こんなものが存在していますので載せます。つーか新作作れよ……。

    特別企画!!苫川龍月で「夕立ち」

 

 二、三ヶ月ばかり、家を空けていた。会社の都合で、北米の提携工場に出向いていた僕に、帰国するなり、と言うのも可笑しな話だが、その事は知らされた。もう一ヶ月程になるというその事実は、実は知らせてくれた当人も、つい昨日知らされた事なのだ、と言った。

「井崎町の酒屋の、葛西さんの処に、あんた同級生がいたでしょう」

 実の処、その知らせをくれた実家の母親に会うのも、随分と久し振りの事だった。学校を出て、勤め始めて以来、僕は家を出ていたし、離れた場所に住んでいた訳ではなかったが、頻繁に、実家に戻ると言う事も少なかった。だから、母親の唐突な言葉に、僕はただ、目を丸くさせるだけだった。

「葛西……ああ、葛西か」

 それは、大学時代に親しかった友人の名で、ここ数年会ってはいないが、便りのないのは元気の証拠、と、特別に連絡もし合わない、そんな男の名だった。今現在、学生時代からの友人は、減る一方である。まめな性質ではないし、何より、日々が忙しすぎる。年賀状や暑中見舞いと言う、手の込んだ事も苦手で、以前付き合っていた彼女にも、愛想を尽かされてしまっていた。メールのやり取りさえ、ろくにしてくれないなんて、と怒っていた。僕は、そう言う人間だった。だから当然、葛西との付き合いも、今では殆どない。あちらが、近所と言うには差し支える程度の場所に暮らしているから、母親の処にその噂が入って来る事は、特別珍しい事ではなかったが。

「今、家を手伝ってるんだろ?跡取りだし。結婚でも?」

 僕はそう言って、やれやれ、と心の中で息を吐いた。そう言う世代に差し掛かっていて、家族も、僕がいつまでも一人でいる事を、少々気にし始めている。男で、ついでに言えば、今は仕事の方が詰まっているから、と、その話題から、どうにかこうにか逃げる事は出来るのだが、それでも、その話題が出る事態を避けたいのは、事実である。墓穴を掘ったか、と思う僕を他所に、母親は真剣な顔で、言った。

「亡くなったんですって、それも先月」

 久々の母国の、久々の実家の、久々の緑茶と煎餅を目の前に、僕は言葉も無かった。

 

 葛西佑治というその男とは、大学の時、たまたま一、二教科程同じクラスだった事で知り合った、友人だった。それまで、特別に家が近所でもなく、接点もなかった僕達だったが、不思議と話が合って、時折、連れ立って飲みに出かける、そんな間柄だった。あちらは酒屋の息子だけあって、その酒量も飲み方も、まだ世にも出ていない小僧だったと言うのに、僕と違って格段にレベルが高く、そう言う点でも僕は彼を気に入っていた。気が合って、話が合って、同じ教室でうろうろしていれば、いつか巡り合うだろう、そんな他愛も無い友人同士だったが、しばしば一緒にいた事も確かで、けれど親友と言うには、その間柄は薄っぺらだった。それでも、その男が死んだと言うニュースは、僕を充分に驚かせたし、狼狽させた。僕は、その時手にしていた湯飲みを、着いていた台所のテーブルに、落としそうにしながら置くと、傍にいた母親に、こう尋ねた。

「死んだって……なんでまた」

「詳しくは知らないけど、事故みたいよ。配達の途中に」

 確かに、まだ老衰や病気で死ぬには、早すぎる歳だ。だが自動車での事故なら、それもありえない話ではない。けれど僕には、俄かにはそれが信じられなかった。自分の、かつて近しかった友人が、この世にもういない、など、そんな事があってたまるか、と、そんな気分だった。

「確かあの葛西君って、井崎町の酒屋さんだった、っていつか言ってたでしょう?時々、うちにも上がっていったし……母さんも、びっくりして……」

「って……だったら直ぐにでも、連絡してくれたら……」

「だって母さんだって、今日聞いたばっかりなのよ。それも、ついさつき。あんたが来たら、知らせなきゃって思って……」

 それから母は、事故だもの、突然だけど、それにしたって、と独り言の様に、台所を片付けながら言葉を紡いだ。僕は落ち着く為に、テーブルの上に置いた湯飲みを、もう一度手にとって、何も言わずに茶を啜った。友人が死ぬ、というその衝撃は、凄まじいものだった。何をどう言ったらいいのか、真実解らなかった。頭に浮かぶのは、元気だった頃、と言うべきか、学生の頃に良く見た、彼の姿ばかりだった。卒業以来、僕らは示し合わせて会った事は一度もなかったし、連れ立って歩く時も、殆ど約束もなく、その場その場のノリでの事で、彼の事を特別、掌握していた訳でもなかった。親友とは言えないが、顔見知りという程まで、簡単ではない、友達だった、と言うのだろうか。僕は呆然と、彼の事を考えた。そして、胸の中にせり上がる、哀しいとも寂しいとも、そして恐怖ともつかない感覚に、背筋を僅かにぞっとさせた。

「仲が良かったんでしょ、あんた達」

 母親は、そんな僕の気持ちに気付いたのか、そんな風に、僕を察するかの様に訪ねてきた。僕は即座に答えられず、少し間をおいてから、小さく言った。

「……信じられない、って、言うか……」

「もっと早くに解ってたら……でも解ってたにしても、あんたは日本にいなかったし、どうしようもなかったけど、それにしたって……ねぇ……」

 母親の言葉は、それ以上は続かなかった。僕は無言で、何も言えずに、ただ、茶を啜り、味も解らない程に動揺したまま、煎餅を食った。

 

 それから暫くの間、僕はばたばたと日常を過ごした。帰国直後、疲れた体を休める暇も殆どなく、あちらでの研修の報告や、それを踏まえての企画、対策検討書の作成や、その報告会議、こちらにいなかった間に累積した仕事を片付ける為に、僕は会社で奔走していた。休む暇の殆どない、仕事詰めの日々が一ヶ月程続いて、その間僕は、友人が事故で亡くなったという、その事実を、忘れていた。否、忘れる事が出来ていた、と言った方がいいのかもしれなかった。仕事が詰まっていて、気を緩める間がなかったのは事実だったが、考えてみると、それを考えない為に、僕は仕事だけに没頭していたのかもしれなかった。戻って直ぐ、同僚や後輩達に、無事の帰還を祝して一席設けたいと言われた時も、そんな気分ではないし、忙しいからと断り、上司にその話が知れると、戻って間がないのだから、少しは休めとの忠告も受けた。どう見ても、その時の僕は、がむしゃらにしか見えなかった様子で、けれどそれでも、片付けなければならない仕事がある事には、変わりないのだし、ここで休息して、それが滞って、後で泣きを見るのも、御免だった。片の付く物は、全て何とかしてしまわなければ、気がすまないので、と、上司の忠告は、聞きながらも、そんな口答えをして、半ば無視する体裁だった。何かあったのか、何があった、とは、誰も言わなかった。誰かの心の中にはあったのかもしれなかったが、そんな物は、耳に入らなければ、どうと言う事もなかった。人は、忘却の為に、暴走する。自分にとっては、それがたまたま、仕事だったに過ぎない。働く事で、忙殺される事で、僕は葛西の死を忘れたかった。感じずにいたかった。その事実が、なくなってしまえばいいと、きっとそう思っていたに違いない。もっとも、それに気が付いたのは、仕事の全てが一段落して、直後、過労から来る体調不良で、会社において自分の椅子から、転げ落ちた後、だったのだが。

「座ったまま倒れる、なんて器用な真似して。心配してないと思ってるんですか」

 目の前でそれを見ていた、後輩からの一言だった。一般職の、五年ほど後輩の彼女は、まだ子供っぽいその顔を膨らせて、医務室に運ばれた僕の前で、そんな風に言った。更には、

「課長から、明日から有給取るように、って、言付かってますから。出てきたら、みんなで締めますよ」

 と、それが社会人の科白か、と思しき言葉まで聞かされ、僕はその場で、はぁ、と奇妙な生返事まで、返してしまったのだった。言われるまでもなく、僕の体はその時、仕事を続けられる程正常ではなく、それを酷使した事で、更に状況は悪化していて、要するにドクターストップも目前のようだった。

「明日から四連休、しっかり休んで、治ったらまた、バリバリ働いてくださいね」

「四連休?そりゃ、まずいだろ」

「まずくないですよ、木、金と有給で、後は土日だもの。月曜日に倒れない辺り、先輩らしくて笑えるくらいですよ」

 彼女は冗談とも本気とも付かない事を言って、笑わずに僕の前を去った。僕は医務室で、小一時間程体を休め、それから自分のデスクに戻り、その日取り敢えず片付けなければならない仕事を片付けて、定時になると無理やり、上司に会社を追い出された。何だか、気を使われているのか、邪魔にされているのか、解らない。同期には「いないと困るが、いても役に立たないなら、休まれた方が楽だ」と、これまた皮肉を言われて、有給休暇の届出に総務へ赴くと「買い取りの上限超えてますよ、適当に処理してくださいね」と、事務的な事をまた皮肉の様に言われる始末だった。暇ではないし、やる事もある筈なんだけどなぁと、僕は一人考えながら、とは言え半ば命令の様に休まされる訳だから、のこのこ会社に出て行く事も、出来なさ気だなと思いながら、一人暮らす部屋に帰り着いて、着いてから、この四日間の暇をどうしようかと、ふと思った。仕事人間と呼ばれてはいないが、僕には特別、没頭する趣味と言う物がなかった。集中し始めると、時間を忘れる事はままあったが、自宅でそんな事も滅多になく、この四日の休みを一体、どうしたものかと考えた。旅行に行くには、急すぎて、時間も足りない。部屋の片付け、も、特別するほどでもない。僕の部屋には、生活感が余りない、と言うのは、以前付き合っていた彼女の言葉だっただろうか。部屋は、眠りに戻る場所で、生活の場の殆どは会社だった。食事を作る事は滅多にない。外で食べるか、せいぜい部屋では買った物を食べるくらいで、冷蔵庫の中には出来合いの惣菜と、飲み物の入ったペットボトルが、いつも入れ替わりで入っている。ごく稀に、湯を沸かしてコーヒーを入れるが、それも、週に一度するか否かで、そのコーヒーもインスタントだ。一人で暮らし始めた頃には、つまみと酒瓶を持って、かつての友人達が時折やって来たが、やはりそれでも自分で調理する事がなかった。仕事以外にする事は、殆どない。ない訳でもないが、しようとも思えない。じゃあ、寝て暮らすか、と、僕は四日間の予定をそんな具合に立てた。出掛けた処で、体調不良だ。ろくに何が出来る訳でもない。時々する読書も、する気にならない。予算は、なくもないが、銀行からそれを引き出すのも何だか億劫だった。疲れて無気力なのか、仕事を取られて何となく不機嫌なのか。僕はぼんやりそんな事を思い、思って、それから唐突に、葛西の事を思い出したのだった。後はもう、何が言えた事でもない。殆ど家具もない、狭いくせに変に広い部屋で、僕は一人、葛西の事だけを考える羽目となった。今まで触れて来なかった、その反動で、頭の中はそれ一色になって、ともすると気がおかしくなる様な、そんな感じだった。人の死と言う物は、こんなに重いのかと、葛西の事を考えるのを少しやめても、考えるのはそればかりだった。あの男が、もうこの世界にはいない、と言うのは、どう考えてもおかしな事で、納得しようにも出来なかった。それも、知らされたのは彼が死んでから一ヶ月も後で、考えている今は、所謂四十九日の法要も、とうに過ぎてしまっていて、魂がその日までこの世にあると言うのなら、それでももう葛西は、とっくにあの世に入ってしまっているのだ。欠片一つ、ここに彼は残っていないのだ。何というか、寂しいとも哀しいとも付かない、だというのに哀しく、寂しく、そして残酷な事だろうと、僕は思った。もう二度と会わない、他の友人達を、いつか冗談で「生きてても死んでても、解らないしきっと、関係ないよな」という具合に、言ってみた事があった。昔分かれた幼馴染も、遠くに転校していったクラスメイトも、もう二度と会う事はないのかも知れないけれど、それでも、きっと生きているに違いない。その死を、考えてみた事など一度たりともない。そう、日常で、それを考える事など、殆どありはしないのだ。葛西は、死んだ。酒屋の跡取りで、家業を手伝っていて、その配達の途中での、交通事故だったという。それを繰り返し考えて、僕は吐き気を覚えた。それは、その死に対する衝撃と、今まで、知っていながら無視していた自分への、嫌悪から来る吐き気だった。葛西はいない、もういない。死んでしまって、この世にはいない。

 僕はその夜、漸く友の死を悼んで、泣く事が出来た。久々に、自分の部屋でアルコールを取り、そしてその酔いに任せて、風呂にも入らず、冷たい寝床にもぐりこんだ。いい歳をした男にしては、凄まじくみっともない寝入り方だった。彼は、もういない。付き合いは薄くて、今となっては殆どなかったけれど、それにしたって突然だったと、僕はこの時やっと、それを理解できたのだった。

 

その後四日間、僕は呆然として、部屋に篭って過ごした。取り敢えず、月曜からはまた会社で、もう二度と、椅子から転げ落ちる、などという醜態を晒さない様にしなければと、気持ちと体調を整える様に努めて、四日掛けてじっくり、それを実行した。最初の晩に、実は思い切り、多分この先十年分に値する程に慟哭したお蔭で、気分の方はずっと楽になっていた。体調は、それに比べればまだ本調子とは言い難かったが、それでも、貧血まがいの倒れ方をする様な、情けない事態は招かない程度には、回復していた。

気が楽になって、体調は回復に向かって、それでも僕は、葛西の事を考える事は、避けた。すんでしまった事は仕方がないし、という、どこか残酷な、けれど前向きな事を思って、確かにそれもあると考えて、同時に、それを思って嘆き続けても、何にもならないと無理やりの様に、僕は決着をつけた。月曜からは、仕事だ。僕は一介の会社員で、二日間の有給を取って、その間にきっと仕事も溜まっているだろうし、何より、この先にもその職場で働き続けなければならないのだ。そう思うことで、僕は葛西の事を吹っ切る事にした。暫くは時折、思い出しては物悲しく、ならない訳もないだろうが、それを思っていては、自分が生きてはいけないのだ。嘆き続けた処で、あいつが生き返る訳でもないのだ。きっともう、仏壇に置かれていた骨も、墓石の下だろうし。

その、骨と仏壇、それに墓、という単語が浮かんだのは、仕事に戻ってから、十日程が経ってからの事だった。そこで僕は漸く、余りのショックで頭の中になかった、墓参り、というその事に思い至ったのだった。

 

学生の頃に、何かあった時の為に、と母が仕度しておいてくれた喪服を着るのは、実は初めての事だった。黒のスーツだから、結婚式にだって、と言われていた代物だったが、その結婚式、の方は招待される事にもめっきり縁がなかった。この先、一体どれだけこの服を着る事になるのだろう、と考えながら、僕はその日曜、葛西の家に一人向かっていた。葛西の家は町の商店街の酒屋で、特別に際立っても、目立たないという訳でもなかった。

葬式からは、既に二ヶ月近くが経過していた。その気配は、当然そこには残っておらず、昼過ぎの酒屋に、喪服の客というのは、全くそぐわなくて、僕はその入り口で少々、辟易していた。ここ何年かは、町の酒屋も、郊外の量販店に押されて、と、いつだったか葛西自身に聞いた事がある。客が少ないし、下手をしたら、自分の代には店を閉めているかも知れないと、そう言っていた葛西は、結局の処大学を卒業した後、就職せず、家業に付いた。その頃には、宮仕えなんかより、気が楽だし、と、そんな話も聞いた事がある。家と店とを兼ねた造りの、その酒屋は、いつか僕がやって来たその時より、僅かに古びて、けれど変わらずにそこにあった。人通りの多いとも少ないとも着かない、町の商店街で、少し目立つネオンサインの飾られた店先で、暫く僕は立ちすくんだ。店に、人の姿はない。大きな、ショーケースをかねた冷蔵庫の、蛍光灯の色が、青白く見える。並んでいるのは、殆どが缶入りの商品ばかりで、それに混じって、時折、凝ったデザインの瓶が数本見られた。そう言えば、葛西の家で酒を購って、別な友人の家で、一晩飲み明かした事が、いつかあった。自分が、そんなにアルコールに強い訳ではないと、思い知ったのはその時だった。生まれて始めての宿酔を経験して、それを見ていた葛西は、あの位で、もう駄目なのか、情けない、と言って、翌日豪快に笑っていた。その部屋で飲んでいた連中は、葛西を除いて全員、次の日の講義を全て欠席し、中には次の日にもまだ、寝込んでいる者もあった。やっぱり酒屋の息子は、違うよな、と、誰かが言って笑っていた。あれは、どのくらい昔の事なのだろう。僕はふと、そんな事を思った。この戸口をくぐって、中に声を投げたなら、今にもあの葛西が、おぅ、どうした、と言って、出てきそうで、僕は何だか、胸が苦しくなった。そんな事を思いながら、僕は暫くその店の前で、うろうろとうろついていた。中に声を掛ける、それが出来ないまま、まるで、叱られに来た子供の様に、ただ、まごついていた。

「一人で、本当に大丈夫?」

「平気よ。今日は父さんも、出掛けてるんだし」

「けど、だったら私が行った方が……」

「母さんには、他にもしなきゃいけない事があるでしょ。平気よ」

 店の戸口はその時、中から開けられた。今時珍しい、木枠の、重いガラス戸が開くと、店の中からそんな風に声がして、続いて、若い女が一人、姿を現した。手には、新聞で包んだ花と、蝋燭や線香の入った小さなバケツが握られていて、どこへ何をしに行くのかは、一目瞭然だった。墓参りか。思ったその時、彼女は顔を上げて、僕を見つけて、その目を瞬かせた。

「あら……お客さん?いらっしゃい」

 その顔は一瞬驚いて、しかしすぐに破顔した。彼女は手にしていた荷物を、手早く店先の、木製のベンチに置くと、今度は店の奥に向かって声を投げる。

「お母さん、お客さんよ。ほら、留守番で、正解でしょ」

「いやあの、僕は……」

 彼女は、僕を買い物客だと判断したらしかった。そして、店の奥にいると思しき母親を呼び、それを待ちながら、また僕に振り返る。

「ちょうど良かった、今、出掛けるかどうかでもめてたとこなんです。母さん、昨日そこの段差で転んで、捻挫しちゃって……」

 聞いてもいないそんな事を言って、ふふ、と彼女は笑った。僕はその展開に、付いていく事が叶わず、僅かに辟易して、いや、あの、とまた、言葉を紡ごうとした。やがて、はぁい、と店の奥から声がして、捻挫をしたと言う、彼女の母親が、その店先に姿を現した。

「いらっしゃい……あら、もしかして」

 その人は、僕を見ると、その顔に驚きの表情を浮かべた。僕はそちらに振り返り、その場で一つ、会釈をした。

「どうも……ご無沙汰してます」

「まあ、やっぱり……本当に、久し振り」

 その人は、友人、葛西佑治の御母堂だった。若い女は、僕とその人との様子を見ると、驚いた様に目を見開き、

「お母さん、知り合い?」

「佑治の、学生時代のお友達よ」

「……お兄ちゃんの?」

 彼女の驚きの声に、僕はそちらを見やった。崎にぺこりと、彼女が会釈して、僕も、無言で同じ様に返し、それから改めて、葛西の御母堂に向き直り、僕は言った。

「その、この度は、と言うか……こちらに、暫くいなかったものですから」

 御母堂は、僕の姿と、そのあいまいな言葉から、僕が何を言わんとしているのかを、悟ったらしい。古い知人と再会した、その驚きと喜びの混じった顔から、少しばかり寂しそうな、けれど穏やかな顔になり、またぺこりと、頭を下げた。

「それは態々、ご丁寧に。さあ、上がって下さい。あの子も、喜んでくれると思いますよ」

 僕はそのまま、ご母堂に満ち干是枯れて、酒屋の奥から、葛西の家に上がった。出掛ける処だった、若い女も、荷をその店先に置いたまま、僕らの後に続いた。

 

 特別に何事もなく、僕はその仏間に通された。田舎の商家には良くありがちの、やたらに大きなそれを前にして、僕は奇妙な圧迫感を覚えながら、その真正面に座る。捻挫をした、という御母堂は、仏間の戸口に凭れ掛かる様にして、その仏壇の真ん中に置かれた、小さな遺影に話しかけでもする様に、言った。

「佑治、高木くんよ。あんたも、会うのは久し振りでしょう。こんな格好だけど、それは仕方がないわよね」

 どことなく、と言うべきなのだろうか。寂しげで、けれど静かな声で御母堂は言い、そう言うと仏間を、無言で離れる。僕は、目の前の大きな仏壇の真ん中の、小さな遺影に向かって手を合わせ、目を閉じて、頭の中だけで、葛西に呼びかけた。久し振りに会うのに、こんな事になるなんて。元気でやってるとばかり、思っていたのに、こんなちっぽけな写真でしか、会えないなんて。そんな事を思いながら、僕は暫くそうしていた。いつか、父方の曽祖父が亡くなった時にも、確かこんな風に頭の中から、その人に向けて話しかけた事がある。もう随分昔の事で、良く覚えてはいないが、その時も自分は、こんな、何とも言い難い気分だったのだろうかと思いながら、僕は黙ったまま、閉じた目を開いた。

「高木さん、でしたっけ」

 背後から、若い女の声がした。振り返ると、そこに先程の彼女がいて、少し困った様な顔で微笑んでいるのが見えた。

「兄とは……どういう関係だったんですか」

 僕の後ろに、同じように正座した彼女の問いに、僕は今一度、仏壇に向き直って、答えた。

「大学時代に、ちょっと」

 そうですか、と、その答えに短く彼女は言った。そして今度は、困った様な呆れた様な、疲れた様な声で、言葉を紡いだ。

「兄さん、友達が多かったみたいで……高木さんみたいに、お葬式の後にも時々、おまいりに来てくれる人が沢山いて……変なこと言いますけど、兄さんって、人気者だったんだなぁって、私少し、嬉しかったんです」

 僕は振り返らず、ただ葛西の、恐らく最近のものであろう写真の、その姿ばかりを見ていた。僕が見知っていた時より、少し痩せて、当然年も僅かに経たその顔は、笑っていて、どこか満ち足りていて、変な話だが、いい写真だった。あはは、と、彼女は少し、おどけた様に笑い、

「お蔭で、母さんも、寂しくないみたいで……今日は有り難う御座いました」

「いや、俺は……」

「今、お茶でも入れます。ちょっと待っててくださいね」

 彼女はそう言って、すばやく立ち上がると仏間を出て行く。その様子をちらりとだけ見て、僕はまた、目の前の小さな遺影を見詰めた。こんな事で、有り難がられる程、僕はいいものではないと思いながら、本来なら、こういう事は、間を置くべき事じゃないと、解っているのにと思いながら、何気に、その写真に語りかける。

「遅くなって……悪かったよ。もっと早く来るべきだったのかな」

 写真は、けれど写真で、何も答えてはくれなかった。早く来た方が、礼儀としては正しいのだろう。でも、出来なかったんだ。言い訳するつもりじゃ、ないけれど、そう言うの、お前にだって、解るだろう?僕は心の中だけで言って、はは、と少しだけ、笑ってみた。あいつが、今ここで、この、僕の独り言を聞いたなら、何と言うだろう。馬鹿だなぁ、気にするなよ、と、そんな事を言って、学生の頃の様に遠慮なく、肩を叩いたりするのだろうか、それとも、大げさに、冗談めかして、どうしてもっと早くに来なかった、薄情者、と言って、笑うだろうか。そのどれも、思った処で詮無い事だと、直後僕は思った。けれど、考えないではいられないのが、人の心なのだろう。ああもし、ここに、あいつが生きていたなら、僕は今きっと、この家を訪れなかったに違いない。それは、薄情な事かもしれないけれど、こんな風にこの家を訪ねる事など、ない方がいいに決まっているのだ。どうして自分は今、ここにいるのか、今頃どうして、のこのこやってきたのか。僕はそんな事を、葛西の遺影を前に思った。遺影は、当然何も語らず、ただそこに、生前の彼の姿を留めているだけだった。

 

 仏壇を参ったら直ぐに失敬するつもりだった僕は、けれどそれを許されず、その後その家の居間に案内される事となった。掘り炬燵の、客間と兼用の、余り大きくない部屋には、生活の様々の道具がひしめいていた。いつかここを訪れた時も、この部屋は確か、こんな具合だった。あれからもう、どのくらい経つのだろう。僕は思いながら、その部屋を何気に、ややぶしつけに、眺めた。

「前に高木くんが来たのは、どのくらい前だったかしらね」

 葛西の御母堂が、そんな僕に、どこか懐かしそうに問いかける。僕は視線を泳がせたまま、

「もう、五、六年じゃないですか。まだ、学生でしたから」

「あら、そんなに?じゃあ、見違える訳だわね」

 彼女はそう言って笑い、僕の前に茶と、お茶請けの饅頭とを差し出した。どうも、と小さく言って、僕は出された湯飲みに手を伸ばす。

「高木くんは、今は、お勤め?」

「ええ……あいつは?」

「卒業してからずっと、うちの仕事を手伝ってくれてたわ。と言っても、半分は、職にあぶれたから、だったけど」

 困った様に、そして今もその事に、困っている様に、彼女は言った。

「私も、あの子の父親も、どこかの会社に勤めて欲しかったんだけど……どうせこの家を継ぐんだ、って、最後には自棄になってたものね」

 懐かしげに目を細めて。彼女は笑った。僕は、当時の事を思い出しながら、

「あいつが、そんな事を?」

「そうよ。年末近くになっても、内定の一つも取れなくて」

「俺が聞いた話とは、違うなぁ」

 茶を啜って、饅頭を食べながら、僕は彼女に向かってそう言った。彼女は目を丸くさせ、

「あら、何?学校じゃ、もっと格好でも、つけてた?」

「格好つけてたのかどうかは、解らないけど……俺は葛西酒店の跡取りだから、しっかりしなきゃならんのだ、とか何とか、言ってましたよ」

 思いを巡らせてそう言った僕を見て、彼女はその目を、益々丸くさせた。そして、ふふ、と笑うと、懐かしそうな顔で言った。

「あら、そうなの。それはそれは。頼もしい息子だったのね、あの子は」

 僕は饅頭を食べながら、笑うご母堂を暫く見ていた。それから少し、世間話をした。今、どんな仕事をしているのか、それは充実しているのか、歳も歳だし、結婚しているのか、どうなのか、等等。家を出て、一人でやっている、最近は北米に、暫く出向いていた、と、僕は聞かれるままに答えて、それから、何となく、それを言わずにいられなくなって、こう言った。

「もっと早くに、本当は……来られる筈だったんです」

 僕はそう言って頭を下げた。そして、正直に、言う必要があるかどうかも解らない言い訳を、口にした。

「母から聞いたのは、一月前だったんです。本来ならその時、何をおいても、伺うべきだったのに……俺、あの……」

「高木くん……」

「暇がなかったのは、本当です。俺も向こうから戻ったばっかで、体も少し、おかしくしてて……こんな事言うのは、お母さんには……聞き苦しいんでしょうけど、俺……」

「来てくれただけでも、本当に有り難いと思ってますよ」

 頭を下げたままの僕に、彼女は穏やかにそう言った。僕はそっと顔を上げて、目の前に、その穏やかな、何の偽りもない、静かで優しい、その顔を見つけた。

「あの子も、お友達が多くて。御葬式の日にも、本当に沢山の人が来てくれて……人より早く逝ってしまったけど……でもこの子は幸せだったんだって、そう思えて。だから、来てくれただけでも、高木くんがあの子を忘れていなかっただけでも、本当に有り難いのよ」

 彼女はそう言うと、笑いながらその目頭を押さえた。僕はどうしようもなく、やるせなくなって、その場で言葉を失った。この人も、いや、この人は、葛西の母親だ。僕も、きっと他の友人達も、葛西がいなくなった事は衝撃で、途轍もない哀しみだったけれど、この人の哀しみの深さは、どれ程だっただろう。僕らなんかよりも、きっとその痛みは大きく、哀しみは深いに、違いないのに。僕は、自分の不甲斐無さ、こんな処で葛西の御母堂を泣かせた、その至らなさに、自分自身が嫌になった。遅くなった来訪の言い訳をして、それで自分だけ、少しでも気楽になろうとしていた事が、とても情けなく、恥ずかしくなった。すみませんと、僕は頭を下げて、小さく言った。そして、ここにあいつがいたなら、と、またそんな事を思った。あいつが生きていたなら、生きてまだ、ここにいたのなら。それは真実、考えても仕方のない、詮無い事だと言うのに、僕は幾度も、何度でも、それを思わずにはいられなかった。暫く、その場に沈黙が降りた。葛西の御母堂は目頭を押さえて、すんすん、と時折鼻をすすり、僕は頭を下げたまま、何も言えなかった。柱に掛けられた、古びた時計の、時を刻む音が、大きく耳についた。ここに、長居も出来ない。思って、僕は顔を上げ、口を開きかけた。

「あの、それじゃあ、俺は……」

「じゃあお母さん、私は、出かけてくるから」

 そこに、先程の若い女、葛西の妹の声が響いたのは、ほぼ同時だった。目頭を押さえていた葛西の御母堂は、打たれた様に顔を上げ、慌てた様子でその涙を拭い、声のした方へと向き直る。そして、

「あ、ああ……そうだったわね。じゃあ、今日は一人で……」

「母さん、またお客様の前で、泣いたりしたの?だめでしょう?」

 その涙を誤魔化そうとする母親に、彼女は僅かに怒った様な口調で言った。そして、今度は僕に向かって言葉を紡ぐ。

「高木さん、ごめんなさいね。母さんたら、歳の所為か、涙もろくて……」

「ちょっと智子、なんて事言うの。母さんはまだ、そんな歳じゃ……」

 僕に謝罪する葛西の妹、智子に、その母親は、今度は自分が怒って反論しようとする。智子はそれを無視する様に、

「あら、歳は歳でしょう?この間なんか、ビールケースを持ち上げようとして、腰がギクって言っちゃって……傍にいる私達の身にも、なって欲しいもんだわ」

 ぷりぷりと怒った様子で、彼女は言い、御母堂は、顔を赤くさせて、僅かに慌てる。

「こら、智子。いい加減にしなさい!」

「そう言う訳なので、高木さんも、気になさらないで下さいね」

 僕はその、どこかかわいらしい親子の様子に、僅かに笑ってしまった。そして笑いながら、

「ええ。それじゃあ、僕はこれで」

「あら……そうなんですか」

 座っていた炬燵から立ち上がると、二人それぞれに頭を下げる。御母堂は少し慌てた様子で、

「じゃあ、気をつけて。智子、そこまでお見送りして」

「いえそんな……お気遣いなく」

「あら、私、これからちょうど出かける処なんです。良かったら、お家まで送りますよ」

 慌てた御母堂とは裏腹に、明るくさっぱりとした声でその娘が言った。僕は視線を泳がせて、

「いや……送られるほどの距離じゃ、ないですから」

「高木さん、どちらにお住まいなんですか?」

「……松木町ですが」

 問われるままに、僕は答えていた。確かに、車で行き来する距離ではないが、ここから歩いて十五分程の、僕の実家の在り処に、智子は目を見開き、それからどこか嬉しそうに、言った。

「じゃあ、ちょうどその近く、通りますし。どうぞご遠慮なく」

「いやでも……出掛けるんじゃあ……」

「智子、くれぐれも、気を付けるのよ」

 断ろうとする僕の、その言葉をかき消す、と言うより聞かない様に、御母堂が言う。智子はにっこり笑って、

「大丈夫よ。最近は運転も慣れたし、配達より大事なものを積んでたら、気なんか緩められないわ。高木さん、ちょっと待ってて下さいね。今、店の前に車、寄せますから」

 二人はそうやって、僕に断る間を与えずに、その段取りをつけてしまった。僕は束の間、その場で立ち往生して、

「はぁ、それは、どうも……お世話に、なります」

 そんな具合にあやふやに、それを承諾したのだった。

 

 葛西酒店、とロゴの入った、まだ新しいワゴン車が店の前に寄せられて、僕は智子の運転するその車に乗り込んだ。助手席に座って運転席を見やると、彼女は前を向いたまま、明るい、変わらない口調で言った。

「今日は本当に、有り難うございました」

「いや、そんな、礼を言われる様な事じゃ……」

 僕は、この親子から発せられる、幾度もの感謝の言葉に、ただまごついていた。智子は、そんな僕には全く構わない様子で、車を走らせながら、まるで小鳥が歌うように、一人、言葉を紡いだ。

「そう言えば高木さんて、昔うちに何度か、泊まっていったこと、あるでしょう?」

「ああ……まぁ、何度か」

「お兄ちゃん、良く友達を呼んでたけど、そういう時って殆ど私、のけ者だったんですよねぇ。ま、男の子の集まりに、女が顔出しても、話なんか解んないでしょうけどね」

 ふふ、と、楽しげに智子は笑った。僕も、釣られる様に笑いながら、その頃の事を思い出して、そんな彼女にこう意見してみた。

「いや、あれは、そう言うのじゃなかった様な、気がするな」

「そう言うのじゃない、って?」

「あいつ、君やお母さんの前では、どうだったか知らないけど……家族思いだったから」

「お兄ちゃんが?家族思い?」

 不思議そうに、そして楽しそうに、智子は僕に問い返す。僕も、同じような口ぶりで、

「君があの兄貴にどういう感情を抱いてたかは、解らないけど、一言で言うとあれだよ」

「あれって?」

「ずばり、シス・コンてヤツ」

 おどけたふりで僕が言うと、智子は何それ、と言って声を立てて笑った。そして、

「でも私、特別大事にされてもないし、可愛がられてもいませんよ?ちびの頃なんか、毎日喧嘩ばっかり」

「あれ、知らなかった?あの頃つるんでた中に、君を狙ってた野郎が、何人かいたんだぜ。全部、あいつに潰されてたけど」

「へぇ、そうなんだ。全然知らなかった。兄貴め、妹思いだったのか」

 智子はそう言うと、実に楽しげに声を立てて笑った。僕はそれを見て、何気に安堵を感じながら、ちらりと後部座席に目をやり、そこにある荷物を見、そして今度は、彼女にこう問いかけた。

「出掛けるって……どこに行くの?」

 ああ、と、笑っていた彼女は、その事を思い出した様に声を立てた。そして、

「お墓です。うちの」

「……お墓?」

「本当は三日前だったんですけど、急に店の用事が出来て、お父さんは地区の懇親旅行でいなくて、うちにお母さんだけになっちゃってたから……月命日なんです、兄貴の」

 僕は、それにどう反応していいのか、解らなかった。車を運転しながら、前だけを見たまま、変わらない口調で、彼女は言葉を続けた。

「それで、本当は昨日行く事になってたんですけど、お母さん捻挫しちゃって、大騒ぎになって……本当に、そそっかしいんだから。困った人でしょ?」

 どうやら僕は、ちょうどその出掛けに、店先を訪れたらしい。何気にそれを悟って、何だか申し訳ない様な気分になった。彼女はくすくすと、やはり楽しそうに笑っていた。そして、唐突に、こんな事を言い出した。

「高木さん、本当にあたしのこと、覚えてないんですね」

「……え?」

 それは余りにも突然の言葉で、僕はそれに少し戸惑った。ハンドルを操作しながら、彼女は本当に楽しそうに、まるで十代の少女の様に、どこかいたずらっぽく、言った。

「昔、一度だけ、兄貴が留守の時に、高木さん、うちに来たでしょ」

「そんな事……あったっけ?」

「ありましたよぉ。何だかちょっと怒ってて……いないって言ったら、渡しといてくれ、って、CD置いていったの。覚えてませんか?」

「……いや、全く」

 僕はそういって、当時の事を頭にめぐらせて見た。思い当たる節はなく、途惑っていると、彼女は唐突に、言った。

「あ、もう直ぐ、松木町」

 目を上げると、その先の道路標識と、見慣れた町並みが映った。彼女は巧み、と言う程でもないが、それなりの技術でハンドルを切りながら、僕にこう尋ねた。

「松木町の、どの辺りですか?」

 僕は答えようとして、何故か一瞬躊躇った。そして、このまま直ぐに車を降りて、実家に顔を出して帰るだけ、という事が、何とも素っ気無く感じられて、こんな風に言った。

「これから……墓参りなんだろ?」

「ええ。でも、時間だったら……」

「俺も、付き合せて貰って、いいかな」

 運転席で、前方を見たまま、彼女は僕の言葉に、僅かに黙り込んだ。そして、少し困った様子で笑うと、

「構いませんよ。兄貴も、喜ぶと思いますから」

 そう言って、そのまま車を走らせ続けた。

 

 葛西の家は、町に古くからある商家で、三代前からは酒屋だったが、それ以前は酒だけでなく、様々の物を扱う問屋だった、といつか聞いた事があった。この辺りでも豪商で、と言っていたのを、当時は眉唾だと思って聞き流していたが、どうやらそれも嘘ではないらしい。町から外れた、丘陵地帯にある、僕自身も良く知った墓地にやってくると、その、豪商であった、かつての葛西家の繁栄ぶりが良く解る、立派な墓所に案内された。広くて困るんですよ、と、先導していた智子は、そんな事を鼻にかけもせずに言って、比較的新しい、けれど角の丸くなりかかった墓石の前に、持っていた荷物を降ろした。

「兄貴、来てやったわよ。ちょっと遅くなっちゃったけど」

 生意気な妹の口ぶりで、何が楽しいのか、笑いながら彼女は言った。僕は傍らでそれを、何も言わずに眺めていた。智子はてきぱきとした様子で、手早くその墓石の周辺を掃除して、しながら、その墓に眠る兄に、話しかけていた。

「お母さんが捻挫して。あの人、本当に変わらないんだもの。でも、あたしがついてるから、全然平気だけどね」

 掃除をし終えて、草臥れた花を変えて、墓石に水をかけると、智子は、持ってきた線香にライターで火を点ける。そして、着ていた上着のポケットから、ハードケース入りのタバコを取り出すと、それにも火を点けた。外国製の、少し臭いのきついそのタバコは、学生時代にも、葛西が良く吸っていたものだった。懐かしさに、僕は胸を締め付けられる思いがして、僅かに、眉をしかめた。ゆるゆると、線香とタバコから、それぞれに煙が上がり、鼻をくすぐるその臭いに、僕はまた、心の中で思った。葛西は、もういないのだと。こんな風に、花や線香や、かつて好きだったタバコを、供えられる側にいるのだ、と。

「でも、それももしかしたら、巡り会わせってヤツかしら」

 墓石の前にしゃがみこんで、智子は言った。僕はそれをただ、黙って見下ろしていた。智子が振り返って、何事かと驚くと、彼女はまた、クス、と笑った。

「え?」

「兄貴が、貴方をここに来させる為に、しでかした事なのかな、って」

 彼女はそう言うと、どうぞ、と言って、墓石の前から退いた。僕は、少しだけまごつきながら、彼女の促した様に、墓石の前にしゃがみこみ、葛西家の墓と彫られた、味気のない、少し古くなったその墓石を、ただ見ていた。ここに、葛西がいる。ここで眠っている。二度と目覚めない、その眠りについている。ついさっき、仏壇でも感じたような事を、僕はまた、繰り返す様に考えていた。タバコと線香の臭いが、鼻をくすぐる。僕は目を閉じて、何かに身を委ねる様にした。そして、心の中だけで、そこにいるかもしれない、もうどこにもいない葛西に、呼びかける。来てやったぞ、お前が、呼んだんだよな?母親を捻挫させて、墓参りの日程を狂わせてまで、俺を呼んでくれたんだよな。有り難う、嬉しいよ。そう心の中で言うと、さっきは浮かんでこなかった涙が、目元に滲んだ。哀しくて、苦しくて、けれど、何だかその気持ちは、悪いものではなかった。

「運が、悪かったんです。事故の時、雨も降ってて」

 傍ら、智子が口を開いた。僕はそのまま、黙ってそれを聞いていた。

「お兄ちゃん、昔からですけど、捨て犬とか捨て猫とか、放っておけない人だったから。詳しくは解らないけど、警察の人が言ってました。ダンプが、カーブ曲がり損ねて、止まってた兄貴の車に突っ込んだらしい、って。車の傍に、ぼろきれの入った、汚れたダンボールが転がってた、って。何か拾う為に、車止めて外に出て、そこを跳ね飛ばされたんだろう、って」

 あはは、と、智子は笑った。笑って、言葉を続けた。

「全く、困った人ですよね。のべつまくなし、捨て犬や捨て猫拾って。それで近所中交渉して回って、最近じゃ、パソコンでホームページまで作って、里親探しですよ?うちじゃ飼えないって、解ってるのに……こんなことで、死んじゃう、なんて……」

言葉の最後に、涙がかかっていた。僕は振り返らず、その後に聞こえる、智子の嗚咽と、そうしながらの言葉に、ただ耳を傾けた。

「自分の命より、大事なものなんてないのに……死んじゃったら、幾ら捨てられた犬や猫助けたって、どうにもならないのに……あたしや父さんや母さんより、そんなのの方が大事だったなんて……そんな事に命なんかかけちゃって……馬鹿なお兄ちゃん……」

 僕は立ち上がって、そこで泣きじゃくる彼女に向き直った。智子は、顔を覆って、時折声を漏らしながら、お兄ちゃん、と繰り返しながら、暫くそこで泣いていた。僕はそんな彼女と、彼の眠る墓とを見比べて、心の中で言った。葛西、お前の大事な妹が、泣いてるぞ。お前が、泣かせてるんだぞ。お前が大事にしてた妹を、誰にもやらないような勢いで、守っていた妹を。僕はそう思って、そして苦笑した。それからまた、墓の前に立つと、その表面を叩いて、墓石に、葛西に向かって言った。

「馬鹿だよ、葛西。お前が死んじまったら、どうにもならないのに」

 智子の声が、そこで一際大きくなった。僕はもう振り返らず、ただその墓石を眺めて、哀しいと、寂しいと思いながら、だというのに少し笑った。智子の慟哭は、暫く続いた。今さっきまでの、生意気で少し強気な態度は、もう欠片もなかった。彼女は、きっと泣けなかったのだろう。兄の死に際して、泣く事を禁じられた訳でもないだろうに、自分でそうしまいと、戒めていたのだろう。何だか、僕にはそれが痛いほど伝わってきて、けれどどうする事も出来なかった。智子はしゃがみこんで、顔を覆って、何度も何度も、お兄ちゃん、と彼に呼びかけた。そして時折、馬鹿兄貴、と、忌々しげに、けれど愛しげに、彼を罵る様に言った。遠くで、幹線道路を走る、車のエンジン音が聞こえた。それと彼女の慟哭と、そのほかに音は無かった。墓石の下で、タバコと線香の灰が、微かな音さえも立てず、白く燃え尽きては落ちた。

 

 どれほど、その場所にいたのだろうか。僕達は、各々の気の済むまで、その墓石の前で何かを話したり、思いを巡らせたりして時を過ごした。智子は、涙に腫らした眼をしながら、けれど泣き終わった後にはすっきりとした顔で、変な処見られちゃいましたね、と、舌をぺろりと出して言い、それから、線香とタバコの火を始末して、帰りましょう、と僕に言った。

「今度こそ、送りますよ。松木町、でしたよね?」

「うん、でも……歩ける距離だし……」

「あら、遠慮しないで下さい。私だって、通り道だし」

 笑って、智子はそう言った。僕は少し考えて、それから、

「じゃ、お願いしようかな」

「了解です。松木町の……どの辺でしょう?」

 おどけた様に智子が言う、その様子を見て、僕は何気に笑みを漏らした。墓を後にして、僕らはそんな具合に歩き出す。かたかたと、智子の手にしたバケツの中の、細々の荷物が、歩く度に揺れて音を立てた。そんなに年も離れていない筈の、その姿は、何だか随分幼く見えて、その事に、僕は少し笑っていた。それに気付いたらしく、智子は目を少し見開いて、笑い顔のまま、僕に尋ねた。

「あら、何ですか?」

「いや……あいつが、君を大事にしてたのが、解るなあと思って」

「……そうですか?」

 智子には、僕の言葉の意味が、良く解らなかったらしい。僕は、彼女の幼い様子から、何となく、葛西が、いつまでも妹を、子ども扱いしていた事を想像して、少し笑った。智子は首をかしげて、少し不満げな顔だった。が、それ以上は何も言わず、バケツをカタカタ鳴らして、歩き続けた。歩きながら、僕は何気に、空を仰いだ。昼間だというのに、僅かに薄暗いその空は、低くくぐもっていて、下手をすると雨が降り出しそうな、そんな天候だった。吹く風も、そう言えば何だか温い。まずいと、思った時、最初の一粒が、天から落ちた。

「やだ、雨だわ」

 それに、隣を歩いていた智子も気付いたらしい。僕へと振り返って、少しあわてた様に、それでも少し楽しそうに、彼女は言った。

「良かった、車で。高木さんも、濡れなくて済みますよ」

「そうだね、助かるよ」

 僕は、その皮肉めいた言葉に、素直に答えて、歩く速度を僅かに上げた。雨は、激しくはなりそうになかったが、確実に僕らを濡らし始めていた。と言っても、墓地からその血融資や上までの距離は、僅かだ。走れば、大した被害も受けずに、済むだろう。僕は思って、智子も、同じように判断したらしい。そろって走り出し、大慌てで、その車に駆け込む。

「やだ、こんな急に降り出して……母さん、洗濯物入れたかしら」

 母親を、さも心配そうに言って、智子は車内から、雨の降る外を眺めた。その隣に座って、僕も同じ様に、車窓から外を眺める。初めて袖を通した、黒いスーツはしっとりと濡れて、僅かにその重みを増していた。これを抱えて実家に帰ったら、母は何と言うだろうと、何となく思いながら、僕は暫くその雨を見ていた。微かに、歌が聞こえたのは、僅かの間を置いた、その後だった。

「ふいに 君がくちずさむ ぼくの知らない歌

 たよりなく流れていく

 いつも 話しかけようとして 言葉を探すと

 それは途切れてしまう」

 声のした方に目をやると、窓の外の雨を眺めて、智子が歌っていた。僕の視線に気付いて、智子はその目を瞬かせると、僕に向き直らず、雨を眺めながら、言った。

「『夕立ち』って言うんです、この歌。雨が降ると……良く歌ってたっけ……」

 雨を見る視線が、どこか懐かしげに細められる。僕は、誰の事なのかを悟って、何も言わなかった。智子は、あんまり歌も上手くなかったけど、と、茶化す様に言って、車のキーを回して、そのエンジンに火を入れた。低く、その回転音が響き始める。僕は何気に、こう問いかけた。

「それって、どんな歌なの?」

 智子はその言葉に、少々大袈裟に反応した。驚いた、と言うか、意外だった、とでも言いたげな顔を一瞬だけ見せて、それから、その顔にいつもどおりの笑みを浮かべると、言った。

「うちにCDがあるから……高木さん、持って行きます?」

「え、いや、そこまでは……別に……」

「その後送りますから、せっかく、興味持ったんだし。良かったら持っていって下さい。形見だと、思って」

 それは、ややもすると少ししつこい様な、そんな言い振りだった。けれど僕は、特別にそれを断る理由もない気がして、うん、とだけ答えた。智子は、それが嬉しいのか、何やら機嫌よく、その歌を歌いながら、車を走らせ始める。その歌は、少し切ないメロディーと、哀しげとも取れる歌詞で、だからと言って哀しいだけの歌でもなく、何だか不思議な、捕え処のない歌だった。不思議に耳につくその歌を、その歌詞にそぐわない、楽しそうな様子で、智子は二度ほど歌った。そして、その間に雨は小降りになって、僕らを乗せた白いワゴン車も、瞬く間に葛西酒店の前へと、到着した。

「ちょっと待っててくださいね、直ぐ、戻りますから」

 僕は一人、車に残されて、僅かに耳に残る、その歌詞を頭の中に巡らせた。夕立ちを凌ぐ為に屋根の下に入った二人は、どんな関係なのかと、どうして二人で車を走らせていたのだろうかと、そして、その歌のどこに葛西はひかれていたのかと、そんな事を考えた。そしてふと、学生の頃の事を思い出す。

時折、葛西は自分の気に入った物を、人に押し付ける癖があった。音楽CDのみならず、昼食のおかずや映画のビデオ、履いているジーンズ、などなど。それで時々、喧嘩になったりしたものだ。懐かしく思いながら、僕は少し笑った。先刻の、CDの話は正にそれだろうと思って、その事にまた、どこか切ない懐かしさを覚える。

「お待たせですー!はい、どうぞ」

 そうこうするうち、家に駆け込んだ智子が、そのCDを持って車へと戻って来た。僕は顔を上げて、運転席から渡された、そのケースを手に取る。智子はくすくすと笑いながら、それに見入る僕に言った。

「それ、さっきの話のCDなんですよ」

「え?」

「兄貴のところに、怒って返しに来た」

 智子はくすくすと、さもおかしそうに笑っていた。僕は暫し唖然として、それから、何だか奇妙なその符号に、顔をくしゃりとさせて、笑った。何だかなあ、何なんだろうなあ、もしかしてこれも、葛西のヤツの仕業かな。そう思うと、その笑みは少し切なくて、でも何だかとても嬉しかった。僕はその、かつて葛西に返したCDのケースを眺めながら、運転席でまた、エンジンをかけ始める智子に、問いかけた。

「時々また、寄ってもいいかな」

 智子は、運転席で目を丸くさせた。そして、その間だけを置いて、直ぐにこう答えた。

「どうぞ、いらしてください。兄貴もきっと喜びますから」

 

 雨は、いつか上がっていた。帰り道、僕らは車の中で、またその歌を少しだけ歌った。

 

「ふいに 君がくちずさむ ぼくはきいている

 メロディーは 覚えていない

 そうして 失ってしまうもの 守りきれるもの

 ほんの少しの違い…」

 

 

初出・文若青年03・平成17329日発行

 

 

自分ツッコミ・と言う訳で苫川龍月の「夕立ち」でした……つーかまー、何か更新しなきゃーと思ってこんなの載せてみましたよ、ですよ。夏だしね。叶う事なら月一更新かな……とここで言っておきます。ちょっと隔週は辛い……ネタもないし()でも書きたいものはあります。新作がUPできたら褒めてやって下さい〜的気分。そしてこの本もまだ売ってますので苫川の駄文がちょっとでも気になった方はイベントスペースにてお買い上げ下さると嬉しいなあと思います(ってCMかよ!!)あ、ちょっと補足しておきますが小鹿スガコと近藤カコは名前が違うだけです。苫川さんは同じ人が本を作ってますけど苫川さんです()いや何となく……。

 

 

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Last updated: 2005/7/8

 

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