スガネタ。

   イメージ小説 『サナギ』

 

 一人でいる部屋は、たったの六畳だというのに、とても広い。嫌になる。物があまりないせいだろうか。空寒いし、静かだし、些細な音まで耳障りで、何だかいらいらする。でも仕方がない。出て行け、と言ったのは私だし、謝った彼を許さなかったのも私だし、でも、彼がいなくなって寂しいのも、私。そう、寂しい。本当はいてもたってもいられないくらいに、私は今寂しいのだ。寂しいなんて生易しいものではない。哀しいし、切ないし、そして飢えている。去って行った男に。またそのドアを開けて、よ、ご機嫌いかが、今夜泊めてくれよ、とか何とか、軽口をたたいてくれるのを待っている。でも、もうあいつはここには来ない。二度とその顔を見たくないと、泣き喚きながら言って追い出したのは私だからだ。そうしたらあいつは、いつものへらへらした顔ではなくて、退屈そうな、興ざめしたような、そんな顔になって、あ、そう、んじゃ、とか言ってこの部屋を出て行った。露骨に、つまらなさそうな、けだるそうな、うっとうしそうな、そんな顔をして。

 あいつは、一口で言うと遊び人だ。一応学生だから、比較的毎日ふらふらしているけど、そんなにとんでもなくろくでなし、というわけではない。学校へは週に三、四日も顔を出せばいい方の、ちょっとお坊ちゃま、というか、甘やかされて育って、まだ甘やかされていて、乗り回している車は親が買い与えた、とか、そんなタイプで、本当にどこにでもいる、ちょっとふざけた軽い男だ。その年齢相応に、女の子が大好きで、たちの悪い事に、親の金でいい服を着て、育ちがいいからか人懐こくて、わがままで、子供っぽくて、女の子となじむ事に抵抗がなくて、誰とでも広く浅く付き合うタイプ。「お友達」と称して付き合いのある女の子の数は、片手では数えられないけど、そのうちの何人が自分だけは特別、と思っているのかわからない。それでもほとんど、そういうことに頓着しないで、次々と新しい「お友達」を作っては、飽きたらそのお友達ともあっさり切れる、そういう男だ。私は、私も、か。すばらしく愚かな女で、そのうちのたった一人の特別なのだと、もしかして今はそうじゃないとしても、いつかその特別になれるんだと、つい昨日くらいまでは思っていた一人だ。馬鹿みたいに。実際、私は賢くはない。女子大生が馬鹿な女の代名詞だった時代は遥か彼方だけど、女子高生がもてはやされる昨今に元女子高生で、膝上に改造したスカートも指定じゃないセーターも黒のハイソックスも、お決まりのように着たり履いたりしていた。土曜の午後からは制服姿で街に繰り出して、そんなに危険そうじゃない年上の男の人(主に学生)とデートまがいのことをしていた。と言っても、お茶やご飯をおごってもらう程度だったけど。男って簡単、と思ったのはその頃で、その簡単、のノリであいつと知り合って、付き合い始めた。付き合いはじめた頃、私は親から離れて一人暮らしをはじめていて、後で考えてみれば、それを単に利用されていたような気もする。この狭い部屋にあいつは転がり込んでは、泊めてくれ、だの、何か食べさせてくれ、だの、そんな具合で、一時はこれが半同棲かしら、なんて、のんきにそんな馴れ合いを楽しんでいた。今となっては愚かしくて、でもとても懐かしくていとおしい記憶だ。だってもうここにあいつは来ない。嘘つきで調子が良くて、軽い口調で私を好きだと言って、何の前触れもなくいとも簡単に、私に触れた。私はあいつに毎日のようにキスされていた。頬や唇だけでなくて、体中のあちこちに。それがあいつの媚び方だと知らなかった私は、そうかこの人はこんなに私が好きなんだ、と思って、情けないくらい簡単に、足も開いた。全く以って愚かしい話だ。あいつは、あいつに限っては、本当に簡単に、快楽のためだけに愛の科白を紡ぎ出す、そういう人間だったのに。

 そういう最低な男だというのに、そのことにようやく気が付いて、目が覚めて、それであいつをもう二度と、この部屋に入れまいとして追い出したのに、それなのに私はあいつが、本当にゴメン、謝るから、とか言って戻ってくるのを待っている。本当に愚かしいったらない。でも。

 

「何、あんたまだそんなことしてんの?」

「……ほっといてよ」

「って、ほっとけって言うけど、学校、一体何日サボってんのよ、頼子ちゃんは」

 あいつが出て行って七日め、大学の友人、由真が私の部屋を尋ねてきた。由真は、あの男を私が、形としては振った事件を、私が話して聞かせた、たった一人の人間だ。信用は、人並みに置ける。気の置けない友達の一人で、私の住んでいる部屋の近所に実家があって、良くこの部屋にも来る、そういう相手だ。もちろん、この部屋であいつと何度も鉢合わせしているし、時にはあいつにここを追い出されて、随分いやな目にも合っている、らしい。由真は、私みたいな馬鹿な女と違って、見た目も中身も充実した、大学生にしてはちょっと大人な感じの女の子だ。うらやましい。気の強いところが玉に瑕だが、気風も良くて、男女共にたくさんの友達と、一部、女の子に敵がいる。私は、敵なんか作ったら外を歩けないような臆病者なので、そんなことがあっても平気な由真に、ちょっとあこがれる。

「ほっといてよ」

 同じことしか言えずに、私は膝を抱えて部屋の隅で、それまでのように小さくなった。明かりのついていない、カーテンの引きっぱなしの部屋は、昼間だというのに薄暗い。引きこもりもいいところの私を、玄関口から眺めて、由真は大きな溜め息をついた。そして、上がるよ、と言ってくつを脱ぎ、部屋の奥の私のところに、ためらいもなく歩いてきた。

「あんたあの馬鹿男のこと、追い出したんでしょう?自分で。解ったって言ってたでしょう?あの馬鹿がどういう馬鹿なのか。紗枝とか美月とかとも、平気で付き合ってんのよ?おんなじ授業のクラスに女三人囲って……」

「解ってるから、ほっといてよ!」

 歩み寄ってきた由真の、いまいましげな声に、私は叫ぶように言い返していた。そんなこと解っている。そんなこと、知ってるし、知ってた。膝に顔をうずめて、私はあふれてくる涙をこらえるように目を閉じた。頭の上から、大きな溜め息が聞こえた。由真は、呆れているんだろう。私は、でも、そんなことを言われても、確かに振ったけど、それでもどうしても、何かが欠けて足りなくて、どうしたらいいのか解らない、たまらない気持ちになるのだと、思ったけど言わなかった。由真は暫く私の前に立っていた。けれどそのうちまた、重い溜め息をついて、言った。

「明日は学校、来なさいよ?みんな心配してるし……中松なんか腹立つ事に、あの馬鹿男と衆目の前でいちゃつきやがるんだから。うっとうしいったらない」

 じゃあね、と言い残して、由真は部屋を出て行った。私は一人、泣きながら、由真がドアを明けて閉める、その音を聞いていた。

 どうしてだろう、本当に最低な男だったのに、いなくなってしまって、こんなに哀しいなんて。実際、付き合っている間も、あいつが私を好きだとかなんだとか言っていた間も、事、女の子に関わる事に関してのトラブルは、後を絶たなかった。やれ、だれそれの彼女を口説いただの、だれそれを天秤にかけただの、二人と同時に出かけて、目の前で自分を取り合うのを楽しそうに見ていた、だの。そして、散々泣かされた挙句にあいつに振られる女の子の、何と多かった事か。馬鹿な事に、私はそれを見たり聞いたりするたび、何だか得意だった。私の彼はこんなにもてて、でも私が本命で、と思うと、とんでもなく気分が良かった。その頃に由真や他の友達に言われたことがある。あんたも、調子に乗ってるんじゃないよ、と。彼女だったら、本当にあの男が好きなら、ああいう悪趣味な事はやめさせるべきだ、とか。私も、そうさせたくて放置していたわけではなかった。あいつは、その手の事について私がなじると、決まってこう言うのだ。

 

「だって頼子が一緒にいない間、寂しいじゃん。頼子が俺のそばにずっといてくれたら、俺だってあんな馬鹿な事しないけどさ。一人でいらんねーんだもん。そしたら、他の子を代わりにするしかないだろ」

 

 他の女の子は、全部私の身代わりだといったその言葉に、私はちょっとときめいてしまった。そんなにこの人は私が好きで、私がいないと寂しくてたまらないのか。それで仕方なしに、私の代わりを他の誰かにさせてるのか、と。だから、二股だ、と聞いても、そうしているのを見かけても、私はそれを許していた。だって仕方ないじゃない、あの子達はみんな、私の代わりなんだもの。私より好きな女なんてどこにもいなくて、その私がいないと彼は、いても立ってもいられないんだもの。でもそんな馬鹿なことがあるはずもなく、女の子はみんな同じ扱いだということは、すぐ知れた。でも、私は、私が彼を更正させるんだ、と思って、じっと我慢して辛抱していた。だって私は彼を愛してるんだから、彼が気付くまで、待ってあげるのが義務で勤めじゃないのか、と、実に馬鹿なことをずっと思っていた。自分が特別な一人でもなくて、一人で暮らしているから使い勝手が良かっただけ、ということに、気が付くまで。つい、この間だ。そのついこの間も、あいつとはここで、じゃれ合うようにしてそのことを、少し話していた。

 

「確かに俺は、頼子じゃないヤツとも付き合ってるよ?けどこないだ言ったじゃん。頼子が一番好きだけど、頼子がそばにいてくれない時は、代わりに誰かと遊んでるんだ、って」

「じゃ、私がずっとそばにいてあげたら、他の人とは遊ばないのね?」

「そうだよ?まあ……誘われたら、飯くらい食いにいくけど」

 その時あいつは壁にもたれて、私を背中から抱いていた。揃って半裸で、何というか私は、彼にいい様にもてあそばれていた。その手は私の手を捕まえて、指と指とを絡めて、上に上がったり、膝を叩いたり、子供のお遊戯のように空に弧を描く。耳元では、甘ったれた声で、少し笑いながらの言葉が、ただ続いた。

「俺はねー、頼子とこうやってる時が、何より幸せだよ。あったかいし、気持ちいいし、綺麗だし……」

 無神経にも程があるその手は、私の肌の上を滑った。優しい感触で、人肌の温かい、眠気を誘うような心地好さがあって、それで更に感じやすいところに触れるものだから、私もそのじゃれあいをとても気に入っていた。好きだった。

「やっ……こら、何すんのっ」

 手は、いつも奇妙な力加減で、私の色々な場所に触れた。その男が、初めての相手ではなかったけれど、その男に私は、誰かと枕を交わす事の悦びを教えられた。たくさんの女の子とそういう付き合い方をしているせいで、彼はそれに長けていた。体の何処にも躊躇わずに触れたし、舐めたし、それで上がる声を聞いて、耳元で「もっと聞かせてよ」なんて言ったりした。

「話の途中で……そういうこと、しないっ」

「何かっこつけてんの。えっちの最中に説教する方が悪いんだよ」

 その手が肌の上を滑って、その舌が感じやすいどこかを舐めるたび、私は泣きそうな声を上げて、平静を保とうとして、でもあっさり陥落した。吸い上げる唇は、強すぎず弱すぎず、くすぐったいと感じていた最初の感触は、回数を重ねるたびにぞくぞくする、もっと別の感覚に変わっていった。

「やっ……いやっ、だめっ」

「だめじゃないだろ。全然だめじゃなくて……俺に触られて……どうなの?気持ちいい?」

 それが気持ちいいかと言われれば、そうでもなく、気持ち悪いかと言われれば、そうでもない。何とも言い難い、波のような感覚。続くたびに、そうされる毎に、説教していた自分も、正気も平静も、何もかもがそれに飲み込まれて、どうでも良くなってくる。人に触れられる事がこんなに心地好く、抱かれるというその受身が、眩暈さえしそうな快楽だなんて、知らなかった。そのままその波に飲み込まれて、とろけて、ずっとそのままでいられたらどんなに心地いいか、考えただけで頭がぼんやりして、体がほかほかしてくる。その準備を勝手に始めてしまう。それは、普段一人でいる分、余計に感じる事だった。人恋しい、それがその男の手で、人肌、に変わりつつあった。いや、変わってしまったのかもしれない。彼がいてくれれば、寂しくない。彼が触れてくれるなら、どんな場所でもどんな方法でも、手でなくても、満たされる。それは心も、そして体も同時に。人肌の温度で、人の呼吸する吐息で、誰かが触れてくれるというその事で、一人ではない事と、同時に、誰かに必要とされている事を自覚できる。私はこの人に必要とされている、一人じゃない。私が求めたらその人は、その求めに応じてくれる。抱きしめて欲しいと願ったら、口にしなくても、抱いて欲しいと目でせがむだけで。それがどんな幸せな事かは、それを感じられた人にしかわからない。

 そんな哲学的なことを言わなくても、現実に、人肌の温度と感触は気持ちのいいものだ。それが何の為にあんなにも気持ちよく、まるで麻薬のような魅力を持っているのかは解らないけれど。

「頼子、俺のこと好き?俺にこーゆーコトされて、嬉しい?頼子がそう思ってくれてるんだったら、俺もっとずっと頼子のそばにいる。そんで毎日、こうやって頼子といいコトするんだ。毎日毎日……頼子、俺のこと、好き?」

 

 結局そんな風に言われて、されて、私は最後の最後まで抗う事はできなかった。慣らされて、あっさり中毒のようになった私の体は、あいつが触れない夜には、それこそ夜泣きさえしそうなほどだった。寂しいのと、彼を感じられない事で。そうやってあの男は、人の気持ちや体質を変えておいて、なくては生きていけないと思わせて、感じさせて、いつまでも適当に、気まぐれに、私を退屈しのぎの道具にしていた。そうされていて、解っていて、それでもなかなかそこから抜け出せなかったのは、そうされることさえも心地好かったからだ。寂しくなかったし、暖かかったし、気持ちよかった。嫌だなんて、思った事はない。それは声だけ。言葉にさえならないその音が、そんな風に口から漏れていた、それだけだからだ。そのとき私は幸せで、少し悔しくて、でも、その手も唇も、何もかもを求めていた。愛していたとは言わない。寂しかっただけ、とも、言えないけれど。

「頼子ー、お願いだから学校、出て来てよ。みんな心配してるんだよ?」

 結局私は、学校を丸二週間、サボった。由真は、最初の頃こそ毎日のように電話したり、部屋をのぞいたりしてくれていたけれど、その頃になるともう、私に構わなくなった。というより、他の友達にそれを任せているみたいな感じだった。

「うん……来週からは、行くから」

「本当の本当に?ちゃんと約束してくれる?」

 その日やってきた数人の女友達は、私の大好きなコンビニのプリンと定食屋のテイクアウトのカツ丼を差し入れしてくれた。薄暗い部屋に閉じこもりきりの私は、それも嬉しかったのに、訪問者が彼でない事が、かなりショックだった。きっとあの男は、もうここには来ない。それを思い知らされたようで、そして、まだ彼を待っている自分の、弱い部分に打ちのめされたように。

「由真だって本当は、あんたの事心配してるんだから」

「うん……わかってる」

「じゃあ、来週はちゃんと学校、くるんだよ?何かあったら、誰のとこでもいいから、電話すんのよ?」

 何かも何も、ない。何も起こらない。そんなこと解っている。ここでこうして閉じこもっていれば、私を傷つけるものは、何もやってこない。私を抱いてくれるあの腕も、同じに。私はそれを思って少し笑った。

 連れ立ってやってきた友達は、くれぐれも、と念を押すと、すぐにも帰っていった。薄暗い部屋に一人、カツ丼とプリンと取り残されて、私は笑いながら、少し泣いた。

 

思い出して泣いてしまうよりも

あなた自体を消してしまうの

 

そんな日がいつか やってくるのでしょうか

素晴らしい日々が いつの日か・・・

 

 

 

 

 

自分ツッコミ・初めての一本……何これ()この歌を聞くちょっと前友人が一人「別れた」と言ってかなりキテたので「これだけは聞かせられん!」みたいに思ったのは書いた後だった気がします……でも載せたり使ったりする辺り……表現者だからさー……(脱兎)

 

 

 

 

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Last updated: 2005/5/28

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