カンタレラ

 

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シャワーを浴びて身支度を整え、支度された朝食を済ませる。メイドはサーブの最中、ずっと笑っていた。昨夜は如何でしたか、と、年の近い、今では友人と言って差し支えない彼女の質問に、ルクレチアは上手く答えられなかった。世間の恋人同士は、みんなこんなものなのだろうか。そういうリラはどうなの、と、思わず聞き返してみたが、あっさり、私達はお嬢様と奥様のお世話で、忙しいですから、と嘯かれた。メイドにまで揶揄われている、と知ったらあの人は何というかしら。このメイドを叱ったりするのかしら。それで、やめさせろ、なんて言われたらどうしよう。こんな話が出来るくらい仲良くなったのに。それとも、一緒になって笑われるかしら。自分達の事なのに。思いを巡らせながら、ルクレチアはエドアルドが戻るのを待った。時計は八時を回っている。学校の始業時刻はとうに過ぎてしまった。どうしよう、遅れてもいいから、行った方がいいのかしら。それとも、母さまを迎えに行くのかな。でも、母さまはどこにいるのかしら。遠くだったら、どうやって行くのかしら。テーブルの上にひじを付く格好で、ルクレチアは溜め息をつく。

「お嬢様、どうなさいました?」

「ううん……何でも。兄さま、早く戻ってこないかな……」

「何だ、若様のことですか」

メイドはそう言って、そのテーブルを片付けながら笑う。ルクレチアはその態度に頬を膨らませるが、それ以上何も言わない。彼女達は彼女達で、こんな風にエドアルドのことばかり気にしているルクレチアが微笑ましいのだろう。時には揶揄いもするが、二人の事はどちらかというと歓迎しているらしかった。ニャー、と足元で子猫の声がする。ルクレチアは足元に視線を向けて、そこにいた子猫を抱き上げた。

「ごめんね、ジュリオ。今夜はお前も、自分のおうちで寝られるからね」

子猫は、飼い主の言っている意味が解るのか、抱かれたそのままでまた、ニャーと鳴いた。膝の上に下ろして、ルクレチアがその背中を撫でる。メイドはその様子にくすくすと笑うと、

「ジュリオはきっと、若様に妬いておいでなんですよ。こちらに来てからルクレチア様は、毎日「兄さま、兄さま」って仰っていますから」

「そ、そんなことないもん!」

「本当に、若様のことがお好きなんですね、お嬢様は」

言われて、ルクレチアは真っ赤になって口ごもる。が、ややもするとその口許を緩めて、

「うん……ちっちゃい頃から、ずっと好きだったの。優しくて、ハンサムで、頭も良くて、時々、意地悪だけど……だからね、ここに来るのがいつも楽しかったの。また兄さまに会える、って、それだけで」

言いながら、ルクレチアがはにかむ。メイドはその幸せそうな微笑を、どこか眩しそうな目で見ている。えへへ、と照れを隠すように笑って、ルクレチアは抱き上げた子猫を見下ろす。

「だからこの子も、ジュリオ、って名前をつけたの。兄さまとお揃い」

「お揃い、ですか?」

「うん。兄さまの二つ目の名前の人と、一緒なの」

その名を呼ぶのは、二人きりの時だけ。彼が年下の自分に、甘えてせがむその時だけ。思って、ルクレチアはまた赤面した。メイドは意味が良く解らないらしく、はぁ、と言って首をかしげている。ニャー、と子猫が鳴く。部屋の扉が何の前触れもなく開かれたのはその時だった。開閉音に二人が顔を上げる。ノックなしでこの部屋に入る人間は限られていた。屋敷の主か、この部屋の主だ。そこにエドアルドの顔を見つけて、ルクレチアは破顔した。

「兄さま!」

声が大きくなる。入ってきたばかりのエドアルドは、出て行った時とは裏腹の、険しい顔をしていた。酷く眉をしかめた、怒ったようなその表情に、ルクレチアの笑顔が消える。どうしたのだろう、何か良くないことでも起きたのだろうか。思って、ルクレチアは椅子から立ち上がる。膝の上から子猫が振り落とされる。構わず、ルクレチアはエドアルドに駆け寄った。

「どうしたの?兄さま……何か、良くない事でもあったの?」

飛び込んできたルクレチアの不安げな顔に、エドアルドは我に返った。それまで顰められていた眉間が、驚きと安堵で緩む。怯えまで見えるその大きな瞳に、エドアルドは薄く笑った。

「……何でもないよ、ルゥ。少し、父さんとケンカしてきたんだ」

「ケンカ……伯父さまと?」

真下に見えるルクレチアの顔を見ながら、普段通りにエドアルドが、その頭に手を置いた。苦笑しながらその髪を撫でる。

「……何か、言われたの?」

「少しね。でも俺も、色々言ってやったから」

不安を拭えないままのルクレチアに問われて、エドアルドは軽く答え、その側を離れる。歩き出す彼の後姿を、ルクレチアは見送った。テーブルの側のメイドがエドアルドの姿に一礼する。そのメイドに構わない、慣れた様子でエドアルドは言った。

「叔母上は、昼にもアパルトメントに戻るそうだよ。君はどうする?ルゥ」

「え?」

唐突と言えば唐突な言葉に、ルクレチアが戸惑う。エドアルドは振り返って苦笑すると、

「迎えに行く必要も、なくなったらしい……折角だから、デートでもしようか」

「でも、学校が……」

何だか少し、様子がおかしい。エドアルドの言葉に、ルクレチアは胸の中で呟く。普段と変わらないようで、彼の様子はどこかおかしかった。伯父とケンカしてきたせいだろうか。戸惑いながらも、尋ねることも出来ず、ルクレチアはまごつく。エドアルドはそれを迷いと取ったらしい。時計と、部屋にいるメイドとを見比べ、

「そうか、学校か……でも今から行っても、遅刻する、かな……」

「兄さま、あの……」

ルクレチアは何か言おうとして、言葉を詰まらせる。エドアルドは不思議そうに、そんな彼女に問い返す。

「何だい?ルゥ」

「あ……あの……ええっと……」

何があったのか、知りたい。聞いてもいいのだろうか。思いながら、躊躇いがちに、ルクレチアは言葉を探す。けれど上手く見つけられずに、その場でただ、まごつくばかりだ。エドアルドは変わらず、そんな彼女を見詰めていた。が、小さく笑うと、

「散歩でもしようか、ルゥ」

「……え?」

「屋敷に来るのも久し振りだし、帰ったら、今度いつゆっくり会えるかも、解らないだろ?」

言葉に、ルクレチアは驚く。くすくすとエドアルドは笑い、

「顔に書いてあるよ、兄さまともっと一緒にいたい、って」

「えっ……ええっ!」

「違うのかい?」

そこにいるのは、いつも自分を揶揄う彼だった。慌ててルクレチアはその頬を隠すように手で覆う。エドアルドはそんなルクレチアに歩み寄ると、いつも通りにその髪を撫でながら、

「俺では散歩のお相手は、不足ですか?セニョリータ」

ニヤニヤと笑う顔が見える。揶揄われた。自分は真剣に、心配しているのに。思って、ルクレチアは思わず声を荒げる。

「もう、兄さま!」

「ほら、どうするの?ルゥ。迷ってる時間はないよ?」

問いかけが重ねられる。ルクレチアは顔を真っ赤にしながらも、組むようにと彼が示したその腕に、抱きつくように自分の腕をからませる。

「……仕方ないから、今日は兄さまと一緒にいてあげる。わ、私は、別にいいんだから」

「それはそれは。光栄です、セニョリータ」

真っ赤な顔で言っても、全く説得力はない。エドアルドは傍らの少女の、少しだけ尖らせた唇を見ながら、また軽く笑った。少し離れた場所に控えているメイドも、その様子にくすくすと笑っている。また笑われた。でも、言われたことは半分は図星だ。この人の側にいたいのは事実だし、それに、伯父との間に一体何があったのか、聞けるものなら聞きたい。思いながら、ルクレチアは歩き出そうとする。エドアルドは少し慌てたその歩調につまずきながら、

「何だい、ルゥ。そんなに早く二人きりになりたいの?昨夜だって、ずっと一緒に……」

「お散歩に行くんでしょ?兄さま。こんな所につっ立っていないで、早く行きましょ」

エドアルドの言葉に強く返しながら、ルクレチアは更に歩みを進める。やれやれ、と息を吐きながら、エドアルドは引っ張られるようにその部屋を出た。

 

昼前の庭先は光に満ちている。とは言え、そこに夏の暑さはない。ここに来た頃には、早朝でなければ日中、まともに散歩も出来なかった。老女中が口喧しいのもそうだが、グラローニの夏は、元いたところよりも厳しい。大人しく日陰にいるように、と言われた理由は暑さだけではなく、体質にもあるのだけれど。その、来た頃よりもやや寂しくなった庭を見ながら、ルクレチアは何気に思いを巡らせる。一ヶ月ほどを過ごした屋敷を出て、それからもう一ヶ月が経過している。この庭も、良く歩き回った。一人での外出が止められていたせいもあったが、彼女はその屋敷の広い庭が、嫌いではなかった。手入れされた植栽や色とりどりの花々、その間に遊ぶ蝶達は、一人で過ごしていたルクレチアの心を慰めてくれたし、何より、どこにいても彼の気配を感じられた。腕を組む相手を、歩きながらちらりと見ると、見られた相手はいたずら小僧のような目で、何だい、と小さく尋ねてきた。

「何だか、兄さまとお庭をお散歩するのも、久し振りみたい」

「そうだね……アパルトメントはどう?」

エドアルドは、普段の落ち着きを取り戻した様子だった。先程感じた苛立ちのようなものは感じられない。良かった、いつもの兄さまだわ。思いながら、ルクレチアは小さく笑う。

「最初は、狭くてびっくりしたけど、今はもう慣れたわ。色んなものが一つのところにあって、面白いの」

「色んなものが一つのところに、ねぇ……君は本当に、変わった事を面白がるね」

ルクレチアの言葉に、首をかしげながらもエドアルドは笑う。ルクレチアは少し膨れて、

「そうかしら。兄さまだって、見てみたらきっとそう思うわよ。こんな広いところにしか住んでいないんだもの」

「確かに、この家はやたらと広い気はするけどね」

そんなルクレチアを見て、エドアルドがかすかに笑う。ルクレチアは膨れたまま、その視線をぷいと彼方へ背けた。夏よりも生気の薄らいだ、とは言えまだ青い葉を茂らせた庭木と、その側の花壇が見える。何気にルクレチアは足を止めた。同じく、エドアルドも立ち止り、そちらに目をやる。

「ルゥ?」

「あれ、ベラドンナの花かしら」

「ああ……良く知ってるね」

視線の先で、青い花が揺れているのが見える。ルクレチアは少し笑って、

「母さまが、大好きなの。青くて綺麗で。お部屋にもよく飾ってあるのよ」

「へぇ……」

くすくすと、ルクレチアが笑う。何がそんなに楽しいのだろう、そんな風に思いながら、エドアルドは続く彼女の言葉を聞いた。

「あの花は、毒の花なんですって。本家のお屋敷のお庭は、毒の花だらけだ、って母さまがいつか言ってたわ」

「それは……物騒だな……」

笑う声とは裏腹に、その言葉は剣呑だった。エドアルドが僅かに辟易する。ルクレチアはそんな彼の顔を見上げると、

「でも、昔の貴族のお屋敷の庭って、そういうものだったのでしょ?ほら、お薬になるものもあるし」

「……そういうものも、なくはないね」

それよりももっと短絡的に、毒を作っていたと考える方が、普通ではないだろうか。思いながらも、エドアルドにはそんな言葉しか返せなかった。ルクレチアは困り顔の彼を見上げて、

「もし今度、兄さまが意地悪したら、あの花でお仕置きしようかしら。内緒で、お茶に入れるの」

「……ルクレチア、怖いことを言わないでくれよ……」

「冗談よ。でも不思議よね。毒の花の名前が「美人(ベラドンナ)」なんて」

無邪気にルクレチアが笑う。エドアルドは苦笑すら出来ず、そんな彼女を見下ろし、言葉もない。ルクレチアは笑いながら、抱きつくように組んだ彼の腕に、そっと頬を摺り寄せる。しながら、彼女はまた小さく笑った。

「……何だか、今日の君は、ちょっと怖いね、ルゥ」

「そう?それは兄さまに、何か疚しいところがあるからじゃないかしら?」

「俺は別に、何も疚しくは、ないけど……」

返す言葉が濁る。エドアルドは言葉に詰まって、楽しげなルクレチアをただ見ている。

「同じ名前で、小さな実がつく花もあるの。昔伯父さまも母さまも、まだ子供だった頃に、あんまり美味しそうだったから、それを食べてしまったんですって」

「へぇ……」

どうやら、彼女が笑っているのはそれを思い出したから、らしい。何気に安堵して、エドアルドはかすかに笑う。ルクレチアはそのまま、言葉を続けた。

「それで、気がついたら、二人で病院にいたんですって。もう少しで、死ぬところだった、って、ばあやが大騒ぎしたみたいよ」

「死ぬところ、って……」

「きっとここのお庭では、もう作ってないと思うけど……昔はその毒で、目を大きく見せる目薬を作って、女の人を美人に見せていたから「美人(ベラドンナ)」って言うんだって、母さまが言ってたわ」

ルクレチアが、その花に向って歩き出す。引かれて、エドアルドも歩みを進める。手折って捨てたなら、すぐにも萎れそうなその花に、腕を解き、ルクレチアが顔を近づける。無邪気な仕種にエドアルドがそっと笑う。

「叔母上が好きなら、少し持っていくかい?ルゥ」

「……ううん、折角ここで咲いたんだし……寒くなったら、お花も終わってしまうもの」

ルクレチアはそう言って首を横に振る。どことなく寂しげなその様子を見ながら、エドアルドは優しく言葉を紡いだ。

「季節が巡ってくれば、花はまた咲くよ。そしたら、また見においで」

「うん」

ルクレチアが振り返る。エドアルドはその頭に手を乗せて、そっとその髪を撫でる。

「「美人(ベラドンナ)」か……君もすぐに、そうなるのかな」

「え?」

「綺麗で……危険な大人の女性に」

エドアルドの言葉に、ルクレチアは目をしばたたかせる。意味が解らないらしい。その幼い様子に、またエドアルドは笑う。この子が毒を含んでいるとしたら、すでに自分はそれを食らって、当てられて、逃れられなくなっているに違いない。この先もっと、自分を捕えて離さない、そんな風に育つなら、一瞬たりともそれを見逃したくはない。自分は、欲張りだろうか。ルクレチアの髪を撫でながら、エドアルドは思った。その手が頬に下りる。撫でられて、ルクレチアは少し戸惑うように視線を泳がせる。

「……兄さま?」

「何?」

「……あんまり、じっと見ないで、くれる?あの……」

真直ぐに向けられた視線に、耐え切れずにルクレチアが俯く。エドアルドは笑って、

「どうして?俺は、ずっと見てたいけど」

「どうして、って……だって……」

「だって君は、俺のものだろ?見て、触って、抱きしめて、何がいけないの?」

その言葉に、ルクレチアの顔が赤くなる。頬を撫でる指先を感じながら、ルクレチアは小さな声を振り絞るように言った。

「だ、だって……恥ずかしい……」

「だったら、君も同じ様に俺を見たらいいよ。俺は君のものだし……俺を見て……俺に触ってよ」

そっと手を離して、エドアルドが囁く。ルクレチアは目を上げるが、またすぐに逸らす。そして何故か、彼に背を向けた。何だか、奇妙だ。この子の、この態度は、何だろう。何気に、エドアルドは思い、その背中に呼びかける。

「ルゥ?」

「……ごめんなさい、何でもないの」

それは夜にも、聞かされた言葉だった。昨夜も突然泣き出して、彼女は何でもないと言って自分から目を逸らした。何かあったのかと問うても、答えてはくれず、ただ黙って涙を流すばかりだ。どうしてだろう。この子は一体、何が哀しくて、苦しんでいるのだろう。小さく震える背中を見詰めて、エドアルドは思った。そう言えば、父がさっき言っていた。お前はこの家を継ぐべき人間だ、立場を弁えろ。ルクレチアとのことは、傷が浅いうちに、やめておけ、と。父も叔母も、自分達のことをどこまで知っているのだろう。離れられない、失ったら死んでしまうと言ったなら、あの二人はどうするのだろう。

「ルゥ」

呼びかけて、その肩を抱き寄せる。ルクレチアは驚いて、その顔をそっとエドアルドに向けた。

「兄さま……」

「叔母上に……何か言われたの?」

「え?」

「俺との事を、聞かれたんだろう?」

問いかけに、ルクレチアの肩が跳ねた。図星らしい。そのまま抱きしめて、エドアルドは軽く笑う。

「……兄さま?」

「俺も、さっき父さんに言われたよ。立場を弁えろ、お前はこの家を継ぐ人間だ、って」

苦い、そして何かを嘲る笑みがその口から漏れる。ルクレチアはその腕の中で振り返って、不安げな目をエドアルドに向けた。

「兄さま……あの、あのね……」

「君を失うくらいなら……他の何もかも、捨てても構わない」

腕の中で、また彼女の肩が跳ねる。驚くというより、怯えているようだ。そう感じながら、エドアルドはその腕を解く。真直ぐに、エドアルドはルクレチアを、不安げな目のままでルクレチアはエドアルドを、じっと見詰めていた。沈黙が降りる。微塵も動かないまま、エドアルドは言った。

「君を失うくらいなら……死んでしまった方がましだ」

「に、兄さまっ……」

「この家も、土地も、財産も、名前も……君のためなら捨てられる……」

もしかしたら、異常なのかもしれない。自分は狂っていて、まともに物事を考えることすら、出来なくなっているのかもしれない。思いながら、エドアルドは目の前の、まだ少女としか呼べない、愛しい女を見詰めた。

彼女にずっと恋してきた。いつからかは解らない。けれど、いなくなると感じたその時には、無くしたくないと願うようになっていた。気持ちを確かめて、その体に触れて、今となってはもう、彼女なしでは生きてはいけない。それほどまでに愛している。この子は、どうだろう。それほどまでに自分を思ってくれるだろうか。いや、こんな自分を、拒んだりしないだろうか。もし拒まれたら、自分はどうなるのだろう。もっと狂って、愛おしさのあまりに、この手で殺してしまうだろうか。例えば、その毒の花を使って。思いながら、エドアルドがその青い花を見遣る。視線がそれると、ルクレチアが震える声で、エドアルドに呼びかけた。

「に……兄さま?」

「……君は俺と……いや、何でもない」

もし引き裂かれる事になったら、彼女は一緒に死んでくれるだろうか。ふと思った疑問を口にしかけて、エドアルドは苦笑した。自分は相当狂っているらしい。彼女と一緒に、死ぬ、だなどと。そんなことが出来るはずもないのに。彼女を手にかければ、確かに自分は生きてはいられないだろう。それ以前に、あまりにもそれは馬鹿げている。それ以前に、死などという言葉を、簡単に口にするべきではない。きっと彼女も、怖いと思うに違いない。花から視線を、彼女へと戻す。ルクレチアは変わらず、不安げにエドアルドを見詰めていた。肩が震えている。やはり、怖がらせたらしい。思いながらエドアルドはまた、ルクレチアに笑いかけた。

「ごめんよ、ルゥ……何でもないんだ」

「……兄さま……」

「ただ……君と離れるなんて、考えられなくて……大丈夫だよ、俺は、何もしないから」

怯えた目は、まだ彼を見つめている。ルクレチアはそのまま、ゆっくりとそのすぐ近くまで歩み寄った。ぶつかる直前、その体がよろめく。いや、投げ出されたのか。胸に彼女を受け止めて、僅かにエドアルドは驚いた。寄りかかる重みを感じながら、エドアルドは彼女に呼びかけた。

「……ルゥ?」

「私も……兄さまと離れたら……生きていられない……兄さま以外の人となんて……生きていけない……」

細く、涙の混じる声が聞こえる。その言葉の意味に驚きながら、エドアルドは胸の高鳴りを感じていた。ルクレチアは涙をこぼしながら、小さな声で言葉を続ける。

「兄さまが、他の人のものになるのもいや。他の誰かに、触るのもいや。でも……こんな風に思う自分も、いや……もしかしたら、いつか兄さまを嫌いにならないかって、そう思ったら……」

無言のまま、エドアルドはその体を抱きしめる。ルクレチアは腕の中で泣きじゃくりながら、更に言葉を紡ぐ。

「離れたくない……ずっと一緒にいたい……ずっとずっと……一緒にいたいのに……」

そう願うのに、それでも、その願いは叶わないと知っている自分がいる。この人は、自分のために何もかもを捨てていいと、そう言った。言ってはくれたけれど、きっとそれは叶わないことだ。母親に言われたから思うのではない。心のどこかで、それはずっと感じていた事だ。小さな頃からずっと好きだった。兄妹のように育てられて、ずっと子ども扱いをされてきて、それでも今はこうして、抱かれるまでになった。それでも、何となく解っていた。従兄は、ボカロジアの家を継ぐ人間だ。自分と共に、生涯を生きられる人ではないと。

「ルクレチア……」

「……でもルゥは……悪い子なの……」

愛おしさで気が狂いそうになる。もしかしたらそのために、彼を傷付けるかもしれない。誰かに奪われるなんて、考えられない。自分以外の誰かに気持ちを傾けるなんて、許せない。でもそれを思うと、自分の愚かさに哀しくなる。こんな自分には、彼に大切にしてもらう資格など、ないのではないかとさえ、思える。例え従兄妹同志であっても、だ。

「ルクレチア……」

「だから兄さまは、ルゥの事、嫌いになってもいいの……それはルゥが悪いからで……兄さまのせいじゃ……」

「……愛してるよ」

耳元で、その言葉が囁かれる。ルクレチアは息を詰まらせて、声もなくただ涙を流す。

「君を愛してる……だから、そんなこと、言わないでくれ……」

「だって兄さまは……幸せにならなくちゃ……このお家を継いで、次のボカロジアの当主様になって……私より、美人で、優しくて、賢くて、素敵な……ちゃんとした人を、奥様にして……」

「やめてくれ、ルクレチア……君に、そんな風に言われたくない……」

腕の中の少女が紡ぐ言葉に、耐え切れずにエドアルドが声を上げる。ルクレチアは小さく笑って、笑いながら、吐息とも囁き声ともつかない声で言った。

「チェーザレ……私の……」

ルクレチアが顔を上げる。その髪を撫でながら、かすれた声でエドアルドが、その名を呼ぶ。

「ルゥ……ルクレチア……」

「若様……お嬢様!何をしておいでです!」

唐突に、その声は響いた。驚いて、二人は同時にそちらに顔を向ける。抱き合ったままの二人を見ていたのは、老女中だった。驚いているのか血相を変えて、もたつく足で駆けてくる。しまった、二人して学校を休んだ事が知れたか。思いながら、エドアルドは苦笑する。泣いていたルクレチアは慌ててその涙を拭い、

「ばあや……な、何でもないわ。ちょっと、ケンカして……」

慌てるあまりにエドアルドを悪者にするような嘘をつく。エドアルドは思わず、

「酷いな、ルゥ。また僕が悪者かい?」

「え?あ……ご、ごめ……」

「何をしてらっしゃるです、こんなところに、お二人で……」

駆けてきた老女中には二人のやりとりが聞こえていないらしい。どこか青ざめた顔で、彼女はまくし立てるように言った。

「お、お二人は、ご兄妹なんですよ!幾ら誰も見ていないからと言って、こんな……こんな真似を……」

彼女は相当混乱しているようだ。その言葉にエドアルドは苦笑した。そして、

「ばあや、何を言ってるの。僕だよ、エドアルドだよ」

この屋敷で兄妹と言えば、父と叔母の事だろう。思って、エドアルドは言い返す。ルクレチアは老女中の混乱する様子に驚いて、彼の腕の中で何も言わない。老女中は言葉を失い、しばしそのまま黙していた。が、突然、我に返った様にはっとすると、

「え……エドアルド、様……?」

「そうだよ、ばあや、僕だ。大丈夫かい?僕と父さんを見間違えるなんて……」

エドアルドが、揶揄う様に笑いかける。しかし老女中の青ざめた顔色は、変わることはなかった。その視線を泳がせて、彼女はこちらを不安げに見ているルクレチアを見る。視線がぶつかって、ルクレチアは恐る恐る、それまで見たことのない、動揺する彼女にそっと声をかけた。

「ばあや……顔色が悪いわ……大丈夫?」

「……お二人とも、こんなところで……学校は、どうなさったんです?」

よろよろと、老女中がよろめく。様子がおかしい。思いながらも、ようやくのその質問に、エドアルドはいつものように返そうとする。

「行きそびれたんだ……ばあや、本当に、どこか具合でも……」

ぐらりと、彼女の体が傾いたのはその時だった。そのまま、彼女はその場に無防備に倒れこむ。驚き、エドアルドは腕の中のルクレチアを離し、倒れる老女中に駆け寄った。

「ばあや、しっかりしろ、ばあや!」

 

老女中はそのまま、屋敷の使用人達によって病院に運ばれた。エドアルドもルクレチアも、何も出来ずにそれを見送った。落ち着いたら後でお見舞いに行きましょうね、と、心細げにルクレチアが言うと、エドアルドは無言で頷いた。彼女は三代にも亘ってこの家に仕えているのだ、もう年なのだろう。何事もなければいいが、そろそろ本当に暇を取らせた方が、いいのかもしれない。半ば親代わりのような彼女が屋敷からいなくなるのは寂しいが、致し方ないことだろう。自分ももう子供ではないのだし、老いた彼女に甘えてばかりでもいられまい。

屋敷で起こったその騒ぎの最中にも、父親は姿すら見せなかった。執務室に篭もったきりらしい。何をして、いや、何を考えているのだか。苛立たしげに思いながら、ふとエドアルドはばあやの言葉を思い出す。

彼女は倒れる前、恐れおののく様子で、兄妹で何をしているのか、と詰め寄るように問いかけてきた。兄妹、と聞いて、彼女が自分と父親とを見間違えている事はすぐに解った。が、あの動揺の仕方は過剰な気がする。兄と妹だとて、挨拶に抱擁くらい交わすだろう。仮にケンカをして泣かせたら、宥めるのにそうすることも、考えられなくもないだろう。最も、自分もルクレチアも、そうして宥めたり宥められたりするには、やや成長しすぎてはいるが。

二人は兄妹なのだから、幾ら人目がないと言っても、こんな真似をしては。その言葉は、思えば思うほど奇妙だった。人目のあるなしはともかく、そもそも、二人きりでいることさえ咎めているような言葉だ。兄妹であると言うのに。いや、むしろ兄妹だからこそ、なのか。

「ねえ兄さま、ばあや、大丈夫なのかしら」

傍ら、ルクレチアがそんな風にエドアルドに尋ねる。エドアルドは我に返って、不安げなルクレチアに笑いかけた。

「どうかな……いつも元気に見えるけど、ばあやも年だし。ここのところ色々あったから、少し無理していたかも知れないね」

「それって……私や、母さまのことも?」

その視線が、不安気に泳ぐ。いつものようにその頭を撫でて、エドアルドは優しく言った。

「君達のせいじゃないよ……ばあやはそんなこと、一言も言わなかっただろ?」

「でも……」

ルクレチアの目に涙が浮かぶ。頭を撫でる手でそのまま彼女を抱き寄せて、エドアルドは言葉を重ねた。

「大丈夫だよ、ルゥ。ばあやは働きすぎなんだよ。何しろ死んだお祖父さまの若い頃からこの屋敷にいるんだ。もうそろそろ、楽隠居してもらってもいいくらいなんだから」

「……うん」

エドアルドに身を寄せて、ルクレチアが小さく頷く。体を摺り寄せるルクレチアを支えながら、エドアルドはそれでも、と、別のことに思いをめぐらせた。

彼女は父と叔母とが、人目を避けて二人になることを、恐れているようだった。兄妹というものがどういうものなのか、はっきりとエドアルドには解らない。姉はいるが、幼い頃から一緒に育てられた訳でもないし、二人でいることを、今までそうして、誰かに咎められたこともない。あの二人に一体何があるのだろう。確かに父親は、自分の妹に執着しすぎている部分がある。それ以前に、人を間に入れずに二人だけで話をするためだけに、夜半連れ出して、その後数日に亘ってホテルに逗留する、ということは、世間の兄妹にはあり得るのだろうか。

「……兄さま?」

物思いに耽るエドアルドに、そっとルクレチアが声をかける。エドアルドは我に返ると、自分を呼んだ彼女に笑いかけた。

「何だい?ルゥ」

「……何か、考え事?」

「……ちょっとね」

問われて、エドアルドはそんな風に返す。ルクレチアは不安気な目のまま、そんな彼を見上げて言った。

「何か困ったり、悩んでいるなら……私にも、教えてね」

「ルゥ?」

「だって……兄さまが困ってるなら……私だって、力になりたいもの……なれないかも、しれないけど……」

力なく視線は逸らされる。頼りなげなその仕種に、エドアルドは苦笑した。どうやら不安にさせているらしい。しかも、彼女はそんな自分のために、何かしらしようとしてくれている。何もできないかもしれないと言葉を濁す横顔には、自己嫌悪のようなものも見える。笑いながら、エドアルドは息をつく。まだまだ子供だと思っていたのに、そんなにも自分を思ってくれているとは。そして、そんな心配をかけたことに、少しだけ苦笑する。ルクレチアは自分が笑われたと思ったのか、必死の目で、

「兄さま、わ、笑わなくても……」

「ごめん、違うよ……君に、心配させたらいけないな、って……」

「私なら、平気。だって兄さまのことだもの……私だって、兄さまのこと、大切に思ってるんだし……何でも、って言う訳には、いかなくても……」

「うん……有り難う、ルゥ」

そんな風に言われるだけで、心が安らいで、癒される。思うことは、時に苦痛だ。けれどこうして思われる事は、どこか気恥ずかしいけれど、嬉しい。思いながらエドアルドはルクレチアの顔を覗き込む。ルクレチアは困ったように視線を逸らして、それから小さく、えへへと笑った。彼女がこうして側にいてくれるなら、どんな事が起こっても乗り越えていけそうな気がする。例えこの家を放逐されても、二人でなら、いや、彼女のためなら、もし一人でも、何をしてでも生きていける。そんな気さえする。そのためにはまず、目の前の問題を片付けなければならないだろうか。エドアルドは重い溜め息をつく。ルクレチアが不安気に、その目をちらりと彼に向けた。

「兄さま……?」

「ルゥ……これから、何が起こっても……俺が君を守るよ。だからずっと……俺の側にいてくれる?」

見下ろして、エドアルドが尋ねる。ルクレチアは一瞬戸惑いを見せるが、すぐにも笑い返して、

「勿論よ。私、何があってもずっと、兄さまの側にいる。私だって、兄さまを守りたいもの」

「有り難う、大好きだよ、ルゥ」

言葉に、エドアルドは頬を緩める。ルクレチアは照れくさそうに笑いながら、彼の腕に抱きつくように、自分の腕を絡めた。

 

昼をすぎる頃、ルクレチアはメイドとエドアルドを伴って、アパルトメントに戻った。車を用意してくれた時点で、構わないと言ったのだが、心配性の従兄は着いていくと言って聞かなかった。母に、一体何事があったのかを聞きたいらしい。それは自分も同じなのだが、それ以上に様子のおかしい従兄に、ルクレチアは不安になった。この人はもしかしたら、自分の母親を叱るのかもしれない。子供を放っておいてどこに出かけていたのか、とか、怪我をするなんて不注意だ、とか。母は、確かに余所の婦人に比べて余りにも頼りない。家事らしいことは全く出来ないし、いつもどこでも、どことなくふわふわしている印象がある。こんな人が、人の妻であったり主婦である事なんて、できるのかとルクレチアでさえ思う。それでも彼女はルクレチアの母親だったし、たった一人の家族だ。もし今、今は連絡さえしていない父親が、二人の状況を知ったら、どうするのだろう。私は母さまと、引き離されてしまうかしら。何気にルクレチアはそんなことすら考えた。最も、ルクレチア自身も、母の最初の夫の連絡先さえ知らない。そして、その記憶すら曖昧だ。父親という人間とは、縁が薄いのかもしれない。それが寂しいと思った事はないが。思いながら、ルクレチアは傍らの従兄を見る。

移動の車中、従兄は何か考え事をしていて、殆ど口を聞かなかった。何かに怒っているようにも見えて、話しかけることもなかなか出来なかった。何か悩んでいるらしい事は、見ていれば解る。そして、それを自分に話したがらないことも。いや、彼が考えているのは、先程話していたことなのだろうか。彼はいずれ、巨大な財閥を率いる名家の主になる人間だ。しかるべき妻を迎えるのだから、自分と結婚など、できるはずがない。とは言えそれも、彼に強く否定されて、ルクレチアがそれを口にすることさえ嫌がられて、話は終わった。もしかしたらそう言った母親を、責めるのかもしれない。もしそうなったらどうしよう。従兄は母よりずっとしっかりしているから、そうなることも在り得ない話ではない。

「に、兄さま」

アパルトメントの表玄関までやってきて、ルクレチアは意を決したように、傍らの彼に声を投げた。エドアルドはどことなく物憂げな目を上げて、

「何だい、ルゥ」

「あ、あのね……」

メイドは、運転手と共に荷物を運び始めていた。側にはいない。足元に子猫の入ったバスケットを置いて、ルクレチアは困ったように彼を見上げている。

「……何だい、ルゥ」

「……母さまを、叱るの?」

問いかけに、エドアルドは目を丸くさせる。その反応にあせって、ルクレチアは慌てて弁解を始めた。

「あ、あ、あのね!兄さま、母さまにも、思ってることがあると思うの。た、確かに、何日も家にいなくて、見付かったら病院、なんて、驚くし心配だけど……きっと何か訳があったと思うの。だから、その……」

エドアルドの目は丸くなったままだった。ルクレチアは混乱して、更に慌てふためく。その様子に、間をおかず、エドアルドは吹き出した。そして、

「うん……そうだね。それで、ルゥは俺が、どうすると思ってるの?」

問われて、ルクレチアは更に混乱する。真っ赤になって泣き出しそうなその目に、エドアルドは笑いながら、

「叔母上が心配なの?俺に叱られるんじゃないか、って」

「……違うの?」

「うーん……それは少しは、注意しようとは思ってるよ。けど君の母上だって、大人の女性なんだし。訳もなく気まぐれで出かけた訳でもないようだし……」

「母さまのこと……怒ってない?」

重ねて、ルクレチアが尋ねる。エドアルドは笑いながら、

「そんなに心配?俺が怒るのが。別に、ぶったりする訳じゃないから、大丈夫だよ。それに……叔母上が留守をしてくれたおかげで、君と一緒にいられたし、ね」

最後の一言だけ、耳元で囁かれる。ルクレチアはその一言で真っ赤になって黙り込む、が、

「もう兄さま!私、真面目に聞いてるのに!」

途端に怒って怒鳴り始める。エドアルドはくすくす笑って、

「ごめんごめん。ほらルゥ、早く中に入ろう。叔母上だって、きっと君を待ってるよ」

言いながらルクレチアの頭を軽く叩く。揶揄われて、ルクレチアは膨れてそっぽを向く。が、内心、安堵の息を吐きたい気分だった。彼はいつも通りらしい。特別に怒っても、悩んでいる訳でもないようだ。恐らく母は、自分の前で少しは叱られるだろう。けれど、それ以上のことにはならないに違いない。何の根拠もなく、それでもそう思って、ルクレチアは安心していた。傍ら、エドアルドが足元の籠を拾い上げる。

「ほら、ジュリオも、早く出せって鳴いてるよ」

「あっ、ご、ごめんね、ジュリオ」

エドアルドが抱えた籠の中から、カリカリと音が聞こえる。ルクレチアは慌てた様子で中の子猫に呼びかけると、そのまま早足で歩き出した。

 

数日の間、主のいなかった室内は、その外出以前と何ら変わった様子は見せなかった。いや、その数日があったのかと思われるほど、その場所に変化らしい変化は全く見られない。メイドが留守居をしているのだから、それは当然と言えばそうだが、自室のベランダで、いつも通りに長椅子に腰掛ける母親の様子は、いなくなる以前と余りにも変わらなさすぎて、それがルクレチアに何故か違和感を与えた。

「一体、何日も何をしてたんですか、ルゥをほったらかしで」

従兄の第一声は、やはり叱責の言葉だった。母はいつものようにお帰りなさい、と、何日も留守をした事、そして心配をかけたことをまずルクレチアに謝罪し、エドアルドにはいらっしゃい、と声をかけるところだったらしい。先制攻撃を受けて、困ったように笑いながら、けれど何も言い返そうとはしない。エドアルドは少し苛立っているらしい。少し重い息を吐きながら、

「しかも、怪我をして入院していたなんて。あまりルゥに心配をかけないで下さい」

「ごめんなさいね、エドアルド。貴方にまで……」

「俺はおまけですから、構いません。でもこれからは、何かあったらちゃんとルクレチアにも、話してあげてください。もう彼女も、子供じゃないんですから」

言いながら、エドアルドがルクレチアを見る。突然視線を向けられて、ルクレチアは少し驚く。母は相変わらず、困ったように笑っていた。そして、

「ええ、そうするわ。ごめんなさいね、ルゥ。まさか何も連絡が行ってなかったなんて、思わなかったものだから……」

「ううん、いいの……母さまは、ちゃんと帰ってきたんだし……今度から、気をつけてくれたら……」

母親に謝罪されて、ルクレチアが戸惑いながら言葉を返す。その様子を見て、エドアルドは苦笑していた。そして何気に、

「もういっそ、ここは引き払って、うちに戻ったらどうです?その方が色々と、都合がいいでしょう?」

言葉に、二人の顔がそちらに向いた。エドアルドは変わらず、困ったように笑っている。やや過保護な発言に、ルクレチアは頬が緩みそうになった。屋敷に戻れば、また以前のように、彼と一緒に過ごす時間も増える。それを思うとただ嬉しかった。が、

「そういう訳にはいかないわ、エド。私は、出戻りなのだし……」

困り顔で、エリザベッタがやんわりと、その提案を退ける。ルクレチアは落胆を隠せないまま、そう言った母親に向き直る。エリザベッタはそんな娘に笑いかけて、それから、

「貴方も……お父さまに、言われたでしょう?どこかの、銀行の……」

「その事で……俺も貴方に、話があります」

笑っていたエドアルドの表情が、固くなる。ルクレチアは不安気な目で、今一度エドアルドを見遣った。エリザベッタは嘆息して、

「ルゥ……外してもらえるかしら」

「っ……え?」

「エドと二人で、お話したいのよ」

言われて、ルクレチアは戸惑う視線をエドアルドに向ける。エドアルドは笑わず、エリザベッタを見たまま、

「俺は、彼女にも、聞いていて欲しいんですが」

「私は、聞かれたくないわ。確かにこの子は、もう小さな子供ではないけれど、まだ話していないこともあるし」

「なら今、一緒に済ませても構わないでしょう?」

いつになく、エドアルドの口調は強い。一体彼は何を話すつもりなのだろう。思いながら、ルクレチアは母と彼とを交互に見た。困ったように、薄く母は笑っている。そして、

「ルクレチア、向こうに行っていてくれる?」

「叔母上っ……」

「……解りました、私は、自分のお部屋にいます」

激昂しかける彼を余所に、ルクレチアは言った。エドアルドの、怒りと、どこか頼りなげなものが混じった視線がこちらを向く。ルクレチアは困ったように笑うと、

「何かあったらすぐに呼んでね、兄さま」

そう言って自ら部屋を出る。ルクレチアを無言で見送って、エドアルドはその眉をひどく顰めた。安堵の息を漏らしたのはエリザベッタだ。耳にして、エドアルドは思わず、彼女を睨んだ。

「まあ……怖い顔ね、エドアルド」

普段と変わらない、柔らかく、どこか幼い声が聞こえる。エドアルドは嘆息して、その視線を窓の外へと投げた。この人が一筋縄では行かないことは、うすうす解っていたことだ。見た目や態度とは裏腹に、彼女の中には鋭い何かが潜んでいる。それは策略なのか、それとも、それがこの人の本性なのか。思いながら、エドアルドは意を決して言葉を紡ぐ。

「父と、グラン・グラローニにいたそうですね」

「ええ……本当は、一晩で戻るつもりだったのだけど……」

「何の話を?」

言い訳など聞く気はなかった。エリザベッタは困ったように笑って、

「それは、もう解っているんじゃなくて?エドアルド」

「ルゥをまた、ロミッツィにやる気ですか。今度は貴方ではなくて、あの子を……」

「そのお話なら、お断りしたわ」

その言葉に、思わずエドアルドは振り返る。エリサベッタは柔らかに笑ったまま、驚く彼に言った。

「私はあの子の母親ですもの。それに私も、意に沿わない相手と二度も結婚したのよ。こんなことを言いたくはないけれど……苦しくなかったと言えば、嘘になるわ。だから、あの子が貴方を好きだと言うなら……せめて貴方が結婚するまでは、自由でいさせてあげたかったの」

「俺が、ですか」

意外な言葉が聞こえて、思わずエドアルドが聞き返す。エリザベッタはそのまま、

「ええ。いずれは貴方も、しかるべき相手を妻に娶るでしょう。でもそれまでの間、あの子が貴方に恋をするだけなら、構わないと思って」

にこやかに、彼女は笑っている。僅かに翳りも見えるが、それは、いずれはその恋も終わりが来るのだと、そう思っているからか。そんなことを思いながら、エドアルドは息をつく。この人と、こんな風に、幾度も気持ちを切り替えて話す日が来ようとは、思わなかった。何気に胸の中で、エドアルドは呟く。エリザベッタの表情は、あまり変わらない。穏やかで、それでいてどことなく寂しげに見える笑みのままだ。息をついて、エドアルドは真直ぐに彼女を見る。そして、

「ロッシの銀行の頭取に、十九になるお嬢さんがいるそうです。聞かされたのは今朝ですが」

「そう……それで、貴方はそのお話を?」

「その時、父に言われました。ルクレチアを、どう思っているのかと」

挑むように、エドアルドは言葉を紡ぐ。エリザベッタはその目をしばたたかせて、それから、困ったように声を立てて笑った。

「どう思っているのか、ね……そんなことを言われても、困るでしょうに」

「何も困りませんよ……驚きはしましたが」

エドアルドの言葉に、彼女の表情が強張る。そうだ、自分は誰の思い通りにも、ならない。エドアルドは思って、僅かにその口許を歪めた。エリザベッタの瞳が大きく見開かれる。そして、

「それは……どういう意味なのかしら、エドアルド」

「俺は、彼女を愛しています。他の女性と結婚する事なんて、考えられない」

言葉は、淀みなく紡がれる。エリザベッタの顔に驚きが表れる。が、すぐにも、その表情は緩んだ。くすくすと彼女は笑い、思わず、エドアルドは憤慨する。

「何がおかしいんです……俺は……」

「あら、おかしいわ。貴方とあの子は七つも年が離れているのだし、ルゥはまだ子供よ?貴方の様な人が……」

「だったら、何だと言うんですか」

「エドアルド、貴方は本当にルクレチアを、一人の女性として愛しているの?単に、ボカロジアの家に逆らおうという為に、利用しているのじゃ……」

「俺は……あの人とは違う!ルゥをそんなことに利用する気なんて、ありません」

感情に揺さぶられて、エドアルドの声が大きくなる。エリザベッタは驚き、一瞬その眼を見開く。が、すぐにも元の、穏やかな表情に戻る。眉を吊り上げて、エドアルドは更に言葉を続けた。

「貴方がたから見れば、確かに俺は愚かでしょう。でも一つだけ言える。俺はあの子を、自分のために利用しようなんて思っていない。仮に、女性として愛していなくても、家のためにあの子を犠牲にするような真似はしない。俺はあの人とは違う。自分の子供だけでなく、妹である貴女や、姪であるルクレチアまで、たかがボカロジアの為に……」

「たかがボカロジア……貴女のお父さまも、昔はそんな風に言っていたわ」

荒ぶるエドアルドの言葉を遮るように、唐突にエリザベッタが言った。不意打ちの声に驚き、エドアルドは黙り込む。エリザベッタはその目を細めて、何か懐かしいものでも眺めるように、その視線を窓の外へと投げた。

「私のお兄さまも……昔は、そう言っていた。私や、私達とは母親の違うあの人を、そんな風には利用しないと。それで貴女のお祖父さまと、どれだけ言い争いになったことか」

「……父が?」

エドアルドはその言葉に驚いて、思わず問い返す。彼女はそっと笑って、そして今一度エドアルドを見た。笑ってはいない。ただ、哀しそうな顔をしている。

「エドアルド、私には、難しいことは解らないわ。でもあの人は……モントリーヴォは、何も悪くないの。悪いのは私。私のためにあの人は……これからも、背負わなくてもいい苦しみを、ずっと背負い続けるのよ」

「……どういう意味です?」

その男に、彼女はどれだけの目に合わされてきたのか、知れない。だと言うのに彼女はまだ、彼を庇おうというのか。哀しそうに、エリザベッタは笑う。そして、

「総ては私の罪……私さえいなければ……そうね、貴方ももっと、安寧に暮らしていけたでしょうね」

「どういう、意味ですか……叔母上……」

言葉の意味が解らない。迷いながら、エドアルドが尋ねる。エリザベッタはまた少し笑って、それから話し始める。

「私達のお母さまという人は、私を産んですぐに亡くなったの。だから私は、母親を知らないわ。お兄さまはその頃七歳。お父さまは、母と知り合う前からずっと、別の女の人を余所に囲っていた。その人、昔はお屋敷のメイドだったそうよ。お父さまが外で作った子供は、その人の間に一人だけ。私にとってはお姉さまで、モントリーヴォにとっては妹になるのかしら」

「……その人が、何だと……」

「フィオフィレーナ。アデレードの、母親よ」

淡々と紡がれたその言葉に、エドアルドは息を呑む。それはいつか、姉があの老女中に詰め寄っていた時に言っていたことだ。自分の母親は、祖父が外に作った女に、産ませた子ではないのか、と。エリザベッタの表情は変わらない。そのまま、言葉は続いた。

「お父さまは、彼女を自分の娘として恥ずかしくないようにと、大学まで通わせた。それが仇になったのね。彼女は大学でモントリーヴォと知り合って……時々、お屋敷にも遊びに来るようになったわ」

「……父は、それを知って……」

「知っていたから連れてきたのよ。血の繋がった妹だから。そしてあろうことか、愛し合うようになってしまった。最初は、私の話し相手に、そういうつもりだったの。だって彼女は……」

「エレナの、姪だったからですか」

喘ぐような声でエドアルドが言う。エリザベッタはそれに一瞬言葉を失うが、すぐにも元に戻って、

「ええ……知っていたの?」

「……姉が、調べているようで……もし本当にそうなら、父も祖父も、許さないと……」

途切れがちに、エドアルドが答える。その言葉にエリザベッタは、

「そう……でも、それも総て、私のせいよ。私がもっと丈夫な体だったら……わざわざお兄さまが、彼女を連れてくることもなかったのだし」

哀しげに、それでも彼女は笑っている。エドアルドは何も言えず、そして目さえそらせず、そんな彼女をただじっと見ていた。困ったように少しだけ笑みをこぼして、エリザベッタは続けた。

「子供の頃の私は、本当に病弱で……殆ど家の外にも出してもらえないくらいだった。お母さまも早くに死んでしまって、お父さまも、家にいてもあまり一緒にいてはくれなかったから……外の世界と私を、唯一繋いでいたのが……いいえ、私にとってはお兄さまが、世界の総てだった。あの人がいなければ、生きている意味も、理由もなかった。フィオフィレーナを連れてきた時も、最初はとても哀しかったわ。私は捨てられてしまうんじゃないかって、本気で思って、何日も泣いたもの」

くすくすと、昔を懐かしみながら、エリザベッタは笑う。エドアルドは、咽喉が渇ききるような感覚に、小さく喘ぐ。今語られている事は、一体何なのか。彼女が言う、彼女の罪とは何なのか。姉の出自と、姉の母親の出自と、自分達のことに、一体どんな関係があるのか。思いながらも、何も言葉は浮かばない。ただ今は彼女の語る事を、聞いていなければならない。逃げることは出来ない。それだけは解っていた。逃れられない。しかし、何からだろう。思いながらエドアルドは、眉をしかめる。エリザベッタは少女のように笑ってから、ふと哀しげな目になり、そしてまた、話し始めた。

「本当に小さな頃……お屋敷のお庭で、毒の実を食べてしまったことがあったわ。ベラドンナって、貴方は知っていて?」

「……ルゥに、教えてもらいました。目を大きく見せるための、薬だったとか……」

突然振られた話題に、何気なくエドアルドは返す。そう、と短くそれに返して、彼女はまた、語り始める。

「子供だったから、それが果物に思えて。お兄さまと一緒に食べてしまったの。昔の貴族の家では、良く作られていたのですって。今は屋敷にはないようだけど……食べると神経障害が出て、酷いと死んでしまうそうよ」

そう言ってくすくすと、彼女はまた笑う。そして、

「あの時に、私は死んでしまったら良かったのよ……そうしたら、こんなことにはならなかったのに」

「……叔母上」

「この手も、本当はそのために切ったの。でも、アデレードに言われたわ。手首を切ったくらいでは、人は死なないのだって」

その言葉に、エドアルドは息を詰める。左手首に巻かれた包帯を眺めて、彼女はもう笑ってはいなかった。哀しくその目を閃かせて、彼女はどこか淡々と、離し続ける。

「お兄さまは、最初はフィオフィレーナに、本気ではなかったの……お父さまに逆らう為に、ただ利用しようとしていただけ。でも彼女は本当に、お兄さまを愛していて……だからアデレードを身篭った時、グラローニを出て行ったの。お兄さまはそれから、彼女への気持ちに気がついて……いいえ、あれは私がそう言ったからかしら……同じ妹なのだから、酷いことをしないで、って……他の人を妻にするくらいなら、彼女と結婚して、って……」

手首を見詰めるままのその瞳から、涙が溢れて零れる。肩を震わせて、彼女は言った。

「もし出来ないのなら……私がいなくなるから、あの人を妹として、お屋敷に迎えて、って……だって彼女は私のお姉さまだもの……同じ様に、愛せるはずだからって……」

「同じ様に……愛せる……」

エドアルドはその言葉を繰り返す。そして、自分の体が震え出すのを感じていた。その人が語っている事は、一体何だろう。ぼんやりする頭で思うと同時に、体の奥から、重く熱い衝撃が沸き起こるのが解った。驚いている、などという簡単な言葉では言い表せない衝撃が、そこにあった。飲み込まれて、打ちのめされる。けれど、何に。思いながら、その答えはもう解っている、そんな気がして、エドアルドは掠れた声で、やっと言葉を紡いだ。

「エレナが……僕とルクレチアを見て、兄妹で、何をしているのか、と……俺が、父に見えたんでしょうか……」

エリザベッタがエドアルドを見る。口元が微かに笑っている。

「そうね……貴方は、あの人に良く似ているわ。髪の色も、目つきも……見間違えても、おかしくはないわね」

「……グラン・グラローニで……貴女は父と、一体、何を……」

答えなど、聞くべきではないのだろうか。問いかけながら、エドアルドはそれを考えていた。エリザベッタは涙に濡れたままで、小さく笑う。

「叔母上……」

「エレナは……私達を、ずっと見てきたから……不安で仕方がないのよ。私達だけでなくて、貴方達まで、過ちを犯さないかと」

「……ルクレチアは、従妹です。確かに、近い血縁です……けど……」

「そうね……貴方とあの子は、従兄妹同士だものね」

何者かにそれを言い聞かせるように、確かめるように、エリザベッタが言う。エドアルドは青ざめて、思わずそれを口にした。

「……まさか、あの子は……」

「私が、もっとまともな人間だったなら、どんなにかお兄さまも、救われたかもしれない。いいえ……これは半分、呪いの様なものね。ボカロジアの人間は……近い血縁にある相手しか、愛せないのかもしれない……」

うっとりとした目で、どこを見るでもなしに、彼女は言った。その目を閉じて、小さく呟かれた声音は、到底家族の誰かを呼ぶものではなかった。

「モントリーヴォ……私の……私だけの、お兄さま……」

「……貴女は、一体何を考えているんです。あの人は貴女の実の兄でしょう。それも、家のために二度も、貴女に愛のない結婚をさせた様なっ……」

「そう、私はあの人のためになら、どんな事でも耐えてきた……だからやっと帰って来られたのよ……あの人の側に。もう二度と、私はあの人から、離れなくても良くなったの……私の、私だけの……愛おしい人……」

驚愕と、言い知れぬ怒りのあまり、エドアルドが声を上げる。それを全く意に介することもなく、彼女は恍惚に染まった声で言葉を紡いだ。

「もうどこへも行かない……例え神が、私達を引き裂こうとしても……私はあの人の側にいる……もう、どこにも行きたくない……」

閉じたその瞳に、涙が浮かぶ。目の前の彼女の様子も、その口から紡がれる言葉も、その名を呼ぶその声色も、何もかもが信じられない。吐き気さえ覚えて、エドアルドは思わず口許に手をやった。

「それでも……私の罪は余りにも深いわ……こんなにも愛しているのに……誰にも、許されない……」

音もなく、彼女の頬を涙が伝い落ちる。その場にいることに耐えられず、エドアルドは無言で踵を返し、逃げるように歩き出す。

世界が、大きく揺らいでいる様だった。今まで信じてきたものの総てが、音を立てて崩れていく様な、それを目の前にして、立ち竦んでいる事しか出来ない様な、そんな気がして、何故か彼は笑った。衝撃の余り、だろうか。頭がぼんやりする。何も考えられなくなって、視界までもが暗くなっていく気がする。目の前が真っ暗に、などと言うが、今感じているこの感覚が、それか。思って今一度、彼は笑った。何が起きているのか、何が起ころうとしているのか、自分は彼女に何を聞いて、何を知ったのか。何もかもが混沌として、彼に濁流の様に襲い掛かる。

このまま、何もかも忘れられたらいいのに。今まで生きてきた間の、総ての記憶を、今間近に感じている、冷たい闇の中に、葬ってしまえたら。願うように思いながら、エドアルドはよろよろと歩いた。足取りも覚束ない。踏んでいる床の感触も、余りにも頼りなげに思える。自分のいる世界とは、こんなにも不安定で、脆いものだったのか。思って、彼は小さく喘ぐ。そして、

「……ルクレチア……助けてくれ……」

掠れた声で、彼はそう呟いていた。体中の血が、どこかに流れ去っていくような感覚が起こる。痺れるように頭が痛い。手足の感覚が、消える。

「ルクレチア……」

「兄さま……兄さま!」

自分を呼ぶその声が聞こえて、彼は笑った。そして、記憶が途切れた。

 

 

 

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Last updated: 2008/12/15

 

 

 

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