カンタレラ

 

W

 

 

泣き出したルクレチアは、使用人を呼び出して押し付けてしまった。叔母との曖昧な約束も、忘れた振りを決め込んで、エドアルドは私室のソファで、ぼんやりと虚空を眺めていた。泣いて帰ったルクレチアを発見した老女中が乗り込んでは来たが、喧嘩して泣かせた、謝っておいてくれ、と曖昧に言い訳して追い出した。今は一人でいたい。誰の顔も見たくない。いや、今くらいは本当の自分自身でいたい。何も偽る事ない、疲れて、傷ついた、哀れで愚かな自分で。

体を支配する疲れは、後悔の度合いによるものだ。不規則な眠りのためでも、外出によるものでもない。この体を重くしているのは、後悔、ただそれだけだ。どうして自分は、あんなことをしてしまったのだろう。

そうしたいという願いはいつも、心の奥にはあった。子供をあやすように、ではなく、愛しい相手として、ずっと触れたいと願ってきた。それでもそうしなかったのは、拒まれる事を恐れたからだ。解っていたはずなのに、どうして。思いながら、エドアルドは嘆息する。

三年前もそうだった。三年前の初夏の夜、あれは確か、叔母の夫が亡くなった後だ。事後の報告と、この先の叔母の身の振り方について、この家に父と叔母と、分家の人間達とが集まって話し合っていた。分家の言い分など聞く必要などないだろう。しかも彼女の直接の親族でもない人間が、一体何に口出しがしたいのか。エドアルドはそんな思いでその様子を伺っていた。同じ頃、姉も二人目の夫と離婚していた。その場には彼女の話題も上ったらしい。いっそのことアデレードを、ロミッツィの誰かと娶わせるのはどうか、という意見も出たようだが、それは本人が出て行ってねじ伏せたらしい。尤も、分家によって持ち込まれた彼女の結婚は、二度も失敗に終わっているのだ。持ち込む側の考えも甘すぎる。一通りの話し合いの後、結果として叔母はこの家に戻る事なく、その後三年もの間、死んだ男の妻として、モリエーロで半ば軟禁されるように暮らす羽目になった。それ以降も度々、彼女が里帰りする事はあったが、その話し合いがされた日から三年間、ルクレチアは彼女と共についてグラローニを訪れた事はない。

あの時はどうして、あんな事をしたのだったか。ぼんやりと、エドアルドは記憶をめぐらせる。

あの日は、確か遅くまで分家の人間に粘られて、その場にいたわけでもないのに、自分までいらついていた。この家にいることさえ嫌になって、日が暮れる頃には、一人で屋敷を抜け出していた。戻ったのは夜半だったか。

いつものように裏門からこっそり庭に入ると、明かりのついた部屋からあまり離れない庭先の露台に、ルクレチアがいた。大人の話し合いだから、と追い出されて、そのまま放置されていたのだろう。紅茶道具一式と空の菓子皿を目の前に、ルクレチアはぼんやりと座っていた。自分はその時酔っ払っていた。やけになって、というほどでもないが、普段より明らかに飲みすぎて、気持ちも高揚していた。いつものつもりで声をかけようとして、確か、出来なかった気がする。彼女はその時、それまでに見た事がないほど憔悴しきっていた。酷く疲れて、悲しげで、そのまま夜の闇に融けてしまいそうだった。頬には涙の後が見えて、心がやけにざわついたのを覚えている。初めて、手に入れたいと強く思ったのは、この時だったかもしれない。この子もいつまでも子供ではない。いつまでも、子供のままではいられない。今は時折ここに訪れて、幼い頃と同じ様に、戯れることもできる。でもそれが、あとどれくらいの時間、許されるのだろう。こうして側にいられる時間は、どれほどか。側において触れられるのは、いつまでなのだろう。思うと、いてもたってもいられなくなった。それで名前を呼んだ。彼女はいつものように振り返って、慌てて涙をぬぐって、いつものように自分を呼んだ。

後のことは、あまり思い出したくない。無くしたくないと思った時に、余りにも取り乱しすぎた。それで事を急いたのかもしれない。いや、幾ら急いても焦っても、あんな事はするべきではなかったのだ。それは先程も同じだ。やっと彼女はやここへ来てくれたというのに。例えそれが、どんな事情であろうとも、だ。

部屋のドアが外から叩かれる。またばあやでも来たのか。億劫に思って、エドアルドは溜め息をついた。今は誰にも会いたくない。このまま眠ってしまいたい。そして迎える朝、何もかも忘れて、生まれ変われるなら、どんなにいいだろう。返答もせず、エドアルドはそんなことばかりを思った。もし時を遡れるのなら、三年前のあの夜のことも、先程のあの接吻も、全てなくしてしまいたい。こんなにも悔やむなら、一時の欲望に任せて、あんな風に触れるのではなかった。ドアは幾度も、外から叩かれる。いらついて、エドアルドは声を荒げた。

「誰だ。今は一人にしておいてくれと、さっきばあやにも言ったはずだ。下がれ」

ドアをたたく音は、途切れる。沈黙が降りると、今一度エドアルドは嘆息した。このまま、ここで眠ってしまおうか。いや、せめてベッドに移動しようか。それとも、屋敷を抜け出して、いつものバールにでも。心は落ち着かず、どこかざわついていた。今夜自分は、眠れるのだろうか。このまま日が落ちて、闇が降りてきたとしても、朝は本当にやってくるのだろうか。ごく当然の事さえも、疑わしく思える。それは何のためだろう。不安と後悔のためか。それとも、ここにある絶望のためか。

「兄さま、あの……」

細い声が聞こえた。一瞬、心臓が止まるかと思いながら、エドアルドはその場で目を剥いた。部屋の扉は外から開かれる。夕暮れの薄闇の中、聞こえてきたのはルクレチアの声だ。声にはまだ、涙が絡んでいる。開けきらない扉の向こうから、声は続いた。

「母さまが……あの……」

戸惑う、というより怯えているように聞こえる。エドアルドは息さえつめて、その声を一音たりとも聞き逃すまいと、耳を澄ませる。

「お話が、したい、って……来て、くれる?」

震える小さな声は、やっと聞き取れるほどだった。身動きも出来ず、エドアルドはまだ息をつめたままだ。どうしてここに彼女が、と、やっとその思いに至っても、他には何も考えられない。それほど彼は驚き、そして混乱していた。どくどくと心臓が高鳴る。体は強張って、息さえ出来ない。

「……兄さま?」

もう一度声がして、その後に、その影がドアの中へと進んだ。顔は良く見えない。けれどそれでも、そのおびえと緊張が、手に取るように解る。

「……ごめんなさい、あの……」

「叔母上が、話したい、って、言ってるのかい?」

声は震えていないだろうか。動揺が、伝わりはしないだろうか。その言葉に答えながら、そればかりを彼は思った。ルクレチアがこの部屋に来たことに、確かに驚いている。けれどどうして自分は、こんなにも動揺して、緊張しているのか。落ち着け。落ち着いて、もう二度と、暴走するな。胸の中で唱えながら、エドアルドはソファから立ち上がる。

「あの、でも……兄さまが、嫌なら……」

「いや、構わないよ……元々、戻ったら一度伺おうとは、思っていたんだし」

それを勝手に反故にしたのも、自分なのだが。動揺して、痛いほどに心臓を鳴らしながらも、どこか冷静にエドアルドはそう思って苦笑した。体中に震えが走る。何か悪い病気でなければいいが。それとも、これが当たり前なのだろうか。ついさっき泣かせた彼女の前で、平静など装える訳も、ないのだから。思いながら、ゆったりとした足取りでエドアルドは歩き出す。近付く彼の姿をルクレチアは目だけで追って、側に彼が立つと、その視線をそらした。俯き加減で固まって、そのまま彼女は僅かの間、動かない。

「……どうして君が、ここに?」

僅かに低い彼女を見下ろして、エドアルドが問いかける。俯いたまま、ルクレチアは何も言わない。恐らく、自分の機嫌が悪い事を、叔母はあの老女中に聞いたのだろう。他の使用人では、きっとすげなく追い返される。だが呼びに来たのがルクレチアなら、彼は何かしら、応えざるを得ない。少なくとも一言、伝言くらいはするだろう。それを見越しているらしい。お嬢様育ちでおっとりとしてはいるが、かなりの策略家だ。流石はあの父の妹だけのことはある。思ってまた、エドアルドは苦笑した。ルクレチアは黙り込んだまま、俯いて動こうともしない。平気でいられなくとも当然だろう。それより、母親に言われたにしても、彼女がここへ出向くことは、にわかには信じがたい事だった。無理やりに唇を奪われて、一方的に気持ちを告白されて。まだ彼女は十代の少女だ。驚いたり怯えたりしても、何もおかしくはない。

「行こうか、ルゥ」

極力平静を装って、エドアルドが声を投げる。返答も、頷く仕種も見せないまま、ルクレチアはきびすを返し、彼の先を歩き始める。

もう口も聞いてもらえないのだろうか。歩きながら、エドアルドは苦笑していた。目の前の背中は小さい。肩も、折れそうに細く見える。ショックを受けて立ち直れない、そんな様子がその背中から丸解りだ。感情を隠したり、誤魔化す事もできないのだろう。それは幼いからなのか、それとも、彼女が素直だからなのか。

出来ることなら今のままずっと、無垢であってほしい。あざとく男を誘うような、そんな女にはなってほしくない。戯れに、愛のない相手と遊戯の様な恋をするような、そんな大人になってほしくはない。ずっとこのままでいてくれたら、どんなにいいだろう。出来るならこのまま、ガラスケースに閉じ込めて、ずっと自分の側においておきたい。いや、刻一刻と代わり続ける彼女を、ずっと側で見ていたい。許されるなら、触れ合いたい。抱きしめて、口付けして、叶うなら、この体の中に取り込んでしまいたい。その背中を見詰めながら、エドアルドは思いに耽る。ルクレチアは振り返らない。

やがて、二人はその部屋の扉の前に辿り着く。足を止めて、ルクレチアがその扉を叩くと、中から、お入りなさい、と柔らかな声が聞こえた。扉が開く。四つの部屋が続きになっているその部屋のメインルームの中央には、食卓がすえられていた。来客を饗応するが如く、今の部屋の主であるエドアルドの叔母、エリザベッタと、控える年若いメイドの姿が見える。テーブルの上には食事の支度がされていた。今から夕食なのだろうか。

「御免なさいね、エドアルド。呼びつけてしまって」

申し訳なさそうにエリザベッタが笑う。ドアの中に足を踏み入れて、エドアルドはその顔に笑みを浮かべた。心の中からではなく、それは、条件反射で浮かび上がる表情だ。笑ってなどいられる状況ではない。が、ここで何かしら事を起こして、父に知られれば後が面倒だ。思いながら、エドアルドは頭を下げる。

「いいえ。僕も、叔母上に聞きたいことがありましたから。一度ちゃんと伺おうと思っていたところです」

「あら、そうなの」

叔母の様子は普段と変わりがない。室内を見回すようにして、エドアルドは何気ない様子で問いかける。

「今から、夕食ですか?」

「ええ、貴方のね」

答えは、何やら的外れだった。目を丸くさせると、エリザベッタは軽く笑って、

「ばあやに、貴方が部屋に閉じこもって、人払いをしたままだ、と聞いたものだから。お腹がすいているでしょう?エド」

まるで小さな子供に尋ねるように、どこか意地悪く叔母に問われる。エドアルドは苦笑して、

「まあ、満たされてはいませんね」

「だったらどうぞ、お座りなさいな」

にこにこと叔母は笑っている。促されて、エドアルドは一礼すると自分のために用意された、主賓の席についた。食事と言っても大袈裟なものではなく、普段一人で取る時と同じ様な、簡単なメニューだ。パンとスープ、そしてメインとサラダが目の前に並ぶ。彼女の前には白磁のティーカップの中に、琥珀色の紅茶があるばかりだ。奇妙な席だ。思っていると彼女はまた笑って、

「さぁ、どうぞ。召し上がって」

「……戴きます」

時折、この叔母がよく解らなくなる。そろそろ四十も過ぎようという年齢なのに、いつ会ってもどこかあどけなく、無邪気な部分を持っている。かと思えば、時折見せる憂い顔には、奇妙な色香が漂っていた。世の男に言わせれば、そのギャップが彼女の魅力なのだろう。甥である上、二十歳近く年の離れたエドアルドにはあまり関わりのない話だが、解らないでもない。澄んだ水色の目は、楽し気にエドアルドを眺めている。小さな子供を見ているような、穏やかで優しい視線だ。が、エドアルドは困ったように、叔母に訴えた。

「あまり……じろじろ見ないでもらえませんか。僕でも、ちょっと……」

「あら、ごめんなさい」

言い難そうな彼の言葉に、彼女はくすくすと笑った。頬杖をついて、彼女は言葉を続ける。

「こうして見ていると、お兄さまに良く似ているなあって思って」

「……父に、ですか」

笑う彼女は、まるで少女のようだった。何だかその様子に、奇妙にエドアルドは辟易していた。一体どんな顔で対応すればいいのか、解らなくなる。その様子もおかしいのか、彼女はまたくすくすと笑った。照れているとでも思っているらしい。エドアルドは困惑して、困り顔で言葉を返す。

「親子ですから……似ていないことも、ないと思いますが」

「そうね。親子ですものね」

エリザベッタはまだ笑っている。何故この人は、自分をここに呼んだのだろう。思いながら、エドアルドは食事を続ける。

目の前のメニューが大方片付く頃、側に控えていたメイドが動き出す。空いた食器が片付けられ、食後のエスプレッソが運ばれて来ると、エリザベッタはメイドを下がらせた。室内には、二人だけが残される。ルクレチアは、いつの間にか姿を消していた。続きの寝室にでも、引っ込んだのだろうか。白いカップの中の、夜の闇のような飲み物を、見るでもなく見詰めて、エドアルドは思った。

「ねぇ、エドアルド」

「何です、叔母上」

問われるように呼ばれて、問い返すようにエドアルドが言う。エリザベッタは困ったように笑っていた。肩をすくめて、彼女は言葉を紡いだ。

「ルクレチアと、喧嘩をしたの?」

「……ええ、まあ」

話というのは、そういうことか。泣いて帰った彼女のことをエレナに詰め寄られ、その時弁解するのに使った言葉を思い出し、エドアルドはその奇妙な夕食の席の事を漸くのように理解した。娘が泣いて買えれば、彼女も母親だ、気にしない訳がない。これは、まずかったか。思いながらエドアルドは、言い訳を考え始める。が、軽い嘆息が聞こえて、直後、

「きっとあの子が、何か我侭でも言ったんでしょう?ごめんなさいね、エドアルド」

「……は、あ……いや、そんな……」

予測とは全く違う叔母の反応に、エドアルドは困惑する。エリザベッタはそのまま、申し訳なさそうな顔で微笑み、

「あの子も、反省しているみたいだし……良かったらこれからも、仲良くしてやってくれるかしら」

「ああ、ですから、それは……」

「我侭がすぎれば、叱ってくれてもいいし……私も、随分あの子を甘やかして育ててしまったから……」

「……ルゥは、いい子ですよ」

ここは、素直に彼女の話に、乗っておくべきか。思ってエドアルドは苦笑する。エリザベッタは少し驚いたように、

「そうかしら……いつまでたっても本当に子供で、貴方にも甘えてばかりで……迷惑をかけていない?」

「とんでもない」

少しおどけるように言って、エドアルドは肩をすくめて見せる。彼女の、どこか不安げな表情が解けた。父と自分同様、この人とルクレチアも、良く似ている。ほっとした時に見せる、安堵した顔は、どこか幼く、余りにも無防備だ。

「良かった……これであの子も、安心だわ」

「ルゥが……何か?」

ほっとした顔で発せられた叔母の言葉に、エドアルドが尋ねる。彼女はくすくすと笑うと、

「貴方に嫌われたと思って、随分しょげていたのよ。母さまも謝ってあげるから、って、そう言ってもなかなか、泣き止んでくれなくて」

本当に子供なんだから、と、彼女が付け足す。見当違いの過ぎる言葉に、エドアルドはやはり苦笑を禁じえない。何があったのか、ルクレチアはこの母親には、話していないようだ。いや、誰かに話せるような事でもないし、彼女がそうするとは、到底思えない。それでも、ここに戻っても、ずっと泣いていたのか。

「エドアルド、あの子には貴方だけが頼りなの。もうそんな年でもないけれど、仲良くしてやってね」

「そうですね、もうそんな年でも、ありませんが」

重ねられる叔母の頼みごとに、エドアルドは苦笑で返す。叔母は安堵の息を吐き、そのまま、少々重い口調で言葉を続けた。

「モリエーロにいた頃には、あの子は私とずっと二人きりだったの。本家と言っても、私達は離れで暮らしていたし、夫だったあの人も、私達のところに来るのは、月に何度かだけだった。お友達もいたんでしょうけど、そんなでは、呼ぶことも出来なかったし……随分寂しい思いをさせてきたわ。ここへ来て、あの子がとても楽しそうなのは、貴方のおかげだと思うの」

「僕も、随分とルゥには、楽しくさせてもらっていますよ」

沈んでいきそうな言葉を、救おうとするように、エドアルドが言葉を返す。エリザベッタは細く笑って、

「そう言ってもらえると、本当に嬉しいわ。貴方があの子の側にいてくれれば、私も色々と、安心だし」

「ばあやは、冷や冷やしているようですよ。出かける前にも、変なところに連れて行かないようにと、釘を刺されたし」

「そう?エレナは昔からそうよ。心配性なの」

おどけるようなエドアルドの言葉に、くすくすと彼女は笑った。そしてもう一度、彼女は同じ言葉を繰り返すように言った。

「エドアルド、ルクレチアと、仲良くしてやってね」

「僕はあの子を嫌いにはなりませんよ、叔母上。安心して下さい」

望まれるであろう言葉を、エドアルドは選ぶ。その言葉に満足したように、彼女は優しく微笑んだ。

「有り難う、エドアルド」

嫌いにはならない。いや、嫌われるとすればむしろ、自分の方だ。表面だけの笑顔を浮かべて、エドアルドは自分の中の、どこか冷たく凍える場所でそれを思った。彼女は、自分とルクレチアの間に何があったのかを、知らない。ルクレチアが泣いていた理由も、だ。知られれば、この叔母はどんな顔をするだろう。驚いて、見たこともないほど驚愕するだろうか。それとも、子供の戯事だと、一笑に伏すだろうか。

彼女を愛している、一人の女性として。そう言ったなら、目の前のこの人は、どんな顔をするだろう。幼い日に、ルクレチアが、自分のことを大好きだと言ったその時と同じ様に、穏やかに笑うだろうか。だとするなら、あの頃のように、子供の言う事だと、まともに取り合ってすらもらえまい。

それとも、彼女を連れてどこかへ消えてしまうだろうか。自分を危険だと判断して、彼女と自分とを、引き離してしまうだろうか。もしあの子に嫌われたなら、いっそその方がいいのかも知れない。思うと、エドアルドの胸はきしんだ。

好かれないまでも、嫌われたのなら、二度と会えない遠くに連れ去って欲しい。この先二度とその姿を見ることもないのなら、これ以上彼女を傷付ける事もないだろう。手を伸ばしても届かない、遥か彼方にいるのなら、どんなに叫んでも、声の届かない遠くにいるのなら、いっそその方がましだ。あの瞳が哀しく歪むことに比べたら、それは些細な痛みでしかない。いや本当は、それすらも身を裂くほどに、胸に痛い。それでも、手に入らないなら、この先二度と会えない方がいい。会えば求めてしまう。そしてそれはきっと、止まらない。

「エドアルド、どうしたの?」

黙り込んだ彼に、叔母が問いかける。我に帰って、エドアルドは苦笑した。誤魔化すように、彼は何気なく話題を変えた。

「そう言えば、ルクレチアはこちらの学校に通うみたいですね」

「ええ……トゥーレに。夏休みが終わり次第ね」

「トゥーレ……姉さんが通っていた、あの女子校ですか」

聞いたことのあるその名に、エドアルドは目を丸くさせる。かつて姉が通っていた、いわゆる良家の子女だけが通う、六年制の女子校だ。くすくすとエリザベッタは笑って、

「ええ、そうよ。私も通っていたから、色んなことが良く解っているし。グラローニは本当に、心安くていいわ。あの子を学校へ行かせるにも、こんなに安心だもの」

満足そうな表情で彼女は言った。へぇ、とだけ返して、エドアルドはそれ以上何も言わない。エリザベッタの表情が僅かに曇ったのは、間もなくの事だった。エドアルドが首を軽くかしげると、彼女はどこか申し訳なさげに言った。

「その頃には……私達はアパルトメントに移るのだけど」

「ここを……出るんですか?どうして」

叔母の言葉に思わずエドアルドが尋ねる。彼女は困った笑みのまま、

「あまり外聞が良くないでしょう?二度も出戻りした人間が、この家にいるのは。この家の当主は貴方のお父様で、私の父ではないのだし」

「そうでしょうか……ここは貴女の生まれた家ですよ。部屋だって余っているし……何の不都合もないと思いますが」

答えは腑に落ちない。外聞が何だと言うのか。あの父が、そんなことを気にする筈もないのに。思って、エドアルドは打たれたようにはっとする。そして、

「喧しいのは、世間ではなくて分家ですね」

吐き捨てるようなエドアルドの言葉に、叔母は苦笑を漏らしただけだった。そういうことらしい。思って、エドアルドは嘆息する。

「どうして父は、あんな奴らの言うことをいちいち聞くんでしょうか。ボカロジアの当主はあの人でしょう?分家の人間にしても、祖父よりずっと前の代の当主の、外腹の家系だ。未だにこの家にしがみ付こうなんて、どうかしている」

「ボカロジアには、それだけの価値があるということ、でしょうね」

そう言って、彼女は力なく笑う。意味が良く解らず、エドアルドは眉をしかめる。

「貴方のお父様が悪い訳ではないわ。あまり責めてはだめよ、エドアルド」

無言のままのエドアルドを諭すように彼女が言う。彼は何も答えない。そのボカロジアの価値のために、彼女は幾度も翻弄されてきた。一度目の結婚は、祖父が持ち込んだらしい。それも商売のために。間もなくそれは解消されたが、すぐにも彼女は二度目の結婚をさせられた。もしかしたら分家の連中は、この幸薄い叔母に、三度目の縁談を持ち込む気かもしれない。それとも、それを持ち込むのは、父か。思うと無意識に、眉が寄せられた。その様子にエリザベッタは困ったように笑って、冗談めかして言った。

「エドアルド、そんな顔をしていると、幸せが逃げていくわ。それに、貴方は貴方のお父さまやおじい様に似てハンサムなんだもの。そんな顔してはダメよ」

「そうでしょうか……似てはいるかも知れませんが」

叔母の言葉を笑う事もできず、エドアルドが返す。不貞腐れたようなその顔がおかしいのか、彼女は小さく声を立てて笑った。

「そう言えば、叔母上」

揶揄われているようだ。それを不服に思いながら、エドアルドは話題を変える。エリザベッタは相変わらずくすくすと笑いながら、

「何かしら、エドアルド」

「叔母上は……姉さんの母親という人を、ご存知ですか?」

唐突な問いかけだった。エリザベッタは笑うのをやめる。揶揄われるの回避するために、何気なく取り上げた話題に、場が沈黙する。エドアルドは自分で言っておきながら、その状況におや、と眉を上げた。彼女は驚いた顔で数秒黙し、それから、困ったような笑みをその口許に浮かべる。

「……叔母上?」

「ええ、知っているわ。フィオフィレーナ」

初めて聞くその名に、エドアルドは息をつめる。どこか懐かしげに、そして寂しげに、エリザベッタは無言で微笑む。

「亡くなって、もうどのくらいになるのかしら……」

エリザベッタはそれ以上、何も言わなかった。単に名前と顔を知っている、というだけではなさそうだ。何か、二人の間にあったのだろうか。エドアルドの頭を、そんな疑問が過ぎる。ふっと息をついて、エリザベッタは今一度エドアルドを見遣る。そして、

「アデレードのように……いいえ、もしかしたらフィオナの方が、もっと激しい人だったかもしれないわね……とても強い人だったわ。アデレードに、何か聞いたの?」

「いいえ……そういうわけでは、ありませんが」

返された声は穏やかだった。兄の愛人だったという女のことを、妹という立場の人間は、こんなにも穏やかに語れるものだろうか。そのことに驚く、というよりも、たじろぐような心地で、エドアルドは思った。そう、と短く返して、彼女はまた懐かしげに、その目を細める。この叔母は、やはりつかみどころがなくて、良く解らない。思いながらエドアルドは、エスプレッソのカップに口を付ける。熱くて苦いその口当たりに、彼は僅かに眉をしかめた。

 

奇妙な会食を終えて、エリザベッタの部屋を出る。傾いていた太陽は、更に低く沈もうとしていた。もうすぐ日も落ちる。昼前まで眠っていたせいか、それとも、昨夜の変則的な眠り、そのもののせいか。今夜も上手く眠れないのではないか。そんな思いがエドアルドの胸をよぎる。いや、そんなことが不眠の理由なら、寝酒でもひっかければ簡単に解消できるだろう。それとも、その類の薬でも使うか。思って、彼は嘆息する。自分は相当重症らしい。眠れそうにない、という些細な懸案に、そこまで思いつめるとは。眠れなければまた、書斎で夜を明かせばいい。書かなければならない論文もある。自宅にあるだけの資料でどれだけのものが書けるかは解らないが、大学も所詮は暇つぶしのために通っているようなものだ。学校側も、ボカロジアの子息が在籍している事には、少々恩恵を受けているようだが、彼の勉学の程度にはあまり興味もないらしい。それでも、彼を買っている教授の姿もちらほら見られる。暇に飽かせて読んでいた本から得た知識が、多少なりとも役に立っている、というより、彼らの関心を得ているようだ。このまま、一生分の暇を、読書とそれに付随する何かに費やすのも、悪くはないかもしれない。ふと思ってエドアルドは苦笑を漏らす。ボカロジアの次期当主が、しがない大学の講師か。分家の連中は何と言うだろう。それに父親も。情けないと、嘆くか、罵るか。どちらにしろ、自分の将来を決めるのに、自分の意思などあまり重要視されないに決まっている。

その名を持つものは、それを守る事に必死だ。見ていると同情するほどに。父親や祖父までもが、それに逆らわず、従ってきたことさえも、愚かしいを越えて哀れにすら見える。土地も資産も、一人の人間がその一生涯をかけても消費しきれないほどのものを、ボカロジアは抱えている。所有する家屋敷を維持するのに、どれだけかかっているかは解らないが、そのために四苦八苦する事もないだろう。一体何のために、彼らはこの家を守ろうとしているのか。何のために、この家を繋いでいるのか。エドアルドは笑っていなかった。哀れで、愚かしい。けれどそれも、考えてみれば、それだけの事だ。滅びるに任せたほうが、楽だろうに。冷ややかに思って、何気に彼は目を上げた。渡り廊下の向こうに、夕闇に沈んでいく庭が見える。白くぼんやりと、その中に露台が浮かんで見える。そこに、あまり大きくない人影を見つけて、エドアルドはその目を見開いた。誰かと思いながら、目を凝らす。

「……ルクレチア」

思わずその名が唇から漏れた。いつかの夜のように、彼女は一人、心ここにあらず、というような表情で座っていた。いや、今もまだ、泣いているのか。黙ったまま、エドアルドはその様子をじっと見詰めていた。時折、その肩が僅かに上下する。暮れていく夕日を眺めているのか、それとも。思ったその時、唐突に影が動く。

「ジュリオ、待って!」

チリン、と、小さな鈴の音が聞こえた。子猫は首輪と鈴を貰ったらしい。抱いていたか膝に乗せていた子猫が逃げでもしたようだ。けれどこの夕闇では、どこかに紛れた小さな子猫を捜すのは、容易ではないだろう。どうするのかな。思いながら、エドアルドはその様子を見詰め続けた。困惑した様子で、立ち上がったルクレチアは辺りを見回す。

「ジュリオ、戻ってきて、ジュリオ!」

悲鳴に近い、高い声が響いた。慌てる様子を見せながらも、諦めているのか、ルクレチアは駆け出そうとはしない。暫くその場所できょろきょろと辺りを見回していたが、すぐにも露台に戻り、同じ椅子に腰掛ける。がくりと肩を落として、彼女はそのままテーブルにその顔を伏せた。長く伸ばした髪を二つに分けた、そのシルエットが浮かび上がって見える。空は刻一刻と、その色を闇に染めていく。屋敷の敷地内とは言っても、暗がりに一人にしておくのは、あまり良くないかもしれない。思いながらエドアルドは歩みを進めた。どんな顔をされるかは解らない。けれど、部屋に送るくらいなら、構わないだろう。さくさくと芝生を踏んで、エドアルドはその露台に近付く。

「っ……兄さま」

辿り着くより先に、ルクレチアが気付いて顔を上げた。声がしたのと同時に、エドアルドは足を止める。そしてわざとらしい口調で、少しおどけて言った。

「こんなところで、何してるんだい?ルゥ」

「あ……あの……」

「叔母上との話は、もう終わったよ。追い出してしまったのかな?」

目の前で、ルクレチアは困惑していた。笑いかけて、エドアルドは言葉を続ける。

「暗くなると、幾ら庭でも危ないよ。誰かが、君がいないと騒ぐかもしれないし。部屋に戻ろう」

ルクレチアはエドアルドから目を逸らし、そのまま動こうとしない。嫌われた、というより、怖がらせているようだ。当然か。思ってエドアルドは息を吐いた。浮かべていた作り笑顔が消える。眉を軽くしかめて、エドアルドはそっと、彼女の名を呼んだ。

「ルクレチア」

細い彼女の肩が、跳ねる。そんな風に、怯えないでほしい。いや、こんな風にしてしまったのは、自分か。冷ややかにそれを思いながら、エドアルドは彼女の近くへと、歩みを進める。かすかな足音に、ルクレチアが勢い良く顔を上げた。

「にっ……兄さま……っ」

「部屋に戻ろう。もう遅いから」

視線がぶつかる。夕暮れの中、怯えた目を見つけて、エドアルドは更に眉をしかめた。怖がらないでくれ、嫌わないでくれ。心で、祈るように彼は思った。隣に腰掛けて、エドアルドはもう一度、ルクレチアの名を呼ぶ。

「ルクレチア」

「……ごめっ……兄さま、ごめん、なさ……」

言いながらルクレチアは立ち上がり、その場から逃げ出そうとする。追うように腰を浮かせて、エドアルドはその手を捕まえた。強く引っ張られて、ルクレチアが思わず声を上げる。

「きゃあっ」

「ルゥ……どうして逃げるの?」

「に……兄さま……」

「俺から逃げないでくれ……頼むから」

言葉が終わる頃には、エドアルドは彼女を腕の中に閉じ込めていた。背中から抱きしめられる形になって、ルクレチアは驚く。

「兄さま……は、離して……いや……」

「嫌だよ……俺を嫌いに、ならないでくれ……」

悲鳴に涙が混じる。腕の中でルクレチアが暴れるのを、力ずくで彼は閉じ込めた。声が吐息に紛れる。泣いてしまいそうだ。思いながらエドアルドは、その細い体を抱きしめた。ルクレチアの抵抗が、止む。力なく、彼女は俯く。そして小さく、背中の彼を呼んだ。

「兄さま……」

もう逃げるつもりはないらしい。それを感じ取って、エドアルドは腕を緩めた。ルクレチアは小さく震えている。きっともう、元には戻れない。思いながらもエドアルドは冷静だった。この子はもう二度と、自分に心を許さないだろう。思いながら、その手に彼女の髪を捕まえる。それでも、今はこうしていたかった。手に入らないから尚更、恋しく感じる。ないものねだりだ。そんなことは解っている。もし彼女が容易く頷いたら、次の瞬間自分は、興味など失ってしまうかもしれない。それなら拒まれて、このまま嫌われて、遠くへと離れても、その方がましかもしれない。永遠に焦がれていられる。満たされずとも、この気持ちは消えずに残る。冷めてしまうことに比べたら、ずっとその方がいいのかもしれない。いや、それは詭弁だ。忘れて、何もかもなかった様に生きられるほうが、ずっと楽に決まっている。苦しまずにすむ。彼女を傷付ける事も、苦しめる事もない。この気持ちが忘れられたら、どんなにいいだろう。どれだけの安息を得られるだろう。こんなにも苦しい。胸をナイフで引き裂いて、死んでしまいたいほどに。

「……兄さま」

小さな声が聞こえた。エドアルドはそっと、ルクレチアの顔を覗く。ルクレチアは俯いたまま、小さく言った。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

「……どうして、謝るの?」

問いかけて、解りきったことなのにと、エドアルドは自重の笑みを浮かべた。彼女は自分がこうする事を、望んではいないのだ。でなければ、こんな風に謝ったりはしないだろう。この子にとって自分は、この先もずっと、今までのように、従兄でしかない。その言葉はそれを指し示している。嫌われてはいないかもしれない。けれど、男としては愛してもらえないのだ。どれほど願って、思っても。

ルクレチアの体に回した腕を、エドアルドは解いた。ここまで拒まれては、これ以上子のこの側にいることはできない。いれば自分が苦しむだけでなく、この子もまた、深く傷付ける事になる。これ以上暴走する前に、自分はもっと遠くへと去るべきだ。いや、時を経ずして、彼女達はこの家を出て行くというのだ。暫くは、それを待てばいい。そうなったらもう、彼女に会うのはやめよう。思いばかりを引き摺って、また苦しむ事になる。

「ごめんよ……ルゥ」

ルクレチアから、そっとエドアルドは離れた。怯えた目のままで、ルクレチアはそっと振り返る。笑いかけて、自分は本当に笑えているだろうかと、エドアルドは思った。立ち上がって、一歩下がる。距離が遠のいて、ルクレチアは彼に向き直った。

「兄さま」

「暗くなると危ないから、早く戻るんだよ?」

「あの時のこと……覚えている?」

立ち去ろうとした時、そんな問いかけが耳を打った。ルクレチアはエドアルドを見詰めて、震えながら答えを待っている。あの時。心の中で繰り返して、エドアルドはああ、と小さく声を漏らす。

「覚えてるよ……君がここで、泣いてた、あの時だろ」

「どうしてあの時……あんなことをしたの?」

ルクレチアが立ち上がる。エドアルドは少し驚いたが、目の前の彼女の問いかけに、苦笑混じりに答えた。今更、嘘は言えない。すべてのことを語ってしまおう。償いにはならない。それでも、自分の気だけは、すむかもしれない。

「君の事を、失いたくなかったから」

「……私を?」

「そうだよ」

「どうして……」

「決まってるじゃないか……それを今更、言わせるのかい?」

漏れたのは自嘲の笑みだった。いや、自分を哀れむ笑みかもしれない。なんて哀れなのだろう。こんなに思って、言葉を口にしているのに、それに応えてはくれない女に、そのことについて問い質されるとは。少し意地悪く響いたエドアルドの言葉の後に、もう一度、ルクレチアは問いかける。

「……本当?」

「……何が」

「兄さまは……私のこと、本当に……」

「好きだよ」

震える足で、ルクレチアが歩き出す。近付く彼女に、エドアルドは驚く。そのまま、彼女は彼の間近までやって来て、その顔を見上げ、もう一度彼に問いかけた。

「だからなの?本当に、そう思ってるから……あんな……」

彼女の問いかけの意味が解らない。戸惑いながら、エドアルドは自分を見上げる少女の瞳を見詰め返した。ルクレチアは言葉を失う。軽く開いた唇から、短く静かな息が漏れた。

「ルクレチア……?」

ほろほろと音もなく、ルクレチアの瞳から涙がこぼれた。泣き出すその顔を、エドアルドはただ見下ろしている。この子は何を言いたいのだろう。どうして泣くのだろう。また謝罪の言葉を口にするのなら、それは罪でしかないと、解っているのだろうか。知らないうちに自分を傷付けていると、知っているのか。

「ルゥ……?」

「……キスして」

ささやくように、小さく動いたルクレチアの唇から、声が漏れた。耳を打ったかすかなその声に、エドアルドは驚いて息をつめる。

「ルゥ……」

「本当に私のこと、好きなら……もう一度、ここで……」

泣きながら懇願する声に、エドアルドの体が震えた。どくどくと心臓が脈打つ。これは何だろう。この子は、何を言っているのだろう。ろくに回らない頭で、エドアルドはそんなことを思った。体を駆け巡る、緊張と興奮が、何から起こるものなのか解らない。眩暈さえしそうな感覚に揺さぶられながら、エドアルドはその手をゆっくりと上げた。

「……好きだよ」

何度目かの言葉の後、その手で彼女の顔を捕まえる。何かに操られるように、エドアルドはルクレチアに顔を近づけた。

「君を、愛してる」

「私も……」

小さな囁きが聞こえた。幻聴かもしれない。彼女が目を閉じる。唇を重ねて、エドアルドは眉をしかめる。これは夢ではないのか。思いながら、そっと顔を離す。これは夢で、総てが幻で、もしかしたら自分はそこまで病んでいるのか。幻覚を見て、それに溺れるほどまで、彼女を愛しているのか。ぼんやり思いながら、エドアルドはルクレチアを見つめた。目を閉じたまま、ルクレチアは涙を流している。その手で顔を覆って、彼女はそのまま、エドアルドの胸に倒れこむ。重みと温かさが心地いい。肩を抱いたのは無意識だった。これは夢ではないのだろうか。口付けを求められたのは、幻聴ではないのか。

「……兄さま……大好き……」

腕の中で細く、ルクレチアが言った。見下ろして、エドアルドは何も言わない。

「大好き……離さないで……」

胸の痛みで、これが現実なのだと、信じていいのだろうか。ぼんやりとエドアルドは思った。抱いている細い肩は、細かく震え続けている。幻覚なら、現実でも、このまま彼女を手に入れたい。目が眩むほどに強く思って、エドアルドは突然、その体を抱き上げた。抱き上げられて、ルクレチアは驚く。

「に……兄さま?」

大きく見開かれた瞳が見える。エドアルドは笑いかけて、何も言わずにその頬に口付け、そのまま彼女を抱いて歩き出した。

 

太陽が空から姿を消す。名残ほどの光しかない室内にも、小さな明かりしか灯さない。部屋の最も奥までルクレチアを運んで、座らせる。戸惑う瞳でルクレチアは、自分を運んだ男を見上げた。呼びかけようとしても、声が出ない。無言のままでエドアルドが、涙に濡れるその頬を優しくぬぐう。何度も撫でられて、ルクレチアはその心地よさに軽く目を閉じた。口許に笑みが昇る。唇がそっと緩んで、彼女はそっと、目の前の男を呼んだ。

「兄さま……」

顔が両手で捕まえられる。ルクレチアが目を開けて見上げると、薄闇の中にどこかぼんやりとした顔があった。近付く気配に、もう一度彼女は目を閉じる。自分からも僅かに身を乗り出すと、口付けは再び降りた。柔らかく触れ合うそれは、ゆっくりと彼女の唇を解き始める。温い感触に僅かに戸惑うと、その隙を突くように、エドアルドの舌が彼女の唇に忍び込んだ。初めての感触に戸惑って、体が強張る。怯えに感じたのか、エドアルドはすぐにも、彼女の唇を解放した。

「っ……兄さま……?」

「ごめん……」

顔が離れる。それでも、二人の間にさほどの距離は生じない。息がかかるほどに近くで、二人は互いの瞳を見詰めた。エドアルドが口許に、強張った笑みを浮かべる。ルクレチアはそれに戸惑って、僅かに瞳をゆがめた。

「兄さま……」

「このまま……俺を、許してくれる?ルクレチア」

「……許す?」

「君を、抱きたい……」

声は、掠れている。言葉に、ルクレチアの顔に朱が走った。耳まで真っ赤になって、ルクレチアは思わず顔を背ける。

「ルクレチア……」

事を急かし過ぎているのか。止まらないのに。思いながら、エドアルドは彼女の答えを待った。ルクレチアは俯いて、ちらりと彼を見る。仕種はまだ幼い。愛らしいその様子に、エドアルドが笑う。揶揄われているのか。こんな時にまで。いや、こんなところにこんな風に連れてきたくせに、まだこの人はこんな風に言うのか。ルクレチアは思って、悔しげに言った。

「……嫌なら、私だって……キスなんて、させない」

「え?」

「されるのが嫌なら……して欲しいなんて、言わない、って……言ってるの!」

語尾が強くなる。どうしてか泣きそうになって、ルクレチアは目をきつく閉じた。どうしてこの人は、ここまで来て、こんな風に言うのか。子供だと思って、バカにして。恨めしげにルクレチアは思った。エドアルドはその側で彼女の発言に狼狽している。怒っているとでも思っているのだろうか。いい気味だ。思いながら、ルクレチアは更に言った。

「どうして、解らないの?それとも……ルゥがそんな風に言ったら、おかしい?」

「いや……そうじゃない……」

「じゃあ何?兄さまがさっき言ったのは、嘘?私のこと……ほ、本当は、やっぱり、子供だって、そう思って……」

声が震える。詰りながら、ルクレチアは怯えていた。全部嘘だったとしたら、どうしたらいいのだろう。あの甘い口付けも、総て悪ふざけだったとしたら、自分はどうしたらいいのか。怒りと戸惑いと、何より恐怖がルクレチアを襲った。そっと目を開けると、困惑するエドアルドの顔が見える。強く、ルクレチアは言った。

「兄さまはっ……どうしてそんなに、私のこと、苛めるの?こんなに、私、こんなに、兄さまのことっ……」

「……そうじゃないよ、ルゥ」

真直ぐに、エドアルドの目がルクレチアを見詰める。エドアルドが初めて見せる、憂いと怯えに満ちた目に、ルクレチアは思わず息を飲む。

「兄さま……」

「……君を、抱いてもいい?俺を……許してくれる?」

懇願するような、甘えるような声だった。答えるより前に、エドアルドは彼女の髪の先を捕まえて、その先に口付ける。感覚のないはずの部分の接吻に、ルクレチアの体が震えた。

「に、兄、さま……」

「君を愛してる……好きだよ」

顔が再び捕まえられる。口付けは額に、目蓋に、鼻に、頬に、顎に、そして唇に下りた。離れると、額に額が押し付けられる。僅かに乱れた息が顔にかかると、ルクレチアの背中を、ぞくぞくするものが駆け上がった。

「兄さま……」

そのまま、彼女はベッドにゆったりと倒された。覆いかぶさる彼の表情は、熱に浮かされたようにぼんやりして見える。

ゆっくりとした手つきで、エドアルドは彼女の着ているものをはがし始める。鎖骨が顕になると、その凹凸に口付けた。唇は、首筋を舐める。触れる度に、ルクレチアの体が小刻みに震えた。口付けを繰り返しながら、着ているものは剥がされ、その素肌が空気にさらされていく。白く細い体が顕になる頃、二人の呼吸は熱く乱れ始めていた。エドアルドが、自分の着ているものを脱ぎ捨てる。さらした素肌で抱擁すると、たまらず彼はうめくように言った。

「綺麗だよ……ルクレチア」

「……ほ、本当?」

「誰にも、渡さない……」

耳元で囁いて、その耳朶に噛み付くように口付ける。間近に聞こえた声と、かかる吐息に、ルクレチアの体が震えた。

闇夜の草原に、小さな宝石でも捜すように、その手はまだ幼い彼女の体をまさぐる。丁寧に、そして時折、ためらいがちに。触れられる度、ルクレチアは震えて、小さく悲鳴を上げた。唇は、愛しげにその体を舐める。愛を言葉で紡ぐよりも危うげで、それでも確かな感触に、されるままになりながらも、ルクレチアは怯えていた。息が上がる、体が熱くなる。男の手が胸のふくらみを包むと、ルクレチアは思わず身を強張らせた。

「やっ……いやっ……」

「ルゥ……」

「兄さま、待って……ま……」

緩やかに胸を包んだ手が、波を打つように動く。指先がその先端を掠める刺激に、驚いてルクレチアは声を上げた。

「やんっ……や、いや……」

拒むはずの言葉の後にも、エドアルドの手の動きは止まらなかった。指で捕まえて、撫でられる。全身に電撃が走るような感覚に、ルクレチアは思わずその手を跳ね除けた。

「兄さま……やめて……それ……いや!」

「どうして……?」

体を起こして、ルクレチアはエドアルドに背を向ける。問いかけられる声に、力が感じられない。振り返ろうとすると、背中から抱きしめられる。

「に……」

「なら、キスなら、してもいい?」

「……え?」

耳元でエドアルドが囁く。問い返した隙に、再びルクレチアはベッドに押し倒された。何事かと思う間もなく、胸の先に口付けが下りる。舌の先が触れると、先ほどよりも妖しい感覚が、その体を走った。

「っや……はんっ……」

体は強張る。なのに力は抜けていく。感じたことのないその刺激に、泣き出しそうなほどにルクレチアは戸惑っていた。

「兄さま……に、兄……っ、あ……」

唇は、二つの胸を愛撫すると、戸惑う彼女の唇をもう一度奪う。突然の口付けに逆らう事もできず、荒々しい舌の侵入もたやすく許して、ルクレチアは身をよじる。

「んっ……んふぅっ……」

鼻から、声が漏れた。ベッドに押し付けられたまま、貪られる様な口付けに、ルクレチアは逆らうすべを知らなかった。余りにも柔らかいものが、自分の舌と歯と、口腔をまさぐる。その温かさとぬめりが心地いい。鼻から抜けた声は、どこか甘い響きに変わっていた。何だかおかしい。でも、嫌ではない。息苦しいのに、胸も痛むのに、体中が喜んでいる。口許が、唾液まみれになるような口付けが、一旦止まる。何事かとルクレチアが目を開けると、エドアルドの唇は、再び胸を襲った。

「あっ……ああっ……」

舌は先程よりもっと荒々しく、なまめかしく、乳房にからみつく。背筋がぞくぞくする。寒い訳ではない。むしろ、熱い。これは何かしら。恥ずかしくて、変な気分なのに、とても気持ちがいい。思いながらルクレチアは、自分の胸に顔をうずめるエドアルドを見た。

「兄さま……」

声と吐息が、甘く、重くなる。呼ばれて、エドアルドは顔を上げた。切なげな目がこちらを向く。エドアルドはルクレチアを見詰めて、言った。

「名前を……呼んでくれないか」

「……え?」

「俺は君の……兄貴じゃない」

もうそれでは、満足できない。どれだけ愛しても、側にいても、それでは我慢が出来ない。ここにいるこの女の前で、自分は一人の男でいたい。思いながら、エドアルドはもう一度言った。

「名前を呼んでよ……ルクレチア」

「……え、エドアル、ド……?」

戸惑いながら、ルクレチアがその名前を呼ぶ。満足そうに、エドアルドは微笑む。軽い口付けを唇に押し付けて、エドアルドは体を起こす。何事かと、ルクレチアもベッドにひじをついて、上半身を起こそうとする。

「ルゥはそのまま、動かないで」

「え?」

「もう少し……俺のされるままに、なってて」

言葉の意味が解らない。戸惑っていると、エドアルドの手が、彼女の太腿を割った。滑り込んだ指の感触に、驚いて、

「に……じゃ、ない……あっ……」

「……嬉しいな……濡れてる」

指先が、その亀裂を探し当てる。上擦るエドアルドの声の意味が解らず、ルクレチアは困惑した。

「に……兄さま?」

「ルクレチア……好きだよ」

指が、柔らかにその先へと進む。胸にされたように、足の間の肉の丘も、柔らかに撫でられた。それまでとは比べ物にならない刺激が、その体を襲う。何が起きたのかすら解らないまま、ルクレチアは悲鳴を上げた。

「あっ……ひ、いやんっ……」

指は、ぬるぬるとした何かをまとって、その奥を撫でる。胸の突起に似た何かに触れると、体は勝手にのけぞった。声が漏れる。止められない。

進んでくる刺激に戸惑いながら、ルクレチアは身をよじった。全身が震える。頭の中までぼんやりと、霞がかかったようになる。恥ずかしくて、やっぱり変な気分だ。でも全然、嫌ではない。もっとされたい。初めてなのに、これがどんな事なのか、解らないのに、とても気持ちいい。そう言ったらこの人は、どんな顔をするだろう。思いながらルクレチアは、その手で自分を愛撫する男を見やる。エドアルドはやや引き攣った笑みを浮かべて、そんなルクレチアを見ていた。こんな彼の様子は、見た事がない。嬉しそうにも、そうでないようにも見える。

「キス……してもいい?」

「キス……?」

「ここに」

「……え?」

答えも待たず、エドアルドは半ば無理やり彼女の足を広げさせた。声を上げる間もなく、彼女のもう一つの唇に、激しい口付けがなされる。

「はっ……ああっ……あふ、んっ……」

ぐちゃぐちゃと音を立てるほどの舌の動きが、彼女の体の、奥まったその場所を荒らす。全身が引き攣るほどの感覚に、こらえきれずにルクレチアは声をあげ、その身をよじった。

「いや、いやっ……あ、あ、ああっ……」

頭の中が真っ白になる。何も考えられない。それでもたった一つ、揺るがないものがある。この人を愛している。抱かれたいと、ずっと思ってきた。今、それが叶う。叶おうとしている。

「エドアルド……チェーザレ……」

途切れがちに、ルクレチアが彼の名前を呼ぶ。顔を上げて、エドアルドがほんの少し、驚いたような表情を見せた。しかしそれもすぐに消える。

「もう一度……その名前で呼んでよ」

ルクレチアの手を取って、彼はその指先に口付けた。ルクレチアは泣き出しそうな目で、そんな彼を見て、その名を口にする。

「チェーザレ……」

「愛してるよ、ルクレチア……」

掴んだままの手に、頬を摺り寄せる。大きく彼が動いたのは、その後だった。足を開かせて、逃げないように捕まえる。体は、一段と近付いた。その深い、そしてまだ何者も受け入れたことのない無垢な体に、硬く反り返った、剣のようなものが突きたてられる。

「んっ……あぁっ……」

体が繋がる瞬間の痛みに、ルクレチアは眉をしかめた。割り込んだ男の体は、今までに感じた事がないほどに熱い。痛みと、その重みに、呼吸が乱れる。目を上げると、エドアルドは満足げな、そしてどこか残酷な笑みを浮かべていた。顔を近づけると、繋がりがより深くなる。こじ開けられる痛みが更に大きくなって、ルクレチアは悲鳴を上げた。

「いたっ……痛い、兄さ、まっ……」

「我慢して……俺はずっと……我慢してきたんだから……」

独り言のようにさえ思える呟きに、ルクレチアは小さく眉を顰めた。恍惚の表情で、それでも眉をしかめて、エドアルドは言葉を続けた。

「ずっと、こうしたかった……君と、一つになりたかった……体を、重ねたかった……」

エドアルドが、彼女の手を取って自分の頬に摺り寄せる。眉をしかめて、愛しげに、彼は幾度も繰り返したその言葉を、また口にした。

「好きだ……君を愛してる……俺の、ルクレチア……」

「……チェーザレ……」

何度も繰り返される言葉に、ルクレチアの目に涙が浮かぶ。下肢の痛みも忘れて、ルクレチアは抱きつくようにその腕を、エドアルドの肩に回した。

「……だったら、もっと愛して」

どうしてか、そんな言葉が口からこぼれる。彼女の声に、エドアルドは驚く。

「ルゥ……」

「もっと沢山、愛して……私は、貴方だけのものだから……もっと、沢山……」

それは、欲深いことなのだろうか。ついこの間まで、会えるだけでも嬉しかった。従兄妹同士としてでも、側にいられるのが幸せだった。その声で呼ばれるだけでも、あんなに幸せだった。なのにもう、それでは足りないなんて。もっともっとこの人が欲しい。この腕に抱かれたい。乱されて、狂ってしまっても構わない。ルクレチアの頭の中を、そんな思いが支配する。他には何も考えられない。愛しているというなら、もっともっと、求められたい。

「ルクレチア……」

「……私の、チェーザレ……」

名前を呼ぶ。視線がからむと、熱い吐息が漏れる。ルクレチアの額に口付けして、エドアルドは動き始めた。激しく打ちかかるようなその動きに、体が深くえぐられていく。それまでよりももっと激しい痛みに、ルクレチアは悲鳴を上げた。先ほど心に満ちた幸福感も、何もかもが消し去るようだ。乱暴で力任せの行為に、彼女は泣き始める。それでもエドアルドは止まらない。

もっと愛して欲しい。そう言った声が頭の中に谺する。その声が、自分の中の何かを強く揺さぶる。欲するものを得たいだけ、求めて止まないものを、壊してでも手に入れるように。それは激しく強く彼を支配した。その体を犯したい。思いを重ねて、酔いしれて、狂うほどに愛したい。求めるままに総てを手に入れたい。愛情も温もりも悦楽も、総て。

「……ルクレチア……」

泣きじゃくる彼女を見下ろして、息を乱しながらエドアルドはその名前を呼んだ。怯えた目で、ルクレチアが見返す。動きは止まらない。体は溶け合う様に重なったまま、その時を迎える。

「愛してる……君だけを、永遠に……」

眩暈がするほどの悦楽が、体を走った。繋がったまま、動きを止める。乱れた呼吸も収まらないまま、エドアルドはルクレチアの顔に口付けの雨を降らせる。額に、目蓋に、鼻に、頬に、顎に、そして唇に。

「っ……チェーザレ……」

「君が好きだよ……もう、離さない……」

抱きしめて、エドアルドは僅かに笑った。これを幸福だと言わずに、何をそう呼ぼう。これが悦楽でないなら、他にどんな悦びがあるだろう。体に残る余韻も、胸に満ちる思いも、何もかもが心地いい。足りないものはどこにもない。

「チェーザレ……」

細く、ルクレチアが彼を呼んだ。声が、胸に痛い。けれどその痛みさえ心地いい。

「……キスしても、いい?」

ゆっくりと体を離して、エドアルドが問いかける。涙に濡れた視線を泳がせて、ルクレチアは答えない。

「ルクレチア……」

「……私も、お願いして、いい?」

甘えた声が問い返す。エドアルドがその顔を覗き込むと、彼女は僅かに視線を反らし、

「……離さないで……ずっと、側にいて」

閉じた瞳から涙がこぼれる。拭うように顔を捕まえて、エドアルドはその唇に、自分の唇を重ねた。

 

 

 

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Last updated: 2008/11/23

 

 

 

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