カンタレラ

 

V

 

 

エドアルドがシャワーを浴び終えると、自室の中央のテーブルに、ルクレチアの姿があった。部屋着らしい薄桃色のワンピースにショールをまとい、腕に子猫を抱えた少女は、髪を拭きながら歩いてくるバスローブ姿のエドアルドを見ると、立ち上がり、

「兄さま、ごめんなさい……あの……」

「構わないよ。父さんに部屋を追い出されたんだろう?」

そのままでエドアルドは歩み寄り、困惑しているルクレチアのそばまでやってくると、その顔を見下ろし、笑った。ルクレチアは焦った様子で、そのまま言葉を続ける。

「ほ、本当は、客間かどこかを使おうかなって思ったの。でも、エレナもルカも、見付からなくて……その……」

屋敷に来て二週間の彼女には、まだ馴染みの使用人があまりいないようだ。自分を頼ることに戸惑う様子も愛らしい。思って、エドアルドは笑う。そして、

「何かありましたら遠慮なく、このエドアルドにお申し付け下さい、セニョリータ」

おどける様に、エドアルドが笑いながら頭を垂れる。ルクレチアはその様子に僅かに笑い、奇妙な困惑と緊張を解いた。

「ごめんなさい……有り難う、兄さま」

いつもの笑みがその顔に昇る。無言でその少女の髪を撫でて、エドアルドはクローゼットに向って歩き出す。

「父さんは、一体叔母上に何の用なんだい?こんな時間に」

「私の、学校の事、みたい」

「君の?じゃあ君を追い出す事もないのに……何を考えているんだか」

ルクレチアはテーブルの側から動かないまま、着替え始めるエドアルドを目で追う。着替えを適当に見繕うと、手早くエドアルドはそれを身につけた。濡れたままの髪を拭きながら、再び彼はルクレチアの元へと戻る。

「きっと私には解らない、難しいお話があるのよ」

ルクレチアは困ったように笑っている。エドアルドは首をかしげて、

「そうかな……君も、もう小さな子供じゃないんだ。自分のことなら、きちんと聞いた方がいいんじゃないのかい?」

問われても、ルクレチアは笑っているだけだった。無言のままの彼女に、エドアルドはそれ以上を言うのをやめる。そして、

「それで、ルゥ、どうする?」

「え?どうって……」

「俺が、客間を使ってもいいけど?」

時計の針は、既に真夜中を指し示している。つい先程目を覚ましたエドアルドにはどうということはないが、昼間普通に起きていたルクレチアには、そろそろ眠気に襲われる頃合だろう。問いかけに、ルクレチアは目を丸くさせていた。行き場がないから、と頼ってきた彼女は、それからやっと気付いたように、

「ううん、いいの。ここは兄さまのお部屋なんだし……お話が終わったら、ここにいるから、って、母さまにも伯父さまにも、言ってきたから……」

そう言って、慌てた仕種でその手を振る。そう、と小さく返してエドアルドは微かに笑った。ニャー、と、ルクレチアの腕の中で子猫が鳴く。今の彼女の動作に締め付けられて、息苦しさでも感じたらしい。間をおかず、子猫はその腕から飛び出した。弾け飛ぶ矢のような、しなやかで力強い動きに、ルクレチアが慌てる。

「ジュリオ、待ちなさい!」

子猫は飼い主の声も聞こえない様子で、そのまま軽やかに駆けていく。追いかけようとするルクレチアを、笑いながらエドアルドが制した。

「好きにさせておけよ。君があんまりぎゅうぎゅう抱きしめるから、窮屈だったんじゃないのか?」

「で、でも、兄さま!」

「心配ないよ、この家は広いから、どこにも行けやしない。出てこなかったら、俺も一緒に捜してあげるよ」

慌てるルクレチアを制して、エドアルドはまた笑った。ルクレチアは返す言葉もないらしい。少し膨れてエドアルドを睨むが、それ以上何も言わなかった。

「何か飲む?ああ、でも、こんな遅くに飲み食いしたら、ってばあやに言われるかな」

笑いかけながら、エドアルドがその頭を軽く叩く。ルクレチアは照れくさそうに少し笑って、そんなエドアルドを見上げていた。

「……何だい、ルゥ」

「兄さま……優しいのね」

「……何が?」

唐突な少女の言葉に、エドアルドは目を丸くさせた。えへへ、と笑って、ルクレチアはそんなエドアルドを、ただ見上げるだけだ。

「有り難う……大好き、兄さま」

はにかんだ笑みとともに、言葉がこぼれた。応えるように、エドアルドが返す。

「それはそれは……光栄です、セニョリータ」

この子は、何がそんなに嬉しくて笑うんだろう。思いながら、エドアルドがまた、おどけた様子で頭を下げる。何でもいい、この子が笑ってくれるなら。こうやって無邪気に、幸せそうにしていてくれれば。思うと彼の口許にも、やわらかな笑みが昇る。

「何にもないのもつまんないだろ。ミント水くらいなら平気だろうから、持ってこさせようか」

「ううん、いいの。大丈夫」

言ってルクレチアが再びテーブルに着く。エドアルドが目を丸くさせると、

「母さま達のお話しがすむまで、ここにいさせてくれるだけでいいの。兄さまも、眠かったら休んで」

「……そう、かい?」

いや、自分はさっき起きたばかりで、眠くも何ともないのだが。思いながらもそれを言わず、エドアルドはそこにいるルクレチアを見ていた。ルクレチアは変わらない笑みで、少しだけ照れくさそうに、言った。

「兄さま、有り難う……大好き」

「それは、どうも有り難う。嬉しいよ」

それは、嘘偽りではない。エドアルドは思いながら、けれど何かが違うその言葉を、彼女に返した。

 

ルクレチアに、部屋に戻れという連絡のないまま、夜は過ぎた。最初テーブルについていた彼女は、すぐにもそのテーブルで舟をこぎ始めた。きっとベッドに運ばれた事にも気付いていないに違いない。

エドアルドは彼女を一人部屋に残し、その夜は書斎ですごした。眠っている人間の側をうろつけば、僅かでも物音を立てて起こしかねないし、だからと言って一晩中、何もしないで大人しくもしていられそうにない。眠る彼女に何かしよう、という気は起こらなかった。無邪気で安心しきった寝顔を、自分の手で歪めたくはなかった。見ていられるものなら、とも思ったが、それも何気に憚られた。いつかのように、許される訳でもないのに触れて、嫌われるのも好ましくない。その衝動は、いつでも自分の中に眠っている。陶器のような滑らかな頬を撫でると、少女は眠っていながらも、幸せそうに笑った。今はこれで十分だ。見ているだけで、暖かい気持ちになる。子猫は、気が付くとその足元で眠っていた。拾われて数日だというのに、自分の主をちゃんと解っているらしい。義理堅いものだ。

夏の夜明けは早い。けれど明けたからと言って、屋敷の使用人の全てが昼間同然に動いていることは稀だった。早朝何かしらの作業をしているのは、庭師と、朝食番のコックやメイドくらいのものだ。何かしらを頼めば動いてはくれるだろうが、それも憚られる。昔ばあやに、朝は忙しいから、使用人の方から申し出がない限りは無理強いをしないように、と叱られた事があるせいかもしれない。身の回りのことは一通りできるように、というのもばあやの方針で、おかげで誰かの手を借りずとも、身の回りの事はこなしていた。最も、彼は雇われている多くの人間を、信用していなかった。若君、と囃されて育った人間にしては、他人に甘える事もない。

数時間を書斎で過ごし、彼は庭へと出た。夜明け直後の庭は、夏とは言えども寒さを感じる。朝露に濡れた薔薇でも持っていったら、ルクレチアは喜ぶだろうか。そんなことを思いながら庭をふらつく。そう言えば、姉はあれからどうしたのだろう。アデレードのことをふと思い出し、エドアルドは足を止める。戻っているのだろうか、それとも、あの時感じたように、二度とこの家に足を踏み入れることは、ないのだろうか。外気ではなく、自分の中から感じる薄い寒さに、エドアルドは困惑した。姉と言いながら、彼女と初めて会ったのは、十歳の時の話だ。母親も違う。一緒に育ったわけではないし、今も、同じ家に暮らしているとは言いながらも、家族と呼ぶほど密に会っているわけでもない。近しい友人ほどの存在、それが彼にとっての、アデレードだった。勿論、友人程度に思うところはある。だがそれ以上に、自分が彼女に踏み込めるとは思っていない。ならば何故、こんな風に体の奥から、寒く渇いた感触が沸き起こるのだろう。この家の男だからと、詰られたからだろうか。つい昨日の事だというのに、それがずっと以前の事のような気がして、エドアルドはその場で立ち尽くした。姉はこれから、どうするのだろう。あの時彼女が言っていたことは、真実なのだろうか。ぼんやりと、エドアルドはそんなことを思った。

主が、愛人に産ませた娘。どこの資産家にも良くある話だ。しかし彼女はそれだけではないと言っていた。その愛人は、祖父の娘だと。自分と彼女の様に、二人は腹違いの兄妹だったのだろうか。

「リザ、おいで。百合が咲いているよ」

声がして、エドアルドは我に返る。どこかはしゃいだ、熟年の男の声だ。一体誰がこんなところで、何をしているのか。思ってエドアルドは視線をめぐらせた。やや離れた庭の奥手に、白い露台が見える。人影は、その近くにあるようだった。無言のままで彼は歩き出す。庭師が、娘でも連れてきたのだろうか。今この庭を取り仕切る庭師は、父親と同世代で、ばあやの甥だと聞いたことがある。若い頃には別の土地の大都市で花屋を営んでいたが、商売に失敗して土地を追われて、とか何とか。腕は確かだからと、ばあやが先代、彼の祖父に頼み込んで雇わせたらしい。花の良し悪しは解らないが、実直で真面目な男だ。商売向きではないが、仕事は熱心らしい。ばあやの甥なら、信用に足りるだろう。あの子に花をと言ったら、それなりに見立ててくれるだろうか。

「ええ、知ってるわ、お兄さま。私は毎日のようにここを散歩しているもの」

歩みを進めるうち、もう一つの声が聞こえた。聞きなれた、女の声だ。いや、いつもの声よりも、それはずっと無防備で、そして幼く感じられる。足を止めて、エドアルドは耳を疑った。今のこの声は、叔母ではないか。くすくすという笑い声が続いて、それに、先程の男が、何故か憤った声で返す。

「何がおかしいんだい?リザ」

「いいえ、何も。手荒な事をして、折ってはだめよ、お兄さま。百合が可哀相」

さくさくと、軽い足音が聞こえる。答えた女が庭へと出たらしい。二つの人影は近付き、男はやってきた女を軽々と抱き上げた。少女のような笑い声が聞こえる。そこにいるのは、確かに父と叔母だった。明らかに寝巻きと思しき姿で、まるで子供のように、二人は小さな百合の花を見て、じゃれあっている。これは、何だろう。夢でも見ているのか。エドアルドは自分の目を疑いながら、その光景から顔を背けられずにいた。二人は楽しげに笑い、どちらからともなく互いの体に腕を回す。

それは若い恋人達の、愛の交歓のようにも見えた。叔母も父も、恋する男女のように、生き生きと、見た事がないくらいに幸せそうな表情をしている。

「モントリーヴォ……私の、お兄さま……」

吐息混じりの声で、彼女が自身の兄を呼ぶ。どこかうっとりとした声は、エドアルドが聞いたことのない不思議な響きを持っていた。およそ、妹が、兄を思慕して呼ぶ声とは思えない。それとも、自分の父と叔母との間では、これが普通なのだろうか。

「夜が明けるわ……部屋に戻りましょう、お兄さま」

耳元で、彼女はささやく。男は低く応えて、彼女を抱いたまま、ゆっくりと歩き出す。身動きも取れず、エドアルドはそれを見送った。何事があったのか、俄かには信じがたい。眠くならなかったから、とは言え、夜を明かして、自分は幻でも見たのだろうか。その場に立ち尽くし、エドアルドはその額に、無意識に手を当てる。頭を数度振って、彼はきびすを返す。父は、確かに妹である叔母に、酷く執着している部分がある。幼い頃にも、きっと彼女を溺愛していたのだろう。いつかルクレチアを膝にあげようとしたように、未だに叔母に対して、そんな感覚を持っているのかもしれない。

しかし叔母は、どうだろう。あの人は、それに付き合うような人間だろうか。いや、彼女は、いい年をした大人の筈だ。父の戯れに、自分から乗るとも思えない。では、気のせいか。彼女がいつにも増して無邪気で、幼く、そして幸せそうに見えたのは。思って、エドアルドは漸く歩き出した。眠くないと思っていたが、どうやら自分は相当疲れているようだ。部屋に戻って少し眠ろう。そうすれば、今見た光景も、きっと納得のいく記憶になっているに違いない。兄妹である父と叔母が、恋人のように抱き合っていた、など、有り得ないのだから。

そのまま、エドアルドは何も考えず、もと来た道を歩いた。部屋が見える頃、そう言えばあの子にあげる花を忘れていた、と思い至るが、それも忘れることにした。

自分のベッドでは変わらず、少女と子猫が眠っていた。穏やかな寝顔の少女を見下ろすと、自然と頬が緩む。触れるだけなら構わないだろうか。それとも、起こして、驚かれるだろうか。規則正しい寝息を立てるルクレチアを見下ろしながら、ぼんやりとエドアルドは考える。が、動きは無意識のうちだった。屈みこんで、頬に口付ける。

瞬きの間の、触れるだけの接吻に、眠る彼女は気付かない。寝息は変わらず規則正しく、表情は穏やかだ。自分は、何をしているのか。これも、眠気のせいか。そう思ってエドアルドは自重の笑みを漏らした。気付かれれば、驚かせるかもしれないと思いながら、もしかしたら自分は、それを望んでいたのかもしれない。目覚めた彼女に、怯えた目を向けられる事を。そうなったら、自分はどうするのだろう。冗談でも言って取り繕うのか、それとも、今度は、その唇を荒々しく奪うのか。しかし、自分は臆病だ。出来たとしても、前者に決まっている。あんまり寝顔が可愛くて、とか何とか言いつくろって、いつものように彼女を怒らせて、事は過ぎていくだろう。しかしそれは、自分が本当に欲しいものではない。本当に欲しいのは……。

「……兄さま……」

小さく、ルクレチアの声が聞こえる。妄想めいた思いに耽っていたエドアルドは、ぎくりとして目を剥いた。ベッドの中、ルクレチアは眠ったままだ。自分に気付いた訳ではないらしい。むにゃむにゃと何かを言って、ルクレチアは笑っている。寝言か。エドアルドは安堵の息を吐き、ベッドを離れる。ばあやが部屋に踏み込みそうな時刻まで、二時間ほどある。寒い季節ではないから、ソファで構わないだろう。ゆっくりとした足取りで、エドアルドは窓際のソファへと歩みを進める。

それにしても、叔母と父はルクレチアを追い出して、一晩中何を話していたのだろう。ソファに身を沈める直前、エドアルドはふとそんなことを思った。せめて叔母にだけでも、確かめなければ。彼女はルクレチアの母親なのだし、話していた内容がルクレチアのことなら、尚の事だ。思いながらエドアルドは目を閉じる。睡魔は、すぐにも彼の意識を奪った。夜が明けていく窓辺で、それに逆らうように、彼は間もなく眠りに落ちた。

 

「兄さま、兄さま」

ゆらゆらと、体が揺さぶられる。何故か肩が、堅く痛い。ソファの中、エドアルドはそっとその目を開けた。目の前、飛び込んできたのはルクレチアの、困惑の顔だった。そう言えば昨夜は、この子が自分のベッドで眠っていたのだった。思って、エドアルドは目の前の幼い顔に、笑いかけた。

「やぁ……おはよう、ルゥ」

「おはよう……じゃないわ、兄さま。ここで寝ていたの?」

困惑するその顔は、同時に酷く動揺していた。泣き出すのではないかと思われるほどの顔つきに、エドアルドは何故か笑う。可愛い顔だ、などと言ったら、この子は何と言うだろう。思いながらもエドアルドは辺りを見回す。そして、

「ああ……少しね」

「少し?」

「書斎にいたんだ……寝たのは、少しだよ」

「だって兄さま、もうすぐお昼よ?いつから寝ていたの?」

「……え?」

ルクレチアの言葉に、エドアルドは目をしばたたかせた。サイドボードの上の時計は、時代物ではあるが、こまめにばあやが時間を合わせているおかげで、殆ど狂いがない。昼の刻限より少しだけ速い時刻を示すそれを見て、エドアルドは驚く。が、

「……それで肩が痛いわけだ……少しと思ってたんだけどな……」

「兄さま、ごめんなさい」

言いながら暢気に、エドアルドがその腕を回し始める。ルクレチアは泣き出すのではないかとさえ思える顔で言って、その頭を彼の前で下げた。が、エドアルドは、

「ん、何が?」

「だ、だって……私がベッドを取っちゃったから、兄さま……」

ストレッチを始めながらの彼の問いかけに、ルクレチアがおろおろしながら返す。その様子にエドアルドが笑うと、ルクレチアは泣きそうな顔のまま、

「兄さま、どうして笑うの?」

「え?いや……」

「私は謝ってるのよ?ごめんなさい、って」

「ああ……そうだね」

その、謝っているはずの彼女を、どうやら怒らせたらしい。自分は何かしただろうか。思っているとルクレチアは膨れて、

「どうせ兄さまは、私がこんなこと言うなんておかしいって、そう思ってるんでしょ?私だってもう、小さな子供じゃないのよ?悪い事したら、ごめんなさいって、そのくらい……」

そう言って拗ね始める彼女の様子は、やはり幼い子供のように見える。しかしこれ以上笑えば、本格的に彼女の機嫌を損ねることになるだろう。エドアルドは笑みをかみ殺し、わざとらしいほどの殊勝な態度を取った。

「ごめん、ルクレチア。君は確かに、もう小さな女の子じゃない。俺が悪かったよ」

「……本当?本当に、そう思う?」

確かめる、というより、イエスという答えをせがむように、ルクレチアが問いを重ねる。かみ殺しても、頬が緩む。駄目だ、怒らせる。それでも、こらえようがない。ぷっと、エドアルドは吹き出した。途端にルクレチアは憤慨して、

「兄さま!」

「ご、ごめんごめん。いや、別に君が子供っぽいとか、そういうことじゃないんだ」

慌てて取り繕うにも、その言葉では弁解になりようがなかった。ルクレチアは眉を吊り上げ、

「もう知らない、兄さまなんて嫌い」

そう強く言ってぷいとそっぽを向く。やっぱり怒らせたか。それでも、どうしてこの子はこんなに可愛らしいのか。自分の容量の悪さを悔やみながらも、エドアルドはどうしても、それを思って笑った。あまりやりすぎると、本格的に嫌われる。今のうちに何とか修復しなければ。思っていると、ルクレチアは彼に背を向けて歩き始めた。ソファに座ったまま、エドアルドは苦笑して、

「悪かった、謝るよ、ルゥ。君はもう立派な大人だ。だから」

「そんなこと言って、煽てても駄目。兄さまなんか知らない」

ルクレチアは振り返ろうとさえしない。今回は部が悪いらしい。その上、取り付く島もないようだ。困った、そう思いながらも、エドアルドの顔から笑みは消えない。立ち上がり、困ったように彼は息をついた。

「そんなこと言わないでくれよ、ルゥ。哀しくなるだろ」

「そうかしら。兄さま、本当は意地悪なんだもの。ルゥが嫌いになったって、きっと何ともないわ」

「……そんなこと、ないよ」

冷たい彼女の言葉に、エドアルドの声が遅れる。違和感を覚えたのか、ルクレチアが振り返った。困惑の表情で、それでも笑って、エドアルドは彼女を見ていた。見つけたルクレチアの顔が、強張る。

「……兄さま?」

「君に嫌われたら、本当に哀しい。本当にごめん……ルクレチア……許して、くれる?」

口許は笑っている。けれどその瞳は、どこか哀しげだった。ルクレチアはそれに驚き、反射的に叫ぶ。

「やっ……やだ、兄さま!ルゥが兄さまのこと、嫌いになるわけないじゃない」

叫ぶように言ってしまった後、ルクレチアは我に返った。本当は、もう少し困らせてから許そうと思っていた、そのはずだったのに。

年上の従兄は、いつも自分を揶揄って遊ぶ。嫌ではないが、もう自分だって十七歳にもなるのだ。いい加減、子ども扱いはやめて欲しい。だから今回はとことん困らせて、もう少し苛めるつもりだったのに。思いながらも、ルクレチアは焦っていた。こんなはずじゃなかった。意地悪して、謝らせて、許す代わりに、また甘えようと思っていただけなのに。

「ルゥ……」

「ごっ、ごめんなさい、ルゥが言いすぎたわ。だから兄さま、私、兄さまのこと、嫌いになったりしないから!だから……」

そんな顔をしないで、そう言いかけた言葉は、彼女の口から出ては来なかった。唇が動きを止める。エドアルドの表情が、僅かに緩んだ。笑みが、ゆっくりといつもの姿を取り戻す。それに、気付かないままルクレチアは安堵の息をついた。そしてもう一度、謝罪の言葉を重ねる。

「兄さま……ごめんなさい」

「いや、俺の方こそ……悪かった」

エドアルドはゆっくりとルクレチアに歩み寄る。目の前に来た彼の、少しだけ高い位置の顔を見上げ、ルクレチアは少し笑った。良かった、兄さまは許してくれる。この人に、嫌われなくて良かった。思っていると、エドアルドの手がすっと伸びた。髪を撫でるのか。そう感じて、ルクレチアの表情は更に緩んだ。

髪を乱されるのは、確かに、あまり好きではない。けれどその手が、彼女は大好きだった。いい子だと褒められる事も、本当は嫌ではない。それでも、もう自分も十七歳にもなるのだ。子供っぽい事は解っている。でもそれで揶揄われるのも、癪に障る。

この人に触れられるなら、小さな従妹としでではなくて、本当はもっと、危うげに触れられたい。それが彼女の願いだった。口には出せない。出してしまえば、きっとこの人は自分の近くには来なくなる。だってあの時、逃げたのは私だもの。びっくりして、怖くなって、やめてと叫んでしまった。この人が優しいのは、私が年下の従妹だからだ。そうでなかったらきっと、他の誰かのところに行ってしまう。せめて、側にいて欲しい。いてくれるなら、小さな従妹のままでもいい。その手が優しく髪を撫でてくれるなら。近くにいてくれるなら。

「……ごめん」

目を閉じて、エドアルドの手が伸びるのを待っていたルクレチアに、言葉だけが聞こえた。手はそれ以上彼女に伸びずに、下に降ろされる。いつものように撫でてくれると思い込んでいたルクレチアは、驚いて顔を上げた。困り顔で、エドアルドはそこに立っている。どうして撫でてくれないの、そう言いそうになって、ルクレチアはその言葉を飲み込んだ。

「兄さま……」

「ごめん、ルクレチア……」

その謝罪は、何のためのものだろう。ルクレチアには解らなかった。けれどそれでも、彼女は首を強く横に振って、

「いいの、ルゥも、いけなかったの。兄さまは、何も悪くないわ。ルゥが……」

言葉が途切れる。何故か涙がこみ上げて、ルクレチアはその瞳を強く閉じた。何だか、何かが変だ。どうして自分は泣くのだろう。単に従兄は、自分の悪ふざけを謝っているだけなのに。自分は、それをやめて欲しいと主張して、その主張が通ろうとしているのに。

「ルクレチア」

エドアルドの声が、静かに彼女を呼んだ。気がつくと目の前に、彼の胸が迫っていた。そのまま抱き寄せられて、ルクレチアは混乱する。

「に……兄さま?」

「泣かないでくれよ……叔母上やばあやに、叱られる」

困りきった声の後に、優しく背中を叩かれる。寄りかかって、ルクレチアは瞳を閉じた。無意識に、眉間にきつく皺が寄る。

この人はやっぱり、自分を子ども扱いしている。こうして抱いていたら、きっと落ち着いて、泣き止むと思っている。子供扱いに怒って、怒ったことに自分で混乱して、それで泣き出したとでも思っているに違いない。それはそれで違ってはいないのだが、そう思われていることが、何故か悔しい。

「……泣いてはいないけど……兄さまの意地悪は、前からでしょ」

強がるように言って、ルクレチアはエドアルドの体を、強く押し返した。腕が解けて、体が離れる。どうしたらいいのか解らない。自分には、こんな風にしか出来ない。本当はどう思っているのか、言葉に出来ない。どうしてなのか解らない。だから、どうしようもない。思いながら、ルクレチアは少しだけ恨めしげにエドアルドを睨んだ。

「ルゥ……」

「兄さま、私もう、抱っこされて喜ぶほど、子供じゃないんですからね」

べ、と舌まで出してルクレチアは言った。エドアルドは一瞬、放心したようにその様子を眺めて、それからすぐにも苦笑すると、

「そうだね。気をつける」

「気だけじゃ駄目。本当に謝るつもりなら、誠意を見せてくれなくちゃ」

「誠意?」

人差し指を立てて、ルクレチアが詭弁を気取るように言う。エドアルドが目を丸くさせると、彼女は得意げに言った。

「そうね……もうすぐお昼だし……どこかに食べに連れて行ってくれたら、許してあげるわ」

強気な科白がその口から出る。エドアルドがぷっと吹き出し、ルクレチアは唇を尖らせる。

「何よ、兄さま。何がおかしいのよ?」

どうせ、子供だと思っているに違いない。でもいいのだ。子供っぽい年下の従妹の相手なら、この人はしてくれる。やさしいから。だから今はこうして、もう少し甘えたい。大好きだから、離れたくない。

大好きだから、離れたくない―――。

「しょうがないな。解りましたよ、セニョリータ。お連れしましょう」

おどけた様子でエドアルドが言う。ルクレチアは、その言葉に花が綻ぶ様に笑った。エドアルドの笑顔が、いつもの、優しい従兄の表情になる。

「着替えておいで。ああ、肩の出ない服にするんだよ」

「え、どうして?」

最後のエドアルドの言葉に、ルクレチアは首をかしげる。エドアルドは苦笑して、

「ばあやに叱られるし、昼間は日差しが強いから、日焼けするよ。君は叔母上と一緒で、肌が弱いだろ?」

「……はぁーい」

その言葉にルクレチアは肩をすくめる。そのまま身を翻して駆け出す彼女を、エドアルドは微笑みながら無言で見送る。

「ジュリオ、おいで」

どこにいたのか、呼ばれた子猫がニャー、と、まるで返事でもするように鳴く。じゃあね、兄さま、すぐに支度するね、そう言い残してルクレチアは部屋を出て行く。一人その場に残って、エドアルドは苦笑を漏らした。

とんだ醜態を見せた、そんな気がする。あの子に嫌いだと言われた時、自分は一体どんな顔をしていただろう。いや、あの子の態度を見ていれば解る。いつになく狼狽してしまった。取り乱しすぎた。もしかしたらもう、隠してはおけないのかもしれない。思ってエドアルドは薄く笑った。

解っていたことだ。この幸福は長く続かない。今までのように、彼女が数日の間だけここに逗留しているだけなら、何とでもしたかもしれない。けれど、いつと知れることのない、奇妙な滞在は、今まで以上に自分を狂わせる。いつまでいるのか解らない、いついなくなるのか解らない。いっそ、二度と会わないのなら、その方が自分は救われる気がする。

二度と会えなければ、姿を見なければ、この手で、触れなければ。思うと、胸がきしんだ。近くにいればいただけ、思いは募る。手を延ばして掴もうとすれば、たやすく捕まえられる。けれどそれは出来ない。掴んで引き寄せて、拒まれたら。あの時のように、嫌だと叫ばれたら、どうすればいいのだろう。そして繰り返し思う。愛おしい。けれどそれを知られたなら、きっと彼女は逃げてしまうだろう。こんな風に近くにいられるのは、自分が優しい従兄を演じている間だけだ。無くしたくない。叶うなら、支配したい。側においてずっと見詰めていたい。自分だけのものにしたい。

自分自身の胸の中に渦巻く思いを、彼は嘲笑した。この世界に、永遠は欠片もない。今はこんなに焦がれていても、手に入った瞬間、その思いが、消えてなくならないとも限らないのに。どうしてこんなにも、自分は彼女を求めるのだろう。側においておくだけの女なら、労せずとも幾らでも手に入る。夜伽も、妻たる女も、戯れの相手にも、不自由する身分ではない。なのにどうして、自分はあの子がこんなにも、欲しいのか。年の離れた従妹は、まだ本当に、子供じみた少女だと言うのに。

どれだけ考えても答えの出ない疑問を、彼は解くのをやめた。今は考え事をしていられる時ではない。暫くしたらまた、ルクレチアはここへやってくるだろう。話の流れで昼食を外で取る羽目になったし、それならそれで自分も、身支度を整えなければならない。食事を外で、と言ったら、またばあやに何か言われるだろうか。ルクレチアにジャンクフードなど食べさせたら、叱られるかもしれない。

思いながらもエドアルドは歩き出す。まずはシャワーか。そう言えば、昼も昼だが、夕べから何も食べていなかった。こんな空腹で外へ出たら、倒れやしないだろうか。思いをめぐらせていると、部屋のドアを開閉する音とともに、いつもの、老女中の声が響いた。

「若様、起きておいでですか」

「ああ……おはよう……にしても、遅すぎるかな」

老女中は、くしゃくしゃのシャツと皺だらけのスラックス姿のエドアルドを見ると、

「そうでございますね……それでも、お出かけなさるとか」

「うん……ルゥと出かけてくるよ……どうしてか、昼飯を食わせることになった」

言いながらエドアルドは笑う。老女中は少し困った様子で、それでも微笑むと、

「若様、解っておいででしょうが」

「ルクレチアを連れて、変な所には行かないよ。まああの子は、時々変わったものに興味を示すから、市場をめぐりたいとか、言い出しそうだけど……」

「そのくらいなら宜しゅうございます。それでも若様、夕食までにはお戻り下さいましね。エリザベッタ様が、そう言っておいででしたから」

「……ああ、解った」

叔母の名前が出て、エドアルドの返答が遅れた。話があるのはこちらも同様だ。昨夜はルクレチアを追い出して、父と二人で、一体何を話していたのか。奇妙に、エドアルドの心の中にそれは引っかかっていた。ばあやはにこにこと笑って、エドアルドの身支度を手伝い始める。

「折角のデートですからね、また変な、ペンキをぶちまけたような柄のシャツなんか、御召しにならないで下さいましよ」

「デートって……ばあや、俺はルゥと飯食いに行くだけだぜ?大袈裟な」

茶化すような老女中の言葉に、思わずエドアルドは反論する。ばあやは笑いながら、

「あのくらいの女の子は、年上の男の人と食事をするだけでも、そういう風に思うものですよ。あんまり子供扱いして、お嬢様のご機嫌を損ねないように、お気をつけなさいまし」

「……努力するよ」

この老女中は、どこまで解って物を言っているやら。思って、エドアルドは苦笑した。

 

エドアルドの予想通り、その外出は、昼食のみに留まらなかった。町へ出たルクレチアは、まず食事を、それから唐突に、買い物に行きたいと言い出した。グラローニは、決して都会と言える土地ではない。大型のデパートや、小洒落たブティックなどあろうはずもない。屋敷で扱う、いわゆる高級雑貨は、出入りの御用聞きが用意しているらしいが、エドアルドもその細かいルートは良く知らない。何が欲しいと言えば、屋敷の誰かが手配して、気がつけば手元にある、という暮らしだ。

それでも、エドアルドはそれなりに町の地理に通じていた。大学に通うようになってから、随分と外のことを覚えた。それまでは外出するにも、必ず使用人が一人以上、付き従っていた。いい加減鬱陶しいと言ってそれをやめさせて以来、彼は町の様々な場所に足を踏み入れていた。この町は半ばボカロジア家の、所有物のようなものだ。迷ったとしても屋敷へ行きたいと言えば、どうにか帰りつくことは出来たし、素性が知れれば屋敷に人が走る事まであった。何か粗相をすれば後が解らない、と、こそこそ話しているのを聞いたこともある。自分の父が、勝手に外出した息子の処遇に対して何かしら行使する、とは考え難いが、この辺りの人間は多かれ少なかれ、ボカロジアの家に対し、どこか畏怖めいた感情を抱いている。が、子供の頃は逆に、誘拐されそうな目にも会った。とは言えその後にも、父や祖父が強権を振るった事もない。エドアルドの方が、無防備だ、と叱られるほどだった。

男に対して、当主は甘くない。それどころか放任的だ。自己責任の行動を重んじる、と言えば聞こえがいいが、何か事を起こしても、ボカロジア事体が取り合わないような、そんな態度を示す事も多い。分家の手前、本家の人間の不祥事の後始末には、結局執事が走る事にはなるのだが、その場で父親の姿を見た事は、殆どない。帰宅して顔を合わせれば罵倒されるが、それも親が息子を叱るようなものではなかった。恥をかくのは勝手だが、もっと上手く立ち回れ、いつかはそんなことすら言われた。そして尚且つ、自分の父親は質が悪い。自分の若い頃にはこうした、と、少々大袈裟に、彼自身の冒険譚を語るのだ。貴方は俺を馬鹿にしているのか、といつか尋ねたら、馬鹿を馬鹿だと思って何が悪い、と開き直られたこともある。

何かしらの不祥事を起こしても、そんな男に助けられたくはない。だから、言われた通りになるのは癪だが、上手く立ち回るに越した事はない。エドアルドはそんなことを思っていた。実際、上手くやれているかどうかは解らない。しかしバールで酔いつぶれたのも、裏通りで不逞の輩に絡まれたのも、僅か数度の事だ。その都度父親にコケにされて、以来一度たりともそんな憂き目にあったことはない。腕っ節が立つとか、めっぽう酒に強い訳ではないが、その辺りは程度を覚えればどうとでも切り抜けられる。もっとも、それは一人歩きの場合だけだ。ボカロジアに関わる人間と歩いていれば、その限りでもない。

「あー……楽しかった。兄さま、私、何だかお腹がすいちゃった」

「何だか、かい?」

昼食を採ったのは、いつだっただろう。町の中央にそびえる、教会の時計塔を眺め、エドアルドは苦笑する。そろそろ時刻は、夕刻と言って差支えがない。午後のティータイムもとっくに過ぎて、これではハイティーの扱いだな、と何気に思いながら、無邪気な従妹にエドアルドは言った。

「そろそろ帰ろう。叔母上も、待っているだろうし」

「えー、もう少しならいいでしょ。ダメ?」

ルクレチアがその眉をしかめて、上目遣いでエドアルドを見る。あざとくさえ見えるその仕種に、エドアルドは僅かだが眉を寄せる。これはわざとだな。思って、エドアルドは彼女から目を逸らした。

「ダメだよ。これ以上は。帰るのが遅くなる」

「だったら、夕食も外で食べましょうよ?それなら……」

無邪気と言おうか、暢気と言うべきか。はしゃいでルクレチアが提案する。その様子もまともに見ることもなく、

「ダメだ。本当に、叔母上と約束があるんだ」

「母さまと?何の約束?」

問われて、エドアルドは返答に窮した。約束と言っても、ばあやの口伝えで、叔母が自分を待っているらしいと聞いただけなのだが。困惑していると、ルクレチアがその腕にからみついた。えへへ、と笑う彼女を見下ろすと、ルクレチアは言った。

「母さまと約束しているなら、仕方ないわ。でも兄さま、また連れてきてね。約束よ」

無邪気なその表情に、無意識のうちにエドアルドの頬が緩む。腕を組むような格好で、二人は石畳の町並みを歩き出す。

「君は一体、何がそんなに楽しいんだい?」

歩きながら、くすくすと笑い続けるルクレチアに、エドアルドが問いかける。ルクレチアはご機嫌で、

「だって、グラローニに来てから、やっと二回目のお出かけだもの。お屋敷のお庭も広くて綺麗だけど、毎日同じところをお散歩だもの。飽きちゃった」

「あれ、そうなのかい?」

やっと二度目の、という言葉に、エドアルドが首をひねる。ルクレチアはそんな彼を見ないまま、

「そうよ。ばあやが、一人で外に出てはいけません、って」

「そうだね。君はこちらの地理に詳しくないし……悪い輩にからまれたり、攫われでもしたら、大変だ」

不満げな口振りに、エドアルドが小さく笑う。それも不満らしい。頬を膨らませて、

「でも、退屈よ。毎日ずーっとお屋敷の中、なんて。それに私、もう少ししたら、こちらの学校に通うのに。それまでにもう少し、町のことも知っておいたほうがいいんじゃないかしら」

その言葉に、エドアルドは目を丸くさせた。そう言えば、昨日確かそんなことを言っていた。父と叔母が、この子の学校の話をしているとか、何とか。腕にからみつく従妹を見下ろすと、それまでの不服顔はなく、もっと不安げで寂しい、静かな顔が見えた。嘆息するルクレチアに、エドアルドは足を止める。

「ルゥ?どうした?」

「……何でもないわ。ちょっと、不安なだけ」

問われて、ルクレチアはその顔に作り笑いを浮かべる。確かに、不安だろう。血の繋がらない家族と共に、とは言え、ルクレチアがモリエーロにいたのは数年もの間だ。グラローニには、彼女の母親の実家がありはするものの、故郷と呼べるほどの馴染みがある土地でもない。抱きつくルクレチアの腕を解く。何事かと、戸惑う視線を上げたルクレチアの肩を、エドアルドの腕が抱き寄せる。

「兄さま……」

「何も、心配する事はないよ。ここには俺や姉さんもいる。家には、ばあやもいるし。まあ、ばあやは、ちょっと煩いけど」

心もとなげな従妹は、その腕に抱かれると小さく笑った。子猫が身を摺り寄せるような仕種で、ルクレチアはそっとエドアルドに寄り添う。瞬間、ふわりと、甘い香りが鼻をくすぐった。気付いて、エドアルドは問いかける。

「ルゥ……何かつけてる?」

腕を離す。ルクレチアは問いかけに、一瞬目を丸くさせる。が、すぐに、

「ああ……香水よ?ちょっとだけ」

そう言って、どこか照れくさそうに笑う。まだ化粧をしようと考える大人ではないのか、唇さえ素肌のままのように見える彼女は、鳥の羽根が宙を舞う様な、軽やかな動きで、エドアルドから離れて身を翻す。照れを隠すそのしぐさは子供のものなのに、そこにいるのは少女でも淑女でもない、不思議な存在に見えて、エドアルドは数秒、そこに固まった。

「いい香りでしょう?それとも……兄さまはこういうの、好きじゃない?」

「いや……ちょっと驚いて……」

嗅覚というのは、こんなにも人を驚かせたり、敏感にさせたりするものなのか。奇妙なほどにエドアルドは驚いていた。他に言い繕うこともできず、素直に思ったままの答えを口にすると、ルクレチアは少し膨れて、それでも楽しげな笑顔で、

「驚くって何?ルゥが香水なんて、おかしい?」

「ああ……そうじゃないよ」

それでも慌てて、エドアルドは彼女の言葉を否定する。こんなにも早く、見ている目の前で、彼女は変わっていくのか。幼い時から自分の後にくっついて歩いていた、小さな女の子は、束の間見ない間に、途轍もないスピードで大人に変わっていく。内面も外見も、いつか、まるで別の生き物のように、変わってしまう。何だか少し、寂しい。思ってエドアルドは、そう思った自分を笑った。子ども扱いを詰ろうとしていたルクレチアは、笑うのをやめて、目をしばたたかせ、その顔を覗き込む。

「何?兄さま……やっぱり、ルゥには似合わない?」

「そうじゃないよ。君もすぐ、大人の女性になるのかなぁって、そう思って」

笑いながら言って、今一度近付いたルクレチアの頭を、エドアルドが撫でる。さらさらとその髪が音を立てる。こんな風に触れられるのも、あと僅かなのかも知れない。彼女はもう、撫でられる事も嫌がっている。また怒られるかな。思いながらこぼした笑みに、苦いものが混じる。ルクレチアはそれを払いのけようともせず、不思議そうにエドアルドを見上げていた。無防備であどけないその表情を見下ろしながら、エドアルドはその手を収める。

「ああ……もうこういうのも、嫌なんだっけ……ごめん……」

もう子供ではないのだ。安易には触れられない。泣きじゃくる姿を見ても、抱きしめてやれない。そんな思いがエドアルドに満ちる。ルクレチアの表情が、同時に歪んだ。唇を尖らせて、その通りよ、とでも言うかと思っていたエドアルドが、思わずそれに怯む。

「……ルゥ?」

ルクレチアは彼を見上げて、何も言わない。空色の瞳が歪んで、伏せられる。これは、何だろう。自分は何か、ひどいことでもしただろうか。思ってエドアルドはその場で困惑する。ルクレチアは俯いて、小さく首を横に振った。

「ごめんなさい……何でもないの」

「ルゥ……」

「何でもない、何でもないから……」

目を閉じて、彼女が言葉を繰り返す。見下ろすだけで、エドアルドは何も出来ない。彼女は今、何を思ってこんな顔をしているのだろう。寂しそうに見えるのは、気のせいだろうか。優しくされたいと、言葉にしないまでも、自分に訴えているように感じるのは、思い込みか。

暫く、二人はその場所で、向かい合わせに立ちながら、顔も合わせず、エドアルドは戸惑って、ルクレチアは小さく震えて、動かなかった。乾いた、まだ昼間の熱を孕んだままの風が、流れる。さらさらと、二つに分けて結わいたルクレチアの金色の髪が揺れた。甘い香りが、その風に乗せられて、もう一度エドアルドの鼻をくすぐる。こんな風に、装う様になったんだ。もう、子供じゃない。小さな従妹ではない。簡単に手を伸ばして、捕まえてはいけない。いや、捕まえられない。子供でないと言うなら、彼女は一人の女だ。そして自分にとっては、他に並ぶもののない、その「たった一人」になる。

「ルゥ……帰ろう」

俯いたままのルクレチアに、エドアルドが呼びかける。そのまま、無言でルクレチアは頷いた。

 

屋敷に帰り着くまで、二人は無言だった。隣を歩きながら、振り返ることもなく、互いを盗み見ることすらせず、ただ、目的の場所を目指して歩き続ける。

今日というこの日、一体何が変わってしまったのだろう。歩きながら、エドアルドはそれを思っていた。いつもと変わらないはずの、昼下がりの外出のはずだった。いや、それは出かけるより前から、始まっていたのかも知れない。ソファで寝ていた自分を、彼女が起こしに来た、その時から、眠る前とは世界が変わってしまった。いや、もしかしたら、眠る前にした、あの余りにも儚い接吻から、だろうか。思うと、胸がきしんだ。もう彼女は自分の前で、無邪気に笑ったりしないのだろうか。無防備に駆けてきて、その声で「兄さま」と、呼んではくれなくなるのだろうか。甘えて、膨れて、我侭を言って、ご機嫌を取ると最後には、大好き、と言ってくれたあの声も、もう聞かれないのか。無意識のうちに、眉がしかめられる。見られまいと、振り返ることもできなかった。

それでも、それは解っていた筈の事だ。彼女もいずれ大人になる。誰もが生まれれば、その生を全うして、永遠の眠りにつく。その理と同じに。そしていつか、手の届かないどこかへ去ってしまう事も、同じ様に。

それに気がついたのと、どこかでそれを拒み始めたのは、いつだったか。歩きながら、エドアルドは思いをめぐらせた。隣を歩く幼い従妹が、いつか大人の女になって、自分以外の誰かと手を取って、遠くに消えてしまう。

物心つく頃には、彼女は側にいた。時折屋敷に連れてこられて、いつも自分の後を追いかけてきた。兄ではないのに、兄さま、と、彼女が呼び始めたのは、いつだっただろう。

この子は、いつか大人になって、誰かの元に嫁いだ後にも、こんな風に自分を呼ぶのだろうか。例えば父や叔母のような年になっても、自分は兄でいられるだろうか。従兄妹同士でも、それは叶うのだろうか。

「……ルクレチア」

屋敷裏の、鉄格子作りの小さな門扉を開く。きしんだ音を聞きながら、エドアルドはその名前を呼ぶ。隣でふさいでいたルクレチアが、そっと顔を上げた。瞳は歪んで、不安げに閃く。手を伸ばして、エドアルドは彼女の腕を捕まえた。突然の従兄の行動にルクレチアが戸惑う。

「ルクレチア……好きだよ」

ささやくように小さな声が、エドアルドの唇から漏れた。そのまま彼女を引き寄せて、顔を近づける。

「やっ……兄さまっ……」

「好きだよ」

無理やりに、唇は奪われた。ルクレチアは唐突なその行為に驚くが、身動きも取れない。瞳は見開かれたまま、強張った体だけが、わなわなと震え始める。沈黙は、数秒続いた。押し付けられただけの唇が離れると、ルクレチアの体がその場にくずれる。掴んだままの手に惹かれるように、エドアルドもその場で僅かにバランスを崩した。

「……ルゥ、ごめん」

座り込んだ彼女の手を離して、エドアルドはそれを見下ろす。放心して、ルクレチアは動かない。見ていられず、エドアルドは眉をしかめて、彼女から顔をそらす。

この子を愛おしいと思っている。幼い頃から、ずっと見てきた。たった一人の、年の少し離れた従妹だ。家族も同然の彼女に、自分は何故こんな風に、こんな気持ちを抱くのだろう。遠くを眺める様にして、眉をしかめたまま、誰にも聞こえないほどの小さな声で、エドアルドは呟く。

「君を……愛してる」

それは従妹としてではなく、勿論家族としてではなく、一人の女として。知られてしまえば、もう側にはいられないだろう。自分はこの子の従兄だから、「兄さま」として、こうして近くにいられたのだ。それを失えば、その姿を見詰める権利さえ、ないのかもしれない。なのに。

「っ……ひっ、ひっく……ふぇぇ……」

背後で、細い泣き声が聞こえた。背中越しに見遣ると、ルクレチアは座り込んだまま、その顔に手を当てて泣き出していた。泣かないでくれ、そんな風に。心臓が痛くなる。

胸が引き裂かれる様に、痛い。心ではなく体の全てが、その痛みに悲鳴を上げそうになる。引き裂かれて、いっそ死んでしまいたくなる。この身の総て、何もかもが、痛い―――。

「ルゥ……」

「っ……兄さま……っ」

ルクレチアが、エドアルドを呼びながら顔を上げる。屈みこんで、その耳元で、もう一度エドアルドは囁く。

「君が好きだ……愛してるよ……」

もう元には戻れない。それでも、止まらない。感情の濁流に全てが流されていく。失うものはどれほどだろう。それでも、止められない。

間近でその顔を覗き込んで、エドアルドはくしゃりと顔を歪ませた。自分は、笑っているのだろうか、それとも、泣いているのだろうか。ルクレチアは肩を震わせて涙しながら、エドアルドの、わずかに高い位置にある瞳を見詰め返す。

「に……兄さま……」

無言でエドアルドは、その頬を拭う。指が、涙で濡れた。そのまま頬を撫でると、こらえきれないようにまた、ルクレチアは瞳を閉じる。涙が、溢れて零れ落ちた。熱い涙が、エドアルドの手をも濡らす。小刻みに震え続けるその姿を見て、エドアルドは呟く。

「君を、愛してる……」

謝罪のような言葉だと、胸の内で彼は思った。手の中の、柔らかな頬の感触が心地いい。その感覚にさえ、溺れそうになる。それは、この触れ合いが最初で最後だからだろうか。ぼんやりと、心のどこかで彼は思った。笑ったつもりだった顔が、別の形に歪むのが解る。痛むほどに眉間を寄せて、それでもどこかうっとりとした声で、彼はもう一度、その言葉を繰り返した。

「ルクレチア……君を、愛してるよ……」

 

 

 

 

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Last updated: 2008/11/23

 

 

 

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