カンタレラ

 

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眠っていたのだろうか。思って、エドアルドが目を開けると、見えたのは不安げな、ルクレチアの顔だった。頭が痛い。思いながら、エドアルドが体を起こそうとする。

「兄さま、大丈夫?」

「ルゥ……俺は、何を……」

「母さまのお部屋から、出てきたと思ったら、急に倒れて……」

起き上がると同時に、抱きしめられる。何が起こっているのか把握できないままに、自分を抱いたルクレチアが泣き出して、ぼんやりしたままでエドアルドは言った。

「ルゥ……どうしたんだい?泣いたりして……」

「だって、兄さまが、急に倒れたりするから……気がついて、良かった……」

すんすんと、すぐ近くで彼女が鼻をすするその音が聞こえる。思わず笑って、エドアルドは抱きつく彼女の髪を、そっと撫でた。

「有り難う、ルゥ……心配させて、ごめんよ……」

ルクレチアが、彼を抱いていた腕を緩める。顔が見えると、エドアルドはその頬に手を伸ばし、そっと触れた。瞳からこぼれた涙で、指先が濡れる。また、泣かせてしまった。もしかしたらこの子は、自分といるとずっと、こんな風に泣いているのかもしれない。何気に思って、エドアルドはその手を下ろす。ルクレチアは少し笑って、

「兄さま、昨夜ちゃんと、眠っていないんでしょ?そんな風だから、貧血を起こしたのよ」

「貧血……俺が?」

「そうよ。汗びっしょりで……目の前が真っ暗にならなかった?」

どこか得意げにルクレチア問いかける。エドアルドは我に返って、そうか、と小さく呟いた。考えてみれば、昨夜は帰りも遅かったし、眠るというほどに眠れてもいなかった。それで自分は疲れて、倒れたのか。凡そ若者らしくない事だが、その事に彼は納得していた。ルクレチアは笑いながら、

「何か食べる?兄さま。お腹はすいていない?」

「……特には」

「そう。じゃ、お茶でも飲む?」

「……うん」

自分を労わる、と言うより、自分自身が楽しんでいる様子で、ルクレチアが問いかける。曖昧に答えて、エドアルドは楽しげなルクレチアを見て、僅かに笑った。ベッドにいる自分から、ルクレチアが離れる。見送って、姿が消えると、エドアルドはその場で嘆息した。

倒れる寸前の事は、よく覚えていない。だがその前に聞いた総ては、彼の頭に焼き付いていた。姉の母親である女性の出自と、父と叔母との関係。思い出せばまた、眩暈を覚える。

父、モントリーヴォは自身の父親に逆らうために、異母妹である女性を利用しようとしていた。彼女は子供を身篭って、一度はグラローニを、いや、ボカロジアから去った。叔母、エリザベッタは彼女を兄の妻にと願い、その時にも、自殺しようとしたらしい。自分がいなければ、自分さえいなくなれば、と。今その手に負っている傷も、そのためにつけたのだと言っていた。手首を切るくらいでは死なないと言われた、そう言った彼女には、死の気配は感じられなかった。いや、それが余りにも近くにあるせいで、彼女はもう、それを恐れていないのだろうか。自分が死ねば、兄が苦しむ事はもうなくなる、そうも言っていた。いなくなりさえすれば、彼は自由になれる。どういう意味なのだろう。解らない、というよりも、理解する事を、頭だけではなく全身で拒んでいる。そんな気がして、エドアルドはその身を震わせた。

彼女は言った。実の兄である男を、愛していると。それが、誰にも許されない、罪深い事だ、とも。その為に彼が苦しんでいる、とも。正気の沙汰とは思えなかった。両親を同じくする兄妹でありながら、男と女として、互いに愛し合う、などと。けれどもし、そうだとするなら、あの時の老女中の言葉も頷ける。二人は兄妹なのだ。あってはならない事だ。例えどんな理由があろうとも、犯してはならない禁忌だ。

同時に叔母は言っていた。それは呪いの様なものだと。

ボカロジアの家の人間は、血を同じくする相手しか、愛せない。けれどそうだと言うなら、自分はまだ幸せなのだろう。ルクレチアは従妹だ。親族ではあるが法的にも、婚姻は許されている。そう、従兄妹同士であるなら。

思って、エドアルドは一人、その場所で背筋を凍えさせる。

叔母は、父を愛していると言った。世界の総てに等しい、彼が存在しなければ、生きる理由もない、とさえも。彼女ほど相手を愛しているのなら、体を重ねる事も望んでいるに違いない。いや、例え禁じられて、罪深い事だと諭されても、それを厭わないに違いない。

人は余りにも欲の深い生き物だ。求めて、それが叶うと知れば、その欲は更に深く、強くなる。自分の中に住む、その余りにも大きな力に、抗う事は叶うのだろうか。心を通わせるだけではなくて、時には相手の血肉を食らいたくなるほどの、その欲望を、封じて、忘れることなど、できるのだろうか。

自分には、無理だ。思うと、エドアルドの胸が軋んだ。三年前の夏の夜にも、そして、一ヶ月ほど前のあの夜にも、自分は抗えなかった。手を伸ばして、奪えるほどの近くにいて、細い声で彼女が自分を呼んだ時に、諦められない事を悟った。止まることができずに、心のままに、彼女を愛した。叔母は、きっとこんな自分よりも、もっと激しい感情を抱えているに違いない。でなければ、得られない渇望や、自分の罪の深さゆえに、自死など選びはしまい。命をかけられるほどの思いとは、どんなものだろう。命を懸けて愛するとは、どれほどの苦しみだろう。思い、エドアルドは小さく、愛おしい女の名を呼ぶ。

「ルクレチア……」

名を呼ぶだけで、涙がこみ上げる。失うとなったら、自分はどうなるだろう。叔母の様に、死を選ぶか、彼女にそれを迫るか。それとも、忘れて、生きられるだろうか。目を閉じて、彼はもう一度、その名を呼ぶ。

「ルクレチア……」

「……なあに、兄さま」

答える声が聞こえて、彼は顔を上げた。トレイに紅茶道具を乗せて、ルクレチアがこちに向って歩いてくる。テーブルにそれを置くと、彼女は躊躇う様子も見せず、彼のいるベッドに歩み寄った。そしてそのまま、彼のすぐ側に腰を下ろす。

「ルゥ……」

「なあに、兄さま……やっぱりまだ、気分が悪い?」

エドアルドの顔を覗き込んで、ルクレチアが尋ねる。頬が緩むのを感じながら、エドアルドはその手をルクレチアに伸ばした。目の前にいるこの人を、愛している。失ったら、生きてはいけない。けれどもし失うことになったら、それでも、生きていかなければならないなら、自分はどうするのだろう。諦めて、忘れられるのか。それとも、忘れられずに、狂うのだろうか。父を愛していると言った、叔母の様に。

「……兄さま?」

いつもするように、エドアルドがその髪を撫でる。不安げに、ルクレチアはそんな彼を見ていた。手は髪を捕まえて、それを口許に運ぶ。その先に口付けして、エドアルドはまた少し笑った。

「……兄さま?」

「ルクレチア……君が、大好きだよ」

「……うん」

「失いたくないんだ……ずっと、側にいたい……」

「……私もよ、兄さま」

「でも、俺は君を、幸せには出来ないかもしれない……」

答えを聞いて、言葉を返す。ルクレチアの表情が、強張った。驚きよりも、悲しみの色の強い目で、ルクレチアがエドアルドを見る。手にしていた金色の髪を離して、エドアルドは言った。

「俺は君を、不幸にするかもしれない……それでも、俺の側にいてくれる?君を傷付けて、酷い目に合わせて……もし君が逃げたくなっても、離さないかも知れない……」

愛しい、だからこそ、幸せを祈りたい。この愛おしい人が、永劫に幸いであれと、願いたい。けれどそれよりも、自分の抱えたこの感情の方が強かったなら、どうなるのだろう。どこへもやりたくない、誰にも奪われたくない、もしそうなってしまったら、きっと正気ではいられない。そうなったなら、どうしたらいいのだろう。彼女を愛している、傷付けたくはない。なのに。

「兄さま……母さまと、何か……」

恐る恐る、ルクレチアが問いかけようとする。エドアルドは苦笑して、どこか怯えた彼女の顔を覗く。

「……何でもないよ、ルゥ」

「でも……兄さま、苦しそうだわ」

「何でもない……何でもないよ」

言いながら、エドアルドは彼女を抱き寄せる。腕の中に納まって、ルクレチアは戸惑いながらも、その胸に寄りかかる。エドアルドは深く嘆息した。そして、その眉をしかめて言った。

「ルゥ……俺が好き?」

「……うん」

「ずっと俺と、いてくれる?何があっても……例え、誰にも許されなくても……」

「……うん。私、ずっと兄さまと一緒にいる。だって兄さまのこと、大好きだもの」

「……有り難う、ルクレチア」

無邪気に答える声に、エドアルドは眉を強くしかめる。何度も何度も繰り返し、思うことはただ一つだ。けれどそれで、もし彼女を不幸にするのなら、もうこれ以上はそれを、望むことは出来ない。腕の中に確かにあるその気配を抱きながら、エドアルドは絞り出すような声で、言葉を紡いだ。

「……ロッシの銀行の頭取に、十九歳になる娘がいるって……父さんに言われた」

唐突に始まったエドアルドの言葉に、ルクレチアは目を剥いた。腕の中で顔を上げて、彼女はそこにある、苦しげな彼の顔を見る。

「……兄さま?」

「姉さんの手がけていた事業が失敗して、かなりの打撃を受けたらしい……穴を埋めるのに、二千万近くかかるだろう、って……」

腕を緩めて、エドアルドは腕の中の彼女を見下ろす。怯えた目で、ルクレチアは何も言わず、じっと彼を見上げていた。これまでに何度もしたように、エドアルドがその髪を撫でる。しながら、言葉は続いた。

「ロミッツィは……君のお母さんを追い出したけれど……それでもまだ、ボカロジアとのつながりを持っていたいらしいんだ。もし出来たら、今度の事にも力を貸してくれるって」

「に……兄さま?」

「でも君が、家のために犠牲になる必要なんて、ないし……姉さんだって、そうだよ……今まで酷い目に合わされてきたんだ……こんなことで、邪魔をされたら……割に合わないよ」

腕から、ルクレチアの体が開放される。けれど今度はルクレチアが、その胸に抱きついた。そして、

「兄さま……何を言ってるの?ルゥやアデレード姉さまが、って……どういうこと?」

「俺は……君や姉さんに、そういう役目を負わせたくないんだ……家なんて、どうでもいい。でも……君を不幸には、したくない……」

いっそ殺してしまいたい。いや、この場で、彼女の手によって、殺されてしまいたい。裏切り者と罵られて、嫌われて、憎まれて、憎しみのあまりに、この胸を引き裂いて欲しい。一緒にいられないなら、生きている理由もない。思ってエドアルドはほんの少しだけ笑った。自分も、叔母と同じだ。もしかしたら父も、こんな風に思っているのかもしれない。失えば、生きる理由も無くなるほどに、愛している。命と等価値、いや、それ以上だ。

「いや……そんなのいや!だって今、兄さま、言ってくれたじゃない!ルゥとずっと一緒にいたいって。大好きだって、愛してるって。私を、どこにもやらないって……あの時にも、何度も、言ってくれたじゃない……」

エドアルドにしがみ付いて、ルクレチアが叫ぶように言う。ぼんやりとした顔で聞きながら、エドアルドはその胸で震える彼女を、ただ感じていた。

「チェーザレ……私を、どこへもやらないで……離れるって言うなら、今ここで、私を殺して……」

言葉が、胸に突き刺さる。この子も、そんなことを考えるようになったのか。それとも、ずっと前からこんなにも、強く激しく、自分を思っていてくれたのか。思いながら、エドアルドはその目を閉じる。吐き出す吐息が重い。目頭が熱くなる。泣きたくなる様な胸の痛みが、なのにどこか、心地好く感じる。彼女を愛している。きっと忘れられない。失っては生きていけない。それでも、不幸には出来ない。

「ルクレチア……」

「お願い……私の側にいて……他の誰にも、触らないで……貴方の他には何にもいらない……貴方がいないこと以上に、辛いことなんて在り得ない……私を、離さないで……もし離れるなら……今ここで、殺して……」

細く、それでも力強い、懇願の声がする。それをどこか遠くに聞きながら、エドアルドはただぼんやりと、そこに座っていた。胸が、ルクレチアの涙で暖かく濡れる。泣かせている理由は解っていた。けれど、泣いてくれることが、嬉しい。どうしてだろう。どうしてこんな風に、この子のことを思うのだろう。手に入らないと解っていたはずなのに、どうして自分は彼女を得たいと、願ってしまったのだろう。それが不幸の始まりなのだと、知っていたはずなのに。

「チェーザレ……お願い、私を今ここで……」

「……酷いな、君は……俺にそんなこと、出来ないって、解ってるくせに……」

「だったら、ずっと私と一緒にいて。誰のところにも行かないで……他の誰にも、触らないで……」

ルクレチアの肩が震えているのが見る。力の入らない腕で、エドアルドは彼女をそっと抱きしめる。

どうしたら、今ここで泣いている彼女を、泣き止ませられるだろう。どうしたら、今抱いている愛しい人を、不幸にしなくてすむのだろう。そんなことばかりが頭を巡る。けれど答えは見つからない。

もうどこにも、行きようがないのかもしれない。逃れられない袋小路に迷い込んで、出来る事は、世界の終わりを待つ、それだけなのかもしれない。離さないで、と彼女は願った。どこにも行かないで、自分以外の誰にも触れないで、と。出来ることなら、彼女の望みの総てを叶えたい。天に輝く星を取って来いと言うなら、空さえ翔けてみせよう。そう思いはするものの、自分は余りに無力だ。ここでこうして、泣きじゃくる彼女を受け止める、それだけしかできない。

「ルクレチア……」

その名を何度も呼ぶ。繰り返し、呪文の様に。時に愛おしく、時に冷たく、時に狂おしく。そしてその度に、胸に締め付けられるような苦しさを感じる。愛しているとは、そういうことか。喜びよりも、痛みや哀しみの方が、余りにも大きすぎる。一度手に入れたなら、その瞬間から失うことに怯え始める。失う痛みを恐れて、身動き一つ取れなくなってしまう。だから自分は、彼女を、求めるべきではなかったのだ。こうやって、崩壊が始まる事を知っていたのだから。何もかもが壊れてしまう。そして、何もかもを、失ってしまう。それは愛すればこそ、愛故に、だ。

「……ルクレチア」

名を呼んで、エドアルドはその腕を解いた。怯えた目で、ルクレチアが間近にある、彼の顔を見上げる。エドアルドは顔を背けて、小さく笑った。そして、笑いながら言葉を紡いだ。

「ごめんよ、ルゥ……それでも俺は、君をこれ以上、不幸にしたくないんだ」

「……チェーザレ……」

言葉の意味するところを、ルクレチアは感じていた。エドアルドは、自分を見ないまま笑っている。何がおかしいのだろう。この人は、何を笑っているのだろう。思いながら、その答えも知っている気がして、ルクレチアは眉をしかめる。

この人が、ずっと大好きだった。今も勿論、きっとこれからも、こんなに愛しく思える人は現れないだろう。その人に愛していると言われて、求められて、側にいられて、どんなに嬉しかった事だろう。愛し合って、体を重ねて、朝を迎えることが恥ずかしくもあったけれど、それでも、その喜びを分かち合えて、どれほど幸せだっただろう。

それなのにこの人は、自分を傷付けると言って、今、自分の側から離れようとしている。ついさっき、離さないと言ってくれた声が、その口が、今度は別れを告げようとしている。今までの、総てを忘れろ、と。そんなことが出来るはずもないのに。だってこんなにも、大好きなのに。思って、ルクレチアは目を伏せる。涙は止め処なく溢れて、哀しみに肩が震える。

「……殺して」

ルクレチアの口から、そんな言葉が漏れた。

「今すぐ、ここで……死んでしまいたい……」

ルクレチアが顔を上げる。目があって、エドアルドは息を飲む。

「ルゥ……」

「貴方を失うくらいなら……生きてはいけない……今ここで、殺して……」

涙に濡れる目は、真直ぐ彼を見詰めていた。哀しげで、だというのに力強い視線を向けられて、エドアルドは言葉を失う。

「だってルゥには……もう生きていく、意味もないもの……兄さまがいてくれなきゃ、これから、生きていたって仕方ないもの……だから今すぐ、ここで……私を抱いて、一緒に死んで、チェーザレ……」

ルクレチアが、再び彼の胸に身を投げる。取りすがるように抱きつかれて、エドアルドは動けない。その声は、今までに聞いたことがないほどに、熱に浮かされたように、どこかうっとりとしていた。ぞくぞくするものが、背中を駆け上がる。眩暈に似た感覚に、彼はその息が乱れるのを感じた。

「……ルクレチア」

心の奥底から、熱いうねりのようなものがせり上がってくる。それは体を強く揺さぶった。彼女を愛している。叶うことなら永遠に、側にいたい。そして願う事の総てを、叶えてやりたい。もしかしたら今なら、自分はそれを叶えられるのかもしれない。思うと同時に、エドアルドの胸が強くきしんだ。心臓がどくどくと高鳴る。そうだ、もう死んでしまいたいと、自分の手にかかって殺されたいと、この子が願うなら、それを叶えてやればいい。自分もそれを思わなかったわけではない。ならば。

「……一緒に、死んでくれるかい?ルクレチア……」

囁く声が、甘い。それは口付けをねだる時と変わらない気がして、エドアルドはまた微かに笑った。ルクレチアが目を上げる。一瞬驚きを映した瞳は、けれどすぐに、満足げな光を浮かべた。うっとりとした声で、ルクレチアが返す。

「……いいわ。兄さまがそう言ってくれるなら……抱かれるのと同じくらいに、嬉しい」

目の前にあるのは、笑う女の顔だった。愛していると囁いた後に、満足げに、嬉しいと答える時と同じ、穏やかで満ち足りた表情だ。手をそっと伸ばして、その額に触れる。ルクレチアはくすくすと笑って、そのまま、目を閉じた。

「愛してるわ、チェーザレ……だから今、ここで殺して……」

何も言わずに、エドアルドはその顔を両手で包む。口付けの雨をその顔に降らせて、それから彼も、同じ様に呟いた。

「愛してる、ルクレチア……愛してるよ……」

 

ぼんやりと、エドアルドはそこに座っていた。日はすでに西の空に落ちている。振り返ると、年若いメイドが不安げな目でこちらを見ていた。室内は明るく照らされている。窓の外に見えるのは、夕闇に包まれた広い庭だった。どうして今自分は、こんな所にいるのだろう。ぐったりと疲れた体で、それでも横になる事も叶わず、彼は自室で、何をするでもなく、ただ椅子に腰掛けていた。テーブルの上には食べるものと紅茶道具が置かれたまま、放置されていた。手はつけられていない。何かを口にできるような状態ではなかった。咽喉が渇いた気もするが、ならばいっそ、乾ききってしまえばいいとさえ、思える。

叔母のアパルトメントで貧血を起こして倒れ、ルクレチアに介抱されていた。それは覚えている。後のことは、本当に自分の記憶なのかどうかも、解らない。何かしばらく話をして、その後、彼はその胸に体を預けていた彼女の首に手をかけた。差し出されたのだ、締めるように、と。いや、動脈を切った方が確実だったか。しかしあの時、近くに刃物が見当たらなかった。だから締めたのだ。彼女は涙の浮かぶ瞳で、それでも笑っていた。まるで口付けを待つように。謝ったような気もするし、そうではなくて、幾度も繰り返した愛の言葉を、囁いた気もする。

その手の中で彼女の顔が、苦しみながら色を変えるのを見ていた。その体がぐったりと、力を失った時、その手を離して、何かを叫んだ。何と言ったのかは覚えていない。いや、言葉になど、ならなかったのかもしれない。それであの家のメイドが驚いて駆けて込んできたのだ。

それから、外で待っていたはずの運転手がすぐに駆けつけた。メイド達は混乱しながらも救急車を手配し、自分は、その様子を見届ける事も出来ずに、アパルトメントから引きずり出され、自宅に連れ戻された。だからあの子があの後、どうなったのかを知らない。死んでしまっただろうか。上手く、殺せたのだろうか。それとも、死ぬよりも酷い事になって、どこかの病院のベッドの中にいるだろうか。思うと、胸がぎりぎりと痛んだ。

殺して欲しいと言われて、それを叶えた瞬間に、まるで自分の命さえ奪われた気がした。当然だろう。彼女は自分にとって、命よりも大切な存在だった。どういう成り行きでこんなことになったのか、今となっては思い出せない。けれどさほど、嘆く事でもないのかもしれない。自分もすぐ、後を追うのだから。今はこうして監視をつけられているが、すぐにもその隙を突いて、この屋敷のどこかで死んでしまおう。彼女のいないこの世界になど、存在する理由はない。彼女をこの手で殺めて、生きていけるほど強くもない。他の誰にも触れないで、いっそ殺して。そう言った彼女の声が、今も耳の奥で谺している。だから殺した。だから、彼女の望みを叶えるためにも、死んでしまおう。思いながら、エドアルドは息をつく。そしてふと、思う。あの子はどんなに苦しかっただろう。どんなに辛かっただろう。自分は何と罪深いのだろう。ただ、愛し合いたかっただけなのに。共に生きたいと、そう思っただけなのに。思うと無意識に、眉がきつく歪められた。

本当は、手に掛けたくなどなかった。生涯、彼女だけを愛して、死ぬまで側にいたかった。近くに置いて、幸せにしたかった。その笑顔も泣き顔も、総てを手に入れて、ずっと見詰めていたかった。何故こんなことになってしまったのだろう。一体自分は、どこで間違ってしまったのだろう。いや、最初から何もかもが、間違っていたのかもしれない。彼女を愛してしまった、その時から。

「ルゥ……ルクレチア……」

小さく、囁くようにエドアルドはその名を呼んだ。もうこの手には二度と戻らない、愛しい人。こんなに愛しているのに、どうして自分は、彼女を守れなかったのだろう。こんなにも愛しいのに、何故殺すことが出来たのだろう。幾度も繰り返し思い続けていたことを、また繰り返し彼は思った。そしてまた、自分に言い聞かせる。すぐにも彼女の後を追うのだから、悔やむ事も哀しむ事もない、と。

扉を隔てた向こうから、室内に僅かな物音が聞こえる。目を上げると、メイドが慌てた様子でそちらに歩み寄った。僅かに開かれたその扉の向こうから、今度ははっきりと、声が聞こえる。

「エドに会わせてちょうだい。大丈夫よ、私なら」

生気に満ちた、同時に、苛立ちを纏う声は姉、アデレードのものだった。扉の向こうには中年のメイドがいるらしい。少し低い女の声が、それを制止しようとしている。

「姉さんを、部屋に入れて」

座ったままで、エドアルドはそちらに声を投げる。彼についていた若いメイドは困惑しながらも、扉の外にその旨を告げる。その後、二、三度のやり取りを経て、漸く扉は開かれた。足取り強く、普段より少々力強い様子で、アデレードが室内に足を踏み入れる。エドアルドは何故か笑って、そんな彼女を見遣った。

「やぁ、姉さん……ごきげんよう」

「……酷い顔をしているわね、エドアルド」

アデレードは彼の前にやってくると、嘆息しながら言った。力ない笑顔のまま、エドアルドはそんな彼女を見上げる。

「お願い、二人にして」

背後で狼狽する若いメイドに、顔も向けずにアデレードが言う。メイドはうろたえて、でも、と反論しかける。アデレードは苛立たしげに、赤茶色の短い髪を掻き毟り、

「私が見ているから。お願い、二人にして」

強い口調で、再びそう言い放つ。メイドは数秒、迷っているのか黙り込み、それから一礼すると、足早に、けれど静かに部屋を出て行った。力ないままの表情で、エドアルドはそれを見送る。二度目の嘆息と共に、アデレードは言った。

「ルゥは……命に別状はないそうよ。ただ物凄いショックで、しばらくは入院した方がいいだろう、って」

「……そう」

殺せなかったのか。言葉の直後、エドアルドは思いながら、深く息を吐き出した。アデレードは眉をひどくしかめ、俯いた弟に向って言った。

「エドアルド、お前は一体何をやらかしたのか、解っているの?」

「……姉さんも、聞いたんだろ?その通りの事をしたんだよ、きっと」

「……どうして、ルクレチアにあんな事を?」

問いかけの答えは、余りにもあいまいだった。アデレードは質問、というよりも詰問だろう。繰り返し尋ねると、エドアルドはかすかに笑った。

「エドアルド?」

「……あの時、姉さんに言われたことを、忘れた訳じゃなかったのに……どうして俺は、目に見えないものなんかに、振り回されたんだろう……」

独り言のようなその言葉に、アデレードは何も言わない。笑いながら、エドアルドは言葉を紡いだ。

「目に見えないのものなのに……俺には、他には何も確かなものがない、そんな気がした……こんなに確かに、あの子を愛しているんだって……そう思ってた」

「それでルクレチアを、どうして……」

「あの子を不幸にしたくなかった、だから……これで最後にしようと思った」

エドアルドが目を上げる。アデレードはその目を見返して、続く言葉を待った。

「今度の件の穴埋めに、父さんは俺と、ロッシの銀行の頭取の娘との、結婚話を勧めようとしてる。でなければルゥを、ロミッツィに行かせる気だ」

「……そうみたいね。でも、それは……」

「俺はね、姉さん。姉さんやあの子や叔母上を……あの人のために、これ以上振り回したくないんだ」

視線は、逸らされない。アデレードは息を飲んだ。力の抜け切った、抜け殻のようだというのに、エドアルドには強い何かが宿っているようだった。ふと、エドアルドが笑う。アデレードはその表情に、訝しげに眉を動かす。

「エド?」

「あの子は……そんなことになるくらいなら、ここで殺して欲しいって、そう言ったんだ……俺と離れては、生きていけないから……俺もそうだよ。あの子を失ったら、生きていけない……」

「……だから、ルクレチアに手をかけたの?自分も、死ぬ気で?」

彼がここに、監視つきで閉じ込められている理由は明らかだった。叔母のアパルトメントで、彼は自分も死のうとして暴れたらしい。使用人達に詰め寄って吐かせたのだから、間違いはないだろう。何か揉め事があってルクレチアの首を絞めた。見つかって暴れたので、無理やり、運転手が彼を屋敷に連れ戻した。部屋に閉じ込めておくのは簡単だが、何をするか解らない。だから部屋の中と外に一人ずつ、見張りをつけている。指示を出したのは、父親らしい。その父親は今、屋敷にはいない。ルクレチアが運ばれた、いつもの病院だ。

「エドアルド、私は言わなかったかしら?ルクレチアを傷つけたら、許さない、って」

普段どおりに高飛車に、アデレードの言葉が発せられる。エドアルドは苦笑して、

「そうだったね……覚えているよ」

「だったら、どうして……」

「それを言うなら、俺があの子を好きになるより前に言わなきゃ、意味がないよ、姉さん」

その返答に、アデレードは押し黙る。エドアルドは笑って、彼女から目を逸らした。

「叔母上に言われたよ……ボカロジアの人間は、血縁しか愛せないのかもしれない、って……姉さんのお母さんのことも、言ってた」

「私の……母さんのこと?」

「前にエレナに詰め寄ってたじゃないか。自分の母親は、死んだ祖父さんの隠し子じゃないのか、って」

言葉に、アデレードの表情が凍りつく。ちらりとそれを見て、エドアルドは肩をすくめた。

「エド……お前……」

「叔母上は……自分の兄貴を、世界そのものだって言ってたよ。失ったら、生きていけない、って。でも姉さんのお母さんの事は、大切に思ってたみたいだ。父さんに、他の女と一緒になるくらいなら、その人を選ぶようにって言ったそうだから……同じ妹なんだから、同じ様に、愛せる、って……」

アデレードの顔が青くなる。エドアルドは力なく、小さな声で笑った。そしてしながら、その額に手を当てて、更に言葉を続ける。

「姉さんは、俺を酷いと思う?今日叔母上に聞いたことを、姉さんが知らないことまで、洗いざらい全部話して……これじゃまるで八つ当たりだ。けど、黙っている事なんてできないよ……苦しいんだ。吐き出さないと……変わりに、血でも吐きそうだ……」

「……エドアルド……」

エドアルドの口から紡がれる言葉に、アデレードが息を飲む。構わず、彼は続けた。

「叔母上は……多分父さんもだ。俺とルクレチアが近くにいることを、恐れてる。自分達と同じ様にならないかって、そう思ってる……気がついた時にはとっくに手遅れになってるのに……だからかな。引き離すつもりだ」

あはは、あはは、と、奇妙に乾いた笑い声が室内に響く。アデレードは歩み寄って、すぐ近くから彼を見下ろした。眉がしかめられる。哀しげで苦しげな表情で、呟くようにアデレードは弟の名を呼んだ。

「エドアルド……」

「一つ、気がついたんだ」

エドアルドは言って、顔を上げた。笑ってもいない、怒ってもいない、静かで落ち着いた表情が見える。アデレードは黙って、続く彼の言葉を待った。

「どうしてあの子が「ルクレチア」なんだろうって……俺の二つ目の名前は、父さんがつけたんだろ?祖父さんのものを。父さんはよっぽど、祖父さんが嫌いだったんだな……」

エドアルドは、笑うのをやめた。そして、

「ルゥの名前は……何か意味があるのかな……あるとしたら、それは……」

言葉は、途切れる。けれど予測は出来た。息を詰まらせて、アデレードは慄く声で、呟く。

「……まさか、あの子は……」

「俺達は従兄妹同士だ、って、叔母上は言ってたよ……でもあの人は、多分、自分の兄貴が……」

言葉は、そこで途切れた。アデレードは驚愕の表情で、その額に脂汗を浮かべる。エドアルドはどこか冷たい目でそんな彼女を見て、それから少し笑った。

「エド……」

「俺は愚かだ……余りにも浅はかで、どうしようもないよ……解りきってた事だ。あの子をどんなに愛しても、求めても、得られないことなんて。なのに、自分の気持ちに逆らえなかった……だからこれは、報いなんだ」

「そんな……そんなことは……」

アデレードの声が、僅かに震えている。怯えているのだろうか。でも何に?思いながら、エドアルドは言葉を続ける。

「許されるなら、何でもする、どんな罰でも受ける。でも……俺達を許すものなんて、どこにもいないし、いなくても構わない……あの子が殺してくれというなら、俺は何度でもあの子を手に掛けるし、死ねと言われれば、今すぐにでも……」

「……それ以上、ばかな事を言うのはやめなさい」

その声から、震えが消える。アデレードは再び強い視線を取り戻し、エドアルドの襟首を両手で捕まえる。

「姉さん……」

「……もういいわ、エドアルド。お前の気持ちは、良く解ったから……でも、それ以上ばかな事を言うのはやめなさい。言ったでしょう?ルクレチアを傷つけたら、私が許さない、って」

「もう遅いよ……姉さん……」

エドアルドの視線が逸らされる。その襟首を締め上げるようにして、更にアデレードは言った。

「許されるなら何でもするって、今言ったでしょう?私は、あんな事をしたお前を、簡単には許さないわ。私に許されたかったら、ばかなことを考えるのはやめて、もっと物事を前向きに考えなさい。ルクレチアにしてもそうよ。許して欲しいのは、私でも他の何者でもなくて、あの子でしょう?お前が悔やんでいるのは、あの子を哀しませたこと、ただそれだけでしょう?」

掴まれた襟首ががくがくと揺さぶられる。聞きながら、エドアルドはその通りだと、胸の中で思った。

彼女を愛している。誰に許されなくとも。けれどそれでも、自分は余りにも酷く、彼女を傷付けてしまった。愛しているのに、いや、それ故に。近くにいればこの先も、きっともっと深く傷付ける。それでも、誰よりも側にいたい。手放しては生きていけない。だから自分の総てを、彼女に許して欲しい。二度と傷付けないと、確かな約束は出来ない。それでも、こうして愛している事を、許されたい。他の何者でもない、彼女に。神が例え二人を罰しても、引き裂こうとしても、愛しいと思うことすら許さなくとも、彼女にだけは許されたい。そして、愛して欲しい。名前を呼んで、側にいて欲しい。触れることを許して欲しい。抱きしめ合って、そのぬくもりを感じていたい。命が尽きるその時まで、ずっと。

「姉さん……」

我に返ったかのように、エドアルドの目に生気が戻る。アデレードは軽く笑って、彼の首元からその手を離した。

「ルクレチアに許されたいなら……生きて、その身で償いなさい。死のうだなんてばかな事は考えないで、あの子の為だけに、一生生きなさい。例え許してくれなくても……お前はそうするべきよ。それが愛しているって事でしょう?」

言葉の後、アデレードが深く呼吸する。そして何か思案するように少し黙ると、額に手を当てながら、彼から視線を逸らした。

「……しばらく、留守にするわ」

「姉さん?」

唐突な言葉に、エドアルドは目をしばたたかせる。アデレードはどこか不敵に笑って、

「今度の事は、元はと言えば私の失態よ。まさかここまで傷口が広がるとはね。お父さまは私のこの窮状を救ってくれるつもりらしいけど、正直言ってあの人にそれをされるのはごめんだわ。それでその余波が、お前やルゥにまで及ぶのもね」

額に当てた手で、アデレードは髪をかき上げる。何かするつもりなのか。思いながら、エドアルドはアデレードに尋ねる。

「姉さん……何をするつもりなんだい?」

「言っておくけど、これは私が撒いた種で、私はそれを収拾しに行くのよ。お前の我侭のせいで、私が割りを食う訳じゃないわ」

それは半ば、彼女が彼女自身に言い聞かせているような言葉だった。わけが解らず、エドアルドは狼狽する。そんな弟を見て、アデレードはまた笑った。

「いい?お前は生きて、ルクレチアを幸せにするの。誰が何と言っても。この先何が起こっても、それだけを必ずやり遂げなさい」

「……何だか、遺言みたいだな……」

エドアルドは言いながら、僅かに笑った。アデレードはその言葉に目をしばたたかせ、それから苦笑すると、

「あら、そんなつもりじゃないんだけど……でもそんな風に聞こえるなら、尚更、ちゃんと約束して、守ってもらわなきゃ。お前は生きて……」

「ルゥを守る。一生あの子を愛し抜く。誓うよ」

力強く、エドアルドが返す。アデレードはその言葉に満足げに笑うと、その身を軽く翻す。エドアルドはその背中に、どこか不安げに問いかけた。

「姉さん……一体、何をする気?」

「『白騎士』に会いに行って来るわ」

問いかけに、背を向けたままでさらりとアデレードは答える。エドアルドは目を丸くさせ、

「『白騎士』?」

「最も、そんな呼び方をされるほど、相手は清廉潔白でもなければ、聖人君子でもないようだけど。一週間もしないうちに戻るから、いい?約束を、ちゃんと守るのよ?」

扉に向ってアデレードは歩き出す。その手前で振り返った彼女は、どこか楽しげに笑っていた。エドアルドはその笑みに苦笑し、

「解ったよ、姉さん。行ってらっしゃい」

そう言って彼女を送り出した。

 

高台の病院の離れは、資産家が所有するには小さめの別荘、という趣さえ持っていた。病室とは思えない贅沢な、しかし落ち着いたその部屋を中心に、幾つかの客間や、入院患者の世話をするために付き従う人間のための、控えの部屋、それとはまた別に客間までが添えられている。しかも離れは、医師や看護婦は本体の病棟からカートで移動しなければならないほどの距離すらある。元々はあまり大きくない宗教施設だったその場所を、ボカロジアが買い上げて病院にしたのは先代の頃だ。その妻の療養のためだけに、その離れは作られている。以来離れに入院する事が出来るのは、その血縁関係者で、施設の利用料の他にも多額の寄付が出来るレベルの資産家に限られていた。最も、規模は地方の一総合病院だ。使う人間はボカロジア以外にはいなかった。

「……ルクレチアの容態は?」

「今は、眠っていますわ。落ち着いたみたいよ」

その主たる病室に隣接する客間に、二人はいた。一人は入院患者の母親で、もう一人はその母親の兄だ。不安を隠しきれない兄に、妹は柔らかに笑いかける。その表情を見て、彼は言った。

「すまない、リザ……まさかあいつが、こんな真似を……」

モントリーヴォが頭を垂れる。エリザベッタは困ったように笑って、彼を責めるでもなく言った。

「お兄さま、エドが悪い訳じゃないわ。それに、あの子も命に別状はないし……そんな風に言わないで」

「しかし、リザ……」

「こんなとこになったのも、元はと言えば私達の罪……責められるのはむしろ、私ですもの」

エリザベッタは室内のソファに歩み寄り、疲れたように腰を下ろす。モントリーヴォは目で追って、その場に立ち尽くしていた。

「リザ」

「神は私達を許さない……最初から解っていたことよ。それなのに今、私達がいるのは……元は祈りの場だったなんて」

言葉と共に苦笑が漏れる。エリザベッタはそっと目を閉じた。ゆっくりとした足取りで、モントリーヴォが歩み寄る。

「私が生まれなければ……お母さまも、生きていたかもしれない。お兄さまは、そう思ったことはない?」

「……何を言い出すんだ、リザ」

「私がいなければ……フィオフィレーナももっと安らかに生きていられたかも知れない……貴方もそうよ、モントリーヴォ」

その目の前に立ち、モントリーヴォは彼女を見下ろす。どこかうっとりした声で、彼女はその名を呼ぶと、そっと目を開く。見上げる顔の、哀しくも厳しくも見える表情に、エリザベッタは瞳をゆがめた。

「あの子を……産むのではなかったわ」

「リザ」

「でなければ、こんな風に苦しめる事もなかった……貴方も、あの子も」

モントリーヴォが膝を折る。近づく顔に、彼女は笑いかける。

「それでも、貴方は私を愛してくれる?こんな風に、不幸を連れて来ることしか出来ないけれど……それでも」

「……あの時、私はお前を連れて、この家から逃げるべきだった」

真正面からその顔を見て、モントリーヴォが悔やむ様に言った。エリザベッタは笑っている。モントリーヴォの手が伸びて、その頬を捕まえた。優しく撫でる指の感触に、身をゆだねるように、エリザベッタは目を閉じる。

「お前を連れて……ボカロジアを、捨てるべきだった」

「お兄さまが悔やむことではないわ……私は、貴方に留まって欲しかったもの。小さなアデレードやエドアルドのためにも……フィオナのためにも」

「……なら何故、お前はあの時……」

彼女は子供を身篭った時、ここで死のうとした。隠し持っていた毒草の実を口に含もうとして、寸でのところで看護婦に見付かり、それを止められた。それを思い出して、エリザベッタは笑う。そして、

「貴方の罪は、私の罪。私とあの子がいなくなれば……貴方の罪も、一緒に消えるわ」

「……私にその後にも、一人で生きろと?」

「だって、一緒には連れて行けないわ。大好きな、お兄さま」

喘ぐような声が聞こえて、彼女は笑った。目を開けると、頬に触れていた手はそのままに、口付けが唇に下りる。触れ合うだけの接吻の後に、モントリーヴォは彼女を抱き寄せる。胸に寄りかかると、エリザベッタは無邪気な少女のように、くすくすと笑った。そして笑いながら、

「私は、狂っているのでしょうね……でなければこんな時に、嬉しくなんてならないはずよ」

「……それなら、私とて同じだよ、エリザベッタ」

「貴方は違うわ、モントリーヴォ。貴方はただ、優しすぎるだけ」

言葉に混じるのは、歓喜の吐息だった。たった一人の娘が殺されかけたその後に、その加害者の父親であり、自分の兄である男に、体を預ける事に、喜びを感じている。正気の沙汰ではない。まともな人間なら、二度と顔も見たくないと罵って、彼をここから追い出しているだろう。でも、自分にはそんなことは出来ない。もう二度と会わない、そんな別れになるのなら、それより先にその目の前で、死んでしまいたい。思いながら、エリザベッタはまた少し笑った。腕の中で笑う妹を見下ろして、モントリーヴォはその眉をしかめる。そして、いつも繰り返し思った疑問を、心の中で繰り返す。どうしてこの女が、妹なのだろう。どうしてこんなにも愛おしいのに、そんな大きな枷があるのだろう。ただ自分は、彼女を愛したい、それだけなのに。血を同じくした妹だという事で、何も許されないとは。

「お兄さま……」

うっとりとした声で、その声が自分を呼ぶ。いつ聞いても、それは彼の総てを震わせた。もし妻に出来る女だったら、その声を聞くたびに、自分はこんなにも慄き、怯えることなどなかっただろうか。こんな風に心を震わせて、求めたりもしなかっただろうか。人は、手に入らないものほど欲しがる。支配欲は本能だ。理性でそれに抗う事は、敵わない。ましてや、目の前の女が、愛してくれと望んだなら、何者に咎められても、抗う事など出来ない。けれどそれは、愛ではないだろう。相手を愛おしく思っているから、ではない。ただ、欲しいだけだ。

「……明日にも、ルクレチアに会わせてくれないか」

低く小さな声で、モントリーヴォが言う。エリザベッタは訝しげに瞬きして、

「それは……構わないけれど……」

「あれのしたことを、私からも謝罪しなければ……それに……」

言葉がにごって、そのまま途切れた。自分から視線を逸らす彼の表情に、エリザベッタは眉を軽くしかめる。

「モントリーヴォ……」

「いい方策だと、本当に思ったんだ……あの子とエドアルドを離してしまうには。モリエーロはあの子にとっては、故郷のようなところだろうし、全くの見ず知らずの男のところよりは、親しく行き来があった、あの男の息子なら、と……こんなことになるとは、予想もしていなかったよ」

どこか苦しげにも聞こえる声に、エリザベッタは笑って見せる。そして、

「ええ……解っています。お兄さまは、あの子のためを思ってくれたのよね。私達の……あの子のために……」

離れていくのを引き止める様に、エリザベッタが彼を抱き返す。互いに支えあうようにして、二人はしばらく無言だった。くすくすと、不意にエリザベッタは笑った。

「リザ?」

「あの時……私は本当に、嬉しかった……貴方が私を抱いてくれて……あの子を授かったその時に、笑ってくれて……」

けれどその喜びの代償は、あまりに大きすぎた。二人の父親は余りの事に嘆いて、生まれてきた彼女に戒めをこめて名付けた。「ルクレチア」と。それが二人の永遠の、罪の証だとでも言うように。どこにでもある、良く在る名前は、けれど一つのことを示唆している。それに誰かが気付いても、何もおかしくはない。

「……明日をすぎたら、しばらく会いにも来られないだろう」

唐突に、モントリーヴォが口を開く。無言で、エリザベッタは彼を見遣る。

「今度の事が片付くまでは、手が離せない。幾つか、手放さなければならない事業も出てくるだろう。ロミッツィに、してやられたよ」

モントリーヴォが苦笑する。不安げな目を閃かせ、エリザベッタは視線を彼から逸らす。その髪を撫でて、モントリーヴォは優しく言った。

「大丈夫だ……お前は、私が守る。もう二度と、どこへも行かせない。ルクレチアもだ。私がこの命に代えても、必ず守ってみせる……だから、待っていてくれ」

「お兄さま……」

「死ぬというなら……私を殺してからにしてくれ、エリザベッタ……愛してくれているというなら……お前の腕の中で、死なせてくれ」

そう言って、モントリーヴォはその額に口付ける。エリザベッタの瞳に、涙が浮かぶ。くしゃりとその顔をゆがませて、彼女は笑った。

「愛してるわ、お兄さま……私の、モントリーヴォ……」

目を閉じると、大きな手がその涙を拭った。肩を震わせて、彼女は声もなく、その体を抱きしめながら泣いた。


 

 

 

 

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Last updated: 2008/12/21

 

 

 

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