カンタレラ

 

Y

 

 

ボカロジアの屋敷から、エリザベッタとルクレチアの二人が、アパルトメントに移って、一ヶ月。エドアルドはそれ以前とさほど変わらない生活に戻っていた。平日の何日かを大学で過ごし、時折バールにも立ち寄る。体を重ねるためだけに会っていた女とは、遭遇して話はするものの、それ以上のことはなくなっていた。あちらも、新しい相手を見つけたらしい。店でよく見かける一人と、腕を組む姿を何度も見かけた。特別気にもならないが、彼女はその相手とも、どこか満たされない夜をすごしているのだろうか。

どれだけ時を共にして、その温もりを感じても、心の奥底が凍えたままだというのは、どれほどの寂しさだろう。それならば、一人の夜を過ごす方が、救われるだろうに。何気にエドアルドは、女に同情した。もしかしたらそれは、彼女が自分に感じていた憐憫と、同じものなのかもしれない。思いながら、彼は苦笑した。もはやそれは他人事だ。そして今、もしそれを彼女に聞かれれば、恐らく平手の一発も食らうだろう。知った口を利くな、とでも罵られるかもしれない。

殴られる事も、罵られることも、痛くも痒くもないと言えばそうだが、人の気持ちをかき回す事も、あまり趣味のいいことではないだろう。あの女は、あの女だ。二度と関わらないとは言い切れないが、自分から触れに行くこともない。そんなことをすれば、ルクレチアが哀しむ以前に、姉が怒る。

アデレードは、相変わらずの様子だった。婚約者を一度、きちんと連れて来る、といつか言っていたが、そんな余裕もないらしい。家に戻らない日も続いている。会社で寝泊りしているのか、と尋ねたら、その近くに部屋を借りている、といつか言っていた。もしかしたら近いうちに、そちらに移るのだろうか。毎日合わなければならない用も特別ないし、寂しくて堪らない、ということもない。彼女は彼女で彼女自身の、望むように生きればいい。そう言えば、モリエーロに進める駒が、という話はどうなったのだろう。父親とは、あれからも、相変わらずなのだろうか。ボカロジアを名乗らせろと言った覚えはない、というあの言葉は、やはり彼女の出自と関わっているのだろうか。

ボカロジアの当主が妾腹に産ませた娘、というのがアデレードの素性だ。彼らの父親だけではなく、その祖父も、それ以前の主達も、そうやって多くの妾腹に、子供を産ませてきた。男子にはある程度の財産を与え、そこから派生したボカロジアが、現在分家を名乗っている。女子は、その多くが政略結婚の道具として、彼方此方に嫁がされた。ボカロジアと古い縁続きの、という資産家や旧貴族がいれば、大抵がそうした妾腹の娘達の血統だ。そうして橙のボカロジアの主達は、その力を守り、繋ぎ、大きくしていった。どこの旧貴族も、旧王族も、同じ様な事はやっている。今更、家柄だのというのも馬鹿馬鹿しいが、そんな手合いが消滅する事もなく、今も尚、国内だけでなく外国からも、ボカロジアとの繋がりを求める声は少なくない。最もアデレードの場合は、そうやって持ち込まれた結婚を二度までもぶち壊している。三度目はないだろう。しかも今は、片恋の相手である自分の右腕を、無理やり婚約者にしてしまった。らしくない、と言うべきなのか、その強引さが彼女らしい、と言うべきか。

そう言えば、彼女がいつか言っていた、自分の母親が、祖父の妾腹の娘かもしれない、という話は、本当なのだろうか。だとするなら彼女の母親は、父とは半分、血の繋がった人間だということになる。当然、叔母ともだ。

自分の父親も、言うのも何だが、相当な男だ。老女中は隠しているつもりらしいが、町へ出ればその醜聞は耐えない。最近は大人しいようだが、どこそこの若い女に手を出した、どこそこの男に殺されかけて、金で始末をつけた、と、話の種は尽きない。当然祖父も、似たようなものだったらしい。バールで馴染みになった老人達からは揶揄い半分に、彼の生前の話を良く聞かされた。今度は若君の番だ、何か一つ面白い話の種でも提供してくれ、と言われて、さしもの彼も苦笑を禁じえなかった。恐らく最近の彼らの話の種は、自分とあの女が別れた、その類の事だろう。新しい恋人の事は、できれば知られたくはない。彼女が知らないにしても、そんな話が流布されるのはあまりいいことではない。あの子はまだ十代の少女なのだし、いずれは妻にと思ってはいるものの、叶うとも限らない。

どんなに幸福で満たされても、エドアルドの中から、その絶望に似た何かは、拭われなかった。幸福は永遠ではない。未来の総てが希望に満ちている事も、考え難い。一瞬だけ満たされた、その記憶を求めて、いつまでも渇望し続ける人間は、幾らでもいる。そして見てきた。多くを望めば、それだけ、喪失感は大きい。一度満たされれば、小さな一欠片を失う事も、耐えられなくなる。それが連れて来る痛みは、計り知れない。だから求めなかった。本当は、何よりも欲しかったものを。

それでも、あの夜自分は止まらなかった。止められずに思うまま、求めて、拒まれたなら、死んでも構わないとさえ思った。手に入れた瞬間の幸福は、何物にも代え難く、それを失うかもしれないと思った時の絶望は、何にも増して恐ろしかった。もう二度と、彼女を手放したくない。他の誰にも渡したくない。失うくらいなら、死んでも構わない。他の誰かに奪われるなら、殺してもいい。今も、ふとそんなことを思う。それだけ彼女に心を奪われている、ということなのだろうか。その思いが、いつか自分を蝕んで、癒える事のない渇望に導こうとも、それでも愛さずにいられない。失いたくない。それが崩壊の始まりでも。

もしこんな心の中を、彼女に知られたらどうなるのだろう。それを思う事も、エドアルドには恐怖だった。愛していると幾度も囁きながら、妻にと、言葉にして望みながら、それが永遠ではないと知っている自分が、ここにはいる。そうやって誰かを愛おしいと思うことで、何もかもが壊れていくかもしれないと、解っている。それは彼女への背徳だ。彼女は嘆いて、自分の前から消えるだろうか。それとも笑って、永遠をいとも容易く、自分の前に指し示すだろうか。愛してると、その声で、変わらずに言ってくれるだろうか。目に見えない、何よりも不確かなものを、そのたった一つを信じ抜いて、自分の側にいてくれるのだろうか。

「愛してるよ、ルクレチア……」

呟く顔は、笑ってもいなければ、苦し気でもなかった。呟かれた声は冷たく、ただ小さく、そこに聞こえた。

 

グラローニに移って、更に母親と二人で暮らし始めて、一ヶ月。ルクレチアには慣れないことの連続だった。まずは、アパルトメントでの生活だ。それまで、不必要なほどに大きな屋敷でしか暮らしたことのなかった彼女には、まずその狭さが驚きだった。ボカロジアの屋敷で母親と二人で使っていた部屋より、そこは更に一回りも狭かった。とは言え、生活に必要な機能が欠けているわけではない。食事というものが厨房で作られている、だの、洗濯は洗濯場で、という概念しかなかった彼女には、その機能を持つ場所がすぐ近くにあることすら、驚きだった。二人だけの暮らしには、勿論、使用人の数も少ない。家が狭いのだ。複数の人間が必要なわけでもないし、余計な人間がいればそれだけ狭くもなる。その認識すら彼女には無かった。身の回りの世話をするのは、二人。たった二人のメイドが家中の何もかもをする、と聞いた時にも、彼女は驚いた。二人きりで何が出来るのか、大変ではないのか、とメイドに直接尋ねたなら、彼女達には、それならお嬢様も時々、お手伝いくださいね、と笑って言われてしまった。自分は世間知らずらしい。しかも、かなり。そう思ってそのことを従兄に話すと、従兄さえも、声を立てて笑った。そして、ごく普通の家庭には、メイドすらいないものだと言われて、また驚いた。自分の家族は、普通ではないというのは何となく解っていたが、それは頭で解っていた気がしただけで、本当のところは理解できていなかったようだ。

 

「だからね、もっとしっかりしなくちゃ、って思ったの」

「そうですね。いい心がけだと思いますよ」

その日の昼前、メイドと共に昼食の支度をしていたルクレチアは、メイド達の前でそんなことを言った。つけられた二人のメイドは揃って二十代前半の、年若い娘ばかりだった。ボカロジア本家のあの老女中のお墨付きらしい彼女達は、学校の友人や本家のいとこ達の様にルクレチアに気安く、それが何より彼女とその母親、エリザベッタには嬉しい配慮だった。まだ若すぎて色々に欠けるから、と、件の老女中も時々、こちらの様子を見らに来るが、それも二人にとっては喜ばしい事だった。最も、メイドの二人はそれをあまり歓迎していないらしい。ばあやは細かくて色々叱るから、それもそうよね、とルクレチアが言ったら、彼女自身がその老女中に叱られてしまった。

「お嬢様、ナイフは危ないですから。お皿を運んでもらえますか?」

「ええー、でも、私だって、りんごくらい剥けないと……」

「それはまた今度に致しましょう。リラがアップルパイでも焼く時に」

昼食番のメイドとそんなやりとりを交わしていると、キッチンにもう一人のメイドから、声が投げられる。

「お嬢様、奥様が、お呼びです」

「母さまが?」

部屋着にエプロン、という格好で、ルクレチアがその声に振り返る。彼女を呼んだメイドは少し笑って、

「張り切っていらっしゃるところを、申し訳ありませんが。こちらはメグが代わりますから」

「……はぁい。じゃ、宜しくね、リラ、メグ」

その言葉に、ルクレチアはエプロンを外し、母がいると思しき、彼女の私室に向かう。立ち去ったキッチンからは二人の話す声が聞こえた。二人はいつでも仲がよく、何やらいつも楽しげだ。それに混ざりたい、という気持ちが無いわけでもないルクレチアは、少々後ろ髪を引かれる心地だった。いいなぁ、二人とも、楽しそう。私も、兄さまに会いたいな。思って、ルクレチアは一人、吐息する。

引越しをして、学校が始まって、彼と会う機会もぐっと減ってしまった。彼女の母親を驚かせるといけないから、という理由で、エドアルドは彼女との関係を、暫くは伏せるつもりらしい。どうしてなのかと尋ねても、返答はいつも曖昧だった。恥ずかしいのだろうか。それとも、何か後ろめたい事でもあるのか。確かに、何もかもは話して聞かせられない。恥ずかしいし、後ろめたい気持ちにもなる。それに、自分と彼とは従兄妹同士だ。家の政略によって二度の結婚をした母親に、祝福されるとは限らない。そう言えば、母は、自分の父親だった人の事は、どう思っていたのだろう。ふとルクレチアはそんなことを思った。彼女の最初の夫、自分の父親にとって、彼女はどんな存在だったのだろう。余りにも幼い頃に、父と母は別れてしまった。未だに、その理由をルクレチアは知らない。生きているのかさえ、確かめた事がない。父の事も、殆ど覚えていなかった。モリエーロの、ロミッツィの父親のように、彼と会った記憶は僅かだ。伯父が時々したいと言うように、抱いてもらった事すら、余りない気がする。幼い日、いつも自分は、母親と一緒だった。それが当然で、寂しいと思った事はない。今も、疑問には思うけれど、それ以上の感触が、彼女にはなかった。

「母さま」

母の私室に着く。開けられたままのドアをノックして、ルクレチアが声をかける。

「ルゥね。お入りなさい」

いつも通りの声に、ルクレチアは室内に足を進めた。一応は女主人たる彼女の部屋は、やはりあまり広さを感じさせなかった。必要なだけの面積はあるが、どことなく、閉じ込められている印象がなくもない。どうしてこんな風に思うんだろう、どうして慣れないのかしら。思いながら、ルクレチアは母の側へと歩み寄る。いつものように彼女は穏やかな表情だった。ゆるい笑みを見て、ルクレチアは尋ねる。

「御用は何?母さま」

「用というより、少し話があるの。お座りなさい」

「お話?」

母が着いているテーブルの、向かいの椅子を勧められて、首をかしげながらルクレチアは腰掛ける。エリザベッタの表情が、僅かに曇った。何か、叱られるのかしら。思って、ルクレチアはその肩を強張らせた。

「学校はどう?ルクレチア」

「どう、って……まだ、変わったばかりだし……でも、みんないい人よ。クラブにも、入らないか、って、誘われたわ」

「お友達は出来た?」

「うん……」

母は、時々、つかみどころがない。雲のように曖昧で、何を求めて、何を理解しようとしているのか、解らない。どこの母親も、こんなものだろうか。いや、この人は自分以上に世間知らずで、いつまでも落ち着かずに、ふわふわとしている。何を言い出すのか解らないことも、ままある話だ。思って、ルクレチアは彼女の言葉を待った。エリザベッタはほっとしたように息をついて、それから唐突に、言った。

「モリエーロの……ブルーノは、解るわね?」

「うん……一番上の、お兄様のところの……」

ロミッツィの現在の主の、長男の名前が出て、ルクレチアは目を丸くさせる。亡くなった先代の息子達の、彼女達への態度は冷たいものだった。同じ屋敷の同じ敷地内に暮らしながら、顔を合わせるのは年に数度で、まだ年端も行かない子供だったルクレチアには、まともに声さえかけたことがない。が、彼らの子供達は、祖父の若い妻とその連れ子であるルクレチアに興味を示し、ちょくちょく二人の暮らす離れを訪れていた。それがエリザベッタの心を慰め、ルクレチアの寂しさも紛らわせてくれた。ブルーノはその子供達の筆頭で、ルクレチアより二つ年下の少年だ。小さな、と言っても七歳か八歳くらいの頃から、良く一緒に遊んだ。ロミッツィの屋敷で数少ない、二人の理解者でもある。

「なぁに、母さま。ブルーノが、どうかしたの?」

言うなれば、彼は大切な友人だ。今更解るか、などと尋ねられても。思いながら、ルクレチアは問い返した。エリザベッタは困ったように笑って、

「貴女の伯父さまから、お話しがあったのよ。ルクレチアさえ、嫌だと言わないのなら、って」

「……嫌って、何が?」

曖昧な答えだ。いや、答えですらない。言い訳じみたその言葉に、更にルクレチアは首を傾げた。エリザベッタは窓へと視線を投げる。そして、その眉を僅かにしかめて、ルクレチアに問いかけた。

「ルクレチア……貴女は、エドアルドの事を、どう思っているの?」

「えっ……エドアルド、兄さまの、事?ど、どうって……」

瞬時に、ルクレチアの顔が赤くなった。エリザベッタは振り返らない。真っ赤になって、慌ててルクレチアは、

「どうって……兄さまは、兄さまよ?その……」

「見ていれば解るわ。私は貴女の母親なんだし。彼が……好きなんでしょう?」

「……うん」

他に答えようがなく、観念したように短く、小さな声でルクレチアが言った。エリザベッタの口から、短い息が漏れる。そして、

「……それなら、お断りするわ。まだ貴女は十七歳で、学校も終わっていないのだし。でもね、ルクレチア……一つだけ、覚えておきなさい」

母親が、自分へと振り返る。その哀しそうな目を目の当たりにして、ルクレチアは息を飲んだ。この母の、この目は、何だろう。思いながら、何故か不安が過ぎって、ルクレチアは思わず、何かを問うように母を呼ぶ。

「……母さま?」

「エドアルドは……次のボカロジアを継ぐ人。貴女がどんなに思っても……いいえ、思うだけなら、それは貴女の自由ね。今はまだ……好きでいるだけなら、構わないでしょう。だけどいずれは、エドアルドも、しかるべき人と結婚することになるのよ。解るわね?」

諭されるような口調だった。しかし、言われている意味は良く解らない。いや、解りたくない、のか。思った次の瞬間、ルクレチアの体が震えた。どんなに恋しいと思っても、誰よりも愛していても、彼はいずれ、自分ではない、どこかの誰かと結婚する。思いも寄らなかった母親の言葉に、ルクレチアは驚きと怯えの目になってエリザベッタを見た。エリザベッタは、困ったような目で、そんな彼女を見詰めている。そして不意に立ち上がって、ルクレチアにそっと歩み寄る。迷うような瞳で、ルクレチアは彼女を見上げた。言葉もなく、エリザベッタは自分の娘を抱きしめる。

「ごめんなさい、ルクレチア……母さまを、許してね」

「母、さま……?」

唐突な母の行動に驚きながら、それ以上ルクレチアには言葉もない。抱き寄せられて、ルクレチアは混乱して、されるままだった。

この人は、何を謝るのだろう。自分が従兄に恋していて、それを咎めたからか。何だか、この人の方が、私よりももっと辛い思いをしている様な、そんな気さえする。謝罪する母親の様子に、何気にルクレチアは思った。そして、心の中で繰り返す。エドアルドは、ボカロジアを継ぐ人間だ。いずれは、しかるべき相手と結婚する事になる。従妹の自分ではなくて、他の女性と。思った途端、胸が締め付けられるように痛む。ルクレチアは溢れる涙をこらえるように、強く目を閉じた。

優しくて、でも意地悪で、どこか子供っぽくて、そして何より愛しい人。愛していると、失いたくないと言われて、どんなに嬉しかっただろう。その腕に抱かれて、どんなに幸せだっただろう。口付けは何よりも甘美で、幸福感に眩暈さえ覚えた。その人に、離れるのは寂しいと言われて、妻にと望まれて、確かに気の早い話だと思いはしたものの、どんなに嬉しかったか。自分も離れたくないと、ずっと側にいたいのだと、いるのだと思って、なのに上手く答えられなかった。せめてあの時、まだ誰にも咎められないうちに、一言だけでも答えられたら良かったのに。もうどんなに望まれても、自分はそれにイエスと言えない。どんなに望んでも、ずっと側にはいられないのだ。その時が来たなら、彼の元から去るしかない。

母の腕の中で、声もなくルクレチアは泣き続けた。彼女を抱きしめるエリザベッタも、その眉をしかめて、それ以上何も言わない。

今、あの人に会いたい。そして抱きしめて、口付けして、愛していると言って欲しい。その手で髪を撫でて、泣かないで、と優しく慰めて欲しい。いつかは失ってしまうけれど、だから尚更、今あの人に会いたい。いつかは失ってしまう。いつかは離れてしまう。そんなのは嫌だ。でも、だったら。

「……チェーザレ……」

小さく、ルクレチアはその名を口にする。もう、呼べないかもしれない。思うと、涙はこぼれた。

 

エドアルドが夜半、屋敷に戻る。老女中は十年近く前から屋敷での泊まり番をしなくなっていた。もう歳ですから、と言っていたが、だったら引退してもいい、と彼が言うと、そこまで耄碌しちゃいませんよ、とか何とか言って叱られた事もある。その、帰宅したはずの老女中が、まだ屋敷内にいるのを見つけて、エドアルドは声をかけた。いつものバール帰りで、少々今夜は酒も過ぎている。叱られるか、と思ったのは後の祭だったが、ばあやはそれどころではないほどに狼狽えていた。

「……どうかしたのかい、エレナ。こんな遅くまで」

「若様……若様こそ、こんな遅くまで、どちらに……」

自分を叱ろうとする口調は、いつもより力なく、気持ちも定まっていないようだった。何事か、起こっているらしい。思いながら、エドアルドは重ねて尋ねた。

「何かあったのか?ばあや」

「いえ、ばあやは……単に帰りそびれただけですよ。さあ若様も、もう遅うございますから、お部屋に……」

言いながら、エレナはちらちらと後方を気にしていた。気がついて、エドアルドはそちらを見遣る。奥は、この家の主の、屋敷内での執務室だ。いくつかある書斎のうちの一つを、彼は自宅での仕事場に当てていた。子供の頃からエドアルドは、そこに入ることを禁じられており、呼び出されでもしなければ、滅多に脚を踏み入れた事もない。何かしら、表に出してはまずいものでもあるのだろう。何しろ彼はボカロジアという、一つの巨大財閥の頂点に立つ男だ。単なる金持ちと言うだけではない。父親が、何か仕事でやらかしたのか。思って、無言でエドアルドはそちらを眺めていた。主の不機嫌の余波でも被ったか、ばあやも大変だな。思っていると、その奥の扉が勢い良く開いた。荒々しい耳につく開閉音の後、響いたのは女の声だった。

「父さん、待って!どうしてそんなことに……」

「お前には関わりのないことだ。それともアデレード、お前がロミッツィの誰かと一緒になるか?」

「何を言うのよ……そういう問題じゃないでしょう!」

肩をいからせて、部屋から出てきたのはモントリーヴォだった。後について、アデレードも部屋を飛び出す。

「エレナ、車を呼べ。今から出かける」

歩きながら、モントリーヴォが老女中に強い声を投げた。老女中は戸惑いながら、

「今から、でございますか、旦那様。もう、夜も遅うございますよ?」

いつもなら非常識な、とでも言いそうな、老女中の声は、やはり力ない。モントリーヴォは怒りを顕わに、

「お前を雇っているのは私だ、車を呼べと言うのが、聞こえないのか!」

声は屋敷を震わせるように、廊下中に響いた。老女中の肩がびくつく。流石の彼女も怯えているらしい。周囲を無駄に威嚇する父親の姿に、側にいたエドアルドは呆れの息をつく。そして、

「そんなに怒鳴る事はないでしょう、父上。ばあやが、怖がっていますよ」

声に、モントリーヴォは初めてエドアルドに気付いたようだった。その目を僅かに見開き、ふん、と鼻を鳴らすと、

「こんな時間までどこにいた、バカ息子」

「外で飲んでいました。それが?」

淡々と、エドアルドは答える。モントリーヴォは舌打ちすると、すぐにも彼から目をそらす。相当不機嫌、いや、怒っている、と言うべきか。何にかは解らないが、ばあやに当たる事もないだろうに。エドアルドは今一度嘆息して、重ねて父親に尋ねた。

「ばあやに当たるなんて、何かあったんですか?」

「父さん、待てって、言ってるでしょう!」

その後を追っていたアデレードが、モントリーヴォに追いつく。振り返るが、モントリーヴォは無言だった。およそ両家の子女らしからぬ足取りと口調、そして形相で、アデレードは父親に追いつくと、噛み付くように言った。

「モリエーロから手を引いたわ。これ以上手出しをしないと、約束もする。だからあんな話、やめさせてちょうだい」

「姉さん……一体、何が……」

「エドアルド、お前も聞いて。ロミッツィの当主が、うちと切れたがっていたなんて大嘘よ。叔母さまをグラローニに返す代わりに、今度は……」

「今ロミッツィと手を切る訳にはいかん。これはお前の持っている、小さな会社だけの問題とは違う。ボカロジア全体の問題だ。口出しは許さん」

モントリーヴォはそれだけ言って、きびすを返して歩き始める。廊下を進みながら、彼はどこにいるか知れない使用人に、怒鳴りつけるように声を放つ。

「誰かいないか、車を呼べ!」

一体何事が起こっているのか、エドアルドには良く解らなかった。困惑しながら無言で見送ると、傍ら、アデレードの嘆息が聞こえた。

「……何がボカロジア全体の、よ……こんな家、くそくらえだわ」

「お嬢様、お口がすぎますよ。旦那様は……」

「ばあやまでそんなことを言うの?ばあやの家族だって、あの男やおじい様に、酷い目に合わされてきたんでしょう?腹が立ったりしないの?」

当り散らすようにアデレードが言う。老女中は困った顔で笑うと、

「夜も遅うございます。お嬢様も若様も、もうお休みなさいまし」

エドアルドは、そのやり取りを無言で見ていた。アデレードはやりきれない目で老女中を睨んでいる。けれどそれ以上は、何も言うつもりはないらしい。ロミッツィは、叔母をグラローニに帰したというのに、まだこちらに何事かを要求するのか。思いながら、エドアルドは憤る姉に、尋ねた。

「一体何があったのさ、姉さん」

アデレードはしばし無言だった。しかし、疲れたように大きく息を吐き出すと、その赤い髪をかきむしりながら、忌々しげに言葉を紡いだ。

「ルゥを……あの子を、主の息子と婚約させろ、と言ってきたそうよ」

「……ルゥを?」

その名に、エドアルドの心臓が強張る。更に忌々しげに舌打ちして、アデレードは続けた。

「あの子はまだ十七歳よ?学校だって、変わったばかりじゃない。それ以前に、あの子は……」

聞き終わるより早く、エドアルドはその場から駆け出していた。姿の見えなくなった父親を、全力で追いかける。ルクレチアを、自分の仕事の道具にするつもりか。思うと、いても立ってもいられなかった。自分の子供だけならまだしも、妹の娘にまで、そんなことをさせるのか、あの男は。いや、この家の主という人間は。心の中を怒りが渦巻く。叔母も叔母で、今までそのために、どんな思いをしてきたのか。自分の妹だというのに、その辛さも解らないのか、汲み取ろうとさえしないのか。思いながらエドアルドは駆ける。屋敷の正面玄関のホールに辿り着くと、父親は、車がその先へ回されるのを待っている様子だった。構わず、怒鳴るように声を投げた。

「父さん!」

モントリーヴォが、億劫そうに振り返る。すぐ側まで歩み寄り、エドアルドはらしくなく感情的になって、父親に食って掛かった。

「どういうことですか、ルクレチアを……あの子を、ロミッツィに嫁がせるなんて……」

「アデレードに聞いたのか、エドアルド」

「まだルゥは十七ですよ?グラローニに移ったばかりで、そんな話を……」

「エリザベッタの最初の結婚も、そのくらいだった。おかしい話ではない」

淡々と、モントリーヴォが言葉を返す。それが更にエドアルドを激昂させた。掴みかかって、エドアルドは父親に詰め寄った。

「叔母上がそのために、どんな思いをしたのか、貴方は考えたことがあるんですか。盥回しにされるように、二度も結婚させられて。貴方も、祖父も……あの人達の気持ちを考えた事が、あるんですか!」

「……総ては、家のためだ。いた仕方あるまい」

言いながら、それまでエドアルドを見ていた顔を、モントリーヴォが逸らす。掴んだその襟元を締め上げて、エドアルドはその側で怒号した。

「家?この家が、何だと言うんですか!ただ広いだけで、ろくに人も住んでいやしない。ボカロジアの名が何だというんですか!貴方は家のためだと言いはする。けれど家に住む人間の、家族のために、一体何をしてきたって言うんですか?叔母上やルクレチアが、余りにも可哀相だ。あの二人には、貴方しか頼れる人はいないんですよ!それなのに……酷すぎる……」

最後の言葉の、声が掠れる。この男に、こんなに怒りを感じた事は、今までになかった。それだけ自分は、今まで父親に期待していなかった。それでも、家などどうでもいいと、いつか父は言っていた。では何のために、この家を、ボカロジアを守ろうとするのか。家族などどうでもいいと、そう言う癖に。訳が解らない。いや、きっと聞かされても、解るはずがない。ただ、その男が腹立たしい。思いながらエドアルドは、強く父親を睨む。嘆息して、しながら、モントリーヴォは言葉を紡いだ。

「……お前には、私の気持ちなど、解るまいよ、エドアルド」

言いながら、モントリーヴォはエドアルドの手を振りほどいた。力ない父親の声に、虚を突かれてエドアルドは息を飲む。哀れなほど、その表情は力ないものだった。使用人が、車が来たことを告げる。モントリーヴォはエドアルドを見る事無く、その場を歩き去った。

 

車がそのアパルトメントにやってきたのは、夜半だった。メイドの一人が応対に出て、部屋の主に来客を告げる。寝巻きに着替えていた彼女は慌ててショールをまとい、そのあまり広くない玄関に向かう。娘は既に眠っていた。起こす事を憚って、玄関先で対応する。

「お兄さま……こんな時間に、なんですの?」

エリザベッタは、少し疲れて、どことなくぎらついた目の兄に、恐る恐る尋ねる。怯えを見せた妹に、モントリーヴォは苦笑を漏らした。そして、

「すまない、リザ。話したいことがあるんだ……いいかな……」

「それは……構いませんけれど……」

言いながら、彼女はメイドを見やる。メイドも既にくつろぎ着姿で、唐突な来客に少々困惑しているらしい。エリザベッタは短く嘆息して、困った目で笑いながら、

「ここはお屋敷のように、いつでも自由が利く訳ではないのよ、お兄さま。メグも、休むところだったのだし」

「なら、支度をしなさい。外へ出よう」

モントリーヴォの言葉に、エリザベッタは目を丸くさせた。男は傍らに控える運転手に何やら指示を始める。運転手は一礼するとその場を下がり、何事かを手配し始める。

「……お兄さま?」

「ここでできる話ではないんだ。外へ出よう」

言い含めるような兄の言葉に、エリザベッタは苦笑した。そして、側に控えるメイドを見、

「ごめんなさい、メグ。出かける支度をするわ」

「奥様……今から、ですか?」

「ええ。ここにいるのは私達を養ってくれている、ボカロジアの当主様ですもの。逆らう訳にはいかないし」

兄の我侭に、エリザベッタが皮肉めいた言葉を発する。モントリーヴォは苦笑するが、特に言葉もないらしい。メイドは困惑しながらも、解りました、と答えて、主の外出の支度を始める。二人きりになると、エリザベッタは吐息混じりに、唐突に言った。

「お兄さま、ルクレチアの、婚約の件ですけれど……諦めては下さいませんか」

「……リザ……」

「あの子はまだ十七歳よ。学校だって移ったばかりで……それに、あの子は……」

モントリーヴォは息を飲む。エリザベッタの言葉が途切れると、その場所は沈黙に包まれた。奥様、お召し換えを、と言ってメイドが戻ってくる。言葉もなく、兄に目配せして、エリザベッタは一旦玄関先から退いた。

 

モントリーヴォが夜中に車を仕立ててから、三日。屋敷の主はその間、自身の塒に姿を見せなかった。どこへ行ったのか、とエドアルドが使用人達に尋ねても、それに答える人間は誰もいない。全く誰も知らない、ということはない筈だ。知っていて、口止めでもされているのだろうか。思い、エドアルドは舌打ちする。父親の不在に不満なのは、彼の姉も同じだった。あれから毎日、モントリーヴォが戻ると思しき時刻を見計らって、屋敷に現れる。しかし、半ば強襲のような到来は、総て無駄に終わっていた。一体あの男は、どこに雲隠れしているのか、と、執事に食って掛かる様子も見られたが、執事も、私は存じません、と首を横に振るばかりだ。幾度となく強い口調でアデレードが詰め寄っても、執事は口を開かなかった。その忠誠心には恐れ入る。が、あんな男に仕える事に、それ程の価値などあるのだろうか。その様子を見ながら、何気にエドアルドは思った。

父親の考えていることも、やっていることも、理解できない。この家を守るために、まだ十七歳の従妹の結婚を勧めることもそうだが、家の為だと言いながら、彼自身の、家への執着のなさはどういうことなのか。

父親は、家庭というものを殆ど省みない男だった。確かに、仕事の都合でそうする余裕も、他の人間に比べれば少ないのだろう。結婚しながらも、妻とは共に暮らさず、子供達の世話は使用人に任せきりで、そうかと思えは出戻りの妹を受け入れ、その世話までしている。それも、経済的な部分に限られた事なのだろうが、その妹からの信頼は、奇妙な程に厚い。亡くなった自分の祖父も、若い頃にはあの父親のような男だったのだろうか。何気にエドアルドは思った。

祖父が亡くなって、そろそろ八年ほどだろうか。幼い頃は父親よりも、祖父との関わりが深かった。特別溺愛された記憶はないが、それでも、まだ家族らしかった気がする。あの祖父は、父や叔母の前では、どんな父親だったのだろう。亡くなった祖母という人とは、どれほどの愛情があったのだろう。

そう言えば、姉がいつか言っていた。自分の母親は、あの老女中の姪で、しかも祖父の娘だと。もしそれが本当だとするなら、姉を産んだ母親と、あの父親とは、父を同じくした兄妹だということになる。

「今夜も当主様は行方知れずのようね」

怒りを通り越して、呆れの口調でアデレードが言った。廊下の向こうに、モントリーヴォの執務室が見える。エドアルドは腕組みする姉を見て、小さく苦笑を漏らした。

「そうみたいだね。どこをほっつき歩いているんだか」

「グラローニは厄介ね。誰も彼もがあの男の恩恵にあずかって生きている。だから誰もが、匿えと言ったら素直に応じてしまうもの。捜しようがないわ」

疲れた声で、アデレードはどこか投げやりに言った。エドアルドは肩を軽くすくめて、

「警察にでも届けましょうか、姉上。うちの父親が、三日前から行方知れずで、と」

「無駄よ。警察だって、あの男の言いなりなんだから。知らせるなと言われれば、一切何も教えてくれないわ。本当に、厄介な男」

冗談も通じないほど、アデレードの機嫌は悪い。エドアルドはそれ以上何も言わず、無言で再び肩をすくめた。

「……本当に、一体何を考えているのかしら。あの人は」

忌々しげにアデレードが呟く。エドアルドは執務室の扉を見遣ると、

「昔からそうだよ……父さんの考えていることは、良く解らない。何が家のためで、何の為にこの家を守ろうとしているのか。この家を守ることに、そんなに意味があるようには思えないけど……」

「そうね。あの人のやってきた事を思えば、ボカロジアを継いでいくことなんて、無意味に思えるわ」

何者かを嘲るように、アデレードが笑った。エドアルドがそちらを見遣る。笑うのをやめて、アデレードは無言で執務室の扉を睨む。数秒の間、二人はそこで沈黙した。

不在の主、巨大な資産、広大な土地、そして、空洞の屋敷。そこに、これがボカロジアだと、確かに言えるものは何もない。あるとしても、そこに不在の主、ただ一人だ。一地方の経済を殆どその手の中に掌握し、自分の意のままに操る事さえできる人間は、その維持の為に手段を選ばない。冷静で冷酷で、どこか哀れだ。何気に、エドアルドは思った。ボカロジアという家にしがみ付いていなければ生きていけず、それを継いでいくために生かされている、そんな風に見える。確かに今、ボカロジアが倒れれば、グラローニ全体が崩壊するだろう。それが引き金となって、この国の経済さえも狂わせる可能性がある。ボカロジアを守る事は、グラローニを守る事と同意だと、言われてみれば確かにその通りだ。しかし、自分の父親に、そんな感情があるとは思えない。何のためにこの家を守るのか、有り余る資産や土地や、この一地方でだけ許される様々の特権が、そんなに惜しいという訳でもない男が。

「お嬢様、若様」

老化の二人に、そんな声が投げられる。二人が揃って振り返ると、そこにいたメイドの一人が少々困った様子で、こう言った。

「ルクレチア様が、おいでですが……」

 

「ルゥ、一体どうしたの?貴女、一人なの?」

玄関ホールに従妹の姿を見つけると、アデレードは驚きの声とともに彼女に駆け寄った。二十歳前後のメイドと共にいたルクレチアは、声に振り返って破顔する。あまり大きくないバスケットと、何やら少々大仰な荷物、そして小さな鉢植えを携えたルクレチアは、駆け寄るアデレードの問いかけに、少しだけ困った顔で答えた。

「母さまがね……帰ってこないの」

「叔母さまが?」

唐突な答えに、アデレードも、その後をついてきたエドアルドも驚く。ルクレチアは眉を寄せて、

「それでね、あの……伯父さまなら、何かご存知かなって、思ったんだけど……」

「残念ながら、うちの放蕩親父も、三日前から行方不明なのよ」

戸惑うルクレチアに、困り顔でアデレードが返す。大きな溜め息と共に紡がれた言葉に、ルクレチアの表情は更に困惑の色を深める。

「伯父さまも?そんな……」

「こうなったら何としてでも、ファビオの口を割らせなきゃ。ルゥ、そこでちょっと待ってて」

そう言い残し、アデレードはきびすを返すと、どこへともなく駆け出していった。置いてけぼりを食らった格好で、ルクレチアはその場で困惑する。

「……どうしよう、母さまだけじゃなくて、伯父さまもいないなんて……」

「まあ、うちの放蕩親父は、時々こういうことをやらかす人だから、心配はいらないんだけどね」

エドアルドは、駆け出した姉を見送ると、その場で立ち尽くすルクレチアに歩み寄る。かけられた言葉に顔を上げて、ルクレチアはそこにある、いつものエドアルドの笑顔に、僅かに眉をしかめた。

「兄さま……そういう言い方って、良くないと思うわ。伯父さまは、兄さまやアデレード姉さまの、お父さまなのよ?」

「まあ……そうなんだけど」

詰め寄られるような言葉に、エドアルドは肩をすくめる。ルクレチアの足元の籠の中から、ニャー、と小さな声が聞こえる。気付いて、エドアルドはそちらに視線を投げた。

「ジュリオも一緒なのかい?ルゥ……」

「うん……置いて来られなくて……」

ルクレチアが、その視線を彷徨わせる。何事かと、エドアルドはルクレチアの次の言葉を待つ。困惑と、どことなく、怯えの混じった顔で俯いて、ルクレチアは小さく言った。

「あのね……一人でいるのが、心細くなっちゃって……もし今夜も、母さまが帰ってこなかったら、って、思って……」

言葉に、エドアルドが小さく吹き出す。直後、瞬時にルクレチアは顔を上げた。そして、

「兄さま、そ、そんな風に、笑わなくても……」

真っ赤な顔で何やら言い始めるが、それも途中で途切れる。一人でいるのが心細い、か。思いながら、エドアルドはルクレチアの頭に手を乗せた。三日間も、自分の母親が家に戻らないのだ、心細いのは当然だろう。彼女はまだ幼いのだし、自分達とは違うのだから。心の中だけで言って、エドアルドはルクレチアに笑いかける。

「暫く、うちにいるといいよ。最も、姉さんのあの様子じゃ、待つって程も待たないうちに、見つけられそうだけど」

「ほ、本当?」

安堵したように、ルクレチアの表情が緩む。エドアルドはその頭を撫で、傍らのメイドに、何気に問いかけた。

「君達は叔母上に、行き先を聞いていないのかい?」

「申し訳ありません……急なお迎えで……奥様も、すぐに戻ると仰られたので」

二十歳前後と思しきメイドは、困惑顔でエドアルドの問いに答える。ルクレチアの側で、エドアルドはその答えに目を丸くさせた。

「急の、迎え?」

 

エドアルドの予測に反し、彼らの父親とルクレチアの母親の行方は、なかなか見付からなかった。アデレードは屋敷中の使用人達に噛み付き、あの老女中にまで詰め寄ったが、まともな返答は一つとして返されなかった。出掛けてくる、と車を仕立てて、どこへ行くのかも、戻りがいつなのかも、全く告げずに出かける屋敷の主があるものか、と幾度となくアデレードが毒づき、早くも二日ほどが経過している。

ルクレチアは、小さな客間をあてがわれ、連れてきたメイドと過ごしていた。翌朝には屋敷から学校へ行き、夕刻には、母さまは見付かった?と言ってやはり戻ってきた。引っ越す前に戻ったようだ、などと冗談めかして言ってはいたが、本当のところは不安で堪らないのだろう。夜、眠る直前までエドアルドの部屋で過ごし、メイドの迎えで自分の部屋に戻っていく。メイドの手前、部屋に泊めることは出来ないが、そんなに不安なら、一晩中でも側にいてやりたい、というのがエドアルドの心中だった。明日の夜またここに来たら、何気に提案してみようか。お休みなさいを言って部屋を出て行ったルクレチアを見送って、ぼんやりとエドアルドは思った。

それにしても、だ。父親はともかく、叔母は一体どこで何をしているのだろう。一人になった部屋で、エドアルドはそれを思って嘆息する。五日間も留守にして、行き先すらルクレチアに言わないとは。どことなく危なげで、世間も知らないような人だと思っていたが、こんなことをしでかすとは夢にも思っていなかった。何か、悪い事に巻き込まれていなければいいが。思いに耽っていると、部屋の電話が鳴った。夜も遅い。こんな時間に、一体誰だろう。思ってエドアルドが受話器を上げる。聞こえてきたのは、姉の声だった。

『エドアルド、叔母さまを見つけたわ』

その第一声にエドアルドは目を剥く。

「叔母上を?それで、どこにいるんだい?」

身を乗り出すようにしてエドアルドが問い返す。電話の向こうで、姉は苦笑したようだった。僅かの間の後、出てきたのは意外な単語だった。

『病院よ。ストラーリの』

 

使用人に車を仕立てさせ、エドアルドがそこに辿り着いたのは、姉の電話から一時間ほど後の事だった。出かける前、屋敷に残った使用人達には、ルクレチアには内密で、と言っておいたが、全くの秘密に出来るとは考え難い。それでも、こんな夜中に母親が、病院で見付かったと聞くよりはいいだろう。

市の郊外の丘陵地帯に構えられたその病院も、父親が経営する組織の一つだ。院長や事務長には、エドアルドやアデレードでさえも顔が利く。病院というよりも、巨大な宗教施設のような造りの建物に到着すると、最初に彼が見つけたのは姉と、その片腕の姿だった。二人とも仕事の後、家に戻ってもいないらしい。その玄関ホールで手を上げる姉に駆け寄ると、彼女は得意げに、傍らの男を見上げて言った。

「今回はマルコのお手柄よ。褒めてやって」

「ボス、それだとまるで僕は、犬みたいですよ」

「あら、そんなに変わらないじゃない」

背の高い、僅かに波打つブルネットを撫で付けた男が、アデレードの隣で苦笑している。彼女の片腕で、婚約者でもあるその男の様子に僅かにエドアルドは笑い、軽く頭を下げると、

「それで、叔母上は?」

「昨日から入院している、そうですよ」

問いかけに、マルコが答える。アデレードはその言葉の後に嘆息して、

「割れたグラスで、手首を切ってしまったんですって。それで、驚いたホテルマンが慌ててここに運んだらしいのよ。自殺未遂じゃないか、って」

「……そうですか」

真相は、間抜けなものらしい。姉の呆れ口調の言葉にエドアルドは苦笑を漏らす。そして、

「それで、叔母上はどうしているんですか?」

「さっき会ってきたけど……暢気なものよ?連絡がついてるものだと思ってたみたいで、驚いてたわ。今日はもう遅いから、明日退院する、って」

エドアルドの問いかけに、疲れ切った様子でアデレードが答える。傍らの彼女にマルコは苦笑して、

「何はともあれ、大したこともなく、ご無事でいらしたんです。良かったじゃありませんか」

「それはそうだけど……叔母さまには、もう少ししっかりしていただきたいわ。幾ら実家の近くに戻ったからって、今はルゥと二人なんだし……」

ぶつぶつと、アデレードが小さく愚痴をこぼし始める。エドアルドは笑って、

「まあまあ、姉さん。今夜のところはそのくらいにして。姉さんもマルコも疲れただろうから、今夜は早く休んだほうがいいよ。明日俺が、もう一度、ここに叔母上を迎えに来るから」

「そうね、お願いするわ、エドアルド」

アデレードはそういうと、マルコを伴って歩き出す。エドアルドは立ち去る直前、自分に一礼したマルコに尋ねた。

「それで貴方は、どうやってここを調べたんですか?ヴィアリさん」

「ああ……大したことではありませんよ。貴方がたの父上が良くお使いになるホテルに、知り合いが勤めていましてね。多分口止めされているんでしょうが、しつこく食い下がったら教えてくれました。何日か前から、ご当主が連れを泊めていて、その連れが怪我をして、病院に運ばれた、と」

「父が……叔母を?」

その言葉に、エドアルドは眉をしかめる。それでは、と言って、マルコはアデレードの後を追い始めた。

 

「ごめんなさい、アデレードに、見付けられてしまったわ」

病棟の最も奥、庭園までもがつけられている特別室には、夜も遅いと言うのに明かりが灯されていた。病室としては、そこは十分広いのだろう。いや、常識的に考えたら、それが入院患者の使う部屋だというのは異常だった。ホテルの離れほどあるその部屋の、凡そ病院という場所にあるとは思えない豪奢なベッドの上では、困ったように笑う女の姿がある。傍らには。黒い髪の、難しい顔をした男が立っていた。この人が迎えに来てから、何日が経っただろう。すっかり忘れていたが、そろそろ自分は日常に戻らなければならない。いや、現実に、か。思いながら、彼女は困ったように笑っていた。男は眉をしかめて、包帯の巻かれた彼女の左腕を、そっと取る。

「エリザベッタ」

「……私、このお部屋が好きよ、お兄さま。何かあるといつも、お兄さまがここを用意してくれたもの。それに、ここにいれば、お兄さまはいつも、側にいてくれる……」

言いながら、彼女は目を閉じる。男は苦しげに、呻くような声で尋ねた。

「どうして、こんな真似を……」

「ごめんなさい……今度こそ、上手くいくと思ったのに……」

「お前には、ルクレチアがいるんだぞ。それに、私も……」

彼はそう言って、恨めしげに彼女を見下ろす。女は微笑んで、男に向ってその両手を広げた。

「だからよ、モントリーヴォ……私がいなければ、貴方はもっと自由になれる……」

「そんなことを、私が望むと思うのか?やっとこうして……取り戻したというのに……」

望まれるままに、男はベッドに腰掛け、手を広げる女の抱擁に応えた。耳元で、満足げな嘆息が聞こえる。

「どうして私は……貴方の妹なんかに、生まれてきたのかしら……」

「……もういい、エリサベッタ……やめてくれ……」

「どうして私は、こんなに罪深いのに……こうして生きているのかしら……」

エリザベッタはそう言って、その胸に顔をうずめる。抱きしめて、モントリーヴォが重く、嘆息する。

「お前が生きていなければ、私にも、生きる意味はない……お願いだ、もう二度とこんな真似はしないと、誓ってくれ……わが妹……」

彼女がここへこうして運ばれるのは、何度目だろう。モントリーヴォは思いながら、その眉をしかめる。

最初は、単なる事故だった。幼かった二人が、たまたま屋敷の庭で見付けた小さな果実を口にして、気がつくと、その部屋に並べられた小さなベッドに横になっていた。父の代から仕えている、半ば自分達の乳母のような女中が、涙ながらに教えてくれた。お二人は間違って、毒の実を食べてしまったんですよ、と。最初はそこが病院だと、二人とも思わず、どこか遠くの別荘にでも来たものかと思っていた。体が回復するまでの数日を過ごし、屋敷に戻った時、その余りの近さに驚いたほどだ。

二度目は、自分の婚約の時か。正妻と呼ぶべき女が定まった後、妹はまた『事故』を起こした。幼い日に、誤って口にしたあの果実を、わざと食べたのだと、彼女は自分にだけ告白した。

それから数年もしないうちに、妹は最初の結婚をした。二度とこんなことは起こるまいと思っていた矢先、三度目が起こった。あの時は確か、外に作った娘の事が知れた時だったか。彼女が驚いたのは、娘がいたことに、ではない。その母親が誰なのか、それを知ったからだ。その時にも、同じようなことを言っていた。自分はこんなにも罪深いのに、どうして生きているのかと。

気狂いだと、人は言うだろう。確かにそうなのかもしれない。幾度となく、自分と妹は、こんなことを繰り返している。彼女は自分の罪の深さに、その気持ちの重さに、幾度となく自分自身を殺そうとし、その度に、彼はその側で、やめてくれと、願い続けてきた。側において置けない、それでも、せめて生きていて欲しい。近くに取り戻しても、死んでしまっては意味がない。いや、死の国は、余りにも遠すぎる。思うことすら辛いほどに。それでも彼女は、幾度も自分を傷付ける。そして時折、こう囁くのだ。ここでこうしていれば、貴方が側にいてくれる。ここでなら、二人でいられる。それもまた、彼女の本心だった。二人でいることは、許されない。お互いを愛することは、罪でしかない。けれどこの部屋でなら、誰に咎められることなく、愛しい人と二人で過ごせる。枕を並べて眠る事も許される。優しくしてと、甘えた声でねだる事も。

「モントリーヴォ……私の、お兄さま……」

吐息のような声で、エリザベッタが自分を抱く男を呼んだ。抱きしめたまま、彼はそれに答えず、ただ無言だった。

 

 

 

 

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Last updated: 2008/12/06

 

 

 

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