カンタレラ

 

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そのあまり大きくない家に、彼が訪れたのは、家主の母親が倒れた次の日のことだった。

八十に手も届こうというのに、彼女はまだ、この辺り一の名士である、かつての雇い主の屋敷にメイド勤めを続けている。そろそろ引退したらどうか、という息子や娘、それに孫達の意見に耳を貸したことは一度たりとてなかった。が、今回ばかりは勝手が違うらしい。ストレスと過労で倒れた彼女は、正気を取り戻すと自分の孫娘に、そろそろお屋敷をお暇する時かも知れないね、と小さくぼやいた。家主もその他の家族も、それに最初驚きはしたものの、彼女ももう高齢だ。そんなことを言ってもおかしくない、そう思ったらしく、だったらこれを機会に、とその話を勧めていた。

「ばあやももう、年でございますよ。いつ何が起こっても、何もおかしくありません」

「珍しく殊勝なことを言うじゃないか。俺がいつだったか、そろそろ引退したら、って言った時には、まだまだそんな歳じゃない、って言ってたのに」

昨日、自分の目の前で倒れたその老女中の言葉に、エドアルドは苦笑する。エレナはベッドの中であるにも拘らず、その態度は普段と全く変わらなかった。くつろいだ寝巻き姿を屋敷の若君に見られて、多少なりとも思うところはあったようだが、その訪問を疎んでいる様子は見られない。その家族も同様だった。まさかボカロジアの若君が、わざわざメイド如きの見舞いに来ようとは、と驚いている。エドアルドは老女中の家族の対応に驚くと同時に、苦笑を禁じえない気分だった。

「若様、学校は、どうなすったんです?」

そんな彼に、エレナはいつも通りの、ややもすると使用人らしからぬ態度で応対していた。エドアルドはその言葉にも苦笑して、

「俺はいいんだよ、今はばあやの方が大変なんだし」

「いいえ、何も良くございません。ずる休みなんかなさって。仮にもボカロジアの……」

「監視つきなんだ。何をしでかすか、解らない、って」

その言葉に、老女中は顔色を変えた。青ざめた彼女に、笑いながら彼は言った。

「ルクレチアと、心中しようとして、失敗した」

「若様っ……」

「今日はエレナに、聞きたいことがあって来たんだ」

エドアルドは笑うのをやめる。老女中は怯えの覗く目で、どこか冷たくも見える青年の目を見返す。

「若様?」

「答えられないなら、それでもいいよ。きっと俺も父さんも、死んだ祖父さんも……エレナとその家族に、ひどいことをしてきたんだろうし」

室内が静まり返る。老女中は彼から視線を逸らし、その様子に、エドアルドは苦笑した。きっと彼女は何も語るまい。そしてそれは恐らく、自分の疑問に対する、肯定の答えでもあるのだろう。ボカロジアにとっても、彼女にとっても、その因縁は忌まわしいものだ。そして余りにも重く、苦い。

「……やっぱり、やめておくよ。これ以上エレナの体がおかしくなったら、俺が沢山の人に恨まれるからね」

溜め息混じりの、砕けた口調にエレナが顔を上げる。エドアルドは肩を竦めて、それから言った。

「今まで、本当に有り難う。エレナには感謝してもしたりない……謝っても、きっと足りないんだろうな」

老女中の、戸惑うような寂しげな目が、泳ぐ。エドアルドはそれに笑いかけて、しながら、言葉を続ける。

「これ以上エレナに心配かけないよ、って言いたいけど……多分無理だ。うちにいれば、エレナはずっと、煩わされなくていいことで、悩んでなきゃならない」

「……若様やお嬢様が、このばあやの手を煩わせなかった事なんて、今までにございましたか?」

「それはそうだ。いつも本当に、世話になりっぱなしだね」

普段よりも力ない、それでも強気の言葉に、エドアルドは笑う。彼女は小さく笑って、それから一つ息をついた。

「若様も、お嬢様も……もう立派に大人になられたんです。ばあやがこれ以上、何かにつけて口出しなんかしなくとも、しっかりおやりになれますよ」

「だといいんだけど……ねぇ、ばあや」

「何です、若様」

言葉に、エレナが問い返す。エドアルドはそのまま、穏やかに言った。

「俺は、ルクレチアを愛してるんだ。あの子がいなかったら、生きていけないくらいに」

「若様……」

唐突な言葉に、エレナの表情が強張る。エドアルドの落ち着きは変わらない。何かを覚悟したように、静かで落ち着いた態度のまま、彼は言葉を続けた。

「姉さんに叱られたよ。だったら、その為に生きろって。あの子を一生愛して、守って生きろ、って。自分の為じゃなくて、あの子の為に」

エレナは何も言わない。エドアルドは溜め息の後、彼女に尋ねた。

「俺とルゥは……兄妹なの?」

答えは返らない。顔を逸らして、エレナはその目を固く閉じる。構わず、エドアルドは問いを重ねた。

「あの時ばあやが止めたのは、父さんとあの人じゃなくて……俺とルクレチアなんだろ?」

エレナは黙して、無言だった。室内が再び沈黙する。エドアルドは僅かの間、答えを待つ。が、すぐにも苦笑交じりの息を吐いて、

「それでも、俺はあの子と一緒にいたいんだ。離れるなんて、考えられない……」

「……旦那様や、エリザベッタ様や、分家の方々が、何と仰るか……若様は、ご本家の跡を継がれる方なんですよ?」

喘ぐように、エレナが言葉を紡ぐ。エドアルドはかすかに笑って、

「だったら俺は、あの家を捨てる。名前も家も、分家の奴らにくれてやればいい」

「無理でございますよ……あの御家を出て、どうやってお暮らしに……」

「死ぬ覚悟だって出来たんだ、何だってできるよ」

言って、エドアルドは彼女に笑いかけた。エレナは答えに窮し、無言で笑う。エドアルドはそんな老女中を見て、その肩を竦めた。

「若様も……大人になられましたね」

「言う事だけはね。でも、大変なのはこれからだよ。この覚悟で行って、ルゥに振られたら元も子もない。尤も……許してもらえるなんて、思ってもいないけど」

「情けないことを仰いますな。若様はお亡くなりになられたお祖父さまにも、今のご当主であるお父さまにもよく似ておいでの色男ですから、お一人に振られたくらい、何と言う事もございません。もしそうなっても、きっとまた素敵な方が見付かります。大丈夫でございますよ」

叱咤するような老女中の声が聞こえた。先程の、力ない、戸惑う様子はそこには見られない。

「何だ、それじゃ俺が、本当に振られるみたいじゃないか」

その言葉に、エドアルドが笑う。エレナはしれっとした顔で、

「若様は、確かにハンサムでおいでですが、ばあやの知っている限りでは、日頃の行いも、あまり良うございませんからね。多少は神様も、罰をお当てになりますよ」

「酷いな、それは」

声を立てて、エドアルドは笑う。そして、

「でも……俺は別に、神様とやらに許されなくても構わない。ばあやにも」

「……お好きになさいませ。私の妹も姪も、思うように生きましたから。誰がそれを止められた訳でもなし……若様も、そうでしょうから」

呆れの吐息と共に、突き放すように彼女は言った。エドアルドは苦笑して、

「エレナ……ごめんよ」

エレナは無言で、どこか寂しげに笑っている。エドアルドも、それ以上は何も言わなかった。

 

病院とは思えないような、贅沢かつ落ち着いた調度の部屋で、ルクレチアはただぼんやりと座っていた。自分の部屋で、愛しい男に首を差し出して、締められて、意識が遠のいたところまでは覚えている。息苦しさと血の気が引いていく感覚に、笑った事さえも。けれど気が付いた時、彼女は落胆した。死ねなかった、いや、殺してもらえなかったのか。目蓋を開けたのは無意識だったが、直後彼女はそれを悟っていた。覗き込む母親の、今にも泣き出しそうな顔に驚くよりも、自分の落胆の方が余程大きかった。けれどそれを口にすることは出来なかった。意識が戻って、何事があったのかの説明をうけても、彼女には何も、ぴんとくるものがなかった。ただただ、生きていることがショックだった。その所為だろうか、声らしい声も、言葉らしい言葉も、あれから全く口に昇らない。いや、きっと出そうと思えば出せるのだろうが、それをどこかで拒んでいる自分がいるのか。それとも、何を言い出すのか解らない恐怖、とでも言うのだろうか。それも、ないことはないだろう。視界に入ってきた母親が真っ先にしたのは、泣きながら自分を抱きしめる事だった。そんな母親に、どうして死なせてくれなかったのか、などと、問い詰められる訳がない。母は、余りにも世間擦れしていない。頼りなく、時に自分よりも子供で、余りにも弱いのだから。

そう、死んでしまいたかった。あのまま目覚める事もなく、この世の何ものとも、決別したかった。それが何者かの怒りを買って、例え地獄に堕ちても構わなかった。生き続ける方が、今の自分にとっては余程つらい事だ。愛しい人と引き離されて、このまま時を過ごす、その方が。思って、ルクレチアは目を伏せた。彼の名を心の奥で呼ぶだけで、瞳に涙が溢れる。そして同時に、思いが込み上げる。その顔を見たなら、きっと自分は彼を罵るだろう。どうして殺してくれなかったのか、と。それが、彼にとっても苦渋の選択だったと、知らない訳でもないのに。責めたい訳ではない。詰って、罵りたい訳でもない。それなのに、どうしてそうせずにはいられないのだろう。恨み言を言ったところで、何かが変わるわけでもないのに。思うと、胸は苦しくなるばかりだった。

そう、彼を責めたい訳ではない。それなのに、そうしないではいられない。責めて、詰って、罵って、そうして本当は、憎んで、忘れてしまいたい。思いながらルクレチアは一人、ベッドの中で涙を流す。咽喉からは、嗚咽の声さえ漏れてこない。まるで、哀しみのはけ口が、塞がれているようだった。もしかしたらそれは、罰なのかもしれない。彼の手を汚してまで、死にたいと思った、自分への。体を哀しみで震わせながら、ルクレチアはそんなことを思った。それでも、そうして死ねるのなら、自分はどんなに幸せだったか知れない。愛しい彼の手にかかって死ねるのなら、離れて生きるよりも、ずっと。流れる涙で枕が濡れる。見ながら、ルクレチアは思った。こんなことで、こんな風に泣いているのに、あの人にこの涙を拭いてもらえたら、どんなにいいだろう、と。

「ルクレチア」

ベッドの中、ルクレチアはその声に慌てて涙を拭った。ゆっくりとした足取りで、シーツに潜り込んだルクレチアに、エリザベッタが歩み寄る。

「起きている?」

普段と変わらない声色で呼びかけられて、そっとその顔をシーツから覗かせる。母親は柔らかに笑いかけ、その傍らの椅子に腰掛けた。

「気分はどう?何か飲む?」

横たわったままで、ルクレチアは首を横に振った。その応答に、彼女の表情が僅かに曇る。

「そう……どこか痛いところや、苦しいところはない?」

言葉と共に、母の手が額に下りてくる。ゆっくりとした手つきで、彼女がその髪を撫でた。ルクレチアは視線だけを彼女に向けて、同じ様に小さく首を横に振った。さらさらと、その金色の髪が揺れる。エリザベッタは笑って、そっとその手を収めた。

「貴方の髪の色は、私とそっくり同じね、ルゥ。私のお父さまは、お兄さまと同じように、夜の闇の色をしていたけど……貴方は私に似たのね」

どこか懐かしげに、彼女は目を細める。唐突に始まった彼女の話を、ルクレチアはベッドの中でただ聞いていた。エリザベッタは彼女に笑いかけて、それから、未だ包帯の解かれない、自分の腕を眺める。

「こんなことになるなら……私が死んでしまえば良かった」

その眉がひどく歪む。同時に紡がれた言葉に、ルクレチアは目を見張った。エリザベッタはその様子に気付かないまま、無言でその包帯を解き始める。それは、白いはずの腕に、未だ赤黒く描かれていた。鋭く引き裂いた痕に、ルクレチアが息を飲む。それは誰が見ても、不慮の事故でついたようなものではなかった。故意に、何か鋭いもので引き裂いた痕は、未だ生々しく、そして痛々しい。母さま、どうしたの、何をしたの。そう言おうにも、ルクレチアの咽喉から声は出ない。奇妙な緊張に、胸がどくどくと高鳴った。

「私は悪い母親ね……貴方を授かって、あんなに嬉しかったのに……貴方をこんな目に合わせるなんて」

言いながら、彼女はその手を下ろす。ルクレチアは脅えと戸惑いの混じった目で、そんな母親を見上げていた。彼女の表情は変わらない。普段と同じ、頼りなげでどこか幼い、そんな目で笑っている。

「ルクレチア……私を許してくれる?貴方をこんな風にしてしまったのに、それなのに……私はあの人を、忘れられない……貴方よりもずっとずっと、あの人を愛している……失ったら、生きてはいられないくらいに」

この人は一体、何を言いたいのだろう。思いながら、ルクレチアは体を起こした。

こんな風に、彼女が謝罪した事など、今まで一度たりともなかった。一体何について、彼女は自分に許せと言うのだろう。戸惑い、脅え、恐怖さえ覚えて、ルクレチアは母を見上げる。エリザベッタはそんな彼女を見下ろして、ベッドについたルクレチアの手に自分の手を重ねた。ルクレチアの唇が、母さま、と空回りする。

「貴方を産んで、悔やんだ事はないわ。貴方は私の娘だもの……母親らしい事は、何も出来なかったけれど……それでも、こんな風に不幸にしてしまうなんて……本当にごめんなさい。許してなんて、もらえないわね」

エリザベッタは言いながら、ルクレチアの頭を撫でる。そしてそのまま抱き寄せて、深い嘆息を漏らす。

「こんなに大きくなったのね……これから貴方は、もっと大人になって……素敵な女性に、育つんでしょうね……」

エリザベッタは目を伏せる。そして、小さく笑った。抱き寄せられて、訳が解らず、ルクレチアは混乱する。くすくすと笑いながら、エリザベッタは楽しげに、更に言葉を紡いだ。

「大好きよ、ルゥ……貴方は私の大切な子供……私と、あの人の……とても大切な、たった一人の娘だもの……」

言葉が途切れて、しばらく二人はそのまま動かなかった。何度も確かめるように、エリザベッタはルクレチアを抱きしめて、ルクレチアはされるまま、ただ混乱していた。母が何を言っているのか、何を言おうとしているのか、解らない。それでも、彼女が尋常でない事は解る。その腕の傷は、割れたグラスで切ったというにはあまりにも酷く、そして痛々しい。この人は、自分でその腕に傷をつけたのだろうか。でも、一体何のために、どうして。思いながら、ルクレチアは声を出そうとする。が、咽喉の奥からは、力のない呼気ばかりが出るばかりで、音を成そうとはしない。

「奥様」

開け放たれたままの、病室の扉の向こうから、若い女性の声が聞こえる。エリザベッタは抱いていたルクレチアを離し、そちらへ顔を向ける。

「お客様がおいでになっていますが……」

声は若いメイドのものだった。あらあら、と小さく言って、エリザベッタは立ち上がる。

「一体何方がいらしたの?メグ」

「それが、その……」

困惑した様子で、メイドの言葉が途切れる。エリザベッタは何度か瞬きして、それから、

「ルゥ、母さまはお客様に会って来るわ。少し待っていてね」

そう言ってベッドを離れる。待って、と声を投げようとしたルクレチアの唇が、再び空回りする。振り返りもせず、エリザベッタは病室を出て行く。声が出ない、でも、引き止めなければ。何故かそんなことを思って、ルクレチアはベッドを出ようとする。が、体に力が入らないのか、そのままルクレチアはベッドから転げ落ちそうになる。

「お嬢様!」

メイドの声で、エリザベッタは振り返った。ベッドから落ちそうになったルクレチアを見つけて、慌てて駆け寄る。

「ルゥ、どうしたの?」

その腕になだれ込む形になって、ルクレチアはエリザベッタを捕まえる。そして必死の顔で、その口をぱくぱくと動かす。待って母さま、行かないで、どこへ行くの、その傷は何?そう言葉を発しようにも、声は咽喉の奥から、全く出てはこない。歯がゆさに、ルクレチアは思わず唇を噛んだ。困った様子でそれに笑いかけて、エリザベッタは抱きかかえた彼女をベッドに戻す。そして、

「……すぐに戻ってくるわ。それまで、ここで大人しくしていてね、ルゥ」

そう言葉を残し、踵を返す。ルクレチアはただ、眉をしかめてそれを見送るだけだった。

 

ここは本当に病院の別棟だろうか。通された客間で、エドアルドはそんなことを考えていた。ストラーリのこの病院は、先代のボカロジアの当主が、元は教会に付随する施療施設だったものを買い上げて、造らせたものらしい。グラローニは大きな都市ではない。そのためか、福祉の整備も中央に比べて遅れがちだ。しかしこの病院のおかげで、町の人間は随分助かっているらしい。自分も、患者として何度か訪れた事がある。とは言えそれはいつでも些細な疾病で、入院するような事はなかった。ここに、ボカロジア専用の特別な病棟がある、とは聞いていたが、まさかここまでのものとは。思いながら彼は苦笑する。ということは、叔母もつい先日までは、ここにいたと言う事か。そして今度は、ルクレチアが。彼女は今、どうしているのだろう。思うと、苦いものを含んだ笑みさえ、その顔から消え、苦しげに眉は顰められる。

自分は余りにも、愚かだった。いくら悔やんでも、悔やみきれない。いっそその罪のあまりに、死んでしまいたいとさえ思う。けれど、それは逃げでしかない。一度は過ちを犯した。それが許されるとは思わない。けれどそれでも、いや、だからこそ、か。姉は償うために生きろと言った。本当に彼女を愛しいと思っているのなら、生きてその身で、償えと。確かに言われる通りだ。自分は彼女を愛している。失いたくないと思って、思いつめて、死という安易な選択肢に、踊らされてしまった。それでももし、その罪を償えるのなら、彼女に、許されるなら。生きて生涯、この身でそれを償おう。理由はたった一つ。彼女を愛しているから。

あの子が幸せなら、何にも脅かされず、幸せに生きていけるなら、側にいられなくても構わない。それを祈るだけでもいい。例え、自分ではない別の誰かと一緒になったとしても。思ってエドアルドは、その目を閉じる。

失うと、思うだけでこの胸は張り裂けんばかりになる。それは変わらない。誰にも渡したくないのも、離したくない気持ちも、変わらないどころか刻一刻と強くなるばかりだ。けれどそれでも、それよりも、彼女の幸福を祈りたい。誰に許されるでもない身で、何物がそれを聞き届けてくれるのかは解らない。

けれどそれでも、無力な自分に出来ることはそれだけだ。どうかあの子が、幸いでありますように。これからずっと、何の憂いもなく、生きていかれますように。例えこの腕に抱く事が、二度とないとしても。彼女を愛している、だから。

「……ごきげんよう、エドアルド」

声が聞こえて、エドアルドは目を開いた。困り顔の叔母の様子に、エドアルドは苦笑を漏らす。あまり歓迎はされていないようだ。当然だろう。会ってくれるだけでも、十分有り難いくらいだ。エリザベッタはエドアルドと対面するように、彼の着いているテーブルに歩み寄り、向い合わせのソファに腰掛ける。エドアルドは苦笑のまま、皮肉めいた、普段どおりの口調で言葉を紡いだ。

「てっきり、追い出されるかと思っていました。有り難うございます、叔母上」

「私に、そんな権限はないわ。ここは貴方のお父さまの持ち物で、私達はその人に、養ってもらっているのだし」

言葉は、いつになく刺々しい。当然か。思いながら、エドアルドは構わず言った。

「ルクレチアは、どうしているんですか?」

「……その前に、どうしてあんな事をしたのか、聞かせてもらえるかしら」

問いの答えは得られず、逆に尋ねられる。エドアルドは短く息を吐き出すと、彼女を見詰めたまま、淡々と言った。

「そうしたかったからです。彼女を殺して……俺も、死んでしまいたかった」

「どうして、そこまで……」

エリザベッタの顔が僅かに青ざめる。口許に、笑みが昇るのを禁じえず、エドアルドは薄く笑って返す。

「ルクレチアに望まれたら……俺には抗えません」

「あの子が……自分で死を望んだ、と?」

エリザベッタの瞳が、驚きで見開かれる。エドアルドは苦笑したまま、無言で頷く。彼女はその笑みから目を逸らして、そして自分も、困ったように笑った。

「あの子も……いつの間にか、一人の女になったのね……」

「会わせて、もらえませんか?」

溜め息と共に紡がれた言葉の後、単刀直入にエドアルドが尋ねる。エリザベッタはくすくすと笑うと、

「会ってどうしようと言うの?ここでまた、あの子に酷いことを……」

「ルゥが嫌だと言うなら、二度と彼女には会いません……何かしたい訳じゃない。もしかしたら、貴方とももう二度と、会わないことになるかもしれない」

落ち着き払ったその声に、発した彼自身も驚いていた。エリザベッタは笑うのをやめる。射抜く様な、真直ぐな視線がそこにあった。エドアルドは黙したまま、エリザベッタをただ見詰めている。静かで、力強い視線に、エリザベッタは困ったと言わんばかりに嘆息した。そしてまた、彼から目を逸らす。

「……叔母上?」

「意識は戻ったし、命に別状もないわ。それでも今、あの子と貴方を会わせることはできません」

「……何故です」

「目が覚めてから、声が出ないのよ、全く」

目を逸らした彼女の口から出た言葉に、エドアルドは息を詰まらせる。彼女は、驚く彼に気付いているのか、そのまま淡々と続けた。

「お医者様の話では、ショックが強くて、一時的に声が出なくなっているだけだろう、ということだけど……それは、それだけあの子が傷ついた、そういうことなのじゃないかしら」

エドアルドに言葉はない。エリザベッタは彼を一瞥すると、何かを嘲るような笑みを漏らした。

「グラローニに、戻ってくるのではなかったわね……私は一生、死んだ人の妻として、モリエーロにいるべきだった」

「叔母上……それは……」

紡がれた言葉に、エドアルドが反論しようとする。けれど言葉が続かない。エリザベッタは軽く笑って、更に続ける。

「でも、私は望んでしまった……ボカロジアに戻る事を。あの人のために、どんな事にも耐えられた、そのはずなのに……あの人のところに戻れると解ったら、何も見えなくなってしまった……」

声もなく、エドアルドは息を飲む。それは、紛れもない一つの真実だった。彼女がここに戻らなければ、ルクレチアを連れてこなければ、こんなことにはならなかった。時を辿って言うなら、兄妹である二人が愛し合いさえしなければ、こんなことにはならなかった。けれどそれは、今悔やんでも仕方のないことだ。そして同時に、自分にそれを糾弾する事など、出来ない。思って、エドアルドは苦々しく、眉間を歪ませた。それは、不幸でしかないのだろうか。愛しいと感じたその相手を、愛する事が、何故許されないのか。ただ、兄妹だというだけで。いや、それ以上の枷など、この世界には存在し得ないのかもしれない。神によって禁じられた禁忌。それを犯さざるを得ない身とは、何と罪深い事か。

「叔母上……」

「あの子がもし、自分の母親が、こんなにも愚かしくて、罪深いと知ったら……どんなに哀しいかしら。いいえ……私は嫌われてしまうわね。憎まれるかもしれない。でもそれでも構わない。許して欲しいことは、たった一つだけ……あの人の側にいたい。何を失っても構わない……でも、私がそれを望んではいけなかったのよ。罪は、貴方にあるわけではないわ。総ては、私の罪」

エドアルドは、身動き一つ取れず、彼女の言葉を聞いていた。微笑むような表情で、彼女は目を閉じる。エドアルドは続く言葉を待つように、黙して彼女をただ見ている。

「エドアルド……貴方は、あの子が望んだら、抗う事ができない、そう言ったわね。それは何故?」

「……どうして、そんなことを……」

問いかけに、エドアルドは答えられない。エリザベッタは薄く、力なく笑って、

「あの子を愛してくれているの?だから、望む総てに抗えないの?」

「……そうです。俺は……」

「エドアルド、それは「愛しているから」ではないわ。貴方があの子に「愛されたいから」よ。本当に愛しているなら、過ちを犯す前に、それを止められるわ。愛しい相手に間違いなんて、させられないはずだもの」

答えに、言い返される。彼は言葉を失う。エリザベッタは笑っていた。笑って、更に言った。

「私は……あの人もね。抗えなかった。だって私は愛されたかったもの。どうしても、あの人のものになりたかった。他の誰にも渡したくなかった。それがどんなに悪い事でも、誰に許されなくても。今となっては、悔やんでも悔やみ足りない。エドアルド……貴方には、そんな風に間違いを犯して欲しくないの。あの子にも」

「俺が……彼女を求める事が、間違いだと言うんですか?」

押さえつけた声で、エドアルドが問いを投げる。エリザベッタは困ったように笑うと、

「それは、私が決める事ではないわ……いいえ、本当は、誰にも裁けることでもないのかも知れない……」

「俺は彼女を……ルクレチアを愛しています。貴方に何と言われても、それは変わらない。彼女の為なら、この命も捨てられる。それには、変わりません」

睨むように、エドアルドはエリザベッタを見ている。薄い笑みのまま、彼女は言葉を返した。

「それなら……本当にあの子を大切に思ってくれるなら……どうかこの先にも、あの子を守ってやって。貴方が本当にそう思って、ずっとあの子と共にいてくれると言うなら……私に、それを咎める理由はないわ」

言って、エリザベッタは立ち上がる。目で追いながら、エドアルドは彼女に呼びかける。

「叔母上……」

「貴方も私も、あの人も……そうね、フィオフィレーナも……抗うことが出来なかったのは、どうしてなのかしら……何もかもを捨ててしまえる訳でもないのに……どうしてなのかしらね」

例えば、兄であるあの男も、家を捨てられたなら、と悔やんでいる。この家を捨てて、その手を取って逃げられたら良かった、と。

過ぎ去った事は、何もかもが悔やまれる事ばかりだ。僅かな過ちさえ、余りにも大きな失敗のように思える。思いながら、エリザベッタは歩き出す。立ち上がって、エドアルドは視線だけでそれを追う。

「叔母上っ……」

「あの子に会ってあげてちょうだい。ずっとベッドに入ったままで、きっと退屈しているでしょうし……貴方に会えたら、きっと元の通りに、元気になると思うわ」

部屋を出る直前、エリザベッタが振り返って、笑う。言葉もなく、エドアルドはそれを見ていた。くすくすと、少女のように笑って、彼女は部屋を出て行く。姿が見えなくなるまで見送って、エドアルドは歩き出す。

心は決まっていた。彼女を愛している。拒まれないと言うなら、生涯をかけて守る。何ものがそれを許さなくとも、彼女さえ許してくれるなら、死ぬまで変わらず、彼女だけを。一度は死さえ覚悟できたのだ、叶えられない筈がない。思うと何故か、口許に笑みが昇る。気分は、高揚しているようで、どこか落ち着いていた。奇妙な感覚に、僅かに体が震える。

自分は、何かを恐れているのだろうか。何気にエドアルドは思った。そして思いながら、彼女の病室に向って歩き始めた。

 

屋敷の主がその連絡を受けたのは、彼が経営する中でも中枢を担う企業の執務室だった。秘書の一人が、電話が入っているが、とそれを取り次ごうとしたが、彼はそれに取り合わなかった。電話の主は、それなら伝言を頼みたいと言って、あっさりとそれを切ってしまった。その為、彼は直接その相手から報告を受けたわけではなかった。

「……サヴォイアの隠居に会いに行く、だと?」

数十年来の片腕であるところの秘書は、眉を顰める彼を見て、苦笑混じりに、今度の事をご自身で何とかするつもりのようですよ、と、やや冗談めかして付け足した。他地方の、ボカロジアと同じく旧貴族の流れを汲む資産家の名前に、彼はいつでもいい顔をしない。加えて、隠居と呼ばれるその男を、毛嫌いしている感さえあった。舌打ちする彼に、秘書は困り顔で付け足す。

「何と言いましたか、あの青年」

「青年?」

「アデレード様の部下ですよ。ヴィアリ、でしたか」

その名前も、彼はあまり気に入っていないようだった。渋い表情が益々険しくなる。秘書は肩を竦め、自分の上司の不機嫌さにやや呆れている様子である。表には出さないが、彼は血族の女性に甘い。妾腹に産ませた、とは言え彼女は確かにその男の娘だ。女性にしておくには勿体ないくらいの強気と気風の良さ、そして度胸の据わり具合であっても。その為に、最近彼女と婚約した、と報告を受けたその男の名にも、いい顔をしないのだろう。とはいえ、今しているのは彼の家族の話ではない。仕事の話だ。構わず、秘書は続けた。

「ルオーティの出身、のようですね。老サヴォイアと、何かあるんでしょうか」

「……そのようだな」

言葉に、彼は舌打ちする。モントリーヴォは自身の片腕の、少々遠まわしで、愚鈍さを誇張するような話し方が、あまり好きではなかった。自分がここまでやってこられたのは、その切れ者の片腕によるところも大きい。それを認めてやっているにも拘らず、その男はいつもどこか、自分をはぐらかすような態度を取っていた。解っていてやっているのだ、そう思いながら、彼はその夜の色の髪を苛立たしげに掻き毟る。

「ようだ、ですか」

「本気で言っているのか、アントニオ」

「……ええ、まあ」

苛立つ声に、秘書である男は目を丸くさせた。本格的に機嫌を損ねたのだろうか。しかし自分は、単に予測で話をしているに過ぎないのだが。老サヴォイアという人物にも、ルオーティの情勢にも、自分は詳しくない。ただ、噂は何度か聞いたことがある。アデレードがどこかの夜会でその老人にいたく気に入られ、何度かサヴォイアとの提携を持ちかけられている、と。しかしボカロジアの主は全くそれに取り合わず、ルオーティとグラローニが離れていることもあって、話が現実味を帯びた事は今まで一度としてなかった。それが、ここへ来てその名が、彼女の口から出たのだ。ボカロジアの主は彼女の父親だ。幾ら何でも、その意思を全く無視してサヴォイアと彼女が繋がりを得ようとしている、とは考え難い。下手を打てばアデレード自身、彼女が手にしている事業を、根こそぎ父親に奪われかねない。若しくは、サヴォイア側に食いつぶされるか。

「……ボス?」

「名前を聞いた時から、疑ってはいたがな。まさか本当にそうだとは……」

モントリーヴォが強く舌打ちする。秘書は傍らで首をかしげ、続く言葉に目を剥いた。

「あの老人の、妹の孫だそうだ。マルコ・ヴィアリ……サヴォイアの本家には跡取りがない。養子に入って、本家の統領に、ならんとも限らんらしい」

 

開かれたままのドアをノックする。病室は、その別棟のメインルームだ。客間より余程ゆったりと作られ、調度も派手すぎず、落ち着いている。その部屋の真ん中に、凡そ病人が使うとは思えないベッドがしつらえられている。子供なら数人が一緒に寝られそうなほどのそのベッドに、ルクレチアの姿はあった。不安げな視線がこちらに向く。引き攣る頬を感じながら、エドアルドはそれでも彼女に笑いかけ、部屋の外から声を投げた。

「入ってもいいかな、ルゥ」

彼の姿に、ルクレチアは驚きと脅えを見せる。その傍らのメイドの表情までも固くなって、思わずエドアルドは苦笑した。昨日の今日だ。まさか会いに来るとも思っていないのだろう。メイドの方は、もしかしたらまた自分が暴走するのでは、と危惧しているのかもしれない。まるで立ちはだかるように、メイドはその体でルクレチアを隠した。

「何もしないよ……話がしたいだけなんだ」

「若様……でも、お嬢様は……」

戦慄の表情で、メイドが何か言いかける。言葉を先んじるように、エドアルドは言った。

「聞いてるよ。声が出なくなってしまった、って」

平静を保ったその上、自嘲の混ざった声が聞こえると、メイドと、その背後のルクレチアが奇妙に体を強張らせた。警戒というよりも、拒否されているようだ。思いながら、もう一度エドアルドは言った。

「入ってもいいかな、ルゥ。君と話がしたいんだ」

困惑の目で、メイドがベッドの彼女に振り返る。ルクレチアは視線を泳がせて、俯いたままで小さく頷いた。短く吐息して、エドアルドはゆっくりと、そのベッドに歩み寄る。ルクレチアは、視線をベッドに落として、彼を見ようとしなかった。間際まで辿り着いて、エドアルドはその名を呼ぶ。

「ルクレチア……」

「わ、若様……」

「大丈夫だよ、何もしない……君は、下がってくれるかな」

すぐ側で、メイドの震える声が聞こえた。メイドは、困惑と脅えの混じった目をルクレチアに向ける。ルクレチアはそっと顔を上げて、やはり無言で首を縦に振った。そうしてくれ、という合図らしい。そのまま一礼して、メイドは部屋を出て行く。途中、不安げな顔で振り返る彼女を見て、エドアルドは苦笑した。信用されていないらしい。いや、当然か。もし自分がまた、ルクレチアに何かしたなら、席を外した彼女の責任問題にもなるだろう。そんなつもりは毛頭ないのだが。思いながら、エドアルドはベッドのルクレチアを見る。ルクレチアは俯いて、盗み見るようにそんな彼を見ていた。言葉はない。いや、何か言おうとするが、その唇から、声がこぼれる事はなかった。それはただ空回りするばかりだ。その様子に、エドアルドは眉をしかめる。

「ごめんよ、ルゥ……君を、こんな目に合わせてしまった」

ベッドの側に立って、見下ろしたまま、エドアルドが低く言葉を紡ぐ。ルクレチアは彼から目を逸らし、その目を強く閉じる。まるで、自分の外の何もかもを、拒むように。震えるその肩を見下ろして、エドアルドは嘆息し、言葉を続けた。

「こんなことをしておいて、言える事じゃないけど……本当に悪い事をしたと思ってる。許してくれ、なんて言えない。けど……これは俺の罪だ。だから、生涯かけて償う。君をもう二度と哀しませない……誓うよ」

ベッドの上の、彼女の膝の上の手に、エドアルドは手を伸ばす。細い指先を捕まえると、ルクレチアが驚いたように顔を上げた。その顔を見もせず、エドアルドはその手をそっと握る。振り解こうとすればすぐに解けるほど、力なく。

「ルクレチア……君を愛してる……本当に、心から……君に許されなくても、きっと俺はずっと……君を忘れられない」

エドアルドの指先が震える。ルクレチアは戸惑いながら、空回りする唇で彼の名を呼んだ。声は音にも、吐息にさえならない。もどかしさに、ルクレチアは自分の指を掴むその手を握る。震える手が止まって、エドアルドが顔を上げた。ルクレチアは肩を震わせながら、自分の指に更に力をこめる。

「ルゥ……」

呼ばれて、彼女は顔を上げた。視線が絡む。同時に彼女は笑って、それから、空回りする唇で言った。泣かないで、チェーザレ。そう言葉をなぞる動きに、エドアルドは戸惑う。指は繋がれたまま、確かめるように幾度も握り返された。

「ルクレチア……」

名前を呼びながら、指と指とをからめる。ルクレチアは笑うのをやめて、再びその顔を伏せる。同時に、その瞳から涙が溢れた。声の出ない、言葉を失った彼女の泣き出す姿に、エドアルドは戸惑い、混乱する。手を取ったまま泣き出したルクレチアは、絡んでいたその手をそっと持ち上げて、彼の指先に優しく口付けする。そのままそれを頬に寄せて、摺り寄せるのを、エドアルドは呆然としながら見ていた。

「ルゥ……俺を、許してくれるの?」

問いかける声が、震える。ルクレチアは頷いて、それから、首を横に振った。意図が解らず、エドアルドは苦笑する。

「どっちなんだい、ルゥ……それじゃ、解らないよ」

手は、捕まえられたままだった。甲が、柔らかに導かれて、彼女の頬を撫でる。抗うようにその指を開いて、エドアルドは自分の意思で、ルクレチアの顔を捕まえた。驚きもせず、委ねる様に、ルクレチアが軽く首を傾げる。ちらりと上げられた視線は、いたずらっぽい光を宿していた。エドアルドは訳が解らず、その場で戸惑う。

「……ルゥ?」

捕まえたままの顔が、僅かに上を向く。つんと唇を突き出して、彼女は目を閉じて見せた。悪いと思って、謝るつもりなら、キスでもしろということか。その幼い、そして余りにも変わらない仕種に、エドアルドは笑った。そして同時に、恐怖に似た何かに、その体を震わせる。

「ルクレチア……いいの?キスしても」

ルクレチアが片目だけを開ける。同時に唇が、不機嫌な形に小さく縮んだ。いつもの不貞腐れた、愛らしい顔がそこにある。震えながら、エドアルドは重ねて問いかける。

「俺を……許してくれるの?」

首は、横に振られる。さらさらと、その金色の髪が同時に揺れた。

「だったら……どうして……」

ルクレチアがその両目を開く。戸惑い、どこか脅える彼の体は、直後彼女に強く引き寄せられた。顔が間近に迫る。眉を吊り上げて、ルクレチアはエドアルドを睨む。いいから、キスして。不貞腐れた唇が、そんな風に動いた。怒ってはいるらしい。けれど、どうしてそんなことを言うのか。思いながら、エドアルドは近付いたその顔に、もう一度手を伸ばした。ベッドに屈みこむように、ルクレチアの、声を失った唇に、自分のそれを押し当てる。数秒、触れ合うだけの接吻の後、ルクレチアはやわらかに彼に笑いかけた。そして、

「……チェー、ザレ……」

「ルゥ、声が……」

途切れがちに、かすれた声で名を呼ばれる。エドアルドの驚きの声の直後、ルクレチアも気付いて表情を変えた。ひび割れて、元の通りとは言えないが、その咽喉は音を取り戻したようだ。体を起こし、すぐにもエドアルドは身を翻す。

「っ……待って、兄さまっ……」

「叔母上を呼んで来るよ、それから、医者も……」

「待って、兄さま」

声が戻った直後だというのに、叫ぶようにルクレチアは彼を引き止める。エドアルドは振り返って、ベッドのルクレチアにもう一度向き直る。

「ルゥ?」

「……待って、兄さま……もう少し、ここにいて」

細く途切れがちの、時折、酷く喘ぐ声でルクレチアが彼を止める。エドアルドは黙したまま、再び彼女の側に戻った。ベッドの側にある椅子に腰掛けると、ルクレチアは小さく笑い、それから言った。

「王子様の、キスみたいね」

「ルゥ……」

はにかむようにルクレチアが言った。エドアルドはその様子に、眉をしかめる。そして、

「俺は、そんないいものじゃないよ……もし君が話せなかったのが、呪いだとしたら……かけたのは俺なんだし」

「でも、名前を呼びたいって思ったら……元に戻ったもの。兄さまが治してくれたのと、同じよ……チェーザレ」

噛み締めるように、ルクレチアがその名を口にする。脅えるようにエドアルドは、そんな彼女が笑うのを見ていた。ルクレチアは笑いながら、意地悪く言葉を紡ぐ。

「さっきの言葉……もう一度、聞かせて」

「さっき?」

「兄さま、言ったでしょう?生涯をかけて、償う、って」

甘い言葉と同じ様に、それをせがまれる。エドアルドは困惑しながら、それでも先程と同じく、謝罪のための言葉を口にした。

「君をもう二度と、哀しませたりしない……ひどい事をしたと思ってる。だから俺は、生涯をかけて……」

「酷いことをしたのは、私も同じよ、兄さま」

ルクレチアが、エドアルドの瞳を覗き込む。笑顔が、ぎこちなく歪んだ。驚いて、エドアルドは思わず息を飲む。

「ルゥ……」

「酷いことをしたのは、私だって同じでしょう?でも、ここに来てもっと、酷いことも思ったわ……どうして殺してくれなかったの、って……」

笑顔が、曇る。目を伏せて、ルクレチアはその肩を震わせた。

「どうして殺してくれなかったの、って……どうしてあのまま、死なせてくれなかったの、って……ずっと思ってた……このままずっと一緒にいられないなら、あのまま、死んでしまいたかった……どうして今更……会いに来たりしたの?兄さま」

その目が再び、涙で濡れた。エドアルドは何もできないまま、ぼんやりとした頭で、問いかけに答える。

「君に、謝らなきゃって、思ったんだ……許してもらえなくても、だったら……これで最後にしようって、そう思って……」

拒まれたなら、別れるつもりだった。嫌われて憎まれて、遠く離れてしまっても、それでもきっと忘れられないだろう。それなのに、それが最善だと言うなら、そうしても構わないと思っていた。離れたくない、それも本心だ。側において生涯、愛したい。けれど叶わないなら、せめて彼女の幸いだけでも、祈りたい。それを許される身ではない、それでも。思いながら、エドアルドは眉をしかめた。

思うだけで胸が痛い。愛おしさで苦しくなる。離れては生きていけない。世界の総てに等しい、愛しい人。けれどそれなら、その幸いを遠くから見守ることも、できるはずだ。独占するだけが愛ではない。むしろそれは、愛しているならしてはならない事だ。相手を捕まえて、支配して、傷付けても、自分の欲求が満たされるだけだ。彼女のためにはならない。

「叔母上に言われたよ……君の望むことを総て叶えてやりたいと思うのは、愛しているからじゃない、愛されたいからだっ、て……本当に君を大切に思っているなら、間違いを犯すことを、止められるだろう、って」

ルクレチアが顔を上げる。哀しくゆがんだ瞳で、二人は互いを見詰めていた。

「……チェーザレ……」

「君のことが大好きだよ……だから、どこへもやりたくないのには、変わらない……だけど俺は、君を傷付けたり、哀しませたりするだけで……守ったり、優しくなんてできないのかもしれない……酷い目にも合わせた」

エドアルドが目を閉じる。ルクレチアは身を乗り出して、

「そんなこと……兄さま、そんな風に言わないで」

「誰かの許しなんて、いらないくらい君が好きだよ……誰にも許されなくても、認めてもらえなくても構わない……だけど君にだけは許して欲しいんだ……俺を許して……愛して欲しい……そんなことを言っても、もう遅いのかもしれないけど」

エドアルドの目が開かれる。ルクレチアは、無言で彼に抱きつく。受け止めても、彼はその体を抱き返さない。肩を震わせて、ルクレチアが言った。

「チェーザレ……ごめんなさい……」

「……何が?ああ……やっぱり、俺は君の側にいちゃ、いけないってこと?」

「違うの……違う……」

抱きしめられて、聞こえる言葉にエドアルドは苦笑する。ルクレチアは首を横に振りながら、言葉を続けた。

「私が、あんなこと言わなければ……兄さまをこんな目に、合わせなくて良かったのに……ごめんなさい、ごめんなさい……」

「何言ってるのさ、酷い目にあったのはルゥだろ?さんざん泣かされて、殺されかけて……傷付けられて……」

「だって兄さまは、私がそうしてって言ったから、したんでしょう?私のために……兄さまだって、傷ついてるじゃない……」

自分の胸で泣きながら、ルクレチアが言葉を紡ぐ。ぼんやりと聞きながら、そっとエドアルドはその肩を抱き寄せる。ぬくもりが心地いい。だというのに、胸が痛い。目を閉じて、エドアルドは嘆息した。そして繰り返し、同じ事を思った。腕の中にいる彼女を、愛している。失えば生きていけない。こんな風に泣かせて、傷付けて、これからもきっと、それは止むことはないだろう。それでも、求めずにはいられない。この思いは止まらない。

「ルクレチア……君が好きだよ……」

幾度も繰り返した同じ言葉が、口から漏れていく。言わずにはいられない。吐き出さなければ、血を吐く程に苦しくなる。けれどそれなら、この体中の血を総て吐き出して、死んでしまったほうが楽なのかもしれない。例え今ここにいる彼女が、それを許してくれたとしても、抱え込むこの思いがある限り、苦しみは永劫に続く。愛しいと思わずにいられない。それはまるで、地獄の炎のようだ。何もかもを焼き尽くすほどに熱くて、そして激しい。その激しさ故に、滅ぼしたくないものの総てをも、焼き尽くしてしまいそうだ。守りたいと願うものさえも、傷付けるように。

「俺を……許してくれる?側にいて……君に触れても、いい?」

「……どうして兄さまには、解らないの?」

熱に浮かされたように呟かれた言葉に、ルクレチアは眉をしかめる。顔を上げて、彼女はそこにいる彼を睨みつけた。

「ルゥ……」

「いやだったら……兄さまが嫌いなら……ルゥはこんなこと、しないわ。どうして解らないの?それに……貴方に許されたいのは、私なのに……」

言って、ルクレチアは目を伏せる。そして、

「……許して欲しいって言うなら……もう一度、キスして」

「ルゥ……」

「たった今、生涯かけて、償うって言ったじゃない……償うものなんてないけど……だったら……だったら……ずっと側にいて。命の終わる時まで、死ぬまでずっと……」

詰るような、責めるような声が聞こえる。エドアルドの口から、かすかな笑みが漏れた。抱きながら、エドアルドはその背中をそっと撫でる。ルクレチアはすねた目で、今一度彼を見上げた。

「何だい?ルゥ」

「……キスは?してくれないの?」

せがまれて、思わずエドアルドは吹き出す。無言のまま、彼はその額に口付けして、それからいつもの口調で言った。

「そんなにされたいのかい?ルゥ」

「……もう、他の人には、させないんだから」

「解ってるよ。他の誰にも……こんな風には触らない」

「どこにも行かせないし、それにっ……」

「ずっと君といる。君が許してくれるなら……命が尽きるまで、ずっと一緒にいる」

せがまれる言葉を先読みして、エドアルドは笑う。ルクレチアは顔を赤くして、それからはにかむように笑った。

「兄さま……大好き」

「……光栄です、セニョリータ」

普段どおりに、からかい口調でエドアルドが言う。ルクレチアは軽く眉をしかめて、

「……私、真面目に言っているのよ。そういう言い方はよして」

「だって嬉しいんだ……君を好きになって、良かった……」

僅かに憤慨する言葉にも、エドアルドは笑う。ルクレチアはしばし膨れていたが、すぐにも、花が咲き零れるように笑った。笑うその顔を、エドアルドが両手で捕まえる。口付けの雨は、いつもと同じ様に降り注いだ。唇が塞がれると、小さく彼女は笑った。笑いながらも、その瞳から涙が溢れて、零れる。唇をそっと離して、エドアルドがその涙を拭う。えへへ、と小さく笑って、ルクレチアは満たされたように、言葉を紡いだ。

「愛してるわ、チェーザレ……もう二度と、離さないで……」

 

十日もすると、アデレードは出先からグラローニに戻っていた。とは言え、屋敷に帰ってきたのはそれから更に数日後の事だった。出かけて行ったその二週間後、戻った彼女は疲れ切った様子で、しかし、父親に遭遇するとその疲れなど感じさせない力強さで、激しい口論を繰り広げた。出くわしたエドアルドは、久々に会った姉の様子に驚きながらも、どこか安堵していた。二週間近くも何をしていたのかと尋ねると、彼女は少々忌々しげに言った。

「『白騎士』が、私を助けてくれる事になったのよ」

「『白騎士』?」

「友好的に買収してくれる相手よ。そんなことも知らないの?」

その言葉に、エドアルドは目を丸くさせる。庭先はすっかり秋めいて、夏の力強さは感じられない。とは言え、気候はすごしやすく、庭に植えられた広葉樹も、その色を鮮やかに染め替えていた。露台の紅茶道具と数種類の焼き菓子を目の前に、アデレードは少々不機嫌な様子だ。周りの景色など、見ている余裕もないようだ。

「『友好的買収』?」

「仕方ないわ、これは自分で蒔いた種だもの……これでしばらくは、ロミッツィが何か仕掛けてきても安心よ」

アデレードが苦笑まじりに言う。エドアルドは丸くさせた目のまま、

「それで、父さんの機嫌も、あまり良くないのかな?」

「……そうね。友好的とは言っても、ボカロジアの末端が『買収』された訳だから、あの人には気に入らないんでしょうね」

問いかけに、アデレードが答える。エドアルドは黙して、そんな彼女を無言で見詰める。視線に気付いて、アデレードは笑った。

「なんて顔をしてるのよ、エドアルド」

「だって……そんなことになったのも、元はと言えば……」

「元はと言えば、何?お前が意に沿わない結婚に従わなかったから?違うでしょ?元々これは、私の失態だもの。その煽りを、お前やルクレチアが被らなくて済んで、返って良かったわ」

そう言ってアデレードが笑い飛ばす。何も言えず、エドアルドはそんな彼女をただ見詰めていた。アデレードは焼き菓子を口に運び、それから改めて、エドアルドに尋ねる。

「それで?今日のこの支度は、何?」

問われて、エドアルドは我に返る。ああ、と声を漏らしてから、

「これから、ルゥが遊びに来るんだ」

「あらあら、それはそれは」

その言葉に、アデレードの瞳がいたずらな光を帯びる。エドアルドは苦笑して、

「姉さん、何が「あらあら」なんだい?」

「何がって、私は何も言ってないわよ?相変わらず仲が良くて……私がいたらお邪魔かしら?」

くすくすとアデレードは楽しげに笑う。エドアルドは苦笑したまま、

「そんなことないよ。姉さんだって、あの子に会うのは久し振りだろう?時間があるなら……」

「そうね、顔くらいは見られるわね。これからまた、出なきゃならないけど」

言葉に、エドアルドの表情が固くなる。アデレードはそんな彼の顔を覗き込むと、

「エドアルド、私との約束は、覚えている?」

「ああ……覚えてるよ、姉さん」

「絶対に忘れない?」

「勿論……何があっても、俺はあの子とずっと一緒にいる……例え、血を分けた妹だったとしても」

この三ヶ月あまりで、自分達の周りはすっかり変わってしまった。目に見える変化は殆どない。けれどまるで、自分という人間の中身が、ごっそり入れ替えられてしまったかのようだ。思いながら、エドアルドは辺りを見回す。アデレードはそんな彼を、親愛に満ちた目で優しく見詰めている。

「もうすぐ、冬が来るね……この先、俺達は一体、どうなるんだろう……」

自分を口煩く叱った老女中の姿も、もう屋敷にはない。父親は相変わらず、屋敷にいても顔を合わせないような生活を送っている。最近また、無断外泊も増えた。姉は姉で忙しく飛び回り、休む暇もないようだ。犯した失態の処理の目処はついたものの、やることはまだまだ山積みらしい。この広い屋敷で暮らしているのは、実質自分一人なのではないかとさえ、エドアルドは思う。未来は、通り過ぎた時よりも長く遠く、果てしない。そして余りにも曖昧で、頼りない。思うと、無意識のうちに表情は固くなる。

「何辛気臭いこと言ってるの。お前はまだまだこれからでしょ?それに、先はずーっと長いわ。今からそんなことを言ってたら、何にも出来やしないわよ」

エドアルドとは対照的に、アデレードは生き生きとした目で言った。笑いさえ混じる声に、エドアルドが振り返る。アデレードは笑っていた。普段の通りに、まるで太陽のように、輝かしく。

「お前を信用していない訳じゃないけど、そんなに弱気なら、もう一度聞くわ。私との約束は、覚えている?」

「……勿論。姉さんとの約束を破ったら、後が怖いしね」

肩を竦めて、冗談交じりにエドアルドが返す。アデレードは一瞬目を丸くさせるが、すぐにもまた、その顔に笑みを浮かべ、

「後が怖い?それは一体、どういう意味なのかしら?エド」

「それはまあ……色々と。そう言えば姉さん、俺達のことより、自分のことはどうなんだい?」

返答に困り、とっさにエドアルドが話題を変える。聞くなり、アデレードの表情は一変した。不機嫌を顕に、舌打ちまでする彼女の様子に、エドアルドは目を丸くさせる。

「姉さん?」

「してやられたわよ、あの男には。だから、クビにしてやったわ」

「……え?」

唐突な話に、エドアルドは首をひねる。苛立たしく、アデレードは言った。

「そうしたら次の日、何をしたと思う?改めて、プロポーズに来ました、ですって」

「……話が、見えないんだけど」

あの男、というのが誰なのかは、何となく解る。姉が感情的になって、その男を解雇したらしいことも。だが、その前後が解らない。思いながら、エドアルドは答えを待った。アデレードは憤慨も甚だしく、声を大きくして言った。

「サヴォイアの養子になるのには、私との結婚が条件だから、どうしてもしてもらわなきゃ困る、それで自分は貴女に近付いた、なんて、いけしゃあしゃあと!ああもう、腹が立つ!」

「……ごめん、やっぱり、話が良く解らないんだけど……」

これは「彼女の恋が破れた」という解釈で、いいのだろうか。それにしてはあまりに力強い様子に、エドアルドは辟易する。しかしそれも束の間だった。エドアルドは笑い出し、アデレードはそれに気付いて、彼を鋭く睨みつける。

「何、エド、その顔は」

「いや……姉さんらしいと思って」

「それは一体、どういう意味なのかしら?」

凄みを利かせた顔で、アデレードがエドアルドに詰め寄る。エドアルドは笑ったまま、

「焔の様だ、そういうことですよ、姉上」

「それは、褒められているのかしら?それとも、ばかにされているのかしら?」

「勿論、褒めているんですよ。貴女の様な人は、きっとこの国広しと言えども、そんなに多くはいませんよ」

満面の笑顔の弟の言葉に、アデレードは無言だった。が、納得していないらしい。その、焔の様な姉の様子に、またエドアルドは少し笑った。

「若様、お嬢様!」

慌てた様子のメイドの声がしたのは、その時だった。何気なく、二人は声へと視線を投げる。年若いメイドが、息せき切って欠けてくる。慌てた様子に、アデレードが問いかけた。

「何、ルカ、そんなに慌てて。どうかしたの?」

駆け込んだメイドは二人の側までやって来ると、その胸を押さえて、息も絶え絶えに言った。

「す、ストラーリからたった今、連絡があって……エリザベッタ様が、危篤で……危険な状態だと!」

 

その日の夜、エリザベッタはそのまま息を引き取った。毒物を故意に飲んだらしいと彼が聞いたのは、駆けつけた先の病院で、それを語ったのは、彼らの父親だった。葬儀は近親者のみで行なわれ、彼女の遺骸はボカロジア本家の墓地に埋葬された。旧貴族の血を汲む、大資産家の執り行うにしては余りにも質素な葬儀の後、エドアルドはルクレチアと、彼女達の暮らしていたアパルトメントにいた。慌しい葬儀の間中、ルクレチアは一人取り残されるように、ぽつんと座っていた。今も、何が起こったのかさえ解らないように、ぼんやりとしている。

「ルゥ……」

「……母さま……いなくなっちゃった……」

誰もいない、女主人の部屋を眺めながら、ルクレチアがぽつりと言った。その背中を見ながら、エドアルドは眉をしかめる。

「ルクレチア……」

「母さま……私をおいて……死んじゃった……もう、戻って、こない……」

言葉か途切れると、ルクレチアはそこに崩れる。そのまま座り込んだルクレチアを見下ろして、エドアルドは動けずにいた。座り込んだルクレチアはどこか冷たい目で、その部屋を見回した。そしてまた、冷めた口調で言葉を紡ぐ。

「昔から……何だか変わった人だなぁって……きっと余所の子のお母さんとは、違うんだろうなぁって、思ってた……私の母さまなのに……私より、子供みたいだったし……綺麗な手をしているのに、何にも出来なくて……」

「ルクレチア……」

「でも、こんなのって、ない……勝手に、死んじゃうなんて……酷い……」

言いながら、ルクレチアは顔を覆って泣き出す。歩み寄ってしゃがむと、エドアルドはその背中を抱きしめる。

「私をおいて、勝手に死んじゃった……私が、死のうと思った時には、生きていて良かったって、言ったくせに……」

体を震わせて、ルクレチアが慟哭する。何も言えずに、エドアルドは彼女をただ抱きしめる。

「母さま……母さま……母さま……」

その臨終の間際にも、そして葬儀の間にも、彼女が泣く事はなかった。堪えているのでも、悲しんでいないのでもない。泣くことができなかったのだろう。目の前で過ぎ去る総てが、余りにも衝撃的で、そして余りのスピードで、何が起きているのか、把握する事さえできていなかったのかもしれない。

「どうして……どうしてよ……どうして私をおいて、勝手に死んだりするの……大事だって、言ってたのに……たった一人の、大事な娘だって……なのにどうして……」

腕の中で暴れるように泣きじゃくるその姿に、エドアルドは無言で眉をしかめる。

叔母は何故、死んでしまったのだろう。思って、エドアルドは小さく嘆息する。思い当たる節が、ない訳でもない。彼女は自分を罪深いと言っていた。その罪の余りの深さに、今までにも幾度も、自殺未遂も繰り返していた。あの手に追った傷さえも、その証だった。あの時にも、言っていた。自分は余りにも罪深い、幼い日、毒の実を誤って食べてしまったその時に、死んでしまえば良かった、と。

生きることさえ許されない罪とは、どれほどのものなのだろう。何者にも、許されなくとも構わない、彼女はそうも言っていた、その筈なのに。彼女はその罪の重さに、耐えられなかったのだろうか。自分自身の過ちを、それほどまでに悔やんでいたのだろうか。思いながら、エドアルドは腕の中のルクレチアを見る。ルクレチアは泣きながら、幾度も繰り返し、もうどこにも存在しない母親を呼び続けている。

「母さま、母さまっ……母さま……」

「ルゥ……ルクレチア……」

慰めの言葉など見付からない。ただ名前を呼ぶだけだ。

葬儀の時、父親が言っていた。どうしてそこまで、自分を責めたのか。こうしてやっと手元に戻す事ができたのに、何故死んでしまったのか、と。人の死は、近しい人間に、余りにも大きな衝撃を与える。その命が失われることで、どれだけの人間が哀しみに揺さぶられることになるのだろう。嘆き叫んで、その命さえ消耗させてしまう事もある。ルクレチアがそうだ。このまま泣き続けたら、その細く小さな体は、一体どうなってしまうのだろう。涙と一緒に命さえ、流れ去ってしまわないだろうか。哀しみのあまり、彼女も自らその命を、絶ってしまわないだろうか。不安にかられて、エドアルドはその顔を覗き込む。ルクレチアは体を震わせて、エドアルドの胸に抱きついている。背中を撫でて、エドアルドはそっと言った。

「ルゥ……大丈夫かい?」

「……うん」

呼びかけに、ルクレチアが顔を上げる。彼はその額を撫でて、ぎこちなくはあるが優しく、彼女に笑いかける。

「母さま……どうして死んでしまったのかしら……私がこんな風に哀しむって……解らなかったのかしら……」

「……どうかな」

答えられず、エドアルドはそう言って黙り込む。あの人は、それを思わなかったのだろうか。自分が死ぬ事によって、彼女自身が愛した人達が、どれだけ嘆き哀しむのか、どれほど苦しむのかを。けれどそれは、考えても解る事ではない。総ては、死んでしまった彼女の胸の内にある。今更、問いただす事も叶わない。不安げに、ルクレチアがエドアルドの顔を覗く。気付いて、エドアルドはそんな彼女に笑いかけた。

「何だい、ルゥ」

「兄さまは……私をおいて、死んだり、しない?」

脅えた捨て犬のような目で、ルクレチアがエドアルドを見上げている。エドアルドは声もなく笑う。そして、

「俺は、君を置いて一人でなんて、死なないよ。俺が言ったことを忘れたのかい?ルゥ」

問い返されて、ルクレチアは目を伏せる。その髪を撫でて、エドアルドはまた、小さく笑う。

「叔母上にも、約束したんだ。ずっと君の側にいる、一生守るって。それとも……俺の言うことが、信用できない?」

ルクレチアは俯いたまま、答えようとしない。その体を抱いたまま、エドアルドはただ笑っていた。

例え、何ものに許されなくても。この腕の中にいる愛しい人を、失いたくはない。手に入れるよりずっと前から、手に入れられるとは思っていなかった。叶わないはずの思いが、叶えられたのだ。どうして手放す事ができるだろう。

側にいて、一生離れずにいられるのなら、命の他の総てを捨てても構わない。時にその感情は、激しさの余りに、愛しいその誰かを傷付けてしまう。けれどそれでも、離れられない。死んでしまった叔母も、きっと自分と変わらないのだろう。その激しい胸の内ゆえに、重い罪を犯したと言っていた。実の兄を世界と等しいと思うほどに愛し、その為に、その意識から逃れられなかった。だから死を選んだのだ。いつか誤って食べた毒の実を、再び口に含んで。

いつか自分も、もしかしたら彼女も、そんな思いに苛まれるのだろうか。互いを愛しいと思うそのことさえ、罪なのだと思う日が、やってくるのだろうか。考えるだけで、眩暈さえ覚える。それでも愛しいのだと、例え血を分けた兄妹だったとしても、離れられないのだと、そう言ったなら、愛しい人は、許してくれるだろうか。それが禁忌でも、重い罪であっても。

「ルクレチア……君が、大好きだよ」

目を閉じて、嘆息するように、エドアルドは言葉を紡ぐ。ルクレチアはそっと目を上げて、そこで初めて小さく笑った。その頬を彼の胸に摺り寄せて、甘えるように言葉を返す。

「私も。兄さまのことが、大好き」

「……名前を呼んでよ、ルゥ……俺は君の……」

続く言葉は、口に出来なかった。誰もが恐れたのは、その事実だ。そして叔母は、それを彼女に話す事なく逝ってしまった。

それを知ったら、この腕の中にいる彼女は、どうするのだろう。いつかの自分のように、離れていこうとするのか。共にいられなければ生きていけないと嘆きながら、それでも罪深い事なのだと悔やんで、遠くに逃れようとするだろうか。それを隠したままでいることは、罪深い事なのだろうか。このまま彼女をずっと欺く事は、彼女への裏切りになるのだろうか。思いながら、エドアルドは額が痛むほど、眉をしかめる。

こんなにも愛している。手に入れて、体を重ねて、これほどの幸福はないと知った。父も、同じだったのだろうか。その妹を愛して、腕に抱いたその時、彼も同じ様に、幸福だったのだろうか。

「愛しているわ、私の、チェーザレ」

囁くように、腕の中でルクレチアが言葉を紡ぐ。眉をしかめたまま、エドアルドは笑った。

これが罪でも構わない。何者が許さなくとも、誰にも許されなくても、彼女にさえ詰られても構わない。神に背いても、いや、そんなものに許されたいとさえ、思わない。

神たる者は知らないのだ。人を愛する幸福も、それを得たいと思う欲求の激しさも、愛しながらも傷つけてしまう、その苦しさも。知っているのなら、それを咎められるはずがない。それとも、知りうるからこそ、禁じられるのか。この引き裂かれんばかりの、胸の苦しさを。思いながら、エドアルドは笑う。愛おしさで、神は胸など焼かない。生きとし生ける総てを平等に愛する、絶対の存在は、それ故に誰も救わない。けれど自分は違う。肉の体を持った、血の流れる、矮小な人間だ。そして彼女を愛している。この世界の誰よりも、何よりも。

一度手に入れれば、それを失うことは出来ない。満たされても、次の瞬間から失うことに脅える。失っては生きていけないと思いながら、近くにあることで、不幸にするかもしれないと不安になる。彼女を愛している。誰よりも、何よりも。例え世界の総てを敵に回しても、きっとそれは変わらない。それがどんなに重い罪でも、その罪を、愛しい誰かに背負わせる事になっても、この気持ちは止まらない。もし愛してくれると言うなら、それさえ分かち合って欲しい。命の果てるまで、自分の側で、ずっと。

「ルクレチア……愛してる……」

囁く声は、甘く響いた。ルクレチアは笑いながら、言葉もなくその頬に口付ける。柔らかなキスに、エドアルドは笑みをこぼした。そして言葉もなく、唇を求める。

 

例えば、得られないのなら、貴方を殺してしまいたい。

誰の目にも触れず、誰の声も聞こえない、暗闇の中に閉じ込めてしまいたい。

例えば、愛する事さえ叶わないなら、死んでしまいたい。

思うことさえ罪深いと言うなら、殺して欲しい。

愛おしい誰かの手に掛けられるなら、それ以上の幸福もない。

愛しい貴方を得られないなら、それを飲んで死んでしまおう。

貴方を、愛しているから。

 

 

 

 

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Last updated: 2008/12/28

 

 

 

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