてくださいまし。でないとばあやは毎日毎日、こうやって怒っていなきゃなりません。寿命が縮んでしまいますよ!」 「きゃーっ、ごめんなさーいっ」 謝りながらもルクレチアは笑っている。体を起こして、エドアルドは庭を覗いた。 あれから毎日のように、家にいる限り、食事は彼女達親子と一緒だった。と言っても仰々しい会食はあの夜一度限りで、毎回エドアルドは、叔母と従妹が使っている部屋に呼ばれる形を取っていた。 部屋、と一口に言っても様々な形がある。扉を開ければそこには、一家族が裕に暮らせるだけの広さがあった。学友が暮らす家族仕様のアパルトメントを尋ねた事があったが、それが今現在、叔母と従妹が使う部屋より狭かった。友人の父親は出迎えるなり、狭いところだが、とお決まりの文句を口にしたが、確かに狭いと内心思ったほどだ。いや、やはりこの家が大きすぎるのか。もし商売が立ち行かなくなったら、貸間でもやったらどうか。それとも、ホテルなんかどうだろう。何気にエドアルドはそんなことを思った事もあった。とは言え、この家が立ち行かなくなれば、モリエーロ一帯が既に立ち行かなくなっているだろう。貸間やホテルをやっている余裕などないに違いない。それ以前に、ボカロジアの商売が総て立ち行かなくなる事の方が、遥かに在り得ないことなのだが。 家を守るということは、どういうことなのだろう。資産や土地や権力を維持し続ける事に、それほどの意味などありはしないのに。それとも、それが人の欲望ゆえなのだろうか。己の望む総てを叶える為の道具は、足りないとは感じても、有り余ることはないのだろうか。 父親は、商売に向いていて、それが嫌いでもないらしい。しかし、祖父と仲良くやっていた、という印象が彼にはなかった。自分と父親以上に、祖父と彼とはどこか距離を置いていた。息子の二つ目の名につけた「チェーザレ」は、モントリーヴォの父親のものだ。名付けた理由が、その名を持つ人間より優位に立ちたかった為だと、容易く想像できる。 同時に彼は、この家を捨てる事も出来た筈だ。実際、そうしてもいいと公言して憚らないし、彼なら一握りの金貨からでも、身を立てていく事ができるだろう。だというのに、どこか躍起になって、この家を維持しようとしている。家庭を守る、などという使命感も、彼には殆どないはずだ。使用人の雇用のことさえ、どうとでもなれと思っている節もある。その辺りは執事を筆頭に、古くからの使用人達が、ある程度制御もしているようだが、比較的若い使用人の顔が、しばしば入れ替わる事も多い。最も、彼が気を回す程の事ではないのかも知れないが。 「兄さま、助けてー」 きゃー、と叫びながら、ルクレチアが窓に駆けてくる。体も起こさず、エドアルドは窓の外に問いかけた。 「何をしたんだい?今日は」 叔母と従妹が来てから、屋敷の中はがらりと様子が変わった。それは確かだ。留守がちだった姉とも、しばしば叔母の部屋で同席するようになった。とは言え彼女は現実に、相当忙しいらしい。顔を出してすぐ退席、ということも珍しくなかった。それ以上に変化を見せたのは、当主モントリーヴォだ。それまで殆ど外でしていた仕事を屋敷に持ち込み、勿論それでも彼が屋敷にいる時間は少ないが、エドアルドと顔を合わせる機会も、当然の様に増えていた。どうやら父は自分の妹の娘、ルクレチアを相当気に入っているらしい。まるで自分の娘の様に、時には膝に上げようとまでする。流石にルクレチアもそこまで子供ではないので、嬌声を上げてそれを拒むのだが。 悪い変化ではない。けれど、こんな時間が続くのも、長くはないだろう。心地好い午睡の様に、それは一瞬のものだ。余りにも儚い。それ故に、失い難いと感じる。それだけだ。 「ジュリオが壁を引掻いたの。私じゃないわ」 「ジュリオ……その猫の名前かい?」 窓からルクレチアが顔を覗かせる。僅かに体を起こして、少女の腕の中の子猫を見遣ると、子猫は不機嫌そうな鳴き声を上げた。 「そうよ、ジュリオ。男の子なの」 何がそんなに楽しくて、嬉しいのだろう。ぼんやり思いながら、エドアルドはそれでも笑った。この子に自分の、本当の胸の内を知られたら、どうなるのだろう。まだ幼い、あどけなささえ残る少女は、驚いて、きっと落胆するに違いない。それを避けたいとまでは思わないが、幸福そうなこの子に水を差すのも、何故か憚られる。いずれは知れてしまう。それでも、今がその時でなくてもいい。薄い笑顔で、エドアルドは言葉を紡いだ。 「大層な名前を貰ったな、そいつは」 「大層?どうして?」 ルクレチアが小さく首をかしげる。子猫は、どうも抱かれているのが嫌いらしい。先程からしきりに声を上げていた。体をしっかりと起こし、窓に寄りかかるようにしてエドアルドは言った。 「ガイオ・ジュリオ・チェーザレ、のジュリオ、だろう?」 「そうよ。兄さまやおじいさまと同じなの」 問いかけに、ルクレチアが笑って返す。その返答にエドアルドは驚きの顔を見せた。それを見て、ルクレチアは再び首を傾げる。 「なあに、兄さま。何かおかしい?」 「いや……意外に物知りなんだなあ、と思って」 言葉の最後に笑い声が混じる。揶揄われたと感じたルクレチアはすぐにも膨れて、 「意外って何よ。これでも私、歴史は得意なのよ?」 「へぇ、そうなんだ。それも意外だな」 「兄さま!」 憤慨するルクレチアの声が耳に届く。あはは、と声を立てて笑うも、その声音はどこかうつろだった。すぐさま、溜め息が漏れる。ふくれっ面のルクレチアの表情も、それと同時に変わった。目つきが翳る。見ないまま、エドアルドはソファに身を沈めた。子猫はまだにゃーにゃーと鳴いている。ルクレチアはそれを離して、窓の中のエドアルドにそっと声をかけた。 「兄さま」 「……何だい?ルゥ」 「元気がないわ……どうかした?」 「いや……別に、どうもしないよ」 返答は素っ気無い。思ったが、エドアルドはそのままにした。もう取り繕えないのかもしれない。ならばそれでもいい。隠していたつもりはない、それでも、今までの自分はどことなく偽りを演じていた。苦痛ではなかったが、後ろめたさがなかったわけでもない。沈黙が降りる。静けさは、真夏の午後だというのに、辺りを冷たく支配した。温いはずの空気が、ぎこちなく、固い。ルクレチアは何を思っているだろう。思って、エドアルドは顔を上げた。窓の外では不安気に、何かに怯えるような目でルクレチアが佇んでいる。見付けると、やけに心が騒いだ。やはりまだ、早いのか。己の真実の姿に、この子は耐えられないか。直感して、彼は苦笑した。ならばもう少し、この幼い少女のために、偽りの仮面を被っていよう。この子を無理やり、大人にする事もない。 「大丈夫だよ、少し暑さにやられてるだけだ。君は、いつも元気でいいね」 「そう?……私が側にいて、うるさくない?」 「……どうして」 ルクレチアの唇から紡がれた言葉に、エドアルドは驚きを露わにした。子供だとばかり思っていたその口から、そんな言葉が出るとは。ルクレチアは言葉を続けた。 「だって兄さま……時々、とても疲れた顔をしてるわ。私達が来たから、その……」 上手く単語を選べないのか、ルクレチアの声が濁る。申し訳ない、というよりも、自分の哀しさがより強く表された顔に、エドアルドはまた苦笑した。この子はまだ子供で、だからきっと寂しいのだ。いや、今までも、ずっとそんな思いで過ごして来たのだろう。家の政略によって結婚させられた両親の元で、金銭的には不自由なくあっただろうが、最も欲するところの愛情には、満たされなかったに違いない。母親の二度目の結婚のために、父親の家も離れ、三年前にはその夫も死別して、頼れる人間もろくにいない土地で、母子二人きりで、半ば閉じ込められるような生活を送っていたのだ。慮って余りある。 それが、この家に来て、我侭を叱られながらも、血を同じくする人間と一緒に過ごしている。そのうちの一人から唐突に突き放されれば、驚きもしようし、哀しくもなるというものだ。この子は、普通の女の子だ。姉のように強くもなければ、自分のように、何も求めずに生きていくことも、出来ない。思い至って、エドアルドは嘆息した。何のために出た吐息だろう。この子を哀れんでいるのか、疎んでいるのか。思いながらも、エドアルドはルクレチアに笑いかける。 「君や叔母上のせいじゃないよ。確かに、今までとは色々なことが変わったけど……」 「……やさしい事、言わなくても平気よ、兄さま」 「そんなんじゃないよ」 ルクレチアが俯く。少し見ない間に、この子は本当に大人になった。なりつつある。体の大きさだけではない。内面も、知らない間にきっと、大人の女になっていくのだろう。愁いを見せる横顔は、少女というには余りにも翳っている。綺麗になるんだな。ぼんやりと心のどこかで、エドアルドはどこか他人事のように、暢気に思った。 「いいの……兄さまは優しいから、そうやって言ってくれるのでしょ?伯父さまも、アデレード姉さまも」 「そう言われると、心外だな」 言葉に棘が含まれる。どうしたことか。聞こえた自分の声に、エドアルドは疑問を覚える。同時に、ルクレチアが再び顔を上げた。意外ではあるが、それでも、彼の口からは、刺々しい声音で、言葉は紡がれた。 「俺や姉さんが、君達を疎んでいると思われているなんて」 「兄さま……違っ……」 「叔母上は父さんの妹だし、君は俺達にとっては、たった一人の従姉妹だ。歓迎こそすれ、嫌がる理由がどこにあるんだ?」 「兄さま、違うの!そうじゃなくて……」 「それとも本当は、君がここにいたくないのかい?ルゥ」 泣き出しそうな反論も、そこで止まる。ルクレチアは俯いて、その目を強く閉じた。しまった、泣かせたか。胸に動揺が走る。どうしたものかと、エドアルドは思いをめぐらせた。ばあやは近くにはいないらしい。もう人声は聞こえてこない。見られていたら彼女の事だ、何をしたのかと自分に詰め寄るに違いない。叱られるのは慣れている。痛くもかゆくもないと言えば嘘だが、それで片付けば造作もないことだ。だが。思い、エドアルドは一人、苦い顔になった。謝ることは簡単だ、声を荒げそうになったのは自分なのだし、それに彼女が怯えても、致し方ないことだ。しかし。 「ルゥ、入っておいで」 言葉の後、彼は息をついた。ルクレチアが顔を上げる。ソファに身を沈めて、重ねてエドアルドは言った。 「そこじゃ話が出来ないよ。おいで」 「……でも……」 「怒っていないから、おいで」 躊躇う声に、怒っていないと言いながらも、彼の言葉は強い。うん、と小さく言って、ルクレチアが歩き出す。数十秒はかかるだろう彼女の到来を待ちながら、エドアルドは溜め息をつく。 確かに彼女達がここへ来て、変化はあった。悪くはないと思っている。そしてそれが、永遠に続くものではない、とも。ならばもっと冷ややかに、事の総てを受け流せるはずだ。自分は、一体何に感情的になっている?あの子の言葉に、どうしてこんなにも苛立つのだ?彼女ももう子供ではない。いや、きっと同じ世代の少女に比べれば、今までの境遇が過酷すぎた分、大人なのかもしれない。気遣われる事に気付いて、それに気を使ったところで、何も不思議でもないだろう。それを痛々しいと思いこそすれ、どうして苛立ちなど、覚えるのか。思うと、エドアルドは自分の中の奇妙な感覚に、眉をしかめた。そういうことなのか。この目が見ている彼女は、家の食客でもなければ、子供でも少女でも、従妹というものでもないのか。そして重く嘆息する。解っていたことだ。彼女が、母親についてこの家に来たのは、三年ぶりだ。その間にも何度も叔母はこの家に訪れていた。長い時には三ヶ月も滞在している。 なのにあの子は、ここに来なかった。学校の都合もあるだろうが、一度たりとも、だ。それでなおさら思い知った。そして解っているはずだ。その理由も、焦燥の訳も。そして、もっと理解している事がある。どうなろうと、どうしようと、彼女を得ることは叶わない。もし叶ったとしても、そこに永遠はない。それは、他の事柄の総てがそうであるのと、同じ様に。ならば夢など、見ないに越した事はない。いつかなくなる幻に焦がれれば、狂って死ぬのが落ちだ。 「兄さま」 足音は聞こえなかった。声がして、エドアルドは顔を上げた。肩を小さく縮めて、扉の前にルクレチアが立っている。今自分は、どんな顔をしているだろう。笑ってはいないが、きっと優しい顔もしていないに違いない。思いながら、それでも構わないと思い切り、エドアルドは言った。 「こっちにおいで、ルクレチア」 「……でも……」 「怒っていないから、もっと近くに来なさい」 困惑の目でルクレチアがこちらを見ている。笑っていないどころの話でもないようだ。それでも、エドアルドの表情は変わらなかった。返答はない。彼は言葉を重ねた。 「もっと近くに。聞こえないのか?」 促される、というよりは、強要される形で、ルクレチアが歩き出す。ソファで、彼はその距離が縮むのを待った。その一歩手前で、ルクレチアが止まる。体を起こして、エドアルドは今にも泣き出しそうなその顔を、睨むように見た。 「兄さま……あの……」 「二度と言わないから、ちゃんと聞くんだよ」 何を言いたいのだ、と、エドアルドは思った。自分はこの子に、何を言って聞かせたいのか、解らせたいのか。言葉など選べるのだろうか。しかし、思惑とは裏腹に、滑らかに、それは彼の唇から紡がれる。 「俺は、君を嫌いだなんて思ったことは、一度もない。確かに、疲れている時や眠い時に、近くで騒がれれば腹も立つ。そういう時にはそう見えるかもしれない。でも、君や叔母上を歓迎しているのは嘘じゃない。逆に、疎んでいるなんて思われたら、その方が哀しい」 「……ほ、本当?」 少女の声が震えている。随分と怯えさせたらしい。それでも、彼は笑えなかった。 何を言っているのかと、自分でさえ耳を疑う言葉だ。嘘ではない。しかし、何かがずれている。ああ、そうか。これはこの子が、自分に望んでいる言葉だ。思った瞬間、エドアルドの心の中の、何かが解けた。無意識に、その表情も緩む。そんなにも自分は、彼女を愛しく思っているのか。こんなにも、傷付けまいとしているのか。そう胸の中で呟くと、体のどこかで大きな流れがうねるような、そんな感覚が起こった。一瞬でそれは消えるものの、大きく痕を残すように、全身に奇妙な強張りが残る。永遠などないと言うのに、この体はそれを欲するのか。解りきった理だというのに、自分はそれに逆らおうというのか。面白い。思った瞬間、口許に笑みが昇った。ルクレチアは何かに戸惑うように、そんな彼を見詰めている。そのまま、エドアルドは彼女に手を差し伸べた。 「ここにおいで」 「え?」 「仲直りしよう、ルゥ」 ルクレチアは戸惑っている。構わず、伸ばした手でエドアルドは彼女の腕をつかみ、引き寄せた。小さく、悲鳴が上がる。抱き寄せて、エドアルドは笑った。 「に、兄さま?」 「昔は、良く一緒に昼寝しただろ?」 「え、あ、お、お昼寝?」 腕の中の少女は赤面して戸惑っている。その愛らしい様子にエドアルドは惚けた様子で、 「ルゥは、兄さまと昼寝するのは嫌か?」 「あっ、あっ、あのっ……」 「いつだったか、君は「兄さまと一緒に寝る、一緒じゃなきゃ眠らない」って大騒ぎした事もあったのに。寂しいな」 口調が、揶揄う時のものに変わる。ルクレチアは真っ赤になったまま、それでも憤慨して、 「し、失礼ね!ルゥはもう、そんな子供じゃありません!」 「そうかなぁ……まだまだ大人でもないと思うけど」 「兄さま!」 激昂したルクレチアの様子に、エドアルドは笑う。こうしてじゃれ合えるのも、きっともう暫くの間だけだ。揶揄っている時、この子はとても可愛い。確かにこれは一瞬で消える。けれど、その一瞬を愛おしいと思うことは、罪だろうか。仮にでも満たされることは、許されない事だろうか。確かに、失う痛みは、この一瞬よりも遥かに長く続く。それでも一時、こんな風にともにいられることを喜ぶことは、愚かだろうか。笑いながらも、エドアルドはどこかでそんなことを思った。胸の痛みを伴うこの感情が、ただそれだけのものでないことに自分は気付いている。この子にそれを知られたら、どうなるのかと考えれば、痛みは張り裂けんばかりになる。けれどその焦燥を隠して、こうしてわずかの間でも、近くに彼女を置いておきたい。永遠が叶わないなら、尚更。 「兄さま?」 僅かに黙り込んだエドアルドに気付いて、ルクレチアがその瞳を覗く。我に返って、もう一度エドアルドは笑った。 「俺は寝るよ。ルゥはどうする?」 「え?え、え、えっと……」 「ああでも、偉大なるジュリオ・チェーザレが、また何か悪戯するかもしれないな。探してくるかい?」 子猫の名前が出て、ルクレチアははっと息を飲む。そして、慌てた様子でエドアルドの腕を解いた。 「そ、そうね。知らないところでばあやに捕まってたら、大変だもの」 その後に言葉も無く、ぱたぱたと足音を立ててルクレチアは彼のそばを離れた。部屋を出るまで見送って、エドアルドは一人、息をつく。 「……好きだよ、ルクレチア」 それまで封じ込めていた言葉を、口にする。七つ年下の彼女に、その想いを抱き始めたのはいつだったか。思いをめぐらせて、エドアルドはまた呟く。 「君を愛してるよ……ルクレチア」 聞かれていないことは解っている。知られれば、何よりもきっと、彼女が怯えて、傷つく。いや、もう知られているかもしれない。三年前のあの日に、もしかしたらとっくに自分は、それを口にしていたかもしれない。覚えていないのは、罪の意識なのか、それとも、天の高みから何もかもを冷ややかに見下ろすような、内なるもう一人の自分からの、警告か。 溜め息は自ずと漏れた。聞くものはいない。夏の暑さに反したその冷たさと重さに、エドアルドは眉をしかめた。 その夜エドアルドは、叔母の誘いを断った。友人と約束がある、と偽って、町へ出、いつものバールに足を運ぶ。連れなどいはしないが、カウンターには馴染みの顔ばかりが並んでいた。銭があるなら奥に席でも取れ、と、いつか揶揄われたが、彼にしてみればどちらにしてもはした金だ。奥でも表でも関係はない。古びたビニル張りの椅子に腰掛けてカウンターの奥に声を投げる。アルコールが出るより先に、背中に纏わりつく気配があった。 「エドアルド、久し振りー」 女の、嬌声にも似た声が聞こえた。酔っ払っているらしい。振り返らずとも誰がそこにいるのか解った。いつも夜明け前には帰るが、彼女の部屋でベッドを共にした事も何度もある。娼婦ではないが、体の関係以外はなかった。父親がいつか言っていた。金以外で女と関わるな、身を滅ぼしかねない、と。 最初の夜、その女は支払いを拒んだ。理由は二つ、まず自分がそれを生業にしていないこと、もう一つは、哀れに思っただけだから、と。相手はボカロジアの当主の一人息子だ。上手くやれば一夜の伽で一生楽に暮らせるかもしれない。それなのに、その女はそういったことに興味がないらしい。ただ可哀相だから、と。だから払わないでいるが、いつか請求されたとしても、彼はそれで構わないと思っていた。心はここにはない。他の誰かを思ってしているわけでもない。それは身を滅ぼす。父親は、意味を解って言ったのかと、時折疑問に思うが、それは的を得ている言葉だ。癪に触るが従うのが賢明だった。 「ここんとこご無沙汰だったじゃない。何してたのよ?」 「別に」 「とか何とか言って。解った、本命の彼女が出来たんだ?そうなったらあたしはお払い箱?やーねぇ、寂しくなるわぁ」 「思ってもないだろ、そんなこと」 エドアルドの返答は素っ気無い。その女以外にも彼に近付こうという女は多い。ボカロジアの直系の名を持っているのだ、当然といえばそうだった。が、どうやらそれだけでもないらしい。女達には、彼の冷たいその態度が、どうやら好ましく思えるらしい。加えて神秘的とも言えそうな、暗い色の髪と瞳を持っている。睨まれただけでも、艶めいた吐息を漏らす女もいる。同じ年頃の男達が競う様に誰かを口説いている傍ら、彼にはそんな気配がまるでなかった。競うほどでも飢えるほどでもない、というのがエドアルドにしてみれは実情だ。僅かにそぶりを見せれば、誰もが尻尾を振ってついてくる。誘うという程の手管もいらない。それでも、なるべく他の女に手出しはしない。無用のトラブルを避けるため、というのもある。分家の目も、素行の悪さに関しては特に鋭い。喧しく言われるのも鬱陶しかった。それも一笑に伏して終わる事ではあるのだが。 「なーんてね、噂は聞いてるわよ」 女はくすくす笑ってエドアルドの隣に座った。ちらりと視線を上げる。栗色の巻き毛を長く伸ばした、豊かな胸を持つ、彼よりも年上のその女は、短いスカートからすらりと伸びた足を高く組んで、ニヤニヤと笑ってみせながら、言葉を続けた。 「何だか大仰なお客が、あんたんとこに来てるって。もしかして父親の再婚相手?」 「叔母だよ。親父の妹だ」 短く、エドアルドは返した。女はその大きな目を更に見開いて、 「叔母さん?」 「モリエーロのロミッツィから、戻ってきたんだ」 「へー……そうなんだ……出戻り?」 臆する事無く女が尋ねる。あまりしゃべらない方が賢明か。思いながらもエドアルドは返した。 「三年前に死別してる。引き止められてたらしい」 「へー……それってあんたの父親が、ボカロジアの頭領だから?」 「多分な」 へー、へー、と女は感嘆の声を繰り返す。そして、 「やっぱ金持ちとか貴族って、面倒だわ。ダンナが死んでも次の相手もマトモに探せない、なんて」 「そうだよ。ジルくらいが気楽でいいんだろうな」 名を呼ばれて、同時にあてつけられて、女は一瞬目を丸くさせた。が、怒る訳でもなく、あはは、と軽く笑う。 「そーねぇ、あたしくらいなのが一番気楽よね。三回も離婚して、親とも喧嘩して縁切って、今じゃ一人でふらふらしてる。それでもってボカロジアの坊ちゃまのセフレだもん。お気楽よね」 言葉に他意は全く感じられない。エドアルドは暫し彼女を眺め、それから、普段通りの素っ気無さで言った。 「ジルは最初から、俺に金をせびる気、なかったのか?」 「ないない。いつも言ってるでしょ。あたしはあんたが可哀相だから寝てるんだ、って」 女はそう言ってからからと笑う。その言葉が気に入らず、エドアルドは少しだけむきになって聞き返した。 「可哀相ってことは、愛してるってことだって、どこかの国の文豪が言ってるぜ?」 「何それ。ありえない」 手をパタパタ振りながら、ジルは軽快に答える。この女は、はっきりしていて後腐れがない。最初の夜には金を取らないことに驚き、多少困惑もしたが、本気でそんなつもりはないらしい。こういうのを割り切った関係、とでも言うのか。 「あんただけじゃない。他の男とだって、そんなの抱えて寝たりしないよ。どんなに愛したって、男は裏切る。寝たら尚更ね。だから金も取らないし、追い縋らない」 「そういうもんか?」 「あたしはそうよ。これがあたしの真理。でも、あたしも可哀相なのよ。一人で眠れないくらい、寂しい夜があるんだから」 女の言い分は矛盾している。どんなに愛してもいつか裏切られる、体を許せば尚更、それが辛くなる。だから誰も愛さない。だというのに、愛されたいとどこかで願っている。 けれど人間とは、所詮はそんなものか。失う事に怯えて、得ることも躊躇う。だというのにいつも渇望している。この女も自分も、きっと同じ類の人間なのだろう。その矛盾からは逃れられない。 だから彼女は金を取らない。可哀相なのは自分も同じ、だからだ。 「一緒にいとこが来てるんだ。姉貴も、お気に入りらしい」 「へー、じゃ、あんたは忙しい父親と姉貴の代わりに、お相手役ってとこ?」 「そうだな」 何気なく、エドアルドの口から言葉が漏れる。ジルは合点がいったとでも言いたげな顔で、また感嘆の声を漏らす。そして、 「あんたのいとこかぁ……年はいくつよ?」 「十七。言っとくけど、女だぞ」 「十七!……って、言っとくけど、って何よ?……え?十七歳の女の子!?」 その年齢に驚いた後、更にまた驚いた声をジルが上げる。へー、へー、へー、と、更に感嘆の声は続いた。その後、女の顔がにやりと歪む。何がおかしいのか。何かおかしなことを言っただろうか。思って、エドアルドは言った。 「何だよ」 「じゃ、あんたは「お兄さま」なわけだ?」 「……何だよ、だから」 「十七歳の従妹かぁ……へー……その従妹ちゃんは、お兄さまがこんなところでこんなのとつるんでる、なんて、知ってるの?」 言いたい事が全く解らない。エドアルドが何も答えないでいると、ジルは声を立てて笑い出し、ばしばしとエドアルドの背中を叩いた。 「ちょっ……何だよ、いきなり!」 「何だよ、じゃないわよ!あーもー、考えただけで笑えるったら。その子にバレたら大騒ぎね。「お兄さま、こんなところでそんな女と何をなさってるの、不潔よ!」とか言って」 言いながらジルは、カウンターテーブルをばんばん殴ってげらげら笑った。振動でテーブルの上のアルコールに波が立つ。こぼれそうだと思いながら、エドアルドはグラスを手に取り、無言でそれに口を付けた。ひとしきり笑って、ジルはいったんそれを収める。が、相当おかしいらしい。こらえきれずにまた笑い始める。何だ、この反応は。思いながらエドアルドは傍らの女を睨む。睨まれた女はにやついた笑みを顔に貼り付けたまま、やけに楽しそうに言った。 「珍しい」 「何が」 「あんたが家族のこと話すなんて。しかも自分から」 ジルはまた声を立てて笑う。果たして、それは自分から言った事だったか。聞かれた質問に答えたら、自然とそうなっただけのような気がするが。エドアルドは答えず、そんなことを思った。カウンターに頬杖をついて、ジルはふふふ、と笑うと、少々わざとらしく言った。 「寂しくなるわぁ、これから」 「……何が」 「何が、じゃないでしょ。あんたはきっと、ここに来なくなる。それってちょっと寂しいじゃない?」 「……そんなこと、思ってないだろ」 返答が、遅れる。それは女の「寂しい」という言葉に反応して、ではなかった。女にもそれは解っているのだろう。ふふふ、とまた、楽し気に笑う。 「図星なんじゃない。あんたはここに……全く来ないってこともないだろうけど、確実に回数は減る。あたしと寝る事もなくなる」 他の女なら躊躇いそうな科白を、ジルは簡単に言ってのける。エドアルドはその態度に僅かに怯む。それさえも楽しいらしい。彼女はご機嫌だった。何がそんなに楽しいのだろう。単に酔っているだけの話か?それとも。 「……ジル」 「何」 「……誘ってる、のか?」 尋ねると言うより、確かめるような声だった。ジルはその問いかけも笑い飛ばし、 「何それ。さっきあんたが言ったんでしょ?寂しいなんて、思ってないくせに、って」 「……そうだけど」 「別に死に別れるわけじゃなし、ここを覗いてりゃ、たまにはあんたの顔も見るだろうし。遊んでくれない分には、ちょっとはそうかもしれないけど、それだってそれだけの事よ。寂しくなんかないわ。それとも……あんたがやりきれないなら、付き合ってやっても、いいけど?」 何について、どう、とは聞かない。エドアルドは笑うジルを見ていた。肩を軽くすくめて、女は彼の目を、悪戯っぽく覗き込む。 自分はこの女に何を求めて、抱いたのか。ただ欲求を満たすためだけなら、もっと簡単な相手は幾らでもいた。金で話がつけば、唸るほどにあるのだ、それが一番簡単だ。払いを拒んだ女と、時折夜を共にすることは、危険な事かもしれない。それを解っていなかったのか、それとも、解っていても、その危険を冒すメリットがあったのだろうか。 答えは解らない。いや、それは彼女の言った「可哀相」の、その理由なのかもしれない。同情以下の、憐憫で、体を許したというなら、許された側はそれだけ、哀れだという事だ。救われようもない。思って、エドアルドは笑った。自分は、自分でも嘲けきれぬほど、哀れなのだ。真理を知るその女が言うのだから、間違いはあるまい。 「じゃあ……気持ち良くしてくれよ。俺は可哀相なんだろ?」 自暴自棄な言葉に、ジルは笑うのを一旦やめた。しかしすぐにまた、今度は別の意味を含んだ笑みを浮かべ、ずいとその顔をエドアルドに近づける。 「そうよ、見てられないくらいに可哀相。その辺の、けだものみたいなヤツより、ずーっと可哀相」 「どうして」 「そんなの知らないわ。でもあたしと寝て気持ち良くなっても、やっぱりあんたは可哀相なままよ」 「じゃ……なんで俺にやらせるんだ?救ってくれる訳でもないのに」 「ばかね、それはあたしが女だからよ」 答えになっていない。思ったが、エドアルドはそれを口にしなかった。唇は女が自分のそれで塞いだ。暖かく、柔らかい感触が包み込む。この女とも最後かと、何気に思いはしたが、寂しくも辛くも感じない。捜せば、自分に悦楽を供じようという女は幾らでも現れる。口付けなど、求めるというほど欲せずとも、いつでも得られる。その体も同じ事だ。 女の、ゆったりとした口付けが終わる。熱を孕んだ唾液が糸を引いて、音もなく切れた。 カウンターの上に飲みかけのワインを残して、エドアルドは席を立つ。腕は組まなかった。女は彼を先導しても、振り返ることはなかった。 屋敷に戻ったのは昼過ぎだった。女の部屋の狭いベッドで、眠るでも起きているでもないような時間を過ごして、体には澱の様な疲れが溜まっている。最後という言葉が引っかかりでもしたか、と何気に思うが、単に眠っていないだけのことかも知れない。とは言え、いつもよりそれが重かったとすれば、久々だったせいもあるだろう。叔母と従妹が来て以来だ。それでも、久しいと言えば大袈裟だが。 行為は悦楽を運ぶ。運ばれる悦楽は、自分の中の野生を揺さぶる。それに浸っていたいという強い願望は、更に悦楽を求めて、まるで生きているこの体を削ぎ落とさんばかりに、自分を追い立てる。果てても、その向こうへと、体が渇望する。男は誰もみな同じだ。本能を掘り起こせば、飾っているものなど無に等しくなる。得たいもののために、何もかもを忘れる。それを奪うまで、止まる事はない。 しかしそれはいつでも手に入るわけではない。それは不自由ということになるのだろうか。不自由である、自由が利かない。だから己を律している。だとすれば、この家にしがみ付いていれば、律する必要などないのかもしれない。門扉を外から眺めて、エドアルドは思った。 女を抱くのは、嫌いではない。むしろ自分はそれが好きなのだと思う。肌の感触も匂いも、気が付けば総てを、まるで麻薬のように欲しがる自分がいる。達する時の感覚も、恍惚も、一瞬だというのに忘れられないほどの快楽だ。四六時中行為に没頭していれば、確かに体が持たない。それでも、絶え間なくそれがあればと思う瞬間が、ないわけでもない。 しかし同時に、そう思う自分がいることが、余りにも愚かしく感じる。それが何のためのものなのか、単に一時の悦楽のためだとするなら、その一時の為にどれだけの事が意味なく過ぎ行く事か。そして自分にとって、女と寝る事は、それ以外の何も伴わないのだ。愛情だのというものは欠片もない。ましてや、そんな言葉で誤魔化すような事さえない。単に欲求を満たすためだけ、その欲求も、満たした後にはただ虚しさがあるだけだ。愚かしい。余りにも、愚かしすぎる。 「あら、ごきげんよう、エドアルド。今頃お帰り?」 門扉の中から声がして、彼は顔を上げた。くつろいだ格好の、化粧もしていない姉の姿がある。苦笑して、エドアルドはアデレードに返した。 「お早う、姉さん。今日は休みなのかい?」 「ええ、ちょっと疲れが溜まって、無理やりに。昨夜なんかわざわざ運び込まれたわ」 姉の口調は不機嫌だ。何事かと、エドアルドは重ねて問う。 「運び込まれた?」 「立ちくらみがしたのよ。そしたらマルコが……」 「過保護……いや、それは当然かな。彼は貴女の片腕で、婚約者なんだから」 聞きなれた名前に、エドアルドが笑う。アデレードは眉をしかめて、門の外の弟を睨みつけた。 「婚約者、ね……」 「何だよ……何か、不服でも?」 「不服だらけよ、貴方にも、その婚約者にもね。昨夜はどこにいたの?」 アデレードの目つきに鋭さが増す。目を丸くさせ、エドアルドは答えずに聞き返す。 「何かあったの?昨夜」 「先に私の質問に答えなさい、エドアルド。昨夜はどこにいたの?」 語調の鋭さが増す。エドアルドは苦笑して、 「姉上の想像通りのところですよ」 「……でしょうね」 「解っているなら、聞かなくてもいいでしょう?意地の悪い……」 相当機嫌が悪いらしい。思いながら、エドアルドは外から門の鉄格子の扉を開けた。きしむ音を立て、それは容易に開く。アデレードは溜め息で弟を迎え入れ、苛立たしげに吐き捨てた。 「叔母さまが出てきたのよ、迎えに。それで、彼に言ったの。アデレードは焔の様だ、って」 「それは……でも、褒め言葉じゃないのかな」 「そうね、叔母さまはそのつもりなんでしょうね」 婚約者の前で恥でも掻く羽目になったか。姉の様子を慮って、エドアルドは無言だった。くつろいだ、というよりアデレードの格好はほぼ寝巻きだ。こんな姿で庭先をうろついていれば、またあの老女中がうるさかろうに。思っているエドアルドに全く構わない様子で、アデレードは更に言った。 「それでもこんなに魅力のある女性は、他にはいない、ですって。いけしゃあしゃあと」 「……何が気に入らないんですか?それの」 その言葉も十分、褒めているというよりも惚気に聞こえるのだが。アデレードの苛立ちは治まらない。ああそうか、と、エドアルドは思いつく。魅力的なのは、その焔の様な気性ではなく、この家の名だ。それが彼女には気に入らないのか。しかしそれも、ボカロジアの人間なら言われて当然の事だ。今更気にするほどの事でもないだろう。エドアルドは苦笑を漏らした。そして、 「姉さんは……マルコをどうして選んだのさ?」 「……どうしてそういう話になるのかしら、今」 「聞かれたいんじゃないのかい?それを」 弟の口調が揶揄い気味になる。アデレードは益々眉をしかめ、更にきつく彼を睨む。 「……彼は優秀よ、それだけだわ。一生私についてきなさい、とは言ったけど……」 「へえ、そうなんだ」 素っ気無く言って、エドアルドはアデレードを置き去りに、歩き出す。アデレードは悔しそうな目でそれを追い、後に続くように歩き始める。 「それで、どうして婚約者に?」 「私に忠誠を誓ってくれるなら、ボカロジアの家の損にもならないわ」 「でも、彼がこの家の名に魅力を感じている事は、気に入らないんだ?」 アデレードが黙り込む。言いすぎたか、思ってエドアルドは歩みを止め、振り返った。俯き加減に、アデレードは歩き続けている。そのまま自分を追い越す彼女を、エドアルドは見送った。 「姉さん」 「……そうしてでも、側にいさせたいわ。向こうは私を愛してはくれないけど、ボスである私を裏切る事はない。今のまま、お互いに利用価値があれば」 アデレードは、言葉を残して歩き去る。三人目の夫は、自分の片恋で選んだのか。その事実にエドアルドは驚いていた。姉なら解っているはずだ。それがどれほど意味も価値もなく、そして愚かしいかを。数メートル見送って、エドアルドも再び歩き出す。追いながら、エドアルドは思わずそれを口にした。 「意外だな」 「何が?」 「いや……姉さんは、そういうことは、もっと割り切っているかと……」 「利害関係だけの結婚なんて、良くある話でしょ。その辺は私も、そのつもりだけど」 「いや……そうじゃなくて……」 「私の母親が愛人だから、男と女の愛情なんて、とでも言うと思った?」 アデレードが振り返る。口許には意地の悪い笑みが昇っていた。先んじて言われて、エドアルドは再び閉口する。アデレードは意地悪く笑ったまま、どこか得意げに言った。 「お前の言いたいことは解るわ。きっとみんな、同じ様な事を思っているだろうし。確かにそれは綺麗事よ。それが美しいものだ、なんて、口が裂けても言えない。でも、それとこれとは違うわ」 「違うって……何が?」 「一つ、いいことを教えてあげるわ」 ふふん、と、鼻先でアデレードは笑う。楽しげなのは、自分をいたぶろうとしているからか。彼女の態度にエドアルドがそれを感じ取る。笑いながら、アデレードは言葉を続けた。 「母さんと二人でレヴォアにいたころ、毎月この家から誰かが来てたわ。私の様子を見させるために、おじいさまと父さまが寄越してたのよ。どういうことか解る?」 「さあ……」 「少なくとも、私の母さんは、あの人のことを愛してた。だから抱かれて、私を産んだ。それが解っていたから、あの人達は母さんにせびられていた訳でもないのに、私達にそれ相応の暮らしをさせてくれていた。そういうことよ」 勝ち誇ったように見えるのは、気のせいか。それとも女というのは、姉ほどの人間であっても、そんな夢を見るものなのか。思いながら、エドアルドは思わず、昨夜聞いた女の言葉を口にした。 「どんなに愛しても、男は裏切る、っていう女がいる。抱かれれば尚更だ、それが真理だ、って……」 「残念ね、それはその人だけの真理よ。それとも、裏切られるのが怖いだけの、臆病者の言い草だわ」 姉の顔は変わらない。誇り高き女帝のようにさえ見える。どうしてこの人は、こんなにも毅然としているのか。思いながら、エドアルドはほぼ無意識に、次の言葉を紡いだ。 「俺は……目に見えないものは、信じない」 「そう……ならそれが、お前の真理よ、エドアルド」 アデレードは、それを肯定も否定もしなかった。彼女の笑みは、意地悪く、誇り高く、そして動じない何かを秘めていた。ふふ、と小さな笑みを漏らし、アデレードは歩き出す。先へと進む姉を見送っていると、進んだ彼女がまた口を開いた。 「ルゥがしょげてたわ。自分が何かしたから、お前が出かけたんじゃないか、って」 その名前に、エドアルドの心臓がぎくりときしむ。それさえ見透かしているように、アデレードはちらりと彼を見る。 「謝るなり機嫌をとるなり、しておきなさいよ。嫌われたくなかったら」 「……そうだね、考えておくよ」 胸がきしんだのは一瞬だった。後には、何かが抜け去ったような脱力感だけが残る。これは何だ、思いながら、暫くエドアルドはそこに立ち尽くした。姉の姿が屋敷の中へと消えても、彼はそこから歩き出そうとはしなかった。 時計は昼を回っていた。こっそりと私室に入ろうとするところを、いつも通りにばあやに見付かり、説教を食らう事、数十分。エドアルドが自分のベッドに飛び込んだのは、家の門をくぐってから一時間以上経ってからのことだった。しかも、ばあやはまだ側にいる。 「シャワーくらい浴びたら如何です?若様」 「……勘弁してくれよ、エレナ……」 「だったら昨夜の早いうちに、お帰りになれば宜しいんですよ。それに昨夜は、アデレード様がマルコさんをお連れになったんですよ?そんな時に、おいでにならないなんて」 「……そうらしいね、聞いてる」 返答する気力はとっくに失せていた。が、ばあやのおしゃべりは止まらない。相手をしなければしないで、この老女中はまたうるさい事を言う。が、今は本当に眠い。ベッドにうつ伏せになって、エドアルドは困りきった声で言った。 「ばあや……今俺、死にそうに眠いんだよ……勘弁してくれないか……」 「それもこれも自業自得でございますよ。でもまあ、良うございます。今はごゆっくりお休みなさいまし。でも夕食前にはお起きになって、シャワーを浴びて、もう少しましなものに着替えてください。解りましたか?」 「……解った、努力する」 返答も妖しくなる。ばあやは全くもう、とか何とか言いながらため息を吐き、ベッドに突っ伏した彼に背を向け、歩き出そうとする。エドアルドは遠ざかる気配に気付いて、眠いと言いながら、ばあやに問いかけた。 「ねえ、エレナ」 「何です?若様」 「姉さんが家に来る前は……どんな暮らしをしてたか、エレナは知ってるかい?」 問いかけに、老女中は皺に隠れそうな目を僅かに見開いた。そして、少し困ったように笑うと、 「ええ、少しは。けど、何です?急に……まさか……」 「姉さんに、ちょっと聞いたんだ。良く考えたら、俺も、姉さんの昔のこと、良く知らない……」 振り返った老女中の顔に驚愕が走るのを、エドアルドは見ていなかった。言葉は途切れて、そのまま寝息になる。老女中は見守るようにそれを見詰めていたが、しばらくするとその場で安堵の息を吐き、そのまま無言で部屋を去る。くうくうと無邪気に、エドアルドはそのまま眠っていた。 目が覚めると、辺りは夕暮れに包まれていた。夏の日は長い。いつまでも太陽が空に留まっているおかげで、時計以外に夜を知らせるものがない。それでも部屋の薄暗さに、時間の経過を感じてエドアルドは体を起こした。昨日から着たままのシャツは汗にまみれている。しわくちゃになったその胸元から手を入れ、汗で蒸れた肌を掻く。時計が指す時刻は、夕食というより既に夜食の時間だ。起こされなかったのか、それとも、起きなかったのだろうか。まだ眠気に支配され気味の目蓋を無理やり開けるようにして、サイドボードのライトを灯す。もう少し頭がはっきりしてきたら、シャワーでも浴びよう。今夜はこのまま眠れるだろうか。何となくエドアルドはそんなことを思った。パタパタと、どこか遠くから足音がする。開け放たれた窓の方からだ。何気に視線をめぐらせると、そこに黒い人影が二つ、見えた。使用人か、それとも、姉か、従妹か。見るでもなくそちらに意識を向けていると、若い女の声が聞こえてきた。 「待ってよエレナ、どうして教えてくれないの!」 影の一つは、姉らしい。そしてもう一人は、老女中のようだ。ベッドを出て、ふらつく足取りでエドアルドは窓に向う。薄暗い部屋の中に、アデレードの、怒りと悲しみのこもった、悲鳴のような怒鳴り声が聞こえる。 「どうしてもこうしても。確かに私は古くから、このお屋敷にお世話になっております。けれども、知らないものは知らないんですよ。お嬢様、もう勘弁してくださいまし」 「嘘よ!だってエレナだって、あの頃、私達のところにっ……」 姉は、ばあやに何か尋ねているらしい。それも、何かとても重要な事のようだ。窓からエドアルドが覗く。何をしているのかと、尋ねようとしてできなかったのは、そこに見えた姉の表情が、余りにも悲痛だったからだ。叫びは、再び庭に響く。 「貴女の、姪だったんでしょう?私の母さんは……おじいさまの、隠し子なんでしょう?」 言葉の意味が解らなかった。これは夢か、それとも、現実なのか。詰め寄るアデレードに、エレナの表情は変わらない。困った、と言わんばかりの顔つきで、深く息をついて、ばあやは頭を下げた。 「お嬢様、ばあやはこれで失礼致しますよ。何かありましたら、若い者にお申し付け下さいまし」 アデレードに背を向けて、エレナは立ち去る。残されたアデレードは暫くそこに立ち尽くしていた。泣き出すだろうか。エドアルドは思いながら、しかしそれを見ているだけだった。疲れたように、アデレードが踵を返す。目があったのはその時だった。無言のアデレードも、その表情は驚きに染まっている。エドアルドは動けないまま、 「あ、いや……声がしたから、誰がいるのかと、思って……」 アデレードはそう言ったエドアルドから視線を逸らし、歩き出す。窓から身を乗り出し、エドアルドは彼女を呼び止めた。 「姉さん」 「聞いていたのね。立ち聞きなんて、あんまりお行儀のいいことじゃないわよ、エドアルド」 アデレードが足を止めた。その言葉に、エドアルドは何も返さない。言葉が、出なかった。姉の母親が、あのばあやの姪だというのだ。驚かない訳がない。しかもそれが、祖父の隠し子、だとは。 「……本当なのかい?今の……」 それでも、尋ねずにはいられなかった。アデレードは薄く笑っていた。笑顔だというのに、そこにあるのは哀しみだけのようで、エドアルドはその表情に怯んだ。この強気の、炎のような姉が、こんな顔をしようとは。昼間聞いた、片恋の話も意外だったが、こちらはもっと意外だ。この人が、泣きそうな顔をする、なんて。思っていると、アデレードが口を開いた。 「そういう噂もある、って話よ。まだ確かめてはいないわ」 「じゃあ……」 彼女の言葉に、何故か安堵を覚えて、エドアルドがほっと息をつく。アデレードはくしゃくしゃと、自分の髪を掻く。そして不思議な笑みのまま、 「でも、だとしたら、この家の人間は最低だわ。私は、父さんもおじい様も……誰も許さない……」 声は、憎しみに染まって、僅かに震えていた。吐き捨てて、アデレードは歩き出す。もしかしたら姉は、もうこの家に戻らないかも知れない。直感が電撃の様に、エドアルドに走る。引き止めるべきか、それとも。思い、戸惑う彼に、アデレードはもう一度振り返った。そして今度は笑いもせず、射抜くような目でエドアルドを睨む。 「姉さん……」 「お前も、あの二人のようになるのかしらね。この家の男だから」 「……姉さん、俺は……」 緊張が走って、咽喉が枯れる。やっとの事で紡いだ声も、掠れて、言葉にはならない。 「せいぜい上手く立ち回りなさい。外に作った子供に、情けなんてかけては駄目よ。私のように……信じていたものに裏切られて、傷ついてしまうから」 アデレードは歩き出す。エドアルドに言葉はなかった。夕闇を、姉の後姿が遠のいていく。上手く立ち回れと言った彼女の言葉が、頭の中でこだまする。上手くとは、どういう意味なのだろう。ぼんやりとエドアルドは思った。そしてどこかで冷ややかに、姉もまた愚かな女なのだと、そんなことさえ感じた。 それは手に入れられない幻だと、あの人も知っていたはずなのに。どうしてそれを望んだのか。解っているのなら、手を伸ばすことは愚かな行いだ。それとも、そうせずにはいられないのか。何のために、どうして? 気がつくと、彼の眉は歪んでいた。気分が悪い。寝ている間にかいた汗のせいではないだろうが、シャワーでも浴びて、気分を変えたい。そう思って彼は窓から離れた。室内の明かりを灯し、シャツを脱ぐ。胸元に奇妙な赤い痕がついているのに気付いたのは、その時だった。明らかに故意につけられたと思しきその痕に、またエドアルドは眉をしかめる。 人の想いなど、信じるに足るものではない。束の間に消えて、次にめぐり合う時、それはもう、風の彼方に吹き飛ばされている。 だから信じないと、あの女は言っていた。姉は、それを臆病だと言いながら、裏切られたと吐き捨てた。ならば、それはやはり、価値のあるものではないのだろう。不確かであるなら、それに意味はない。縋れば、それに裏切られる。失くせば、痛みに耐え切れず、忘れるために、別の傷を作る羽目になるかもしれない。 父親がいつか言っていた。金以外で女と関わるな、身を滅ぼしかねない、と。 それはもしかしたら、こういうことなのだろうか。思いながらエドアルドはシャワールームに向って歩き出す。気分が悪い。シャワーだけでは洗い流せない何かが、この体には纏わりついている。いや、この体の中に、棲んでいるのか。思う彼の顔に、表情はなかった。洗い流せるものなら、流してしまいたい。叶わないなら、この体ごと、捨ててしまいたい。思って、直後、彼は苦笑した。いや、それを思うことすら、意味がない愚かな事だ。覚えている事さえも。なら、忘れてしまえ。ぬぐう事ができない、それが人の言う宿命なら、感情など、殺して生きればいい。 幻は追わない。手に入らないもの、不確かなものには、価値はないのだから。思い直すと、口元の笑みは更に冷たくなる。部屋の電話が鳴ったのは、その時だった。耳につく古いベルの音に、エドアルドは視線をそちらに投げる。部屋の真ん中にすえられたテーブルの上で、今時流行らない、ゴシックスタイルに作られた固定電話が鳴っていた。無言で歩み寄り、受話器を取る。 「もしもし」 『兄さま……あの、ごめんなさい、寝てた?』 「いや……起きてるよ」 従妹の声に、何故かエドアルドの表情が緩んだ。不安げで頼りない細い声は、良かった、と電話の向こうで息をつく。そして、 『今から……兄さまのところに、行ってもいい?』 「構わないけど……どうして?」 『うん……母さまが、伯父さまとお話があるから、って……』 戸惑いながらルクレチアが言う。聞いて、エドアルドは吐息の様な笑みを漏らした。 「いいよ……こっちにおいで」 『有り難う、兄さま』 電話が、彼女から切られる。受話器を置いて、何気にエドアルドは息をつく。このままこんな風に、彼女を偽り続けられるだろうか。そんな思いがよぎると、その顔から表情は消えた。 ルクレチアは間もなく部屋にやってくるだろう。その前に、この汗臭い体を何とかしておこう。嫌われるのは構わないが、理由が汗臭い、では格好も付かない。思いながらエドアルドは再びシャワールームに向けて歩き出す。いっそそんな下らない事で、嫌われてしまうべきかもしれない。今ならまだ、あの子を深く傷付ける前に、総てを捨てられるかもしれない。そんなことさえ考えながら。 |
Last updated: 2008/11/17