街のはずれ 灯りがひとつ消えました
街がひとまわり やせた気がした
外回りから会社に戻ると、予想外のアクシデントが起こっていた。課全体がその後始末に追われていて、厄介だな、と思う間もなく、予定外の残業を余儀なくされた。その後始末が終わって帰宅しよう、というころには、時計は十時を回っていて、僕はそれからようやく、部屋に彼女が来ている事を思い出した。
『ちょっと、今何時だと思ってんの?て言うか、遅くなるならなるで、電話かメールくらいしろってーの!』
その電話に出た彼女の第一声が、そんな言葉だった。悪い、会社でトラブって、といいかけると、受話器の向こうの彼女は怒ったように嘆息して、
『もういいよ……待ってるから、さっさと帰って来な』
そう言って一方的に電話を切ってしまった。相当怒っているらしい、部屋に戻ったら戻った出、またしかられると言うか怒られると言うか、厄介な事になる。思って僕はげんなりした。
学生時代、二年ほど付き合っていて、しかし社会人になるより少し前に何となく別れてしまった彼女と再会したのは、三ヶ月ほど前のことだった。唐突に会社を訪ねてきて、これから見合いして結婚するんだ、という彼女を僕は引き止めて、現在に至る。要するに、拠りを戻した、という形だ。
四年ほど、お互い連絡も全くとらず、消息も殆ど知れなかったと言うのに、僕も彼女も、お互いの中にまだお互いがしっかり存在していて、僕に至っては「ちゃんと終わらせに」などと口走った彼女の前で、余りにもひどく狼狽して、しすぎて後から少し後悔したくらいだった。間が四年も空いたにも拘らず、自然と離れてしまうような形で、その時には痛みも寂しさも、感じるというほどにも感じていなかったはずなのに、どうしてなんだろうと今でも思う。
そして、彼女が傍に戻ってきた今は、幸せにしてやる、とか、一生守ってやる、などという、変に熱い感情もなく、ただ、となりにいるのがずっとこいつだったらいいのにな、と、何となく望んでいる。
とは言え、また失う事になったなら、僕は以前よりももっと狼狽えて醜態を晒すに違いないし、下手をすれば『生きていけない』様な状況になりかねないのは解っている。多分、比較的お互いに安定している今だから、そんな風に穏やかに、それを想っていられるのだと思う。一生隣に、ナツがいればいい。幸せにしてやるとか、そこまでは考えない。それ以前に、何が幸福で不幸なのか、僕にはまだ解っていないのだと思う。
しかしまずは、目先のトラブルだ。自宅に帰って、あいつが待っているのはいい。が、怒ったあいつがどんな事を言って来るか、どんな無理難題を押し付けてくるか、それを上手く回避するにはどうしたらいいか。会社を出て、駅まで歩く道すがら、僕はそんな事を考えていた。いつから待っているのかは知らないが、あの様子だと二、三時間は軽いだろう。下手をすると外食でもするつもりでいるかもしれない。空腹だと、あいつは更に厄介だ。とは言えこの時間だ。部屋に多少の食料もあるし、何も食べていないというのも考え難い。いや逆に、何か作って食べているかもしれない。となると、空腹ではないかもしれない。
そう思って、それから僕は自分の空腹に気付いた。腹が減っている。そう言えば、飯も食ってなかった。何気に胃の辺りを押さえて、自分でしげしげと胃袋の辺りを見下ろす。
「何か……買って帰るか……」
思った僕はきびすを返した。
会社はいわゆるオフィス街にある。そのオフィス街にも今は人気もまばらだ。金曜の夜で、それも十時を回るような夜中だ。うろついている人間は少ない。立ち並ぶビルのシャッターも下りて、建物から洩れる光も少ない。電光掲示の看板もないことはないが、ネオン街に比べればそれはとても大人しい。街の路地を一本入れば、やや如何わしい小さな店が並んでいたり、その間を縫うように立ち飲み屋があったりもするが、その道を通り抜けた場所にある繁華街に比べれば大人しい。表通りにも多少の飲食店はあるが、それらはオフィスに勤める平日の会社員、特に若い女性をターゲットにしている店が多く、夜遅くまで煌々と明かりを灯して、見た目も小奇麗なイタリアンを商っている、ということは殆どない。勿論、夜にはカフェバーになるような店もあるから、全くそれがないわけでもなかったが、週末の集客も少ないらしく、大抵が土、日の定休、更に金曜は早仕舞い、という営業パターンのようだった。一度彼女を連れて行ったら喜ぶだろうな、という感じのカフェが、全くの土日休みで、しかも夜の営業が殆どない店だったこともある。だから夜の街は、とても静かだった。
駅までの道を反対に歩き出す。この時間まで営業している、気楽に立ち寄れる簡単便利な店、と言えば、コンビニくらいしかない。会社の最寄のコンビニは駅近くではなくて、僕の通勤路から少しだけ離れたところにあった。外回りに出かける前や戻る直前、ちょくちょく立ち寄る事もあるのだが、こんな夜に、ましてや帰宅前にわざわざ足を向ける場所ではない。
そう言えば、ここ最近はそのコンビニに寄ることも余りなかった。そんなに忙しく外にも出ていなかったし、遠出もなかったし、出先の近くで食事も取れていたし、だからか。久し振りに、その道を歩いて、僕は何気にそんな事を思っていた。ぽつぽつと街灯の立つ、やや広すぎる道路に設けられたやはり広い舗道を歩いて、僕はそんな事を考えていた。
今日のアクシデントは本当にイレギュラーで、イレギュラーだからこそのアクシデントなのだが、そう言えばここのところ会社も少々ヒマだった。タバコの減りも少し早かったし、喫煙ブースで上司や同僚や後輩と話していた時間も長かった。紙コップのコーヒーもちょくちょく買って、小銭も減っていたっけ。忙しい時にはそんなものを口にする時間もないから、そうなんだよな。そんな風に、僕はいろんな事に思いをめぐらせて、いろんなことに一人で納得していた。ヒマで、それだから今週末、あいつが来ると言うのも、抵抗がなかったんだっけ。帰りも遅くならないし、だったら外で飯でも食おうか、なんて勝手に考えてもいたし、こんなに待たせるなんて微塵も思っていなかった。あんな事がなければ、今頃あいつと二人で、部屋でテレビでも見てゆっくりしているか、どこかの居酒屋辺りで飲んで、下らない話でもしていたことだろう。なんでこんな事になったんだか。
思って、僕は溜め息をついた。予定は完全に狂って、今僕は、自分の空腹の解消と彼女の機嫌取りのために、コンビニに向って歩いている。自分の腹ごなしには、弁当でも買っていけばいいだろう。あいつは、プリンかヨーグルトか、菓子パンか何かでいいか。いや、結構怒っていたから、ケーキくらい買って行った方が無難か。歩きながら、僕はややもするとくだらないことで悩み始めた。が、すぐにもその思考は停止、と言うか、やめざるを得なくなっていた。
「あ」
件のコンビニの前の交差点に辿り着く。はす向かいに目を上げると、そこに店の明かりはなかった。
「閉店してる……」
一人、僕はそれを確かめるように言った。二十四時間営業の、いつ行っても蛍光灯の白い光で照らされているはずの店は、その明かりを落として、静かにそこにたたずんでいた。夜の闇に紛れたそれは余りにも小さくて、今まで見ていたコンビニとはまるで別物のようだった。ぼんやりと、僕はそれを眺めた。自分と同じ様な体裁のサラリーマンが、無言でその前を通り過ぎる。ザーッという音を立てて、車が僕とコンビニを隔てる車道を通り過ぎる。それから、奇妙に涼しい夜の風が、僕の前を吹いていった。ただ何となく、僕はその場に しばらく立っていた。当てにしていたコンビニが閉まっていて、どうしようとも思ったけれど、そんな事よりも、奇妙な喪失感みたいなものが、僕の中にはあった。
毎日利用していて、ないと困る、という店でもなかった。この頃では足を向けることもなかったし、普段は特別気にしている店でもなかった。時々そのコンビニのチェーンが何かしらのキャンペーンをする時、彼女が何だかんだと騒ぎはしたものの、それに特に乗ることもなく(キャンペーン商品であるところの菓子パンを食べさせられはしたが)まあそんなもんかと思う程度だった。
「潰れたか……」
僕は何気に、そう口に出して言ってみた。何も特別な話ではない。チェーンのコンビニが、一つ街から消えただけの話だ。オフィス街にあればそれなりの集客もあるだろうに、とか、それとも新出のカフェや他の店舗に客をとられて、やっていけなくなったのだろうか、とか、思いつく事もいくつかあった。どこに良くあることで、確かに当てが外れて多少困ってはいるが、特別、何事かを思うような事件ではない。だというのに、それが何とも寂しい気がして、僕は明かりの落ちたコンビニをしばらく眺めていた。時折、道路の向こうやこちらを、やはり僕のようなサラリーマンや、学生風の若者が通り過ぎたけれど、誰もその店に、特に意識を向けようとする人間はいなかった。まるでその店が、初めからその場所になかった様に、誰もが交差点を通り過ぎ、すぐにその場所から消えていった。
数分か数秒か、僕はその場所にいた。けれど、そこにいても何事が起こるわけでもなかった。
「潰れたか……」
もう一度僕はそう言って、それから、暗いコンビニに背を向けた。歩き出す直前にも、何故かとても気になって、もう一度僕はそちらを見遣った。明かりの灯っていない店は暗く静かで、眠っているようにも、死んでいるようにも見える。何だかそれが奇妙に、寂しいというか無常というか、そんな気がして、でもだから何なんだろうと思いながら、僕はゆっくりと歩き出した。
結局、部屋に帰りついた頃、時計は十二時近くにまで進んでいた。駅からがらがらにすいた電車に乗り、帰宅の途中にある別のコンビニで多少の食料と、彼女に胡麻を擂るためのデザートを買い込み、レジを待っている間、ここの店は潰れていないんだな、とか、あの店の中もこんなんだったかな、とか、普段なら思わないようなことを少し考えた。
店を出て一人歩く間も、彼女がどのくらい怒っているかとか、待っているかとか、そんな事よりも、明かりを落としたあのコンビニのことを、ぼんやりと考えていた。そして、何がこんなに寂しいんだろうと、何となく思った。
「遅ーい!!って言うか、今まで何してたのよ?あんたの会社はどこの地の果てに建ってるわけ?」
部屋の鍵を外から開け、ドアを開けると、彼女は飛び出す勢いで僕を迎えた。いや、迎え撃った、と言うべきか。強襲とも言えそうな勢いで飛び出してきた彼女に向かって、僕は淡々と返した。
「悪い」
「その言い方のどこが「悪い」訳?全然反省してないじゃん!」
指差しして、彼女が強く僕を詰る。やっぱり、かなりのご立腹か。思って僕は嘆息した。そして、自分の疲れをひしひし感じながら、投げやりに言った。
「しょうがないだろ、会社でトラブって、残業してたんだ」
「それは聞いた!てかあの電話の後すぐ帰ってきたら、こんな遅くなんなかったでしょ、って言ってんの!」
ドアの前に立ちはだかる彼女を避けて、僕は部屋に上がった。隣を通り抜けると、彼女は僕を目で追って、更に言い募る。
「もう四時間以上も待ってるんだよ!何か一言、ないの?」
「だから、悪かったって言ってるだろ?」
「だからそれに、心がこもってないって言ってんの!」
確かに、待たせていたのは僕だし、詰られて当られても、仕方ないとは思う。が、僕は彼女の言い草というか態度に、正直腹が立ってしまった。むっとした顔で僕は振り返り、手に持っていた僅かな荷物をローテーブルの上に降ろすと、
「お前、俺だって予定外の残業で、疲れてんだぞ?その辺労わる気持ちとか、ないのか?」
「そんなの、しょーがないでしょ、仕事なんだから。あたしが言ってるのは、遅くなるならなるで……」
ささやかな抵抗を試みるも、あっさりそれは一蹴された。彼女の攻撃は更に続く。僕は腰を下ろして、はぁぁ、とやや大きめの溜め息をついた。
「電話とかメールとか……ちょっと杣木、聞いてんの?」
彼女の金切り声が大きくなる。僕はそれを無視して、思っていることを口に出した。
「腹減った……」
「腹減った、じゃない!」
「俺だって飯も食ってねーんだ、疲れて腹の一つも減るだろ……」
怒る彼女を余所に、僕は小さな荷物の中から弁当を取り出す。がさがさやっていると、彼女はずかずかやってきて、
「何よ、そんなの買って来たの?」
「あー……お前も、何か……」
「ご飯だったら作ってあるわよ。こっちも予定より早くついちゃったから……簡単だけど」
食うか、というより前に、彼女はキッチンに向って歩き出す。弁当の蓋を開け、紙袋から割り箸を出そうとしていた僕は、その言葉に目を丸くさせた。
「は?メシ?」
「だから……あたしの方、仕事が早く片付いちゃって……だったらここ来て、何か作っとこうかなーって思ったの!あんたの部屋に来てまた外出るなんて二度手間だし、外で待ち合わせしてるんならまだしも、そうじゃないんならゆっくりした方がいいでしょ?働いてて、疲れてるんだし」
言いながら、彼女はあまり大きくないトレイに中華風の野菜炒めと白飯、それに合わせ味噌の味噌汁を載せてこちらにやって来る。目を丸くさせて、僕はそれを黙って見ていた。
「ほら……って、あっためた方がいい?」
配膳をし終えてから、彼女が言った。僕は無言でそれを見て、それから、無言のまま手を合わせ、それを食べ始めた。野菜炒めも味噌汁も、すっかり冷たくなっていた。けれどそれは全く苦にならなかった。ナツは、僕の傍らにちょこんと座って、それらを食べる僕をしばらく黙って見ていた。が、
「あったかくする?」
「いいよ、これで」
「そう?でも、あっためるよ。お代わり、するでしょ?」
「うん」
食べながら、僕はそんな風に返した。ナツは立ち上がって、ゆっくりとした足取りでキッチンに向う。もぐもぐやりながら、僕は無言でそれを見送り、口の中のものを飲み下してから、その背中に問いかけた。
「いつ頃から待ってたんだ?」
「え?ああ……早く来ちゃったから……六時くらいかな」
問いに答えるころ、ナツは少し笑っていた。一膳目の飯と味噌汁、そして皿の野菜炒めが消える。空の器を眺めるでもなく眺めて、僕は何も言わずに、夏が戻ってくるのを待っていた。鍋の味噌汁を火にかけて、フライパンの野菜炒めを炒め直して、ナツはまた僕の傍に戻ってきた。
「……悪かったな」
「そーね、悪かったわね」
「……けどそういう言い方は……」
僕の謝罪をからかうようにナツが言った。言い返そうとすると、ナツはくすくすと笑って、
「もういいよ、許す。杣木だって忙しいんだし、ちゃんと反省してるでしょ?」
言われて、僕は閉口した。ナツは空いた器を持ってキッチンに戻り、それに再び野菜炒めと味噌汁、それに白飯を盛り付けて、ローテーブルの僕の傍に戻ってきた。トレイには湯飲みに入った緑茶まで添えられていて、気が利くな、と思いながら、僕は何も言わなかった。
「でも、今度やったらただじゃすまないからね。いつか言ってたイタリアンの店で、ワインの一本も振舞ってもらうから」
もう一度僕の前に食事が並ぶと、同時にナツがそんな風に言った。僕は黙って再び箸を取り、それを食べながら、何気なく言った。
「会社の近所に、コンビニがあって」
「うん……ああ、そこでお弁当、買ってたんだ?」
「いや……潰れてて……」
それは言い訳でもなくて、どうしようもなくひねり出した話題、というものとも、違っていた。もぐもぐと、僕が温まった食事を食べているのを、ナツは傍で、特別何か言う訳でもなく、黙って見ていた。僕は、一体何が言いたいんだろうと思いながら、それでも言葉を続けた。
「最近用とかなくて、寄ってなかったから、ちょっと驚いた」
「あ、そうなの?」
「ああ……行きつけって訳でも、なかったし」
話しているうちに、お代わりの器も空になった。僕はお茶を飲んで、何となく溜め息をつく。ナツが目をしばたたかせて、そんな僕に尋ねてきた。
「杣木くん……お疲れ?」
「……何だよ、急に」
彼女が首をかしげて、僕の顔を覗き込む。じっと見詰められて、流石の僕も少し焦った。
「急とか、そーゆーんじゃないでしょ、こーゆーのは」
「けど、なんでそこでそうなるんだよ?」
不思議そうに、ナツは僕の顔を見ていた。少しの間ナツは何も言わなかった。けれど数秒の後、少し困ったように息をつき、
「そーかそーか、疲れてんのか」
「だからなんで、そういう話に……」
「そーとかこーとか、そーゆーことじゃないの。疲れてるでしょ?杣木くん」
強く、決め付けるというよりも断言するようにナツが言った。僕は一瞬押し黙るが、
「うん、まあ……少しはな」
「じゃあ今夜はゆっくり休んで、明日もゆっくりしてなさい。ね?」
まるで小さな子供を諭す様にナツは言い、僕はうん、と頷きそうになって、けれどそうせず、言い返す。
「って、俺、子供じゃねぇし」
「何言ってんの、大した大人でもないくせに……ああでも、週末に彼女といるのにそんなに疲れてる、なんて、若者っぽくはないわよね」
「……何だよ、それ」
意地悪く、彼女が笑う。僕は眉を軽くしかめて、けれどすぐ、彼女に釣られる様に笑った。それから、笑うのをやめると、僕はまた潰れたコンビニの事を思って、言った。
「何か……別にどこにでもあるようなコンビニで、珍しくもないんだろうけど」
「うん」
「……変に、寂しい気がした」
「……うん」
変なの、とか、この寂しがり屋さんめ、とか、いつもなら聞こえてきそうな台詞は、出てこなかった。ナツは僕の傍でほんの少し微笑んでいた。そして、何だかやけに優しい顔で、僕の顔を覗いて言った。
「お茶、飲む?」
「……うん」
「じゃ、もう一回淹れるね」
ナツはそう言ってローテーブルの傍で、二杯目のお茶を淹れる。僕はそれを眺めながら、ふと思い出した事を口にした。
「そう言えば、一緒にバナナのケーキ、買って……」
「何何?バナナロール?どこどこ?」
手にしていた急須を、お茶を注ぐ前にローテーブルにおいて、ナツはそれまでの落ち着いた様子とは裏腹に、そわそわとそれを捜し始める。やっぱりこいつは食べ物で釣るに限るか、などと、僕は少し呆れながら思い、その呆れた顔のまま、
「ほら、これ……待たせて、悪いと思ったから……」
「何だよーもー、そーゆーのはもっと早くに出せばいいでしょー」
「って……そんな間があったかよ……」
がさがさと小さな袋を鳴らしながらそれを取り出すと、ナツはお茶のことなどそっちのけで、そのバナナのケーキ(スポンジ生地でバナナと生クリームが巻いてあるあれだ)に飛びついた。そして、今日一番の笑顔になると、
「やーん、コレスキー。たーべちゃおー」
そう言っていそいそとその包みを開け始める。さっきまでの、僕を労わる、あの優しい態度はどこへ行ったのやら、それとも、あれとは中に入ってるヤツが別なのか。思いながら、それでも、幸せそうなナツの顔を見て、僕は小さく笑った。
「お前、本当にそういうのに弱いっつーか……ある意味楽だよな?」
「何それ、どーゆー意味よ?」
バナナのケーキの包みを剥いて、ダイレクトにナツがそれを頬張る。僕はそれを、何だか暖かい気持ちで眺めていた。ナツはにこにこ、というよりゆるゆるの顔でそれを食べていて、心底幸せ、という様子だった。僕はナツがそれを食べている間に急須に入ったお茶を注ぎ、一口飲んで、タバコに火をつけた。そうしていると、忙しかった残業の事も、コンビニがなくなった奇妙な寂しさも、疲れているのだと言われたさっきの溜め息の事も、全て忘れられる気がした。何度か煙を吸い込んで、吐き出して、している間にナツはバナナのケーキを食べ終えて、満面の笑みを浮かべると、手を合わせ、無邪気な声で言った。
「あー、美味しかったー、シヤワセー、ごちそーさまー」
そうしてナツは自分用の湯飲みに自分用のお茶を淹れ、それさえもさも美味しそうに飲む。それを見て、僕は何気に笑った。ナツは目を丸くさせ、そんな僕に尋ねてくる。
「何?杣木。クリームでも、ついてる?」
「そうじゃなくて……お前本当に、そういうモン好きだよな?」
言い返すと、ナツはまた目を丸くさせた。そして、
「だって美味しいんだもん、これ。杣木、食べたことない?」
「なくはないけど……でも、俺はそこまでの顔になんねーよ」
僕はそう言って笑っていた。ナツはそんな僕を少しの間不思議そうに見ていたが、唐突にその視線をめぐらせると、
「んじゃあ、ご飯も終わったし、と」
そう言って立ち上がった。突然の言葉と行動に、僕は驚き、
「終わったし、って……何……」
「ぎりぎり終電間に合いそうだから、帰るよ」
あっさりナツは言って、その場でにっこりと笑った。ぼくはどうしてかその言葉に驚き、面食らった状態で、
「帰るって……」
「だって杣木、疲れてるでしょ?ゆっくり寝て、休んで、また月曜日からばりばり働かなきゃ、でしょ?」
さも当然であるようにナツは言った。まあ当然の事なのだが、何故か変に僕はその事に驚いて、変にうろたえていた。夏はそのままいそいそと帰り支度を始め、僕は変に浮き足立って、
「って、けどぎりぎりなんだろ?だったら泊まって、明日……」
「だけどあたしがいたら、杣木くん、ちゃんと休めないじゃん」
ナツの言葉に、僕は閉口した。ナツは笑っていたけれど、その表情はどことなく寂しげだった。
「ナツ……」
「だから、もっと元気な時に遊ぼ。って言うか、彼女が来てんのにそんなにお疲れって言うのも、本当、若者らしくないんだけど」
冗談めかしてナツが言う。僕は何も言わず、確かに疲れているけれど、と思いながら言った。
「お前……俺にこれから、疲れるような事、させるのか?」
「……ちょっと、なんかその台詞、変な意味に聞こえるんですけど」
何だかあやふやな言葉に、ナツは眉をしかめた。僕は、自分でも何を言っているのか良く解らないまま、ナツにフラフラと歩み寄った。
「って……杣木?」
「泊まってけよ……時間ぎりぎりなんだろ?明日、休みで」
「まあ……そうだけど……」
「だったら……」
言いながら、僕はその手を捕まえた。ナツは少し驚いて、不思議そうな目で僕を見た。
「そま……」
「何か……お前がいて、ちょっとほっとした、っつーか……」
握るというほどでもなく、僕はナツの手を掴んでいた。振りほどく事もなく、ナツは僕にその手を預けていた。胸に、奇妙な感覚がせり上がってきて、僕はそれが何なのか解らないまま、奇妙な言葉を続けた。
「さっきのコンビニの話じゃないけど……何か、寂しいな、って思って……」
「うん」
「でも別に、良くある話だし……多分、疲れてるんだろうけど……」
「……うん」
「……飯も、美味かった」
「……それは、どうも」
ナツが少し笑う。僕は、ほんの少しだけ低いナツの顔を見下ろして、また少し黙っていた。何をどう言っていいのか良く解らない。
「……何か、変なの」
そのうち、ナツがそう言った。僕は瞬きして、笑うナツをぼんやりと見た。
「いいよ、泊まっていっても。疲れてて、寂しいの?」
くすくすとナツが笑っている。僕はつられて、少し笑った。
「……何か、自分でも良く、わかんねー……てか……」
握った手の、指を絡める。何も言わずにナツは、答えるようにそっと手を動かした。指と指とが絡まり合って、そのつながりが深く複雑になる。見ながら、僕は言った。
「お前……もう帰るな」
「って……何それ」
「ずっとここにいろ」
軽く、手を握る。それからその手を僕が解く。ナツは少し困った顔で、僕を見上げた。
「杣木……」
「つーか……ずっと俺の傍にいろ。ここに住め」
「……って、何それ……」
「そしたら、メシ作って待ってても、終電とか気にしなくてすむだろ?」
「ちょっと待ってよ。それじゃまるであたし、住み込みの家政婦……」
「ばか、違うだろ」
言って僕は、ナツを抱き寄せる。ナツは驚いて、僕の腕の中で僅かに抵抗した。
「って、ちょ、ちょっと杣木、それって……」
「解ってるなら黙ってろ。つか、今は黙れ」
抱きしめる腕に力をこめる。ナツはすぐに抵抗をやめて、腕の中でほんの少し小さくなった。そして、
「って……またそういう、軽はずみな……」
「軽はずみじゃねーよ……お前、俺が前言ったこと、忘れてんだろ?」
「前って、何よ?」
「死ぬまで……離さないって、ヤツだよ」
腕の中でナツの肩が跳ねた。ナツは少し黙って、それから、
「だったら、あたしも言ったと思うんだけど……」
「何をだ?」
「後悔しても、知らない、って……」
「忘れた」
と言うより、悔やんだところで、と言うべきか。それに、言われたところで、そんなのは今更だ。僕は彼女を、僕なりに大切だと思っている。必要だと思うし、離れては、生きていけない、とまでは言わないけれど、彼女が幸いでないというなら、放ってはおけない。子供なのか大人なのか解らない、ろくに女らしい部分もない、甘ったれで弱虫で、寂しがりやで、そのくせ意地っ張りの彼女を、一人にしてはおけない。きっと他の誰かに渡す事もできない。それが世間一般の恋情でないとしても、傍にいたいと思っている。いや、それよりもきっと、質が悪い。
「……しょうがない、なぁ」
腕の中、わざとらしくナツが言った。僕は少しだけそれを緩めて、その中にいるナツを見下ろす。
「ナツ……」
「どうせ今から走って行っても、電車も本当にぎりぎり間に合うかどうか解んないし、今夜はここに泊まってく……杣木くんも、寂しいみたいだし?あたしは別に、全然平気だけど」
少しだけ強がるナツの声が聞こえる。見ていると、その頬が僅かに赤くなっていくのが解った。恥ずかしいのか、むっとした顔でナツは重ねて言った。
「いい?あたしが泊まりたいとか、そういうんじゃないからね!電車もなくなりそうだし、杣木がここにいろって言うから……」
「解ってるよ、俺が言ったから、だろ?」
手を離す。ナツはそっぽを向いて、向いたまま、
「だから、へ、変なこともなしだからね!あんたは疲れてるんだし、あたしは邪魔になりそうだから、帰ろうと思ったんだし、だからっ……」
「解ってるよ……何もしねーよ」
真っ赤になるナツを見て、僕は笑みを漏らす。ナツは途端に僕を睨みつけ、
「ちょっと……何笑ってんのよ?」
「何って……可愛いな、って思って……」
その一言に、ナツはいつも通りに黙り込む。僕はすぐ傍でナツを見て、重ねて言葉を紡ぐ。
「そういうとこ、本当にかわんねーな……なんでそんなに可愛いんだ?」
「〜〜〜〜〜〜っっ、杣木のばか、意地悪!」
そして、いつもと全く同じその反応に、僕はまた笑った。ナツが僕に背を向ける。僕はもう一度、今度は背中からナツを抱き寄せ、
「またそれかよ。お前って本当に、パターンないよな?」
「〜〜〜〜〜〜っっ、杣木のばか、触んないでよ!それに、変なことしないって今さっき……」
「……ありがとな」
耳の傍で、僕はそう言った。ナツは言葉をなくした様に黙って、うう、と小さく呻く。そして、
「……あたしも、ありがと、っていうか……」
間を置いて、小さくナツが言った。上手く聞き取れず、僕は問い返す。
「あ?何が?」
「……だって、傍にいても、いいんでしょ?って、言うか……その……」
ごにょごにょと小さな声でナツが言葉を紡ぐ。僕はそれに少し笑って、さっきよりずっと小さな声で、その耳にささやいた。
「ずっと傍にいてくれ……愛してる」
「……うん」
珍しく、遅れがちではあったけれど、素直にナツが答えた。僕はそれにも少し笑って、いつものように意地悪く、言った。
「そうやっていつも素直にしてろよ。その方が絶対……あーでも、いつものアレも可愛いから、いいけど……」
「……杣木の、ばか、意地悪」
腕の中でナツが不貞腐れる。痛くもかゆくもないその言葉に、また僕は笑った。
【コンビニ・終】
自分ツッコミ・約半年ぶり?のスガネタです。シングル「NOBODY KNOWS」の三曲目なのでC面?(笑)この歌を聞いてると『現代日本の諸行無常』というか『平成の寂寞感』というか、古典文学で触れる『物のあはれ』のようなものを感じますけどどうでしょう?と思って「コンビニがなくなって何となく寂寞になった疲れたサラリーマンが彼女に癒される」みたいな話にもっていってみましたが、予定よりラヴラヴになりすぎました、うへー(汗)因みにこの二人は『斜陽』に出てきたバカップル(何)です。長い話の支度はしているつもりですが本編ではこんなにラヴラヴになりません。てか、杣木くん初めてちゃんと言ったんじゃないの?みたいな(笑)それはそれとして、だ(一応使っておきます。「あ、そうなの?」はちゃんと使ったよ!!)正しいスガマニーさんには毎度の如く謝罪しておきます。あーもー、こんなんしか書けないくせに書いて、御免なさい、ひー(涙)