周囲はうっとうしいくらいに伸び放題の、青い草に取り囲まれていた。遠く、幹線道路を走る自動車の音がする。ごうごうというそれは時には風の音のようにも聞こえたが、けれど風がその場を吹き抜ける、その音ではあり得なかった。ここ数年でひどくやかましくなった、と彼は思い、思いながら客人に、やかましくてすまない、と謝罪の意識を伝えようとする。来客は、とんでもない、とその意識に答えて、辺りの様子を伺いながらどこか疲れたようにこう付け加える。まだ貴方はいい、ここに居ることが出来ている。自分にはもう、帰るところはないけれど。晴れ渡る五月の空は微かに霞のかかった、浅い空だった。曳けた白い木綿の生地のような雲が時折流れて、その草原に時折、日陰を運ぶ。初夏特有の、温いような乾いた風が抜けるのを、二つの意志は見送りながら、どこか寂しげに、そして懐かしげに、その意識を交わし合う。行き場がないと言うのなら、ここにしばらく居るといい。身一つなのだし、何の気兼ねもいらないから。いやそれでは申し訳がない。ここは貴方の住まう場所で、私の住まうべき場所ではない。私には私の、本当に帰るべきところがあるのだし、何より、待っている者も在る。今しばらく、様子を伺おう。それでも叶わないのなら……。
草原の中から、突然にその風は巻き起こった。青くなびくその葉を巻き込むように、それは天に昇るように渦を巻き、やがてかまいたちを生じさせて僅かな草を千切り、まき散らす。ぱらぱらと、風が止んだ後に、鋭い刃物で散らされたような青い葉が空を舞った。
それはその場所に棲むものの憤りと、哀しみ、その証であった。
開け放った窓からやや強めの風が流れ込んでくる。窓辺では羽根を平行に調節されたブラインドが垂れ下がり、風と、適度の太陽光とを室内に導いていた。羽根を抜け切れない強い風が時折そのブラインドを揺らして、かちゃかちゃと間抜けな音を立てる。室内に流れるその風が卓上の書類でも巻き上げない限り、そこはいたって平和な空間だった。いわゆる雑居ビルの一室、住居としても事務所としても使えそうなその部屋のドアには、樹脂ボードとテプラで辛うじて体裁を整えられた小さな看板がかけられていた。宗教法人、八百万神祇会、総合宗教相談事務所。ドアの近くで空気が流れる度、その樹脂ボード性の看板も、カラカラと間の抜けた音を立てて揺れていた。時折、風の強さのために裏表がひっくり返り、白い背面が晒されて、更に間が抜けた格好になっている。けれどその事務所につめている人間は、そういったことに頓着しない性分らしかった。ひねもすのたりのたりかな、という具合に、一人はソファに腰掛けて新聞を読み、一人は事務机に足を上げて、ぼんやりと座っている。
「公園で夜中に降霊ごっこの女子中学生、補導……ねぇ……地方版、よっぽどネタがないんだなぁ……」
事務机と自分の足の向こう、そんなことを言う男の頭が何気に見える。黒い靴下のつま先が覗く、安っぽいスリッパのつま先を眺めながら、事務机に足を乗せる恰好で腰掛けた男は、その場で一つあくびを漏らした。気候はいい。視界は、サングラスをかけているおかげでほの暗い。普段からかけてはいるがこうまで都合がいいと本当に便利である。思いながら彼はそれまで辛うじて開いていた目蓋をそっと伏せた。適度な闇が辺りに下りてきて、後はまどろみにまっしぐら、だろうか。こくり、と首が微かに振られる。と、さらさらと、その額にかかる、黒くしなやかな髪が揺れた。
「それにしたってどうして女子中学生っていうのはこういう遊びが好きなんだろ……女の人って実はみんな、巫女の素質でも持ってるのかな?」
ソファで新聞を読んでいた青年は、そう言って何気にその顔を上げた。くるくるとカールされ、ほんのり茶に染められた髪と、丸っこい瞳。小犬の形容が似合いそうなやや幼い顔つきの青年は、顔を上げるなりその人懐こそうな琥珀色の目を歪めた。視線の先には事務机の上の、黒い靴下のつま先が見える。また寝てるな。思い、彼はその場で嘆息した。確かにその場所はヒマで、他に特別することもない。気候もいいし、これで眠るなと言う方が無理な話だろう。そんなことは解っている。解ってはいるが、しかし。
「神和くん、ちょっと」
やや刺々しい口振りで、彼は黒いつま先の持ち主に声を投げた。返事は、ない。仕方がない、と溜め息を吐き、彼はその場に立ち上がった。白いワイシャツにカーキーのスラックス、それにサスペンダーを付けた青年は速くも遅くもない歩調で事務机の固めてあるそのスペースに歩み寄り、足を上げた恰好でさっきからうたた寝をしている黒ずくめの男の背後に立つと、その耳元に屈み込み、息を吸い込む。そして、
「こーなぎくーん!きーこーえーてーるー?」
「うわあっ」
耳元、ひときわ大きな声で言われた黒ずくめの青年は、悲鳴とともに跳ね起きた。勢い余って椅子から転げ落ち、その床にしたたかに臀部を打ち付ける。どさりと言うその物音の後、カーキーのスラックスの男はにやりと笑い、それから意地悪く言葉を付け足した。
「お目覚め?神和くん」
「ってぇぇ……何だよ、耳元ででけぇ声なんか出しやがって……人が気持ちよく寝てたったのに……」
床に座った恰好のまま打ち付けた臀部をなでて、黒ずくめの男はいまいましげに言葉を返す。黒いシャツに黒いデニムのパンツ、さらに黒い靴下を履いて黒いサングラスをかけ、黒髪を腰ほどまで伸ばしたその男は、にやついた笑みの白いワイシャツの、ファニーフェイス気味の優男を睨め上げた。笑うファニーフェイスはその笑顔のまま、
「ふーん、気持ちよく寝てたんだ?今、何時か解ってる?」
「うるせぇ、確かにまだ昼にもなってないがな、こうもヒマじゃ寝る以外に何が出来るってんだ?」
言いながら黒ずくめはその視線を自分の真正面の情報へと向けた。壁に駆けられた時計は午前九時を回ったところだ。確かに、昼寝と言うには早すぎる時刻である。
「昼になってないどころか、事務所開けて一時間も経ってないよ?どうして君って人はこんな時間からくーたらくーたら眠れるんだろうね?」
「新聞読んで派手な独言でもしてろってか?お前みたいに」
「引っかかる言い方だなあ……派手な独言って何さ?」
口元を歪めて、サングラスの黒ずくめがファニーフェイスに反論する。ファニーフェイスは眉をしかめ、座ったままの彼をそのつま先で軽く蹴飛ばした。
「どうせヒマなら掃除の一つくらいしたらどうなの?一応僕ら、接客業なんだし」
「客が来ねーんじゃその掃除のしがいもねぇぞ?」
「僕が言いたいのは、その就業態度を何とかしろって事なの。掃除なんか、したくないならしなくていいよ」
蹴飛ばされながらもにやにや笑う黒ずくめを見下ろしながら、ファニーフェイスの彼は溜め息をついた。
宗教法人八百万神祇会、総合宗教事相談事務所。そこはいわゆる宗教団体の出先機関であった。読んで字のごとく、宗教に関連する事柄について相談を受け、そのケースごとに対処方法を探し、相談者のニーズに応える、と言うのが彼ら事務所員の業務内容である。昨今、宗教事相談と一口に言ってもその種類は種々雑多、多様化を極めている。いわゆるオカルト事件の解決から霊感商法の対処、果ては墓石の注文まで、彼らの受ける相談の範囲は広く、そして複雑になっている。もっとも、彼らはその相談窓口であり、その場で対処し切れないレベルの相談の場合、それらはその本部組織である団体を通して、様々の専門家に託されるのだが。
その本部組織、宗教法人八百万神祇会は戦後に発足された、日本古来の自然崇拝から発生したとされる、いわゆる神道の教義を根幹とする新新興宗教団体であった。神道においては基本的には経典などによる戒律的教義が存在せず、自然現象の中に在る神たる存在を在りのままに信仰し、それらとの調和を保ちながらの共存というスタイルがとられている。八百万神祇会もそうした宗教理念の元にその教義を展開させており、信奉者は氏子と称され、同時に宗派仏教の信徒であることもよくあることだった。宗教的拘束力は殆どない。別名『神社の互助会』とも言われるその教団の主立った活動は、地方郷社などの小規模な神社の運営のサポート、ならびに神道展開の民俗学的研究、調査にあった。その資金繰りのために宗教事につきものである冠婚葬祭のプロデュース、学校法人の運営なども行なってはいるが、いずれも規模は小さく、どちらかと言うと無名であった。そして宗教団体が奉仕的活動として展開する中に、総合宗教相談という項目がおかれ、宗教の門戸を問わず、その窓口はそれらの相談を受け付けていた。とは言えそこはそれ、団体運営費用をまかなうための機関である。時と場合、ケースによっては有料奉仕も有り得る、と言うより、弁護士並の利用料をとっていたり、いなかったりするわけなのだが。
「あーヒマだ、ヒマだヒマだ。何かすることねぇのか、ああ?」
「仕方ないでしょ、僕らは受け身営業なんだから。こっちから『何か宗教でお困りのことありませんか?』なんて出てったら、妖しい団体と間違えられちゃうよ」
事務机に足を乗せる恰好で、相変わらず黒ずくめの男、神和辰耶はうだうだしていた。実際、事務所に来客があることは滅多になく、あったとしても平日にはほとんどなく、その平日の午前に来客がなければ、要するに週五日は確実にヒマを持て余すことになるわけなのだが、
「そんなにヒマで死にそうなら、本庁に戻れるようにちょっとは努力したらどうなのさ?」
「ばかやろー、俺はこんな団体様、一分一秒でも速くアシヌケしたいんだ。誰がそんな面倒なこと……」
「じゃあヒマでも持て余してなよ?戻って忙殺されたくないんだったら」
応接用のソファに腰掛け、相変わらず新聞を読みながら、事務所員、御幣鼎はそう言い返す。一応の所長、神和はサングラスの下の眉をしかめ、けっ、と短く吐き捨てるように言い、聞いて御幣はぺらり、とまた新聞を一頁めくった。
「戻ったら君は引く手数多だよね?祭礼係でも対処係でも、業務部長直下の特殊対策班でも。毎日充実してて、遊ぶヒマもきっとないよ?」
「御幣、そりゃイヤミか?」
「別にぃ。僕はこっちに移動になってずいぶん気楽になったからいいんだけど。兄貴とも顔合せなくてすむし、面倒な仕事も少ないし。でも君は、ヒマなのイヤなんだろ?」
言いながら、御幣は新聞に向けた顔を上げることもなく、自分のつま先ごしに辛うじて見えるその背中の動きを眺めながら、神和はその口元を歪めて黙り込む。
「何ならクチきこうか?親父辺りに」
「下手なジョークを真顔で言うな、お前は」
嫌悪の態度を丸出しで、神和は御幣に言葉を返した。御幣はその言葉ににっこり笑うと、
「やだなあ、君がお願いするんだったら、本当に取り持ってあげるよ?僕」
「そういう科白は本庁で出世したがってるバカにでも言え。俺は『やめたい』っつっとるんだ」
「何?またその美貌を活かしてウォータービジネスとかしたいわけ?神和くん、いい加減あきらめなよ?君接客向きの性格じゃないんだから」
「またってな何だ、またってのは。俺がいつ水商売なんか……」
「いつか言ってたじゃない?『それだけの美人なら男でもイケる』って誰か……うちの姉さんとかが」
にぱ、と、無邪気な子供よろしく御幣が微笑する。机から足を下ろし、神和はその場に立ち上がった。気がついたのか顔を上げ、御幣は笑みを保ったまま、
「何、神和くん。本気でニューハーフになる気になっ……」
「バカヤロー!俺はまともだ!」
叫ぶように神和が言う。仁王立ちの青年男子の一喝は、さぞや迫力に満ちていることであろう、が、
「でも君が言っても説得力ないよね。なんていうかさー、主張にも向かないし?その『見てくれ』。少女マンガの憧れの先輩だって今時そんな美少女ばりの外見してないよ?」
御幣にしてみれば痛くもかゆくもない様子である。ふてくされたようにけっと吐き捨てて、神和は今一度ソファに腰を沈めた。
「けど君の言うように、確かにここってヒマなんだよねぇ。っていうか、忙しくなっても留守番いないから、それはそれでまた困るんだけどさ。神和くんもさ、働きたいならそういうこと、上申してくれないかなぁ?」
「バカ言え。こんな僻地に島流しにされたいヤツがどこにいる?」
ぼやく御幣の言葉に、忌々しさもぬぐわずに神和が返す。自分への八つ当たりに気付いているのか否か、御幣はほとんどそれを無視して、一人深刻そうなため息、である。
「確かに。立地条件だけはうちで一番都会なんだけどね」
窓の外には青々と茂る街路樹と、白っぽく色あせたアスファルトの地面が見える。行きかう車も、多いというほどではないが見受けられ、僅かながら街の喧騒も届かないでもない。事務机に頬杖ついて、御幣はその景色を何気に眺めた。
「何かやることないと、だれちゃうってのも確かだよねぇ。体もなまるし」
「だったらお前のほうこそ、本庁に戻してもらえばいいだろう。少宮司か部長にでも頼んで」
ソファに体を投げたそのままの格好で、神和は上着の内ポケットからつぶれたタバコの包みを取り出し、折れ曲がった中の一本を抜く。見もせず、御幣は眉をしかめた。
「八百万神祇会、いや、国内きっての戦闘巫覡、御幣鼎ともあろう男が、事務机に頬杖ついて閑職にため息ついてる、なんて同業者様が知ったら、お前のその人間性なんか関係なくヘッドハントの嵐だ」
「それを言うなら君だって一緒じゃない。国内一の感応能力者で、しかもどんな神様にも絶対的確立で嫌われないって設定なんだから」
ここ禁煙でしょ、と、言葉の後に御幣が付け加える。無視して、神和はタバコの先に火をつけ、にやついた笑みをその口元に浮かべて青い煙を吸い込む。
彼らが所属するその宗教法人は、表向きは心霊事例に与さない、いわゆる拝み屋的側面を打ち出してはいないが、そこはそれ、扱うものがものである。宗教、同時に信仰に超自然的事例が存在しないことは殆どない。事象に当たってはケースがケースであるため、役割分担がなされ、ケースごとに担当が決められ、対処方法があり、それについてもまた彼らは組織化されていた。業務部巫覡課地鎮係、というのが組織での彼らの正式な所属先の名称である。主立った業務は地方に点在する小規模の神社ないしそれに類する施設の祭礼、および社殿を持たないそれらの存在に対する地鎮、交渉、最悪の事態にはその抹消。いわゆる『拝み屋』と呼ばれる心霊対処業者に酷似し、かつ全く正反対の性質を持ち、それを行うのが彼らの職務であった。付け加えるなら彼らが『対処』するものは心霊とは顕されず『神霊』、この国において『神』と称される全て、とされている。そしてその対処法は特別に神道にのっとった方法ばかりではなく、その時々に応じて最も適したものが選ばれ、要するにごちゃまぜであった。故に組織では神道呪法の範疇にない方法でそれを行う事も多々あり、しかも特別そのことに組織事体が関与することはない場合もある。そして、業務部は実働が主な業務であり、巫覡課は当然その手の仕事が二人にも回ってくるわけであり、そこに属している人間は当然、いわゆる『巫覡』と呼ばれる特殊能力者であった。
「国内最高の審神者、神々の愛児、超絶ハイパー美青年。君って本当に、美称だけはたくさん持ってるよね。実際は朝っぱらから職場でヨダレたらして腹掻いて寝てたりで、美しくも何ともないのにさ」
笑いもせずに御幣が言うのを聞きながら、苦い笑みを神和は漏らす。そして、
「そういうオマエこそ、俺に劣らずすげぇ仇名じゃねぇか?『神殺し』の御幣」
「って、いつも思うんだけど、そのネーミング誰がしたのさ?」
にやついて見える神和の口元に気分を害されたのか、眉をしかめて御幣は問い返す。神和は軽く肩をすくめて言った。
「さぁな、俺じゃないことは確かだが」
「あ、そうなの?でもさ、ご大層な仇名付けられてても、やってることがヒマな事務所でお留守番、だもんね。そのうち僕ら消費者センターとかに訴えられるんじゃないの?」
「それを言うなら公共広告機構だろうが。もっとも、俺もお前もそれで何にも得はしてないが」
「そうだよねー、商売に有利になるわけじゃないし、僕なんて半分迷惑だもんねー……こんなにごくフツーの若者なのに」
「どこが普通だ。平手一発でアヤカシふっとばす男が」
事実ではあるがやや辛辣な言葉を神和が吐き出す。御幣は一瞬目を丸くさせると、今度はその顔に人の悪そうな、綺麗で整った笑みを作り、
「やだなぁ神和くん、僕が困ってるのにそういうこと言うんだ?嫌がらせ?からかってんの?」
「別に。単に正直者なんだよ、俺は。」
笑う御幣を見もせず、しれっと神和が言い放つ。御幣はその笑い仮面の額に青筋を浮かせると、
「ふーん、そう。正直。ああそう。でも全然素直じゃないよね。っていうかなんで君そんなに意地が悪いのさ?毎日君の下で大人しく働いて、文句の一つも言ってないのに」
「男に優しくしたって何の得にもならんだろ。それに、俺がお前の文句を聞かなかった日は一日もない。嘘をつくな」
神和の顔つきは全く変わらない。額ひくひくの御幣はすでに笑ってはおらず、
「君ねぇ!人が珍しく褒めてやろうって言うのに何なのさその態度!大体神和くんなんか毎日毎日ろくに仕事もしないで!僕の気苦労ってものも少しは考えてよね!」
「俺がいつ何時お前に苦労なんかかけた?人聞きの悪い。そういうお前こそ、お目付け役だか何だか知らないが、ぴーちくぱーちく毎日毎日。俺の心労ってのを思い知ってほしいもんだな」
そのまま、みっともないとしか言いようのない男同士の痴話喧嘩が始まる。そろそろ太陽は傾き始め、窓から西日がフローリングを焼いていた。男二人のわめき声の傍ら、低くうなりをあげたのは部屋の片隅に置かれたファクスの受信機だった。場末の部署であるこの事務所にあるそのOA機器はロールタイプの感熱紙に印刷されるほどの旧式で、いつ何時引退を言い渡されるかという年代ものだった。故に駆動音もやや大きいのだが、喧嘩の真っ最中の二人には全く聞こえていないらしい。無機的に、ファクスは送信された情報をその紙面に印刷し続けている。
「このヤロ!言わせておけば言いたいこと言いやがって!」
「そっちこそ何だよ!僕が付き合い長いからって大目に見てあげてるのに、恩を仇で返すようなことばっかしてさ?大体君はどうしてそうわがままで自分勝手なのさ?」
「やかましい!わがままで解らずやはそっちだ!大体男のクセにお前はしゃべりすぎなんだよ!」
「何それ、何それ!そんなの今言われることじゃないし、ついでに一種のセクハラなんじゃないの?ちょっと今の、訂正しなよ」
「やかましい。何がセクハラだ。誰が男にそんな真似するか、ホモじゃあるまいし」
「あれ、何、君ってばそういうのノーマルなんだ?てっきり僕そーゆーのもありの人だと思ってたよ」
あはははは、とわざとらしく御幣が笑い飛ばす。神和は怒りにその肩を震わせ、そのこぶしを思い切り振り上げ、
「てめこのバカ鼎!いいから一発殴らせろ!」
「あ、暴力に出るんだ?神和くんてば野蛮。僕に口論で勝てないからって君はそういうことするんだ?でも残念ながら僕って実は腕っ節も立っちゃうんだ。知ってるよね?」
とかやっている部屋の中、大きすぎないが小さくもない電子音が響く。ピンポーン、という呼び鈴の定番であるその電子音だが、喧嘩の真っ最中の男二人の耳にはやはり全く届いていないようだ。やがて、唸っていたファクスが甲高い声を上げる。ピーッと、耳につくその音に、先に気付いたのは神和だった。わずかに振り返り、視線の先の音源を確かめる。そのことに気付かない御幣はさらに罵声、というより小言を続けた。
「一体誰のおかげでここが立ち行ってると思ってるのさ?全部僕の裁量じゃない。それを君って人は全然わかってないんだから。コーヒー一つ買うことだってしない上に、ここに来てから君、掃除だって数えるほどしかしてないし。そうだ、今日の後片付けは君がしなよ?日頃どれだけ僕が苦労してるか、ちょっとはわかるようになると思うからさ」
「おい鼎、ファックス来てるぞ」
「何?って、そうやってまた話を誤魔化そうとする!どうせ間違いかどこかの企業の広告だろ?」
ふん、と鼻を鳴らしてふんぞり返る御幣を無視し、神和はそのファクスに歩み寄ろうとする。じろりとそれを睨みつけ、御幣が声を放つ。
「ってちょっと、聞いてる?」
「あ、あのぉー……」
キンキンと耳に障る、と神和が評する御幣の叫びの後、慎ましやかな声が辺りに響く。聞きなれない、若い女性のものらしいそのキーの高い声に御幣は驚いたように目を丸くさせ、その身をあわてて翻した。視線の先、声の主と思しき人物はすぐに見つかる。紺色のブレザーと、赤地にグリーンのラインを基調としたタータンチェックの膝丈のスカート、いわゆる制服姿の十代の少女の姿に、御幣はその表情を怒りから接客用の笑顔に瞬時に一変させた。そして、
「こんにちわー、お客様、でいいのかな?」
言いながらその営業スマイルで来客に歩み寄る。ブレザーの少女は、その目におびえとも緊張ともつかないものを浮かべて、恐る恐るといった口調でそんな御幣にこう尋ねた。
「ここ……宗教事の、相談事務所、ですよね?」
どうやら来客、でいいらしい。御幣は人の良さそうな、それでいて見る者が見れば明らかに張子の笑顔でこう答えた。
「うん、そう。まあここで立ち話も何だから、ちょっと移動しようか?ええと……どんなご用件、なのかな?」
元々の童顔のおかげで彼が女性、特に年下に怪しまれることは稀有であった。明らかに女子高生のいでたちの来客は、つい先ほどまでの室内でのやり取りを聞いていたらしい。ひどく緊張と警戒を顕にしていたが、その御幣の童顔と営業スマイルで多少なりともそれらを解いたらしい。先ほどよりもリラックスした滑らかな口調で、逆に御幣に問い返す。
「あの……増ヶ崎光輝さんに、紹介されて来たんですけど……連絡、来てないですか?」
「……連絡?」
その言葉に御幣は首をかしげ、しながら彼女を一応の来客ブースであるソファまでエスコートしていく。その名は、よく知っている人間の偽名だった。本職はタレントで、ここ最近「特技・霊視」とか言う触れ込みでその手のバラエティー番組で引っ張りだこだという。彼女をソファに座らせ、その正面に腰掛けると、砕けた口調で御幣はやや困ったように言った。
「今ちょっとごたついてて……ごめんね、すぐに確認するから。神和くーん、そっちにいるならコーヒー二つー」
先ほどとは打って変わってフレンドリーな声音で御幣が神和に呼びかける。呼ばれた男はファクスの前で送信された内容を簡単に確認すると、そのロール紙を手早く破り、そのまま来客ブースに向かって歩き出す。
「神和くん、コーヒーだってば」
紙片を手にブースに現れた神和を見て、御幣はすぐさま文句とも取れない一言を放つ。が、神和はその紙片に目を落としたまま、彼のことは全く無視して言った。
「『ご両人様へ。相談者を一人紹介します。後はよろしくお願いします。増ヶ崎』だと」
「へ?何それ」
まん丸の目をまたぱちくりさせて御幣が神和に問い返す。神和は笑いもしないまま―と言ってもその表情はサングラスの下に隠れていて見えないのだが―、
「今届いたファックスだ。連絡ってのはこれのことだろう?これじゃ、何が何だかわかりゃしねぇが」
そう言ってどかりと御幣の隣に腰掛けた。女子高生は再び、神妙な、そしていかにも胡散臭げなものを見るような顔つきになって、おずおずと口を開く。
「増ヶ崎さんに相談したら、ここに行くように、って……あの……」
「御幣、コーヒー」
語尾のにごるその言葉を聞き終えるか否かのタイミングで、神和が真横の御幣に冷たく言い放つ。露骨に眉をしかめて、しかし無言で御幣は立ち上がり、接客ブースからミニキッチンに向かって歩き出す。不安げな女子高生は出て行った御幣を目で追って、それからいかにも不信感丸出しの警戒した目で、今一度目の前のサングラスの男、神和を見やった。その神和はというと全く動じた様子もなく、どことなく面倒くさげな雰囲気を漂わせ、今度は彼女に向かってこう問いかけた。
「で、どういう相談事なんだ?お客さん」
その口元だけがにやりと笑う。これでも本人は愛想笑いのつもりらしいのだが、元々の誠意のなさのためか今まで一度たりともそれが効をなしたことがなかった。今回も、どうやら結果は同じのようである。やれやれ、やりにくいこった。胸の内で呟き、同時に落胆の吐息を神和が漏らす。依頼人であるところの女子高生はというと、その神和の態度にますます不信感を募らせたようで、今度はじっと彼を睨むようにして何も言おうとしない。わずかの間、奇妙な沈黙が二人の間に降りる。これじゃ話にもならない、とどちらが先に思ったのか、その瞬間に御幣が再び接客ブースに現れた。今度はその手に三人分のコーヒーと、お茶請けを持って。
「心配しなくても大丈夫だよ。ここ、怪しい看板がかかってるけど本部は警察の立ち寄り所にもなってるような団体だし、話だけならお金とか取らないし、何より、増ヶ崎くんの紹介だからね」
にこやかに笑いながら紡がれる御幣の言葉に、彼女は恐る恐る目を上げる。子供や小動物を手なずけるのにうってつけの害意のなさそうなその笑顔は、どうやら彼女にも効果覿面らしい。手にしたトレイの上のコーヒーとお茶請けをソファの前のテーブルの上において、物腰も柔らかに御幣が神和の隣に腰掛ける。そしてその目はあどけない疑問さえたたえた様子で、彼女に、上目遣いで向けられた。
「僕らで聞けそうなことなら、話してごらんよ?せっかくだから」
けっ、と小さく吐き捨てるように言ったのは神和だった。にこやかを維持したまま、御幣はそんな神和を完全無視、の状態である。ブレザーの女子高生はそんな二人を交互に見やり、それから、御幣だけに視線を定めると、おずおずとした口調でゆっくりと話し始めた。
「こんなこと言って……信じてもらえるか、わからないんですけど……私の家の神様を探してほしいんです」
「君の家の……神様?」
「はい」
その奇妙とも取れる会話は、依頼人のその言葉から始まった。西に傾いていた太陽はすっかりその姿を地平線の向こうに隠し、空の色はそろそろ青というより藍色に近い。おまけに、ブラインドが壊れたおかげで事務所の明かりは外に大胆なまでに漏れている。その窓から、神和は無言で外ばかりを眺め、御幣は真摯な態度で、依頼人の話に耳を傾けている。とはいえ、発言が発言である。その表情が何となく不審めいていても、おかしくはなかった。
「私の家の庭に、石の祠があって……ついこの間、突然割れちゃって。古いものだから、きっとそれで割れたんだろうって家族は言うんですけど……」
「まあ、そういうこともあるだろうね。古い自然石だと中が空洞になって、水気を含んだりするから」
「でも……そういうのじゃないみたいなんです」
話の間中、少女はコーヒーにもお茶請けにも一切手をつけず、その表情は真剣そのもの、ともすると泣き出してしまいそうなほどであった。ひざの上において、いつの間にか握り締めたその手はかすかに震え、時折、話す声までもが揺らいだ。見たところ、挙動不審でもなければ虚言症という風でもない。どこかおびえた目は、確かに尋常ではないが、精神に異常を来している、と取れるほどでもない。時折言葉に迷いながら、彼女は何かに慄きながら、そしてそれと戦うように、言葉を紡いだ。
「ただの石だって思っても、急に割れたりして気持ち悪いからって……石屋さんに頼んで庭に新しい祠を作ってもらったんですけど……そこには神様がいないみたいなんです」
「いない……みたい?」
その言葉を繰り返すように、御幣が問い返す。無言で頷いて、彼女はさらに言った。
「うまく言えないんですけど……庭に、それまでは何かが住んでるみたいな感じがしてたのに、今は何にもいない感じがして」
人が聞いたなら、確かににわかには信じられない話だろう。そんなことを思いながら、へぇ、と御幣は声を返した。
「神様がいないみたい、なんてこと、一般のご家庭でもあるんだねぇ」
「さて、どうだかな。あの子の思い込みかもしれないぞ」
とりあえず今日のところは遅いからこの後のことはまた今度、と言って御幣が依頼人を帰した後の事務所内、二人は変わらずに接客ブースのソファに腰掛け、来客のために支度したお茶請けをつまんでいた。コーヒーに合うのかどうかわからない「汁粉サンド」なる微妙に和洋折衷のそれを手に、御幣は相変わらずやる気のなさげな神和に問いかける。
「お社とか祠の増改築が原因で家出する神様って、珍しくないよね?」
「珍しくはないな。あいつらは俺たちよりずっとややこしい。繊細なんだかアバウトなんだか全くわからん上に、とてつもないわがままだ。そのくらいのことはやらかすし、帰ってくるのを忘れるってこともある」
問いに答えて、神和が汁粉サンドを口に入れる。見ながら、御幣は誰かに問うでもない口調で更に言葉を紡ぐ。
「神様がいるみたい、とか、いないみたい、とか、そういうのって、普通の女子高生にわかるもんなのかなぁ」
「その辺は、全くないとも言えんな。世の中にはお前みたいな鈍感なヤツもいれば、見えなくていいものまで全部見えるような敏感で繊細でナイーヴな、俺みたいな人間もいる」
口の中の汁粉サンドを飲み下してから、どこか揶揄うような口ぶりで神和が御幣に返す。御幣はそれにむっとしたのか、わずかに唇を尖らせ、
「でもそれって普通の人って言わないじゃん。君は超一級の感応能力者だし、僕は先天性ゴーストバスター体質だし」
解りやすいのかそうでないのか解らない言葉で御幣が自分を言い表す。それがおかしかったのか、神和は小さくぷっと吹き出し、
「ま、確かに俺らは極端だ。さっきの女子高生の場合は、多分『視える』なんて認識までは出来ないレベルで庭にいた何者かを感知してたんだろう」
「多分って……いい加減だなぁ。君、審神者なんだろ?そういうのわかんないの?」
笑われたことが少々気に入らないらしい。ややもすると八つ当たりにも見える態度で御幣が神和に言い募る。相変わらずのマイペースで神和は汁粉サンドを食べながら、
「バカ言え、話聞いただけでタネまで全部解ったら、こんなところでうだうだしてる仕事なんてやってられるか」
普段の、どこかけだるそうな声でそう答える。御幣はその様子にふふ、とやや意地悪く笑い、
「本当に、変なところで使えて、その実役立たずだもんねぇ、神和くんってさ?」
やたらと楽しげなその言葉に神和は何も言い返さず、また一つ汁粉サンドを口の中に放り込んだ。
増ヶ崎光輝、本名増田光男、三十二歳。職業はタレント業、通称「霊感タレント」として現在数本のバラエティー番組などのレギュラーを勤める。彼の主な能力はいわゆる「霊視」だが、単に「見えるだけ」で、特筆すべきは特になし、というのが八百万神祇会総合宗教相談事務所の所員の見解である。彼らはその特殊な業務内容に関連して、近隣に在住、もしくは居所を持つ霊能力者などの情報をある程度把握していた。宗教ごとの相談には当然神霊事象も含まれ、その処理を極秘裏かつ円滑に行うため、そうしたネットワークも不可欠なのである。彼らの所属する八百万神祇会、業務部巫覡課には当然そのエキスパートが在籍してはいるのだが、根本的に組織自体が小規模であること、加えて事務所に持ち込まれる神霊事象に対する相談件数のうち、実に九割以上が巫覡による対処を必要としない事象であること、そして事務所の管轄範囲が「国内」としか定められていない為にその全てに即時に対処することが本組織のみでは容易でないこともあって、彼らの元に持ち込まれるケースは殆ど、通称「外注」と呼ばれる外部の能力者などに委託されることになっていた。付け加えるなら、相談の九割以上が神霊現象でないために、その中にはカウンセラーや弁護士などももちろん含まれるのだが。彼らの団体は神霊事象を表面に押し出しての布教活動を全くといっていいほどしない。元より、そうした宗教活動を一切行わない点で、他の宗教団体と一線を画していた。彼らの主だった活動は「神社の互助会」であり、いわゆる宗教活動とはかけ離れている。故に、自称無神論者が教団職員であることも珍しくなかった。
「TXテレビかぁ。なんていうか、人気者だよねぇ、増ヶ崎くんも」
巷では甘いマスクと霊視なる特殊能力で人気の、八歳ほど年上のその男を前に、御幣は普段どおりの口ぶりでそう言った。そのテレビ局のロビーにしつらえられた喫茶室へ、収録中だという間に呼び出され、否応なしにやってきた男、増ヶ崎はというと、
「や、やだなぁ、御幣さん。全然そんなことないですよ。俺なんかもう、時期のものと一緒で、ほら、一過性のもんですからね、タレントなんてのは」
元モデルというだけあって背のすらりと高い、スタイルも抜群の男は、その外見にふさわしくないほど腰が低く、ややもするとその態度は卑屈であった。目の前のしゃれた強化ガラスのテーブルの上に大きなフルーツパフェを乗せ、大きなガラス張りの壁の向こうに見える雑踏を眺めながら、御幣はと言うと、
「そんなに謙虚に言わなくていいよ、噂は色々聞いてるし。近頃じゃ心霊相談ホームページまで立ち上げたんだって?」
そう言うと,口に柄の長い銀のスプーンをくわえ、その先をぶんぶん振り回しながら、満面の笑顔でその男を振り返った。増ヶ崎といえば血の気の引いた、何か恐ろしいものとでも対面しているような形相で、あわてて首を横に振る。
「いやっ、あれはですね!番組が無理やり立ち上げたものでして!決してそんな大層なものではっっ」
「だろうね。君、持って帰ってくるのと見るのは出来るけど、他何にも出来ないしね」
にこやかな笑みを一瞬でどこかへ消して、ほぼ無表情で御幣は言った。増ヶ崎はその視線がまっすぐにパフェに向けられている様子を見ながら、おずおずと、極力目の前の人間の機嫌を損ねないように注意しながら、口を開く。
「御幣さん……用ってのは、それで……」
「うん、ちょっとね。昨日うちにファックスくれたでしょ?そのお使い」
言いながら、御幣はその柄の長いスプーンで、掘り返すようにしてパフェを食べ始める。増ヶ崎の顔は、まるで見ようとしない。増ヶ崎は御幣のその言葉にまた顔色を変えて、
「あ、あれっすか!や、いやぁ、その……本来はご連絡してそちらに伺うべきだとは思ったんすけど、こちらにもいろいろ事情がありましてですね!いや本当に、しがないタレント業なもんで、たいしたことも出来ないくせにスケジュールばっかり詰まってまして!」
「君の言い訳なんかどうでもいいよ」
血相変えての増ヶ崎の言い訳も、御幣はそんな一言で興味もなさげにばっさりと切り捨てる。そしてなおもパフェを食べながら、
「今日神和くんが朝から下見に行ってるんだけど、一応君にも一言入れとこうと思って」
「はあ……そうっすか……」
そんなことのためにわざわざこんなところにまでやってきて人を呼びつけたのか、と、腹の中だけで増ヶ崎は毒づく。本当に声に出して言ってしまったところでさしたる問題が起こるとも思われないのだが、その男は神和、御幣の両人、ならびに教団本部の一部の人間に、斯くの如くに卑屈にならざるを得ない借りと、弱みとを握られていた。そしてその借りや弱みは、彼らに関連した事象がその周りで起こる度に雪だるま式に膨れ上がっており、彼自身にはどうにも出来そうにないレベルにまで達していた。こいつらには一生逆らえない、いや、逆らうまい。八歳も年下の御幣に対して卑屈な態度をとる理由は、そんなところであった。
「けどここのパフェ、高いよねぇ?KOテレビの喫茶のパフェのほうが、金額的には良心的だね。味はこっちの方がちょっといいんだけど」
えへへへ、と、ひょっとするとわざとなのかもしれないような声で、御幣が笑いながらぱくついているパフェの評価を下す。タレント業は時間にシビアだ。そんなものに付き合っている暇はない。それに、今の一言で彼の用件は終わっている。ただでさえ収録現場の色々を振り切って自分はここにいるのだ。しがないタレントが共演者ならびにスタッフを長々と待たせて人がパフェを食べているのに付き合ってなどいられようはずもない。自分はタレント、消耗品である。目の前のこの男以上に、気を遣わなければならない相手は五万といるのだ。思った増ヶ崎は、しかし思い切って、というわけにも行かず、またおずおずとした口ぶりで御幣にこう切り出した。
「あの、御幣さん……用がそれだけなら、こっちにも色々とありますんで……」
「そんなのわかってるよ。それだけの用で僕だってこんなテレビ局くんだりまで来やしないって」
あはははは、と、これまた軽快に御幣が笑った。これで開放されるか否かの大勝負に出た、つもりの増ヶ崎は、その惨敗の衝撃を露骨に顔に出し、しかしその自覚のないまま、続く御幣の言葉を聞いた。
「どうして君があの子にうちを紹介したのか、ちょっと知りたくて」
「どうしてか……ですか」
「うんそう。君が一人で処理できない問題だ、って、どうしてわかったのかな、って」
にこにこ、御幣は笑っている。増ヶ崎は一瞬拍子抜けした顔になり、それからまたその顔面を蒼白にさせた。にこにこ笑っている御幣は、そのあまりにも楽しげな笑顔のまま、
「十代の子供相手に、カウンセリングで済むようなケースだったらその口車で騙くらかして少ない小遣い巻き上げるような、たいしたアフターケアもしないこずるい事なんてするもんじゃないよ?増ヶ崎くん」
増ヶ崎はその口をぱくぱくさせるだけで、声も言葉も出せない様子だった。極上の、天使の、という接頭語さえ付けられそうな笑顔で、さらに御幣は言葉を続ける。
「君は今までの行いも悪いんだから、そういう辺りちゃんと学習しないと。確かに罪に問われるようなレベルのことじゃないけど、これが世間に露呈してみなよ?タレント業って好感度大事だろ?あっという間に干上がっちゃうよ?その後何でやってく気?」
その男はそうやって、顔面蒼白になる相手を笑いながら弄るのが半分趣味らしかった。もちろん、彼の行っていることは業務の一部でもある。霊感商法詐欺の未然の予防、とでも言うべきか。真っ当な宗教法人の行う奉仕活動としては、それは正当な行為で、しかし、今現在彼がやっているのはひょっとすると恫喝以外の何物でもないのかも知れなかった。真っ青な顔で口をぱくぱくさせた増ヶ崎は、はいと返答出来ずにこくこくと首を縦に振った。御幣は増ヶ崎の素直な態度にさらにご満悦の様子で、
「僕の言いたいこと、わかってくれるんだ?じゃあちゃんと学習しなよ?言っておくけど、次はないからね?それからー……」
「まっ……まだ何かあるんすか!」
なおも何やら言おうとした御幣の様子に、おびえて泣き出す寸前の体裁となった増ヶ崎が、思わず声をひっくり返してまでして問い返す。御幣は笑ったまま、
「いや、これからが本当の神和くんのオツカイ」
じゃあ今までのは何だ、恫喝か、いじめか!胸の内、増ヶ崎は絶叫した。もちろん、今までの恫喝のようないじめのようなものの原因は全て自分にあるので言える筈もなかったが。御幣はそこで笑うのをやめ、そして、パフェを食べる手をいったん止めた。手から銀のスプーンを離し、仕切りなおすように一つ呼吸して、それから言葉をつむぐ。
「昨日の女子高生のこと、何か知らない?知り合い、って言ってたよね?」
問いかけに、泣きたい気持ちと顔つきで、増ヶ崎は素直に、というより死にたくないに近しい心地で答えた。
「ええ……一度そこの家に、取材で行ったんです。知人って言うよりは、それだけの関係なんスけど……」
「取材?オカルト関係の番組の?」
目を丸くさせ、その答えに御幣が問い返す。ようやく本題に入りほっとしたのか、増ヶ崎は整った顔にそれなりに真摯な表情を浮かべて、御幣に言葉を返した。
「ええ。番組で「ローカル不思議スポット」ってコーナーがあって、俺がそれを見に行くんですけど……ま、七割以上はガセネタなんすけどね。あの子の家はその時行った先の一つで……」
「アタリだったってこと?」
それは尋ねる、というよりも確認するような言葉だった。増ヶ崎は真摯な顔のまま、
「ええ、まあ……その後その時のスタッフ通して、その話が来たんで……でも俺じゃ、荷が勝ちすぎるし……」
「それで僕らのところに持ってきたんだ?」
御幣の再びの、確かめるような問いかけに、増ヶ崎は苦笑のような表情で頷く。そして、
「確かに俺は何か見えるし、他にも多少伝がありますけど『神様』ってはっきり言われたら、御幣さん達が一番かと思って」
根はそう悪人でもないがどうも小金と己の見栄に執着のありすぎるらしい男の答えを、御幣は信用したらしい。まあねぇ、と、穏やかで納得したかのような声で呟き、
「僕も正直ちょっとびっくりしたもん。あの子に『神様がいなくなった』って聞いた時」
そう言って見るでもなく、その天井を眺めるように視線を上げる。
「今時確実にアレを「神様」なんて言える人、いるんだねぇ」
独り言のような言葉に、増ヶ崎は何も言わない。御幣は暫く何やら考え込むように黙り込み、それから、長くも短くもない溜め息をついた。
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