カンタレラ

 

X

 

 

ふと目を上げると、目の前で眠るルクレチアの顔があった。くうくうと、規則正しい寝息が聞こえる。自分自身が横になっていることに気付いて、エドアルドは小さく笑った。

叔母から、部屋に電話が数度あったらしい。何度目かに出ると、案の定、ルクレチアがいないと騒いでいた。子猫が庭に逃げたのを捜していたところに出くわして、と適当に嘘をついて、今夜もこちらで預かると告げると、彼女はあっさり信用して、そう、ごめんなさい、宜しくね、と言って電話を切った。ルクレチアはその時には、まだ起きていた。シーツに包まって不安げに、電話に出るエドアルドを見ていた。誰から何の電話かと尋ねられて、正直に答えると、相当動揺したらしい。泣きながら、どうしよう、と狼狽え始めた。適当な事を言って誤魔化したから、と笑いかけても、彼女は暫くそれを信じていない様子だった。それでも何とか宥めて、その後にもずっと、二人でベッドの中にいた。ただ触れている、その温もりがあまりに心地好くて、いつの間にか眠ってしまったらしい。それでも、昨夜からの変則的な眠りのせいか、夜明けよりも早く目が覚めたようだ。ベッドの中で体を起こして、エドアルドは辺りを見回す。

カーテンの外から、僅かな光が差している。室内の空気は、まだほのかに冷たい。もう少しここで、まどろんでいようか。思いながらエドアルドは傍らの少女を見下ろし、その頬をそっと撫でる。

昨夜は、酷い目に合わせてしまった。自分は、今までに感じたことのないほど、幸福な夜だったのだが、この子にはあんなに辛い夜も、なかったかもしれない。それでも止められなかった。細い声が名を呼ぶと、それだけで、魂まで震えるような気がした。何度も繰り返し、許しを乞う様に口にした言葉は、偽りではない。それでも、罪の意識は拭えなかった。この子を汚してしまった。自分は何と、罪深いのだろう。けれどそれでも、求めずにはいられない。愛していると、そう思ったから。

「……兄さま?」

横たわっていたルクレチアが、そっと目を開けた。起こしてしまったらしい。苦笑しながら、エドアルドはその頬を撫でる。

「ごめん……起こしたね」

「ううん……平気」

緩く、その口許に笑みが昇る。いつもの彼女だ。思いながら、そっとエドアルドは言葉を紡ぐ。

「まだ寝ていていいよ……夜明けも来ていないから」

「兄さまは……眠れた?」

無邪気に、ルクレチアは笑っている。問いかけに、エドアルドはそっと返した。

「ああ……ちゃんと寝られた。君は?」

ルクレチアは答えない。何が楽しいのか、ふふふ、と彼女は小さく笑った。そのまま、ルクレチアはエドアルドに抱きつく。

「ルゥ?」

「兄さま、あったかい……いい気持ち……」

彼の体に頬を摺り寄せて、ルクレチアは笑う。幼い仕種に、エドアルドはまた笑う。髪を撫でて抱き返すと、ルクレチアは幸せそうに、小さな声を立てた。

「何がそんなに嬉しいんだい?ルゥ」

「だって……兄さまが、側にいてくれるから」

「それはそれは……光栄です、セニョリータ」

おどけて、エドアルドは返す。その額に口付けすると、彼は今一度、優しく言った。

「まだ早いから、もう少し寝ていていいよ」

「ううん……兄さまが起きてるなら、私も起きてる」

えへへ、とルクレチアが笑う。エドアルドはそっと彼女の体を離し、その隣に身を起こした。見下ろして、その額を撫でる。指先が触れて、ルクレチアはまた笑う。エドアルドは何も言わず、柔らかにその額に触れ続ける。指は髪を撫でる。一房を手にとって、エドアルドはその先に口付ける。何も言わない彼の様子に、ルクレチアは横たわったまま、小さく首を傾げた。

「……兄さま?」

「……何だい?」

目を閉じて、エドアルドはその髪に頬を摺り寄せる。どことなく恍惚の表情でありながら、何故か翳りの見えるその様子に、ルクレチアは戸惑いながら、

「何って……あの……やっぱり、眠れなかったの?」

「どうして?」

問い返されて、ルクレチアは口ごもる。エドアルドは軽く笑って、手にした彼女の髪を落とした。さらさらと音を立てて、金色の細い髪が、彼女の肩の上にこぼれる。

「兄さま?」

「昨夜は……辛くなかった?」

「……え?」

なされた問いかけに、ルクレチアが戸惑う。エドアルドの表情に苦いものが混じる。彼女が起き上がると、エドアルドは苦笑したまま言った。

「泣いてただろ?ずっと」

「あっ……兄さま、あれはっ……」

ルクレチアの顔が朱に染まる。そのまま口ごもった彼女を抱き寄せて、耳の側でエドアルドは笑った。

「無理をさせてしまったね……ごめん」

「そんなっ……兄さま……」

「もう二度と、君をあんな目には合わせない……誓うよ」

低く静かに、その声が言葉を紡ぐ。ルクレチアは腕の中で戸惑いながら、首を強く横に振る。

「兄さま、私なら、平気よ。大丈夫だから」

何故か必死になってルクレチアはそれを訴える。確かに昨夜は、痛みに耐え切れずに泣いてしまった。体を重ねる事が、あんなに激しいものだとは知らなかった。二つの体が、本当に混ざり合ってしまいそうな、砕けて粉後になって、壊れてしまいそうな衝撃に、耐え切れずに何度もやめてと叫んでしまった。今もその余韻が、体に残っている。それでも、とても幸せだった。今度があったら、耐えられるかどうかは解らないけれど。思いながら、ルクレチアは自分の顔が更に熱くなるのを感じた。

「ルゥ?」

真っ赤になったその顔を、エドアルドが覗き込む。ルクレチアは俯いて、

「に……兄さまが、その……あの……」

「俺が……何?」

問いが重ねられる。いいたいことは胸の中にあるのだが、上手く言葉にできない。いや、どう言えばいいのか解らない。そんなことを口に出して言うなんて、はしたないと思われないだろうか。もしそんな風に思われたら、恥ずかしくて死んでしまう。思いながら、何故かルクレチアは拗ねた。

「ルゥ?」

「……兄さま、わざとしていない?」

「……何を、だい?」

唐突に、まるで詰られるように言われて、エドアルドは目を丸くさせる。小さくうめいて、ルクレチアは彼を睨む。首を傾げると、彼女はそこで更に不機嫌顔になった。

「ルゥ?」

「兄さまは……私とこんな風になっても、意地悪なのね」

「……は?」

彼女は拗ねている。どうやら自分のせいらしい。しかし理由が解らない。泣きべそをかき始める彼女を抱いたまま、エドアルドは困惑した。ルクレチアは少しだけ黙り込んで、涙のからんだ声で、

「だから、その……あの……」

「……俺が悪いなら、謝るけど……」

背中を撫でながら、エドアルドが困った声で言う。子供扱いだ。思ったルクレチアはその手を振りほどく。驚いて、エドアルド、

「……ルゥ?」

「だから、そうじゃなくて……ど、どうして、解らないの?」

「……ごめん」

真っ赤になって涙まで浮かべて、ルクレチアが詰る。詰られたエドアルドは訳が解らないまま謝罪するが、それも気に入らないらしい。そのまま、ルクレチアは手で顔を覆って泣き始める。

「ちょ……ルゥ、どうして泣くんだよ……本当に俺が悪かったから、泣かないで……」

「どうしてそんな風に謝るの?……私は、嫌だなんて、言ってないのに……」

ぼろぼろと涙を流しながら、やっとのことでルクレチアが言った。エドアルドの目が丸くなる。ルクレチアは顔を再び上げて、そのまま、泣くに任せるように、何故か怒った口調で続けた。

「昨夜だって……ここに来てまで、あんな風に言って……た、確かに、びっくりしたけど……い、痛かったし、泣いたりしたけど……」

「うん……だから、ごめん、って……」

「あ、あやっ……謝るくらいなら……しなければいいでしょ?わ、私、私、はっ……」

言葉が上手く続かない。それでも、訴えなければ、伝えなければいけないことがある。言わなくちゃ、何とかして、伝えなきゃ。思いながら必死で、ルクレチアは続けた。

「私だって……兄さまにっ……」

「俺に……何?」

エドアルドはじっと、ルクレチアの言葉を待っていた。真直ぐに見つめて、動かない。視線に気付いて、ルクレチアは息を飲む。どくどくと、胸が早鐘を打った。顔だけではなく体中を真っ赤にして、ルクレチアは叫ぶように言った。

「……愛してるって、言われて……抱きしめて、キスして、もらって……抱かれて、本当に、嬉しかったん、だから……」

だから謝らないで。罪なんて、感じないで。そう言いたくて、出来ずにルクレチアは涙を拭う。泣きすぎて、体が痙攣し始める。エドアルドはあまりに幼い自分の恋人を、どこか眩しくさえ感じながら、見詰めている。

「ルゥ……」

「……兄さまだけが、悪いんじゃないわ……私だって、嬉しかった……だから、そんな風に言わないで……」

言葉の後、ルクレチアはエドアルドの肩に抱きつく。歓喜に満ちた吐息を漏らして、エドアルドはそっと笑った。抱き返して、そのまま、耳元で囁く。

「有り難う、ルクレチア……大好きだよ」

目頭が熱くなる。愛おしいと、思うだけで泣けてしまう。それは幸福だった。腕の中に、手に入れたくて堪らなかった女がいる。自分の罪を許して、尚且つ、受け入れてくれる。思うと、笑みはこぼれた。頬が緩む。胸のどこかが甘く締め付けられる。心地いい痛みと、くすぐったいような感覚に、エドアルドは笑っていた。腕の中、泣きながら、ルクレチアは少しふてた様子で言った。

「……でも、やっぱり……ちょっといや」

「ルゥ?」

「……だって……は……は……恥ずかしいもの」

言葉にエドアルドは目を丸くさせる。直後、吹き出して、

「可愛いなぁ、ルゥは」

「かわっ……可愛くなくていいもん! 兄さまの意地悪!」

腕の中でルクレチアが喚く。強く抱きしめて、構わずエドアルドは笑いながら、覗く首筋に軽く口付けする。驚いて、ルクレチアは声を上げた。

「やんっ……兄さま、何っ……」

「好きだよ、ルゥ……愛してる」

「そ、そ、そ……そんなこと言っても、い、い、いっ……今は、そういうのは、嫌!」

「何が?って……何のことだい?ルゥ」

惚けた様子でエドアルドが、わざとらしく尋ねる。ルクレチアは更に激昂して、

「何って、何って……何って、それは……」

言いかけるも、途中で口ごもって、それ以上何も言えなくなる。勝った、と胸中でほくそ笑み、エドアルドは腕の中の彼女に、くどいくらいに口にした言葉をまた更に囁いた。

「本当に可愛いよ……愛してる、ルクレチア」

「〜〜〜〜っっ、兄さまの、意地悪!」

罵倒する声が聞こえる。声を立てて、エドアルドは笑った。

 

ルクレチアと母、エリザベッタがグラローニに来てから、そろそろ一ヶ月か経過しようとしている。二人は数日後には、ボカロジアの本宅からさほど離れない区域にある、高級アパルトメントへと移ることになっていた。ほぼ同時に、夏の休暇が終わり、エドアルドの大学とルクレチアの通う予定の、女学校の新学期も始まる。

「兄さま、あのね……お願いがあるの」

「お願い?……何だい?改まって」

「今度行く学校から、前の学校で出てた課題を提出しなさい、って……文学のレポートなんだけど……」

数日後に引越しを控えたその日の午後、ルクレチアは筆記用具を抱えて、書斎のエドアルドを訪ねていた。エドアルドはエドアルドで、やはり自分に課された論文作成の真っ最中である。やって来たルクレチアを一瞥すると、

「そういうのは、ちゃんと自分でしなきゃダメだよ、ルゥ」

「失礼ね、ルゥだって課題くらい、一人で出来るわよ。ここにある御本を借りていい?って、聞きに来たのに」

ドアの前でルクレチアが膨れる。エドアルドはその様子を見ると、意地の悪い笑みを浮かべて、

「それはそれは。僕の早とちりでしたか。失礼しました、セニョリータ」

「もう、兄さまの意地悪!」

ルクレチアが膨れる。エドアルドはそれを見て、声を立てて笑った。

二人の間柄は、あの夜以来変わったかと言えば、特別大きな変化もなく、至極平和と言えばその通りだった。流石にエドアルドの夜歩きは激減したが、毎夜二人で時間をすごす、という訳でもない。ただ時折、示し合わせて真夜中の露台で、蜜月を楽しむ。どことなくひそやかなその遊びが、ルクレチアは相当のお気に入りらしい。とは言え彼女の母親にも使用人達にも、その、少々子供じみた遊びの事は黙認されていた。咎められないのは、屋敷中の人間に知られているからだ。最も、エドアルドもその遊びの最中には下手も打てない。軽い夜食をサーブして、時には眠ってしまう彼女を部屋まで運ぶ、という、何とも微笑ましい状況だ。不服ではないが、少々彼には物足りない逢瀬である。

「本を持っていくのはいいけど、ちゃんと返すんだよ。それから、昼寝の枕なんかには、絶対にしないこと。いいね?」

「お昼寝の枕になんかしません!失礼しちゃう」

エドアルドの言葉に、べー、とルクレチアが舌を出す。少々意地悪がすぎたか。思いながらエドアルドは苦笑する。そして、

「書けたら、見てあげるよ。持っておいで」

「うん」

エドアルドが笑いかけると、ルクレチアは嬉しそうに答える。早速本を物色し始める彼女を見て、エドアルドは何気に尋ねた。

「けど、今頃から始めて、間に合うのかい?新学期はもうすぐだろ?引越しの支度だって……」

「平気。大きな荷物はないもの。モリエーロから、直接運んでもらう事になるし」

「へぇ……」

ルクレチアは書架に梯子をかけて、数冊の本を棚から取り出しては、ぱらぱらと捲り始める。その様子を見て、エドアルドはまた小さく笑った。ルクレチアは分厚い上製本を脇に抱えて、そんなエドアルドへと振り返る。

「何?兄さま」

「別に何でもないよ……ああでも……引っ越していったら、寂しくなる、かな」

時折、エドアルドは彼女に甘えるような目を見せる。いつか、子猫のようだ、と言ったら叱られたが、ルクレチアには七つも年上の彼がそんな顔をすることが意外だった。そして、何度見てもその視線にどぎまぎしてしまう。慌ててそっぽを向いて、ルクレチアは少しだけ冷たい口調で、

「また、そんな風に言って。そんなこと、思ってもいないでしょ、本当は」

「思ってるよ。寂しくなる」

言いながら、エドアルドはルクレチアのいる書架に歩み寄る。はしごの下で待ち構えるようなエドアルドの姿に、その上のルクレチアは小さくうめいた。にこにこと、エドアルドは笑っている。小さく呻いて、ルクレチアはそっぽを向いた。

「そ……そんなこと言っても、仕方ないでしょ。学校だって始まるんだし……」

「ここを出て行っても、時々会ってくれる?ルクレチア」

問いかけに、ルクレチアは固まった。その質問は何だ。思って振り返ると、やはり彼は笑っていた。また揶揄われているらしい。毎度のことながら、腹が立つ。けれど、彼に敵わないことも知っている。相手の方が自分よりも、ずっと上手だ。時にはこちらから、意地の悪いことを言って困らせもするが、結局彼の一言で、自分は何もかもを許す羽目になる。何だか悔しい。悔しいけれど、それでも彼といられることが、ルクレチアには何よりも幸せだった。

「答えてよ、ルゥ」

「……兄さまがそう言うなら、会ってあげなくも、ないわ」

言いながら、ルクレチアがぷいとそっぽを向く。エドアルドは笑って、

「意地が悪いな、ルクレチア。僕はこんなにも、君のことが……」

「兄さま、それを言ったら私が何でも許すって、そう思ってるの?」

「あれ、違うのかい?」

決まり文句を口にする前に切り返されて、とぼけた顔でエドアルドが問い返す。ルクレチアはそっぽを向いたまま、

「違います!当たり前でしょ?そんな風に言われたって、嬉しくも何ともないんだから」

「けど……寂しいのは本当だよ、ルゥ」

声のトーンが落ちる。ルクレチアがちらりとそちらを見ると、エドアルドはまた甘えるような目で、ルクレチアを見上げていた。息を飲んで、ルクレチアもエドアルドを見る。

「兄さま……」

「時々、君を誘っていい?」

問いかけに、ルクレチアは僅かに眉をしかめた。エドアルドが手を差し伸べる。無言で、本を抱えたまま、ルクレチアは梯子を降りた。エドアルドの手を取って、床まで降りる。手は、まだ握られたままだ。俯くと、頭の上でまた、エドアルドの声がした。

「時々、君に会いに行ってもいいかな」

「……うん」

頷きながら、それだけ返す。本当は、自分だって寂しい。同じ屋敷にいれば、毎日は会えなくても、どこかで気配は感じられる。けれど全く別の場所に暮らすことになれば、些細な事で、相手を感じる事など、出来はしない。寂しい。本当は私だって、寂しい。思いながらルクレチアは顔を上げた。エドアルドの目は、まだ甘えるような、どこか寂しげな光を放っている。

「兄さま……」

「君が女学校を卒業したら、結婚しよう、ルクレチア」

手を握ったまま、さらりとエドアルドが言った。唐突な言葉にルクレチアは驚き、抱えていた本を床に落とす。どさどさいうと重々しい物音の後、室内は静まり返った。赤面して、硬直して、ルクレチアは何も言わない。エドアルドは穏やかに笑って、そんな彼女を見下ろしている。

「俺とじゃ嫌?ルクレチア」

「えっ……え、え、え……えっと、あの……」

余りにも気の早いその申し出に、ルクレチアは混乱した。しかし同時に、また揶揄われているのか、という思いが頭をもたげる。いたずらっ子のように、エドアルドは問いを重ねる。

「答えてよ、ルゥ」

「……っ、に、兄さま……?」

「名前を呼んでよ……あの時の様に」

手を掴んだまま、エドアルドが言った。ルクレチアは泣き出しそうな目で、そんな彼を見上げる。

「チェー、ザレ……?」

「一生離さない……絶対に、幸せにするよ」

言葉の後、エドアルドがその額に口付けする。ルクレチアは変わらず、固まったままだ。微笑んで、エドアルドは彼女から離れる。そして、

「何か解らないことがあったら、聞くんだよ?ルゥ」

そんな風に言葉を投げる。口付けされた額にその指で触れて、ルクレチアは照れくさそうに、それでも心底嬉しそうに、声もなく笑った。

 

「あらあら、それでこの子は、書斎で寝てしまったのね」

夕刻。エドアルドはルクレチアを背負って、叔母、エリザベッタの部屋にいた。背中のルクレチアはくうくうと寝息を立てている。何のことはない。本を枕にこそしなかったが、結局彼女はそこで船を漕ぎ始めたのだ。レポートは何とか書き上げたらしい。何度か呼びかけられた事は覚えている。エドアルドはエドアルドで、自分の読書に夢中だった。ルクレチアは彼が一息吐くのでも待っていたようだ。が、待ちきれずに、というところか。

「すみません……もう少し早く、気付くべきでした」

「いいのよ、エド。それよりも、また貴方に迷惑をかけてしまって……ごめんなさいね。ルクレチア、起きなさい。ルクレチア」

エドアルドの背中のルクレチアに、エリザベッタが呼びかける。むにゃむにゃと小さく言いながら、ルクレチアは閉じていた目をそっと開く。

「母さま……あれ?私、どこに……」

「随分なご身分ね、ルゥ。ボカロジアの若様の背中でお昼寝、なんて」

寝ぼけ眼のルクレチアには、まだ状況の把握が出来ないらしい。あちこちを見回して、自分が背負われているその背中に、再び拠りかかる。

「兄さま……兄さまは?」

「俺はここだよ、ルゥ」

困ったように言いながら、エドアルドは笑う。ルクレチアは口許をゆるく結んで、小さく笑うと、

「兄さま、あったかい……いい気持ち……」

「ルクレチア、起きなさい。貴方がおぶさっているのは、その兄さまの背中よ」

呆れたように言う母親の声に、ルクレチアはその目をしばたたかせた。直後、

「えっ、ええっ……きゃあっ」

叫ぶように言って体を起こす。背負っていたエドアルドは驚くが、上手くバランスを取って、背中の彼女に笑いかけた。

「やぁ、お目覚めかい?ルクレチア」

「なっ……えっ……どうして私、兄さまにおんぶして……」

「とりあえず、暴れないでくれるかな、ルゥ。危ないよ」

ルクレチアが赤面して固まる。その様子にエドアルドはまた笑って、そっと彼女を背中から降ろした。ルクレチアは真っ赤になったまま、やはり動かない。呆れたようにエリザベッタは溜め息をつき、

「本当に、貴女って子は。エドアルドに謝りなさい」

「……ご、ごめんなさい、兄さま……」

言われるままに、殊勝な態度で、ルクレチアが頭を下げる。エドアルドは軽く笑って、

「仕方ないよ。退屈だったんだろ?それに、今日のことで一つ解ったことがあるし」

「……解ったこと?」

にこにことエドアルドは笑っている。不思議そうにルクレチアが尋ねると、

「随分重くなったんだね、ルクレチア。昔はもっと軽かったのに」

「お、重っ……に、に……兄さまのバカ!もう知らない!」

にこやかなエドアルドのその言葉に、ルクレチアはそう言ってきびすを返し、部屋の奥に向って走り出す。見送って、エリザベッタが珍しく、叱責の声を投げた。

「ルクレチア、何ですか、その言い方は。待ちなさい。ちゃんと謝りなさい」

「いいんですよ、叔母上。お構いなく」

「エドアルド。あの子と仲良くしてくれるのは嬉しいけれど、あんまりあの子を甘やかさないでちょうだい」

その叱責がエドアルドにまで及ぶ。おやおや、自分まで叱られたか。思ってエドアルドは肩をすくめた。エリザベッタは、駆け去ったルクレチアと彼とを交互に見て、困ったように嘆息する。それすら笑いながら眺めて、それからエドアルドは、手にしていた数枚の紙束を、エリザベッタに手渡した。

「ルクレチアの、レポートです。良く書けていた、と伝えてもらえますか」

「課題までも見てもらったのね、あの子ったら……」

「俺が手出しした訳じゃありません。ルゥだってやる時はやりますよ」

余りにもからかいすぎて笑いすぎた従妹のフォローをするように、エドアルドが言った。困った様な笑みを浮かべて、それを受け取ったエリザベッタは、

「本当に……貴方にはお世話になりっぱなしね、エド」

「俺は何もしていませんよ。でも叔母上、何かあったらいつでも言ってください。父も僕も、きっと姉も、できる限りのことはしますから」

「……有り難う、エドアルド」

困惑の残る顔で、それでも心からの言葉とともに、エリザベッタは笑う。エドアルドは一礼して、きびすを返すと歩き出す。背後から、叔母がルクレチアを呼ぶ声と、続くお小言がかすかに聞こえた。

幸福とは、こういう事を言うのだろうか。思いながら、エドアルドは歩いていた。口許は無意識のうちに緩み、心も、いつもどこか軽い。毎日が平穏という訳にはいかないが、嫌なことも、小さな出来事に笑えば、忘れられる。そのおかげか、些細な事に腹が立たなくなった。以前なら許せなかった、例えば、使用人の小さな失敗も、今では笑って流せる。先日は、入ったばかりの若いメイドが、水差しを運ぶ途中に、その水をこぼした。以前なら、役立たずだから、と自分の近くに寄せる事も嫌ったが、拭いておくようにと言ったものの、それ以上のことは思わなかった。どの道、始末をつけるのは失敗した彼女自身なのだし、床を多少濡らした程度の事に腹を立てるのも、思えば浅はかな事だ。最近若様は、何かいいことでもおありですか、とばあやにも何度か尋ねられた。自分は相当変わったらしい。別に何も、と答えると、それではお熱ですか、と真顔で言われた時には面食らったが、その変化をばあやも、悪いと思ってはいないらしい。相変わらず小言は多いが、若いメイドにだけは手を出さないように、と変な釘も刺された。若様は亡くなった大旦那様に似て、二枚目でおいでですから、若い娘がその気になりでもしたら困ります、と、これまた真顔で言われ、エドアルドは思わず笑ってしまった。ばあやも、この屋敷に来てから長い。代々の当主の所業に、思うところもあるのだろう。気をつけるよ、とエドアルドも一応答えたが、その心配は杞憂に終わるだろう。いい顔をしてメイドに気に入られよう、などという気はさらさらない。いや、戯れの相手など、もう必要ないのだ。こぼれる奇妙な微笑の理由は、そのたった一つだった。他の何者も、こんな幸福を運んでは来ないだろう。不満がないわけではないが、それでも彼は今、十分幸せだった。

「お父様、話を聞いて!」

「私の出す条件が飲めるなら、な。使いたければ幾らでも、ボカロジアの名前を出せ。お前は私の娘だ。その名を名乗る事を禁じた覚えはない」

廊下を歩き続けるエドアルドの耳に、言い争う声が聞こえる。顔を上げて、エドアルドはその声へと振り返った。早足に歩く父の後を、姉が小走りに追いかけている。五十近くになろうと言う父親は、年齢にそぐわない程、今でも俊敏に、力強く、そして精力的に活動している。歩く速さもそれに比例しているらしい。いや、あれは少し、いらついているからか。足を止めて、エドアルドは思った。父はそのまま足早にその場を去る。姉、アデレードは立ち止って、その背中に罵声じみた言葉を浴びせた。

「誰もボカロジアを名乗らせろなんて、言った覚えはないわ!」

彼女も彼女で、相当いらいらしているようだ。何かあったのか。エドアルドはしばし無言で、父親の背中を睨みつける姉を眺めていた。忌々しげに舌打ちして、アデレードは思い切り良く振り返る。目があって、彼女は驚いたようにエドアルドに言った。

「エドアルド……いたの?」

「いや……通りかかっただけだよ」

「今の話……聴いていた?」

アデレードの顔に苦い笑みが上る。肩を軽くすくめ、エドアルドは同じ様に苦笑を漏らすと、

「最後の一言はね。姉上らしいですよ」

そう言って彼女に歩み寄る。アデレードは疲れた顔になると、その短く赤い髪を荒々しい手つきで掻きむしった。何か問題でも起きたらしい。思いながら、エドアルドは言葉を紡ぐ。

「どうかしたの、なんて、聞いていいのかな」

「……大したことじゃないわ。買収しようとしている企業が、なかなか首を縦に振らなくて」

言葉の後、アデレードの口から溜め息が漏れる。エドアルドは苦笑して、

「企業の買収……また、大きなことをやるんですね、姉上は」

「抱き込んでおかないと色々と面倒なのよ。モリエーロに駒を進めるのにね」

「モリエーロ?」

聞き知った土地の何、エドアルドは目を丸くさせる。その様子に気付いて、ああ、とアデレードは言った。

「ロミッツィ絡みじゃないわよ、今のところは。この先は、解らないけれど」

「へぇ、そうなんだ……俺には、そういう話は、良く解らないけど……」

言葉を濁すようにエドアルドが返す。アデレードは弟の、そ知らぬふりを決め込む態度に苦笑した。ロミッツィはモリエーロでは最も大きな資産家だ。その土地で商売をするには、多かれ少なかれその名前と関わらずにはいられない。幾ら彼がその手の話に疎くとも、それを解っていない筈がない。

「父さんは……何だって言うんだい?」

「ロミッツィがらみの件からは手を引け、若しくは、関わるな、だそうよ。そうよね。叔母様も戻ってきた事だし……関わりたくないのが本心よね」

あーあ、と、やや大袈裟に、アデレードが嘆きを声に表す。エドアルドは苦笑すると、

「だろうね。前の当主がなくなってから三年も、叔母上はその人の妻として、縛り付けられていた訳だし……ああでも、今の主はそんなに、うちとの関係を重視していなかったんじゃないのかな」

「あら、どうしてそんなことが解るの?」

思案顔になったエドアルドの言葉に、アデレードが問い返す。エドアルドは笑いもしないまま、

「ルゥが言ってたんだ。長兄が、自分達を追い出したがってたみたいだ、って」

「へぇ……そうなの……」

エドアルドの意外なニュースソースに、アデレードが目を丸くさせる。感心する姉の様子に、彼は肩をすくめると、

「とは言っても、それも俺の憶測だけど。商売をするんだったら、そういうのと話は別、なんだろ?」

「そうね……向こうの、由緒の怪しい「ロミッツィ」は、ボカロジア本家と繋がりを持ちたいって、聞かないでもないもの……でも今回は、一杯食わされた気がするわ」

疲れた声で言って、アデレードがまた苦笑する。エドアルドは軽く笑い返すと、

「お疲れのようですね、姉上。少し遅いけど、お茶でもしていったらどうですか?」

「あら、優しいわね、エドアルド」

その言葉に、アデレードが笑う。そして、

「最近は、素行も宜しいみたいだし?ボカロジアの若様は、一体どうしちゃったの?」

「苛めないでくれよ、姉さん。ちょっと思う所があるってだけだよ」

「ルゥもいるし?」

言われて、エドアルドは言葉に詰まった。姉は自分をいたぶるつもりなのか、ニヤニヤと、奇妙に楽しそうに笑っている。言葉は更に続けられた。

「夜遊びの回数が減った、って、ファビオが言ってたわ。で、オマケに、可愛らしい従妹と、夜な夜なお庭でハイティー、ですって?」

「……夜な夜な、って訳じゃないよ。あの子が呼びに来るから、時々……」

執事の名前が出る。エドアルドは困り顔でそっぽを向いた。周知の事実だろうとは踏んでいたが、言われると何も反論できなくなる。相変わらずアデレードは、ニヤニヤと笑っていた。そして、

「そんな若様のご相伴に預かったら、可愛らしいお嬢様に、やきもち焼かれちゃうわね。どうしようかしら」

「……姉さん、揶揄わないでくれよ」

困り果てたようにエドアルドが返す。アデレードはふっと、優しい表情になると、

「でも、いいことよ。お前は今までが、あんまり幸せそうじゃなかったもの」

そう言って、今ではもう自分より高くなった、その頭に手を伸ばして撫でる。エドアルドは驚いたように姉を見た。アデレードは静かで、そしてどことなく寂しげな笑みで、言葉を続ける。

「あの子に、あんまりひどいことをしては、ダメよ。私が許さない」

「何だか怖いな……姉さんに言われると」

あはは、と、エドアルドの口から、乾いた笑い声が漏れた。アデレードはにっこりと笑うと、

「あら、何も怖くなんかないわよ。お前があの子を大事にしていれば、何の問題もないことだもの。私の母さんや、お前の母親が、父さんにされたような仕打ちは、絶対にしない、って、そう誓えばいいだけよ」

「姉さん……それはちょっと、違うような……」

エドアルドの視線が、泳ぐ。この人は一体、どこまで何を知っているのだろう。ちらりと見遣ると、アデレードは変わらずに笑っていた。次には一体どんな言葉が飛び出すだろう。思っていると、彼女は言った。

「最近ちょっと疲れてるから、今日はゆっくりしようかしら。そうだ、若様、一つお願いしていい?」

その言葉に、奇妙な緊張が解ける。苦笑し、エドアルドは少しだけおどけた素振りで彼女に返す。

「……何なりと、セニョリータ」

「じゃあ、えーっと……『ラルゴ』のオレンジレーキが食べたいわね。それと、ガトーショコラも。1ラウンド……ううん、半分でいいわ。それから、レアチーズと……」

「姉さん、一人でそんなに食べる気かい?」

見た目ややることとは全く違う姉の要望に、呆れながらエドアルドが返す。アデレードは笑いもせず、

「あら、誰も私一人で、なんて言っていないわよ?若様が主催のちょっと遅めのお茶会に、可愛らしい従妹のお嬢様も、勿論そのお母様も、招待してくれるんでしょ?」

いたずらっぽくその目が光る。敵わないな、そんな風に胸の中で呟いて、エドアルドは言った。

「今からか……ばあやに叱られそうだな……」

「心配しなくても、物さえあったら一人走ればすむことよ。ばあやじゃなくてもね」

アデレードが、勝ち誇ったかのような顔になる。エドアルドは一礼して、恭しく返した。

「かしこまりました、セニョリータ。すぐにも手配いたします」

 

少々遅い、そして少人数ではありながらもやや騒がしい午後のお茶会は、案の定、老女中に見付かるところとなった。年若いメイドが数人、庭でその支度をしているところから、ばあやの小言は始まった。今時分からお茶なんて、これから夕食の支度もあるのに、メイドをこんなことに使うなんて、と始まったその小言も、ばあやとそのメイド達にもケーキを振舞ったおかげで、普段より数倍早く納まった。が、老女中がそれで全てを納得した訳ではなく、これでは夕食が後れてしまう、遅くなっても文句は聞きませんよ、と、続いた。しかし、誰もそれに文句も言わなければ、小言に対する不平不満の欠片も表さなかった。

 

老女中の宣言通り、夕食の時間はずれ込んだ。が、遅いティータイムの後で、誰も空腹を覚える事も、まして訴える事もなく、その夕食もまた、少々騒がしくはあるが、支障もなく、むしろ円滑で和やかに済まされた。主を除くボカロジアの面々は、その夕食が終わってもなかなか食堂を離れず、しばらく団欒に興じた。時計を見て、アデレードが慌てて、初めて四人は時間の経過を知ったほどだ。明日も早いし忙しいから、とアデレードが席を立ったのを皮切りに、四人の夕食会はお開きとなった。夏の日没は遅いが、既に外には青い闇が迫っている。

「じゃあね、兄さま。お休みなさい。それから、今日は有り難う」

部屋に戻る直前、ルクレチアそう言って手を振る。見送って、エドアルドも同じくその手を振り替えしてから、自室に戻る。

夏季休暇の終わりと、ほぼ同時に、ルクレチアはこの屋敷を出て行く。初めから決まっていたこと、とは言え、やはり寂しいことに変わりはない。三年もの間、一目たりとも会えなかったと言うのに。思ってエドアルドは苦笑した。

確かにこの腕に抱いて、お互いの気持ちを確かめ合って、触れ合うことも出来たのに、時折、会いに行くことも叶うのに、この寂しさは何だろう。そしてその寂しさのあまり、昼間の自分は少し、先走りすぎた。あの子はまだ十七歳だ。女学校を出ても、大学に進みたいと言い出すことも考えられるのに、卒業したなら結婚しよう、などと。思って一人、エドアルドは赤面する。それでも、いずれは口にするはずの言葉だった。言ってしまったことは、今更悔やまない。ただ、そこまで自分が捕われているのだと、彼女に知られるのは、少しまずいかもしれない。素直ではあるが、ルクレチアは「やや我侭」だ。今まで、何不自由なく育ってきて、この先、自分がその気持ち故に、彼女の望む何もかもを叶えてしまうように思われるのは、まずいかもしれない。今でも、些細な事ですぐに膨れて、時々手を妬くことがある。出来れば、主導権は握っておきたい。何事においても。尻に敷かれる、とまでは行かなくとも、自分の意見すら言えない様な事になっては、色々と厄介だ。もう少し厳しくしつけるべきか、いや、それで嫌われたら、元も子もないか。

そんな思いをめぐらせて、エドアルドは一人、笑う。今までは、ずっと焦がれていた。今は一人でも、どこか満たされて、笑える。

彼女を思えば、幸せが心を満たす。愛し愛されるとは、こういうことか。こんなにも、心地好いものか。半ばその感覚に酔う様に、エドアルドはそれを思った。愛していると囁く時の、あの子の表情が、愛おしい。未だ慣れない口付けの後の、恥らう姿が、目蓋に焼きついて、離れない。あの夜、泣きながら自分を呼んだ声が、忘れられない。安らぎと共に、劣情さえ連れてくる、愛しい人(アモーロソ)

ベッドの側の小さな明かりだけをつけて、エドアルドは、部屋の窓から夜の庭を眺めていた。グラローニは片田舎だ。そして、屋敷の近くには他に建物がない。夜を昼に変えるような、喧しいネオンも届かない庭は、青い闇に沈んでいた。月明かりが、庭の木々を照らしている。流れる風は、時を経るごとに冷たくなっていく。秋が近い。

コンコンと、硬い音が室内に小さく響いた。扉を外からたたくその音に、エドアルドは目を上げる。ばあやか、メイドか。何の用だろう。明かりをつけないまま、エドアルドはその音に答えた。

「誰だい?」

扉は、外から開かれる。見えたその影に、彼はその目を見開いた。

「……ルゥ、どうしたんだい?」

ルクレチアがいつかのように、その扉の外にいる。歩み寄って、エドアルドは彼女を室内に招きいれた。同時に、部屋の明かりをともす。ルクレチアは少し困ったように笑って、

「ごめんなさい、兄さま。もう、お休みになるところ?」

「いや……まだ、構わないけど……君は、まだ休まなくていいのかい?」

またいつもの、庭遊びの誘いだろうか。思っていると、ルクレチアはエドアルドの顔を見上げて、

「伯父さまがね、外しくれ、って……」

「……また?」

やや呆れて、エドアルドが聞き返す。ルクレチアは僅かに申し訳なさそうなになると、

「最初は、姉さまのところに行こうと思ったんだけど……明日、早いって言ってたでしょう?だから……」

「全く、あの人は……」

夕食の席にいなかった父親の事を思いながら、エドアルドがぼやく。ルクレチアは少し戸惑いながら、

「ああ、でも……伯父さまも、母さまと、もうゆっくりお話できる機会も、あまりないでしょう?ルゥなら、どこか別の部屋に行くから……」

「……ここで良ければ、幾らでも使っていいよ、ルゥ」

慌てる口調のルクレチアの様子を、少しだけエドアルドは笑った。ルクレチアは更に慌てて、

「ううん、本当に、いいの。ただ……ちょっと兄さまの顔が、見たかっただけだから……」

「俺の顔が?……どうして?」

エドアルドは、その言葉に首を傾げる。ルクレチアはほんの少しだけ不服そうに、その目を逸らし、

「昼間……言ってたでしょ?その……」

ルクレチアが言葉に詰まる。エドアルドは黙して、その続きを待つ。

「……寂しくなる、って……」

「……ああ……言った、ね……」

相槌を打つように言って、エドアルドはかすかに赤くなる。ルクレチアはそれを見ず、彼よりももっと赤い顔で言った。

「母さまと、伯父さまを見てたら……私も……その……」

ごにょごにょと言葉が、また小さく濁る。見下ろして、エドアルドは吐息を漏らすように笑った。ルクレチアが目を上げる。泣き出しそうなその閃きを見て、エドアルドはそっとその手を彼女の頭に乗せた。

「兄さま……?」

「それで、俺に会いに来てくれたの?」

「……うん」

返答と共に、ルクレチアがまたそっぽを向く。その様子をくすくすと笑いながら、エドアルドはいつものように、優しくおどけて言った。

「光栄です、セニョリータ。散らかった部屋ですが、どうぞおくつろぎ下さい」

「……いいの?」

恐る恐る、ルクレチアが目を上げる。エドアルドはにっこりと笑って、

「ゆっくりしていくといいよ。それとも、今夜もここに泊まるかい?」

「……ルゥは、ソファでいいわ」

言われんことを何気に察知して、ルクレチアが言う。エドアルドは肩をすくめて、

「とんでもない。女性をソファで寝かせるなんて、そんな真似、俺には出来ませんよ、セニョリータ」

「で、でも、兄さまが……」

慌ててルクレチアが反論しようとする。エドアルドは笑いかけて、

「二人で一緒に寝ればいいよ。そんなに狭くないし……」

「一緒に?」

不思議そうに、ルクレチアがエドアルドを見る。エドアルドは笑いながら、

「こんな時間に男の部屋を訪ねて来るんだから……そういうことじゃないのかい?ルゥ」

屈みこんで、耳元で囁く。言われて、ルクレチアの顔が一瞬で真っ赤に染まる。同時に泣き出しそうな顔になると、

「に、に、兄さまっ……わた、わた、私、そんなつもりじゃっ……あ、あ、あのっ……」

「冗談だよ、ルゥ」

くつくつと、エドアルドが笑う。真っ赤な顔で泣き出しそうな目のまま、ルクレチアは安堵の息を漏らす。いつものようにまた、怒らせるかな。思いながら、エドアルドは彼女の次の言葉を待った。ルクレチアは、そのまま俯く。あれ、兄さまのバカ、が、聞こえてこない。思っていると、彼女は細い声で、小さく言った。

「……兄さまが、その……」

「……ルゥ?」

その肩が震えている。しまった、怒らせる、ではなくて、泣かせたか。エドアルドは内心焦る。が、ルクレチアは震えたまま、細い声で続けた。

「……兄さまが、そうしたいなら……私、あの……」

ちらりと、ルクレチアがその視線をエドアルドに向けた。予測していたのとは違う展開に、焦りながらも、エドアルドは心臓が高鳴るのを押さえられなかった。その声は、今、何と言ったか。細く途切れがちの、泣き出しそうな声が紡いだ言葉は、途切れてしまったが、それでも十分に、彼女の思いを伝えてきた。何てことだ、抗えない。思いながら、エドアルドは頬の引き攣るような笑みを、その顔に浮かべた。思惑とは全く違う展開は、だからこそ、彼を高揚させる。奇妙としか言いようのない、どこかいびつな笑みを浮かべた彼を見ず、ルクレチアは慌てた様子で弁解を始める。

「ほ、本当に、そんなつもりで来たんじゃないのよ?ただ兄さまとも、もうすぐ離れるんだなあって、そう思ったら……さ、さっきまでみんなで一緒にいて、兄さまとだって、レポートを書いてる時にも、一緒にいたけど……だけと……」

「……うん」

頭がぼんやりする。この子が、こんな風に言うのを聞けば、その姿を見たなら、やはり正気ではいられない。今まで自分を誘ったどんな女よりも、彼女は魅力的だった。愛らしいその容貌は、欲情するには確かに足りない。恐らく、そういうことではないのだろう。自分の奥底が、彼女を求めている。触れ合うことも含めて。勿論、本能ゆえの部分もある。けれどそこにあるのは、もっと奥深く、濃密な、何とも言い知れぬ欲求だ。取り込んで、一つになってしまいたい。それほどまでの。

体の求める欲を満たすだけなら、他の女でも構わない。けれどそこまで、他の誰かを思うことはない。今までも、これからも、彼女以外には。

「ルゥ」

「……ごめんなさい、やっぱり、誰かに言って、他の部屋に……」

泣き出しそうな目でルクレチアが言う。その肩に手を置いて、エドアルドは笑いかけた。

「俺の顔が、見たかったの?」

意地悪な質問だろうか、言ってしまってから、エドアルドは思った。ルクレチアは無言で頷いて、その目をきつく閉じる。

「ルクレチア……」

「ごめんなさい……あの……」

「どうして謝るの?俺は、嬉しいよ」

その言葉に、ルクレチアは恐る恐る顔を上げた。エドアルドは笑いかけて、その髪を撫でる。

「兄さま……」

「今夜は一緒に寝よう、ルゥ」

「っ……え?あ、あの、でも……」

「君が嫌がる事は何もしないよ……約束する」

エドアルドの言葉に、戸惑いを浮かべた瞳をルクレチアが見せる。笑いかけて、エドアルドは彼女の答えを待つ。

「誓うよ。君が嫌がる事は、何もしない」

「……うん」

視線が泳ぐ。ルクレチアが真っ赤な顔で頷いて、エドアルドは小さく笑った。髪を撫でた手でその頭を軽く叩くと、エドアルドはそのまま、彼女の顔を捕まえた。

「可愛いよ、ルゥ」

すかさず、頬に口付けする。ルクレチアは軽い口付けに瞬間、頬を緩める。が、

「……こういうのも、いや、って言ったら、兄さま、どうするの?」

「え?ダメなのかい?」

「……ダメじゃ、ないけど……」

「どっちだい?ルゥ。はっきり言ってくれなきゃ、解らないよ」

耳元、エドアルドが囁く。声が笑っている。ルクレチアは眉をしかめ、キスされた頬を手の甲で拭うと、

「じゃ……『ダメ』」

「……冷たいなぁ、ルゥ。昔は「兄さまがキスしてくれなきゃ寝ない」って……」

「そ、そ、そんなこと、言ったこと、ないもん!」

「あれ、そうだっけ?」

惚けたようにエドアルドが言う。ルクレチアは膨れて、

「もう、兄さまって、どうしてそんなに意地悪なの?知らない!」

「知らない、って……ルゥは寂しいから、兄さまに会いに来たんじゃなかったのかい?」

「知らない、知らない、知らない!兄さまのバカ!」

半べそでルクレチアが怒鳴る。エドアルドは眉を軽く寄せて、

「困ったな……そんな風に言わないでくれよ、ルゥ。大好きだからさ」

言いながらも、ご満悦の表情で笑っていた。

 

「母さまって、伯父さまのこと、凄く好きなんだと思うの」

明かりを消して、お互いの顔を見るように、向かい合わせで二人はベッドに横になる。間近に見えるルクレチアの言葉を聞きながら、エドアルドは目を丸くさせた。

「君のお母さんが、かい?」

二人は兄妹で、エリザベッタは兄であるモントリーヴォを頼ってグラローニに戻ったのだ。不仲、ということはないだろうが。思って、エドアルドは眉を寄せる。ルクレチアは困ったような顔で、

「だって本当に、そうなんだもの。今日だって、追い出されたし……それに……」

「それに?」

途切れた言葉の先を尋ねるように、エドアルドが言った。ルクレチアは困った顔で、

「どう言ったらいいのか、解らないけど……そういう顔になるの、母さまが」

「……そういう、ねぇ……」

「兄さまだって、解るでしょ?そういうの」

「俺は……そういうところに遭遇したことが、ないからなぁ……」

言いながら、エドアルドは自分の中の、叔母と父とが同席している場面の、記憶を手繰る。そのまま考え込むエドアルドに、ルクレチアが言った。

「母さまのお母さま……私達のお祖母さまって、母さまを産んですぐ、死んでしまったんですってね」

「ああ……そうみたいだね」

詳しい事情は知らない。が、祖母は産後の肥立ちが悪く、叔母を産んですぐ亡くなった、と老女中や生前の祖父に聞いたことがある。エドアルドの言葉の後、ルクレチアは寝返りを打って、その顔を天井に向けた。

「ルゥ?」

「ルゥには、きょうだいがいないから、良く解らないけど……でも、もしいたとしたら、その人のこと、凄く好きになると思うわ。だって、世界でたった二人なんだもの」

真直ぐに天井を見詰める、その横顔を見て、エドアルドは笑う。手を伸ばして、エドアルドはルクレチアの手を捕まえた。目だけを、ルクレチアが彼に向ける。笑いながら、エドアルドは、

「じゃ、俺は、君が一人っ子で良かった、って思おうかな」

「……どうして?」

「もし他に……そうだな、君にもし、弟でもいたら、きっと君とこんな風に、二人きりにはなれないだろ?」

「……もう、兄さま、そんなことばっかり。兄さまには、アデレード姉さまがいるでしょ?」

言葉を茶化すエドアルドから、ルクレチアは視線をそらす。軽く笑って、エドアルドは無言だった。手は、ゆるく繋がれたままだ。指先に触れるぬくもりが、心地いい。

「姉さんか……俺は姉さんに、そんなに好かれてる感じが、しないな……」

力のぬけたルクレチアの手を弄びながら、何気なくエドアルドが呟く。ルクレチアは少し笑って、

「でも兄さまは、姉さまの事、嫌いじゃないでしょ?今日だって、姉さまが疲れてるから、わざわざ『ラルゴ』のケーキを四種類もお願いして……」

「ああ……まあ、ね」

半ば強要されたような気もするが。思いながら、エドアルドはそれを口にしなかった。くすくすと、ルクレチアが笑う。訝しげに思って、エドアルドは身を起こし、ルクレチアに尋ねた。

「何がおかしいんだい?ルゥ」

「何もおかしくないわ、兄さま」

「……そう、かなぁ……」

エドアルドは不審の目で、ルクレチアを見る。ルクレチアはそれ以上何も言わず、暫くくすくすと、小さく笑っていた。

 

白いシーツは波立って、ベッドが軋む度にその模様を変えた。陸に上げられた魚のように、白い体がその上で跳ねる。指と指がからんで、強く互いの手を握り合う。女が爪を立てると、その痛みに僅かに男は眉をしかめた。

絡んだ下肢が熱い。目の前で、女は顔を伏せて、仰け反る。白い首筋を汗が流れた。吸い取るように口付けして、男はその体を貪り尽くすように、激しくその体に打ちかかる。

「……ん、あぁっ……」

押し殺された声が、その唇から漏れる。聞こえたその声に、男は思わずその名を呼んだ。

「リザ……」

金色の長い髪が、白いシーツの上にうねっている。揺さぶられる拍子に合わせて、髪はベッドの上でさらさらと揺れた。空色の目が男を見て、笑う。吐息と共に、その声が漏れた。

「お兄さま……私の、モントリーヴォ……」

うっとりとした声色で自分を呼ぶその唇を、男は塞いだ。支配するような激しい口付けに、女はその眉を寄せる。拒む様子は見られない。打ちかかるほどに、体の下で、女の体はそれを求めた。深い繋がりを求めて、嵐の海の波のように、激しくうごめく。

「お兄さまっ……っ……もう、離さないで……」

唇が離れる。空気を欲して開放した唇を、追いかけるように女は喘いだ。その目に涙が浮かぶ。暴れるように悶えて、彼女は悲鳴をあげるように、言葉を続けた。

「もうどこへも、やらないで……貴方の側に、私を……私をずっと、離さない、で……あ、あっ……」

その体が痙攣する。押さえつけて、男はそのまま体をむさぼり続けた。咽喉から、口付けは胸に降りる。食らいつくように繰り返して、彼はその眉をしかめ、その目を強く閉じた。

「エリザベッタ……わが妹……」

名を呼ぶと、体は震え上がった。その胸に顔をうずめて、彼は呻くように、言葉を紡ぐ。

「もうお前を、離しはしない……お前は私だけのものだ……誰にも、やるものか……」

躍動する下肢が、動きを止める。体を起こし、絡み合ったまま、男は目の前の、白く柔らかな体を引き寄せ、抱きしめる。

「お兄さま……私の、お兄さま……」

腕の中で、彼女は恍惚の表情で、繰り返すように言った。目を閉じて、その胸にもたれかかる。頬を摺り寄せる様子は、無垢な少女の眠る様にも似ていた。

 

 

 

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Last updated: 2008/11/30

 

 

 

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